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2015年8月25日 (火)

俺の戦争と平和・完

 学徒動員で働いていた三井精錬の前は関門海峡が広がり、多くの船が行き来していたが、目の前で機雷に触れて爆沈する光景を見ることも珍しくないことであった。

 また海に落とすはずの機雷がしばしば陸上に落ち、三階建の木造民家の屋根を突き破って地中までに達し、幸い不発だったのでその様子を見に行ったこともある。

 昭和20年(1945)6月と7月の2回、下関への空襲では機雷ではなく焼夷弾が投下され、下関の街は殆ど焼け野原となった。新地の自宅は幸い延焼を免れたが母校の小学校は俺の目の前で全焼した。

 焼夷弾は飛行機から何十本かを束にしたものをいくつか投下し、途中でバラバラになって落ちてくるような仕組みになっているため、どしゃ降りの雨のようなすごい音を立て火の雨となって地上に落ちてくる。そして爆発して燃え上がり木造の家はひとたまりもなく焼けてしまうというものである。その恐ろしさは経験したものでなければ想像がつかないだろう。

 この頃になると敵の艦載機が侵入してきても迎撃に向かう日本の戦闘機の姿は見えず悔しい思いをしたものである。

 そのような中、8月7日の新聞で昨6日広島に新型爆弾が投下されたというニュースが伝わった、続いて長崎にも。新型爆弾がどのようなものかの説明はなく、被害の状況も一切分からないままであった。

 そして8月15日よく晴れた日であった。その日は警報もなくいつもどおり工場の作業についたが、全員集会所前に集まれとの命令があり昭和天皇の玉音放送を聞かされた。しかし、何を言っているのかが一向に分からず、ただ大人たちが「日本が負けた」と言っていたのでそうなのかと思ったものである。

 当日の作業は早めに切り上げられ全員帰宅してよいとのことで自宅へ帰ったところ、近所では戦争が終わったようだと言う話でもちきりであった。

 その日の晩は父も勤めから帰ってきて家の電気を目いっぱいつけて明るい部屋で夕食を共にした。戦争が終わった、もう空襲はないというホッとした気持ちが先立って、日本が負けたという実感があまりなく悲しくもなかったことをよく記憶している。

 8月17日、広島原爆投下から11日たったこの日、父から岩国や徳山の空襲で不通になっていた鉄道がようやく開通し「列車が動くようになったから明日親戚の消息と安否よ確かめるため広島に行く、お前もついてきてくれ」と言われ大急ぎで支度をしてもらい翌18日朝下関発の列車で広島に向けて出発した。開通一番列車ということで超満員であったが、下関駅の小荷物主任をしていた父の取り計らいで郵便車に乗せてもらうことができた。途中、駅でもないところやトンネルの中などでたびたび停車しながら10時間近くかかってようやく広島駅に到着した。岩国駅を過ぎる時、爆弾で直径10数メートルの穴がいくつも開いた光景を見て、500kgや1t爆弾の威力を思い知らされた。

 到着した広島駅の駅舎は壁も屋根も壊れ、駅前は一面の焼け野原で駅から5〜10km 離れた三菱造船のクレーンや広島湾に浮かんだ似の島が何の遮るものもなく見えるその惨状に唖然とした。

 父は早速駅前にあった父の弟(俺にとっては叔父)の店網本食堂や近くにあった姉たち(沢村家、西村家の叔母たち)を探したが焼け跡には見当たらず、行き先を記したものもなく、一時は途方にくれたが、幸い弟(叔父)は出征して兵器廠にいたことを父を思い出し、暑い中3km 近い道を大河まで歩いて兵器廠を尋ねると、幸い叔父をよく知った人がいて「網本さんは原爆でけがをして奥さんや子供のいる安佐郡の方に行っていること、沢村さんは尾長の方で半分焼け残った家に暮らしている」と教えてくれた。

 来た道を引き返すように4km 近く歩いてようやく尾長にたどり着き沢村の伯母と西村の叔母一家に会うことができたが、 丁度沢村の三女が原爆症で息を引き取ったところに行き合わせた。翌日父と二人で再び兵器廠へ行き貰った材料や工具を大八車で運んで家の応急修理を行い、また三女の火葬を曲りなりにも済ませて20日には下関に帰った。

 翌日から遅い夏休みが始まり、9月1日二学期の初めに久しぶりで全員が一堂に会したが、幸いクラスには戦災死や負傷者のないことが確認されて授業が再開された。

 9月に入るとアメリカやオーストラリアなど占領側の部隊が進駐(進駐軍といった)してきた。進駐軍が来ると特に若い女性は強姦されるというまことしやかな噂が流れ、姉などは髪を切ろうかとか、どこへ逃げようかとか心配していたが、実際進駐軍が来てみるとそのようなこともなく、ようやく平穏な日々が送れるようになっていった。

 学校では、修身の教科書は廃止、その他の教科書も墨であちこち塗りつぶすように指示され、それでも学業に専念できることはこんなに嬉しいことだったのかと思ったものである。そして学校の教育方針も軍国主義教育から手のひらを返したような民主主義教育へと180度転換された。

 この時初めて民主主義というものに出会って、こんな素晴らしい考え方もあったのだと知りとても嬉しくなったことを今でも鮮明に覚えている。

 その翌21年(1946)11月、新しい日本国憲法が公布され、翌年(1947)5月に施行された。

 新しい憲法の中身を読んで戦争放棄の条文をはじめ基本的人権の尊重、男女平等や思想・信教の自由など民主主義を実行するための数々の条文に感動し、日本にもようやく本当の平和が訪れたと実感したものである。

 その思いは今も変わらない。

  平成27年(2015年)7月記 網本汀司

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