80歳、宮島三郎さん今後もお元気で
鶴田浩二、三浦洸一、フランク永井、和田弘とマヒナスターズや橋幸夫など多くの歌手を育てた戦後日本の歌謡史を代表する作曲家・吉田正の門下で、ただ一人内弟子となった広島出身の歌手がいる。宮島三郎さんだ。広島では戦後、二葉あき子、若山彰に次ぐプロ歌手。
昭和7年、広島市西区天満町生まれの80歳。今年で歌謡生活55年になる。現在、広島でビクター歌謡音楽研究会本部講師として後進を育てたり、歌謡教室を運営している。
宮島さんは中学1年の時、原爆で母を亡くした。本人は父と強制疎開のため東広島市に家を探しに行って被爆を免れた。その後「流行歌手になろう」と、父の反対を押し切って広島音楽高校の声楽科に入学。2年で中退し、歌手になるには東京と、単身広島を離れた。
レコード会社を次々と訪れたが門前払い。「作曲家に習おう」と、当時「有楽町で逢いましょう」をヒットさせていた吉田正の門をたたいたが、これもだめだった。
下宿先のおかみさんの世話でビクターレコードの専務に会い、吉田正を紹介してもらった。一回だけ歌を聴くという約束のため「弟子入りをしよう」と毎日朝駆け夜駆けでやっと入門した。
昭和34年、ビクター専属歌手として契約。しかしデビュー曲は会社の意向で吉田正作品ではなく、吉川静夫作詞、平川竜浪作曲の「霧と涙の3番ホーム」だった。
その後、吉田作品「雨の夜の東京」「悲しみは捨てるから」「海は涙の捨てどころ」など次々とリリース。レコードは茨城県日立市の吉田正記念館に展示されている。
当時のサラリーマンの月給は1万3800円。宮島さんの1日のギャラは1万円だった。三浦洸一、マヒナ、フランク永井らとともに活躍した。しかし10年を区切りに歌手を廃業。広島へ帰り歌謡クラブ「嫗(おきな)」や「みやじま」を開業した。
平成元年、吉田の特命でビクターの広島教室を開設。平成14年に本部講師に就任。これまで認定講師51人を養成し、26人が現役で活躍している。教室から元キングレコードの佐野文香や風見朱香といったプロ歌手も輩出した。
「現在は歌う時代。指導者の責任は重い。へたな人を好きにさせて、楽しく歌える指導が必要。まだまだ頑張ります」と宮島さん。今後もお元気で、広島の歌謡文化の向上に尽力されることを願う。
上村和博
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