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2010年9月28日 (火)

追悼・秋信利彦さん急逝

 記者時代に原爆小頭症患者の存在を告発し、昭和天皇への原爆投下に関する質問で知られる元中国放送常務取締役の秋信利彦氏(75)が15日、慢性呼吸器不全のため亡くなった。

 東京支社でコンビを組んで取材し、その後30年何かと深く関わって来た先輩だった。
 先週10歳も若い久保民世君を送ったばかりで、相つぐ訃報に寂しい秋の入り口となった。

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 秋信さんはまだラジオ単営局時代のラジオ中国に入社しドラマやドキュメンタリーに取り組んだ。

 中国新聞で平和問題と原爆報道の礎を育てられた金井利博さんが主宰された勉強会「金井学校」の門下生の一人で、早くから被爆者や平和問題に取り組み、多くのTVドキュメンタリーも残している。

 特筆されるのは昭和40年の夏、作家の山代巴さんを中心に「被爆から20年の歴史を明らかにする」為に作られた「広島研究会」が『この世界の片隅で』(岩波新書)出版した。
 被爆者を取り巻く問題をテーマに7編の作品の中に風早晃治の名前で「IN UTERO」がある。『原爆小頭症児』問題を社会的に初めて告発した秋信記者の努力の集約だった。

 広島にあった米国の原爆傷害調査委員会(ABCC)は昭和25年から胎内被爆児の調査を始め、早くから知的障害を伴う原爆小頭症患者がいることは知られていた。
 秋信さんは当時、ABCCが発表した論文や匿名の患者リストを基に所在を一人一人、探しだして生活不安を纏めた。原爆被害の象徴的患者の実情を一般社会に初めて知らしめた。
 孤立した親達の結束を促し国に補償を求め核兵器廃絶を目指す「きのこ会」を発足させ、支えて来た。

 私が秋信さんと一緒に仕事をするようになったのは昭和50年夏、秋信さんが東京支社の報道部に転勤して来られてからだ。
 この年の9月、昭和天皇は初の訪米を前に外人記者団と記者会見に応じて問題を呼んだ。
 日本人記者との会見は一度もされたことが無い為、日本記者クラブが宮内庁に申し入れ、天皇が帰国後の10月31日に日本人記者団との史上初の天皇記者会見が約束された。

 この会見への参加者が日本記者クラブ加盟社の中から抽選で決められた。RCCも参加が決まり、メンバーだった秋信記者の出席が決まった。
 広島の記者として原爆の事を聞かなければ…と言う気持ちから、当時日本記者クラブの総務部長で親しかった桂敬一氏(後に東大新研教授)に相談した。
 当初、質問は既に想定の上で宮内庁に出されていたが「原爆に関する質問」は無かった。秋信氏の提案と桂さんのご尽力で会見の進行を担当された朝日新聞の渡辺社長らの計らいも手伝って『関連質問』と言う形で「米軍の原爆投下質問」が決まった。
 右翼対策も考えてクラブサイドもRCC側も“極秘事項”として対応が進められた。

 広島・長崎から唯一出席する記者として秋信さんは「出来れば質問したくない…」と言う気持ちを漏らしていた。しかし、天皇が日本の記者達と初めて会見するのに「原爆抜き」は「日本のメディアとしては許されない…」と言う強い気持ちが働いていたように思う。
 この時、桂さんの激励とサポート体制は秋信さんの強い支えとなったように思う…。

 会見ではご承知のようなやり取りになった。
 「戦争終結に当って、原子爆弾投下の事実を、陛下はどう受け止めになられましたか」の質問に対して、
 陛下は『原子爆弾が投下された事は遺憾に思っていますが、こうゆう戦争中であるから、どうも広島市民に対しては気の毒であるが、やむを得なかったと思っている…』と返した。

 実は秋信さんは当初、天皇が昭和22年に広島へ行幸して被爆者に浸しく声をかけた…事を前置きに「原爆はいつ、誰から、どのように聞かれたか」と聞き、更に「現在の核状況をどう考えられるか…」と聞く用意をしていた。
 しかし、これでは天皇が慣れていない会見で質問の真意を汲み取るのに戸惑われる?のではないか…と思い急遽、件の質問に切り替えた…。
 結果『…やむを得ない…』発言となった。国会でもこの天皇発言の真意を巡って宮内庁長官が喚問され、大きな社会問題化した。しかし、誰も天皇発言の真意を明かすことは出来ず、多くの被爆者と国民に違和感を残す歴史の一ページとなった。

 秋信さんは多くを語る人ではなかったが後年、あの発言を引き出した質問が「あれでよかったのか…」という思いを抱き続けておられた…。あの機会を逃していたら昭和天皇が生涯原爆について発言する機会を失っていた事は間違いない。
 秋信質問が無ければ日本のメディア・ジャーナリズムが戦後史の中で大きな責任を放棄する結果になっていた事も間違いない…と、改めて草場の陰から確認されている事だろう。

 秋信さんは酒も飲まないたばこも吸わないが大変なグルメだった。奥様が長い闘病生活をされていた事もあって自分でも好んで台所に立つ人だった。目立たないがお洒落好きで洒脱な風格で、生涯快活な正義派だった。ご冥福を祈る。 合掌。 <17日:記>

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