中国山地残影②・文化の水脈
7月19日付け・当ブログ『消えゆく故郷の学び舎』を紹介した元RCC記者・OBの山本喜介氏が月刊情報誌「環・太田川」に連載している、嘗ての取材エリアの県北に足を運んで振り返り・見つめる中国山地残影②を転載(リライト)紹介する。
今回のテーマは文化。タイトルは「文化を耕す水脈は枯れず」一人で何でもこなさねばならない支局勤務は過酷な半面自分の思い入れの強いニュースソースの選択が出来る良い面もある。喜介記者の転勤が引き金になって実った成果は県民市民には知られていないが県北の文化として今も引き継がれている。
「高暮ダム」と言えば1940年に着工し戦争に動員された日本人に代わって朝鮮半島から労働者が沢山強制連行されて酷使され、多数の犠牲者も出た。‘94年「この事実を出来るだけ調査して残そう」と高校教師や記者仲間に呼び掛けて『県北の現代史を調べる会』を立ち上げた。
詩人で三菱徴用工問題に取り組んでいた深川宗俊(故人)さんや朝鮮人被爆者協議会の李実根さんらの協力を得て運動に広がりを持たせていった。彼特有の「抜きネタ」で「独走」するよりこの問題の社会化を優先した。共同の場で当事者や工事現場周辺のおとしよりからの聴き取り調査などに取り組んだ。西本願寺別院や被爆教師の会、周辺自治体の町村長、郷土史研究家などの協力もあって’95年にダムサイドに『追悼碑』が建てられた。
碑文は「日本の植民地支配が生んだ悲劇を反省し、日本と朝鮮の両民族の変わらぬ友好を誓う…」ことが刻まれている。これを機に、毎年「高暮ダム平和の集い」は続いている。
県北の文化を語る上で忘れられないのは農民文学・人権運動家だった山代巴さんだ。
気軽に運転役や連絡役を引き受けていた山本記者を山代さんは「喜介さん、わたしらは畑の草むしりのような報われん仕事をゴソゴソやるんよ」「曲がらない」「自分の頭で考え、自分の足であくる」などなど…。「私の大学は三次刑務所だった。『曲りんさんな。思想犯が曲がったら値打ちゃなかかろうが』と励ましてくれた女囚たちが私の恩師だった」と言う多くの山代語録を残している。喜介記者にとって山代さんは恩師であり“大学は中国山地”だった…と振り返っている。
三次には「げいびグラフ」という写真雑誌がある30年くらい前何度かお目にかかった事がある。矢野嘉之さん(93)が36年前に創刊、年4回の発行で113号を重ねている。「消えゆく郷土の姿を残そう…。部数は減るばかりだが…小回りが利く零細企業だから何とかやっていける」と屈託がない…コツコツと文化を耕す縁の下を支える人生に本物を見た…。
三次市三和町にある納屋の2階の20畳余りを自分の作品や趣味で買った中国の書画を展示して開放している「日本一小さい美術館」がある。
元三和町長で、その後県会議員を4期務めた冨野井利明さんは県北にあって町民祭りや村芝居の発案者だった。「国定忠治物語」の脚本・演出までして町の住民自治を強く確立した人物だ。私が初めて訪れた30数年前の町長室はガタビシ音がする老朽木造建築の一角だった。いつも、住民がなにかと相談にまた雑談にやって来ていた…。
いまは、絵筆と野菜作りの鍬を握り、地域の文化を支える自適の日々だ…。
倉田百三の業績を顕彰する「倉田百三友の会」を長年支えて来た方の亡き後、進む高齢化の中で今後の支えに気配りする喜介記者は当分の間は三次駐在?から離れられまい。
頼りにされると逃げられない、力の入る喜助記者。
登場人物の顔が思い浮かぶ中国山地残影企画はまだまだ続きそうだ。
次は何…?楽しみに待とう…。
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