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2015年8月17日 (月)

原子爆弾と私

1930年(昭和5年)生まれで、今年(2015年)亡くなった女性が、これまで語ることのなかった原爆の記憶を書き残したものです。

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 昭和20年8月6日、私は爆心地から5.7km離れた広島市元宇品の実家(松田家)で北側の窓際に置かれたミシンの前に立っていました。

 午前8時15分、ピカッと光った瞬間は(隣の旧元宇品小学校は当時兵舎になっていた)またいつものいたずらで兵隊さんが鏡を反射させて私を驚かそうとしていると思い兵舎の二階を見上ましたが誰もいません・・・。あの光はなんだろうと思ったと同時に赤紫色の雲が山の向こうに見えました。途端にドーンという大きな地響きとともに家が大きく揺れ、ガラス窓、障子、襖がバタバタと倒れました。

 私は死を覚悟し、とっさに死ぬのなら母のそばで一緒にと思い隣の座敷にいた母のもとに駆け込みました。母は両手で目と耳を押さえて伏せるようにと言うのでその通りに眼と耳をふさぎ畳の上に伏せていました。

 しばらくして起き上がると家中ガラスが飛び散って、私の顔にもガラスが突き刺さり血が流れていました。その時以来何日も靴を履いたまま家の中を歩き回る生活が続いたのを思い出します。

 火災がほぼ収まった翌々日の8月8日、父とともに広島駅近くまで行きました。何の目的があったかは分かりませんが、父は軍(船舶司令部)関係の仕事をしておりましたので、その関係の用件があったものと思われます。

 途中、防火用水の中に頭を突っ込んだ死体や白いチンク油を塗った沢山の怪我人に会い恐ろしくて父の陰に隠れて歩くのがやっとでした。したがって駅の近く何町を歩いたかは定かではありませんが、近くに川があり多くの死体が流れていたという記憶から、後で考えると大須賀町あたりではないかと思っています。

 その後、一日置いた8月10日に舟入にある学校(市立広島高女)へ連絡のため、十日市まで行くという近所のお姉さんと一緒に出掛け、鷹ノ橋から明治橋、住吉橋を渡り学校まで歩きました。この日のことははっきりと記憶しています。

 途中、千田町の日赤病院の前には死体の山ができており、さらにトラックに積まれた裸の遺体が次々に運ばれてきていました。道端にはモンペをはいた女の子が苦しそうに歯を食いしばって倒れていたり、馬が大きな口をあけて歯をむき出しにしていたり、家々の前に置かれた水のない防火水槽に人が重なってこと切れていました。

 また、十日市から江波までの電車道には木の坂を山型に積んだ囲いの中に怪我人がズラリと並べて寝かせられていたり、道を歩いている人もみんな火傷のため皮膚が垂れ下がった両手をお化けのように前に差し出し、まさに生き地獄を見るような有様でした。

 橋を渡るとき下の川を見ると、火傷の治療のためかチンク油を塗られた真っ白い顔と手足の幾人もの死体が海に向かって流れていました。

 二度と思い出したくないとても恐ろしい光景です。

 平成26年(2014年)4月 網本泰子 記


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工場長様

貴重な手記をアップして下さり、有難う御座います。若い世代の人たちにこのメッセージが伝わることを祈っています。

比較するのは、網本さんには失礼かもしれませんが、総理大臣談話の空虚さや不誠実さを治す薬としては、こうした真実の声を伝えて行くことが一番効果的なのかもしれません。

投稿: 高齢者 | 2015年8月18日 (火) 11時55分


高齢者さん

広島では、その年だけで十数万人が亡くなり、それまでの記録の殆どが消失し、生き残った人達も多く原爆症で亡くなっていますし、最も被害を受けた人達は、まさに「死人に口なし」です。

さらに、生き延びた人達も被爆者であることで差別を受けるため、被爆者であることを隠す人も多く、網本さんも亡くなる前の年まで原爆手帳の申請はされなかったそうです。

ただ、そうした人達ですら、今の日本の現状は、黙ってはいられない状況だということですね。

投稿: 工場長 | 2015年8月24日 (月) 22時20分

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平和問題」カテゴリの記事

コメント

工場長様

貴重な手記をアップして下さり、有難う御座います。若い世代の人たちにこのメッセージが伝わることを祈っています。

比較するのは、網本さんには失礼かもしれませんが、総理大臣談話の空虚さや不誠実さを治す薬としては、こうした真実の声を伝えて行くことが一番効果的なのかもしれません。

高齢者さん

広島では、その年だけで十数万人が亡くなり、それまでの記録の殆どが消失し、生き残った人達も多く原爆症で亡くなっていますし、最も被害を受けた人達は、まさに「死人に口なし」です。

さらに、生き延びた人達も被爆者であることで差別を受けるため、被爆者であることを隠す人も多く、網本さんも亡くなる前の年まで原爆手帳の申請はされなかったそうです。

ただ、そうした人達ですら、今の日本の現状は、黙ってはいられない状況だということですね。

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