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2010年10月18日 (月)

「ニコヨンが造った平和公園」吉田治平講演抜粋

 この欄3月24と5月8日付けの2回、「記者からニコヨンを生きた・吉田治平さん」を紹介した。5月8日から6月9日まで15回にわたって中国新聞の企画「生きて」に広島の戦後の労働界を牽引した労働運動家として連載されたので、ご存知の方もあろう。

 吉田さんは中国新聞の記者出身で’昭和25年、GHQの占領政策の一環で行われてレットパージ(共産党員や同調者の職場追放、解雇)で追われた。当時は250円という日給からそう呼ばれた失業対策事業:ニコヨンで組織された全日自治労の名物委員長だった。

 この日の講演は高校の教師達がつくる「広島の歴史をみてまわる会」が『被爆・戦争体験を聞く会』の11回目の例会で、平和公園内の国立追悼祈念館の集会室で開いた。

 吉田さんは父親が中国新聞の記者で福山支局長時代に支局で生まれた。父親は昭和11年に山口支局長で急死、苦労の連続が始まった。3男7女の10人兄弟の長男で一中を出て上京。外務省の雇員として電信課で働きながら中央大学の夜間の予科で学び、経済学部に進んだ。昭和18年の10月、学徒出陣で壮行会に参加後、徴兵検査で佐賀にあった陸軍の電信隊に配属された。

 九州各地で有線の架設に従事し、20年8月6日の広島への原爆投下は新聞で知った。
 軍務で厚木へ行く事になり15日に広島へ入って二次被爆した。女学院前の実家で太い骨と小さな骨二体を見つけた。母と10歳の末の双子の妹だった。他の兄弟達も被爆したが四女が苦しんで死んだ。この後厚木から九州に帰ったが既に上官がおらず、広島に戻った。

 子どもの頃から将来は新聞社で働く…と思って来た吉田さんは、原爆で多くの記者や社員を失い廃墟になった新聞社(現在の三越)に出かけて、トイレの掃除をしていて旧知の経済部長の目にとまり「経済記者」に採用された

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 入社の半年後に組合が出来、新聞の戦争責任を追及し、社内民主化を求める活動に没頭し、のめり込んでいった。
 不況の嵐が吹きまくる昭和24年、本日製鋼争議に立ち向かい翌年GHQのレットパージで11人が新聞社を追われる。地労委で復職を勝ち取ったが、元の職場の『夕刊ひろしま新聞社』は本社に吸収されて無く、幼い兄弟達を食わす為に止む無く失業対策事業の日雇いに飛び込んで行った。
 そこで、ボスが支配して日給のピンはねが起きており、組合も解散させられていた。
 手書きの壁新聞で失対情報をはり出し、広島自由労組を結成した。

 昭和24年に広島平和記念都市建設法が施行され広島の戦後復興が急速に展開される時期だった。「百メートル道路」や「平和公園」の建設は失対事業のニコヨンが支えとなって進められた。機械や重機は一切使わずスコップとツルハシで掘り起こし2人掛りでモッコの前後を担いで土砂を運んだ。

 掘ればそこら中から骨が出た。一か所に集めて無縁仏塚に祀った。「死者が息抜きできなくなるから石畳にはしたくない」と現場の声を主張しただ聞き入れられず『慰霊碑前の広場を芝生に…』することで妥協した。

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 講演後に平和公園に足を運んだ吉田さんは当時を思い興しながら浜井市長に「原水禁世界大会に間に合わせて」と要請されて突貫工事に取り組み、間に合わせた。広島の都市基盤を失対労働者の腕と力で造った自負は強い。
 広島の失業対策事業は引揚者と在日朝鮮人に半分は被爆者が占めていた。26年の国体の県営総合グランドや市営テニスコート等の競技場も失対が造った。
 市の年間予算の10%を超える失対事業の労働条件向上のため皆に押され、昭和30年の市議選で初当選し4期務めた。ピーク時には7200人いた失対も徐々に減り5期目を目指した46年には落選。事業が尻すぼみになるが活動は続けて来た。

 吉田さん自身は家族の被爆状況や被害実態には長年触れないできた。部落、朝鮮人と並んで被爆者差別のある事を体験してきたからだ。しかし、6年前、上京して被爆をひた隠し、独身を守り家族の為に働き詰めた妹さんが退職後、一人寂しく誰も気づかれないで倒れて逝ってしまった。
 吉田さんは最近まで自らの体験は語らず「知ってもらいたくない…」と思って来た。
 しかし、妹の孤独な突然死と米国のオバマ大統領が核廃絶を口にし、核廃絶が近づいた…という風潮に対する自らの反発がキッカケになった。
 同時に、病院で「あんたらはタダでええのう」と被爆者手帳を持つ人を羨むように声をかける人がいる。この現実は新しい差別が生まれる恐れが…怖いと吉田さんは考えている。

 原爆を広島市民に落としておいて、戦争を続けているのは何処の国か…。核兵器を完全になくしない限り信用できない…。これは黙っておれない…。そんな気持ちで筋金入りの88歳はまだまだ元気で活動し生きていく覚悟…意気軒昂だ。

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