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2015年8月23日 (日)

俺の戦争と平和・2

 昭和16年(1941)の8月、小学5年のとき再び父の転勤で釜山から下関に引っ越し、新地町というところの官舎に落ち着いた。もとより学校も下関市立桜山小学校へ転校することになった。夏休み明けの9月に新しい小学校に行ってみると、日本人だけでなく同級生に朝鮮人もいるということを知って驚いた。この時釜山の小学校は日本人のみの特殊な小学校であったのかと気付かされた。

 関門海峡に面している下関は軍にとって重要な戦略拠点であることから多くの要塞地帯(高射砲陣地など)があり、子供のときは探検と称して鉄条網をくぐって侵入し叱られたこともある。

 下関に引っ越ししてから間もない12月8日に太平洋戦争(当時は「大東亜戦争」と言っていた)が始まった。新聞やラジオで最初の真珠湾攻撃の戦果や南方での連戦連勝の報道があり、そのたびに小躍りして喜んだものである。その後も戦況に関する報道は大本営(陸海軍の最高統帥機関)が発表する内容を忠実に伝えるだけであったため、空襲が始まっても新聞やラジオのニュースを信じ、日本が負けるなどとは考えもしなかった。

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 巷(ちまた)では町内会の下に隣組が結成され、一挙手一動も統制されることになった。共産主義者や社会主義者が次々と捕われ投獄されたのはこのころである。父に後で聞いた話であるが、父が持っていた「マルクスの資本論」を官憲に見つけられ、事情を聴かれるため警察(当時は特高警察という思想専門の警察があった)に呼ばれたこともあったとか。(父は社会主義者ではなく民主主義者)。

 昭和18年(1943)山口県立下関中学校に進学、戦争はますます激しくなり、中学には制服のほかゲートル(軍人が戦地で行動する脚に巻く帯状の布)を巻いて通学した。

 また、学校では学業のほか配属将校(陸軍の予備役将校が各中学校に派遣されていた)による教練(木銃を持たされての戦闘訓練など)が毎日のように行われていた。

 昭和19年(1944)になると物資や食料が乏しくなるとともに男子の徴兵が高齢までにおよび、金属の供出や人手不足を補うための学徒の勤労動員も始まった。中学2年であった俺も数日間の農家の手伝いに駆り出されたものである。

 学校でも校庭の一部を畑にして野菜を栽培するようなことも授業として行われるようになった。

 この年の夏 B29 爆撃機による初めての空襲があり、聞くところによると中国の重慶から飛んできたとのことであった。そんな遠くから飛んでくる爆撃機が敵にあるのかと驚いた。しかし、同時に高射砲の届かない1万メートルの高度を悠々と飛ぶ B29 の姿に少し憧れを持ったことも事実である。

 昭和20年(1945)B29 による関門海峡封鎖のための機雷投下を目的とする空襲が始まった。その後は三日をあげず襲来し、記録によると終戦までにその数5000個以上になったという。

 そのころから艦載機グラマンなどによる空襲も始まり、この頃はまだ日本空軍の迎撃もあって下関上空での空中戦も目撃したものである。

 空襲警報が出ると部屋の電気を消し近くの防空壕に逃げ込むのであるが、爆音もさることながら日本軍の高射砲の破片が道路に落ちカキーンという金属音を立てるのが最初は正直怖かった。直接当ったたらひとたまりもないだろう。空襲のとき鉄兜や防空頭巾をかぶるのは、この破片から身を守るためのものであったと知って納得したものである。(焼夷弾の直撃を受けた場合は鉄兜も頭巾も全く役に立たない)。

 町内会や隣組ではよく防火訓練としてバケツリレーや竹の先に縄を縛り付けた消化道具などで家の火を消す訓練が行われていたが、実際の空襲ではそれらが全く役に立たないことが実証されたと言ってよいであろう。

 その頃の網本家は昭和17年(1942)に生まれた末の妹を含めて両親と子供8人の10人家族であったが、当時兄は技術将校として兵庫県の川西航空に就職していたし、空襲のときは父も職場の下関駅に駆けつけていたので、小さい二人の弟を除くと母にとって男手としては中学生の俺一人が頼りであったと思われる。

 その年の4月中学3年生になると学徒動員が始まり、学校には行かず半数は下関彦島にあった三井精錬(アルミの精錬工場)へ、半数は下関幡生の国鉄工機部へ派遣されることになった。食糧事情はますます悪くなり食い盛りの俺たちはお腹を空かせながら夏休みも返上で工場での石炭トロッコ押しに黙々と従事したものである。(この時の無理がたたってのちに当時肋膜を患っていたことが判明した)

 この時期、東京大空襲をはじめ各都市への空襲が次第に激しくなり、また、沖縄にアメリカ軍が上陸して住民を巻き込んだ戦闘が行われ、これによって多くの人命が失われたことなどのニュースは殆ど知らされず、ただただ毎晩のような空襲におびえる毎日であった。

 また、治安維持法によって憲兵や特高警察の思想の取り締まりが厳しくなる中、町内会でも戦争に批判的な人をお互いに監視し合うという暗い世の中になっていった。その頃にもてはやされた数々の標語がある。

 曰く
「鬼畜米英」「欲しがりません勝つまでは」「ぜいたくは敵」などなど、また、標語ではないが「人を見たらスパイだと思え」とか、そして笑止千万だが英語使用禁止の処置がとられカタカナ語はみな敵性語ということになった。

・・・最終話に続く 平成27年(2015年)7月記 網本汀司

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