アメリカハーバード大学のサンデル教授の授業「JUSTICE( 正義)」がNHK・TVでも放映され、大変な人気を博している。
日本の大学と提携して、ネットを使っての授業もされている。
私の知人の大学教授は、こうした状況をみて、
「これからは、こうしたネットでの授業がどんどんされるようになる。
そうなったら、いわゆる大学はいらなくなる」
といっていた。
そうなれば、教授も、大量に失業せざるをえなくなる。
大変だ。
そうでなくとも、少子高齢化時代を迎え、学生数が減少し、定員を確保出来ない大学が増え、倒産する大学もでてきている。
そこに、今度はネットで授業を受ければ、大学になんか行かなくてもいいということになれば、大学の経営はますます厳しくなっている。
近頃の若者は、ニュースはネットをみればいいと、新聞をとらなくなっている。
You Tubeのほうが面白いとTVすら見なくなっている。
韓国等のネット先進国では、新聞社はどんどん潰れている。
アメリカでは既存のTV局の経営は極めて厳しくなっている。
それと同様の現象が、大学でも起こるだろうというわけだ。
でも、
私のように一応大学は出ているが、大学の授業など殆ど出たことがない者からみると、大学の講義がネットで配信されるようになるからといって、大学がいらなくなるとはとても思えない。
東京の某有名私大なんぞは、学生1流、校舎2流、教授3流といわれ、そもそも学生は大学の授業をばかにして、真面目に聞いている学生はいないと以前からいわれていた。
教授は、講義中に寝ている学生がいると「こいつ、俺をバカにしているのではないか」と不安になるといっていた。
それでも大学が何の役にたったかといわれ、改めて考えてみると、
沢山の友達と知り合い、世の中にはこんな変な奴もいるんだ、こんなことを考える奴もいるんだと知ったこと、
そしてそんな友人から沢山の刺激を受けたことだったように思う。
教室では、まったく見たこともない奴が、凄い国際的な賞をとったりもしていた。
千夜一夜物語をアラビア語で読んだという奴もいた。
ネットに関しては教授が足元にも及ばない知識と技術を持った奴もいた。
自分の作った作品と、他の学生の作品を比べて、何で俺のが評価されないんだと怒り狂ったこともある。
自分の才能のなさにガックリしたこともある。
酒を飲んでいるんだか、議論しているんだか、ナンパしているんだかわからないような日々に明け暮れ、いつのまにか卒業してしまったというのが学生時代だった。
でもそこには感動があり、悩みがあり、沢山の刺激があった。
大学とはそもそもそんな空気のような存在だといえる。
いわば場だ。
今の大学はさらに状況が進み、
授業に出席し、講義を聞き、知識を覚えるだけの場ではなくなっていることは確かだ。
サンデル教授の授業の人気があるのは、サンデル教授が正義とは何かについての自分の理論を学生に教え授けるのでなく、学生に考えさせ、発表させ、議論させる場を創りだし、教授自身はその場の演出家のような役割をしていることにあるのではないだろうか。
ハーバード大学は図書館の中に大学があるようだったし、MITはコンピューターの中に大学があるようだった。
ネット時代になり、いまではパソコン1台持っていれば、ハーバードの図書館の知識とMITのコンピューター世界を越える環境をだれでもが手にすることが出来るようになった。
それは見方を変えれば、知識と技術は、特定の大学の中に閉鎖的に閉じ込めておくことは完全に不可能になったというkとでもある。
日本の知識、技術の水準が、欧米に遥かに遅れていたときは、教授の仕事も知識を教え授けていればよかった。
しかしもうそうゆうわけにはいかなくなった。
学生のレポートがネット情報をコピー、ペーストで簡単に作成できるようになったことにもそれは伺える。
企業の求める人材も変わった。
単に豊富な知識をもっている人材ではなく、自ら課題を見付け、解決する人材を求めるようになった。
民間企業での実務経験のある教授は、随分と以前から、
「身の周りのおかしな点を指摘させ、それをいかにしたら解決できるか、そしてその効果はどのようなものか」
という演習を、授業の中で課していた。
学生にとっては、講義よりはるかにおもしろいと評判だったといっていた。
大学は「学の独立」ということもいってきた。
東日本大震災と福島原発の事故が起こってみると、大学がそれに対して、何を、どう発言するかも問われるようになった。
近頃産官学ということも持て囃されている。
大学には確かに眠れる知識、技術が膨大にある。
それをもっと活用すべきだということが背景にあるが、それも学の独立ということがあって、初めて意味をもってくることのように思う。
そして大学には膨大な資産がある。
キャンパス、校舎だけでなく、図書館、博物館的資料も膨大に抱えている。
そうした資産をどうやって市民に開放するかも問題だろう。
こうした状況をみると。
大学は、単に知識を教え、授ける場であるということでは、もう価値がなくなったと言わざるを得ない。
そんなことをしていては生き残れなくなったのだ。
ということでは、大学も教授もその存在価値は、きちんと授業をすることにあるのでなく、いかに学生をより創造的にさせることができるのかということにシフトしているようだ。
学生1流、校舎2流、教授3流という表現も、ネット時代になってみると、なかなか含蓄のある言葉のように見えて来る。
ネット時代になって、大学も、そして教授も、そのあるべき姿が大きく変化していることを認識し、大きく自己変革をしていく必要があるようだ。
元安川
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