興南高校優勝と沖縄の事情
夏の甲子園大会は沖縄の興南高校が春に続く連覇で初めて深紅の優勝旗を沖縄に持ち帰った。空港には凱旋した興南ナインを、4000人を超える人達が出迎えて、県民の悲願達成を喜んだ。
興南がここまで成し遂げたのには去年春夏連続出場しながら、悔しい負けを喫していたからで、今年の春のセンバツ優勝は夢にまで見た沖縄県民の喜びだった。それだけに、興南は予選から夏の優勝を目標に闘ってきた。
島袋投手のトルネード投法に高い打撃力が絡んで安定した試合で勝ち進んだ。準決勝の報徳戦の5点逆転勝利が興南の底力を見せつけた。
沖縄の高校野球が初めて甲子園に出場したのは昭和33年(‘58年)。米国の統治下にあって首里高校が初めて甲子園の土を踏んだ。残念ながら初戦に敗退して持ち帰ってきた甲子園の土が当時の検疫で引っ掛かり那覇港に捨てられる事件が沖縄の実情を再認識させた。
爾来、本土復帰と甲子園の優勝は沖縄の高校球児も県民にとっても悲願だった。
昭和44年に沖縄高校(現・沖縄尚学高校)から甲子園に出場、琉球煙草を経て米国の占領下の沖縄から初めてプロ野球に入った安仁屋宗八さんと沖縄でご一緒したことがある。
カープの春のキャンプの陣中見舞いに行った時、RCCの解説者だった安仁屋さんも取材に見えていた。夜、街に繰り出すとあちこちから声がかかり食事中や飲んでいても席まで挨拶に見える人の多さに驚いた。丁寧な受け答えは彼の人柄の現れだが「みなお知り合いですか」と尋ねると「知り合いは極一部」。
なぜか?不思議に思っていたら、同席していた人が「安仁屋さんは沖縄からのプロ野球第一号、県民の憧れであり誇り!」と聞いて沖縄人の県民性が頷けた…ことを思い出す。
県民の期待を受け止めて来た安仁屋さんは安仁屋杯中学野球大会を開催し、‘05年からは社会人野球アニヤベースボールトライを創り監督として沖縄の野球熱を支えている。
今回の優勝をどれ程沖縄県民が待ち望んでいたか、優勝インタビューに答えたキャップテンの言葉に込められていた。「県民みんなで勝ち取った優勝です…」。正しく、悲願を達成した意識は高校生達の胸の中に刻まれてきた沖縄の歴史を思い起こさせる…。
タレントや芸能人に沖縄出身者が目立つようになって久しいが三線や島歌など独特の郷土芸能が共通基盤として身にしみ込んでいるように思う。戦争体験や米軍基地の島と言う特殊な環境の中で高校野球も同じように、自分達が置かれてきた状況の認識に共通性や共感性が強い“良い意味での郷土意識”が育まれているのではなかろうか。
それにしても、天晴!沖縄球児たち!! 興南高校野球部のメンバーたち!!!
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