相撲協会新理事長・魁傑関の頃
相撲協会の新しい理事長に元大関の放駒親方が就任した。岩国出身で現役時代の放駒さん、魁傑関を度々取材する機会があり懐かしいあの頃を振り返ってエールを送りたい…。
私が東京勤務になった昭和48年夏頃の魁傑関は前年5月に小結に昇進して輪島、貴ノ花、三重ノ海らと共に大関・横綱候補の呼び声が高い人気力士にのし上がっていた。
魁傑関は岩国に生まれ小学校3年生まで過ごし、その後下関に移った。中学で始めた柔道が高校に進んで飛躍し、講道館の試合で6人抜きを達成して3段に昇進。花籠親方<若貴兄弟の伯父:父の兄>が目をつけて勧誘した。しかし、本人が断って日大に進学して柔道に熱中するが、再び花籠親方が父親を説得して大学を1年で中退して入門、昭和41年9月場所で初土俵を踏んだ。
東京支社の取材テリトリーは国会から地元に関わる人、物、行事何でもありで出かけた。
阿佐ヶ谷にあった花篭部屋が魁傑関の所属部屋で取材の窓口は専ら女将さんだった。
賀茂鶴や五橋を3本位新橋の全国名酒開館で求めて出かけると「取材にこんな気遣いしていてはだめよ」と言いながら、実に気持ち良く応じて下さったのが、思い出深い。
花篭親方にマイクを向けてもなかなか言葉が出てこないで困っていると本人魁傑関を部屋の外へ連れて出て「自由に…」と助っ人をして下さる、大変よく気の付く女将さんだった。
三賞や優勝など何かあると例の相撲記者クラブの幹事?が仕切って我々ローカル局の順番は後回しにされてしまう…。
当時、実況中継の中心にいたNHKのFアナなどはまるで邪魔者扱いにする勢いを,女将さんは「魁傑の地元局、今からなら今日の放送に入れてもらえるのだから…地元優先!!」と仕切って頂いて、魁傑取材を大いに助けて頂いた。
三賞の時は部屋での祝をソコソコに自宅に戻ると岩国と下関の市長や助役などが魚や酒を持ち込んで待ち受けていた。49年11月場所の初優勝時はたしか翌日か翌々日、改めて自宅でのお祝い会の取材にでかけた事がある。50年に大関に昇進するが怪我で陥落し、再度52年に大関に昇進した。
彼の功績、実績は色々あるが何といっても一度も休場しなかった…事に尽きる。
左肘の状態が良くなく2度、大関から陥落したが「腕の負傷が無ければ横綱は間違いなかった」と関係者を残念がらせた…と語り草だ。それにしても『休場は負けと一緒』という考えで、不調で黒星続きいでも休場しなかった。その事が力士生命を縮め横綱の道も断ったのかもしれないが『休場なし力士』の気概と誠実な人柄が人気の秘密でもあった。
サインにも気軽に応じ頼めば“為ガキ“にも気軽に応じてくれ、職場や知人など結構沢山頼んだ記憶がある。
報道によると改革派?貴ノ花らが推す前々理事長北の海理事を破っての就任は協会主流派・保守派・体制派?に成るのだろうか?[NHKの相撲中継再開のキー]を手探りの第一歩に、大いに大胆な改革を進めない限り発展継続は望めない。
今後新たに、問題が発生した場合は「公益法人・国技・税制優遇の返上」の覚悟を具体的ケースにあてはめる形の方向を示す時期に来ている。
土俵下での暴力団の組員観戦に端を発した「裏社会」との繋がりや地方場所や巡業における暴力団関係者からの宿舎提供問題などの関係や疑問は今だに解明されていない。
混迷の相撲界を建て直す推進役の責任は大きい。内部の論理に振り回される事なく『休場は負けと同じ』精神と気概で、改革に取り組んで欲しい…期待したい。
頑張れ、放駒理事長!!!
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