平和の願いを歌い続けた二葉あき子
一昨年、96歳でなくなった広島市二葉の里(東区)出身の戦前戦後を代表する歌手の一人、二葉あき子の歌碑建立の機運盛り上げのため「二葉あき子の歌を聴くつどい」が2月23日、東区の広島ガーデンパレスで開かれた。原田康夫歌碑建立実行委員長(広島市現代美術館館長)ほか関係者、来賓の松井一実広島市長らとフアンなど約100人が集まった。
音楽愛好家の菊波勇が二葉のSPレコードを演奏、地元歌手の新宅未奈子や加藤まさかつら14人が二葉のヒット曲を披露した。
歌碑は進行中の「二葉の里土地区画整理事業」で整備、拡充される「二葉の里歴史の散歩道」沿いに設置される予定。平成26年春の完成を目指し、費用500万円を目標に募金活動を開始する。同事業では戦前の「桜並木通り」も復元される。
二葉あき子は昭和20年(1945年)8月6日広島に原爆が投下された時、芸備線三次行きの列車が中山トンネル(広島市東区)に入っていたため被爆を免れ、九死に一生を得た。この体験から戦後は平和を願う気持ちが強くなり、二つの歌にその気持ちを託した。
一つは「フランチェスカの鐘」。昭和24年(1949年)夏、東京の日劇でこの歌を歌っていた時、客席の窓際に広島の高女の親友や三次高女の教え子が幻のように現れ、それからはこの歌を原爆犠牲者の鎮魂歌として歌っていた。
もう一つは「夜のプラットホーム」。戦時中に淡谷のり子が吹き込んだが、戦時体制下でふさわしくないと発禁処分になり、昭和22年(1947年)に二葉が歌って大ヒットした曲である。これは出征兵士を送る歌で、このようなことが二度とないようにと思いをこめて歌い続けた。
「フランチェスカの鐘」のモニュメントは、実父の生家三次市布野にあるので、二葉の生誕の地に「夜のプラットホーム」の歌碑を建立する計画だ。
広島市内には歌謡曲の歌碑は少ない。三次市の尾関山公園に「三次小唄」、大竹市の亀居公園に作詞家・石本美由起の「詩の坂道」、広島市の広島修道大学に歌手・吉田拓郎、なぜか福山市鞆町に八代亜紀の「舟唄」があるくらいだ。完成すると東区の魅力アップにもつながる。盛り上げのために「二葉の里歴史散歩道」の歌をシンガーソングライターの風呂哲州に依頼している。
上村和博
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