デトロイトから来た四川の人
中国との縁は日中国交回復前年1971年の暮れに一月間中国各地を訪問した事に始まった。
二度目の訪中は1984年の四川省訪問だった。広島県が四川省と友好提携をするのを機会に派遣された訪問団の一員として取材に走り回った。
この訪問を機会に翌年四川省からやって来た四川大学の教授で四川省対外文化協会の会長の許川さんの強い働きかけで中国放送と四川広播電視庁の友好提携が実現し、四川との縁が深まった。隔年で交流団を派遣しあい本年で25年を迎え、本年5月にRCCから安東社長らが表敬訪問したと聞いている。
県は当初、各界の若手を四川省から3ケ月間の招請事業を展開した。‘90年に四川広播電視庁の広報(日本語)担当者だった劉錦鋼さんがRCCでの研修生としてやってきた。
彼女は四川省の観光大学で日本語を学んだか大変優秀だった。難しい日本語を使いこなす能力が高かった。この研修が縁となって‘92年には広島大学総合科学部の大学院の研修生に成り’94年に修士を終了した。
この間、RCCは四川広播電視庁との交流のやり取りを殆んど彼女のサポートで進め、取材班も頻繁に送りこんだ。文化交流や四姑娘山の未踏壁への挑戦や世界遺産の黄龍や九寨溝にパンダの生態などまだ知られない四川省の姿を数多く紹介した。
また、‘92年にはRCCがJNNの海外支局の一つを上海に開設する事に成り報道部長の私が開設準備を任された。北京や上海に出向きながらの準備に四川電視台が懇意な上海電視台を紹介してくれるなど交流は思わぬ形で拡大充実し、秋には正式開設に漕ぎつけた。
この間も劉さんは四川から何かと上海支局へのサポートをして頂いた。
その後、彼女の妹さんが修道大学に留学生として来広し、やがて山口の人と結婚した。
私は報道を離れて四川と疎遠になっていたが、彼女は電視台を辞めて渡米したと妹さんから聞いていた。その劉さんから、突然の電話があった。
デトロイトの日系企業LEDのニチア・アメリカの社員として働いている…。近く研修で徳島の阿波市へ行くので会いたい…との連絡だった。
デトロイトは米国の自動車産業の基地であるが日系企業も多くLEDのニチア米国の社員である。名刺にはNITIAの「sales ・associate のJenny Liu」でアメリカ人のジェニー・劉さんだ。
日亜に入社して3年が過ぎ阿波市にある日亜本社へ一週間の研修に派遣されたのだ。
米国へ渡って10年?今や日米語を自在に操り、日系企業にとってはきっと貴重な戦力であり頭脳になっているものと思われる。
何よりも驚いたのは、米国で結婚した彼女は4歳になったエニ―チャンを同伴して来た。
既に47歳になる彼女は高齢出産を乗り越えて新しい家族を育んでいる。
アメリカにおける彼女の決意と覚悟のほどを推し量ると嬉しい限りだ。
研修中、娘さんは山口の妹さんに預けていたようだ。
エニ―チャンは全くの英語だけ使う普通の米国の少女だ…。
米国人の夫のことを聞く時間は無かったが、彼女は自由の国アメリカで少なくとも彼女らしい生き方を見つけて元気でいる…ことを十分感じられた。
彼女が何故アメリカに渡ったのか?早くに母を亡くし、父の手で育った彼女は共産党青年同盟の幹部を務めたが、ある時期からその事を敢えて伏せるようになっていた?バランス感覚に優れ正義感の強い彼女は共産党独裁に疑問を感じ始めていたのではなかろうか?
“天安門世代”の彼女は日本での生活と経験が徐々に自由な米国への憧れを膨らませ、世界は広く自由闊達と云う中華思想を膨らませる結果に繋がって行ったのではなかろうか…?
RCCで彼女に何かと関わっていた5人が集まって、懐かしみ思い出話に花を咲かせた。
彼女にとって広島は、山口で暮らす妹さんがいる事も手伝って、心の故郷…?になっているのではないか…と、勝手に思ってしまう。
今後、時に、広島にやって来る、いや、帰って来るのではなかろうか…?
十分に話を聞く間は無いまま2時間余りが経過したが、今後彼女の米国での生活がより充実した暮らしになるように祈るばかりだ…。<10月31日:記>
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