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2010年8月

2010年8月31日 (火)

“姥捨て・子捨ての国“緊急対策

 この夏、猛暑が炙りだした日本の最大の社会問題は多数の「百歳以上の所在不明者」がいることだ。全国で300人?を超える勢いだ。死亡者が正確な調査がされないで20年も30年も戸籍上生き続けている現実はどこに問題があるのか?
 調査ターゲットを百歳以下にも拡大すれば膨大な数に達する事は間違いない…。
 韓国や中国のメディアは「姥捨てのでたらめ長寿国」と揶揄しているようだ。

 東京足立区の111歳の男性が30年以上も前に死亡して、白骨化し、同居家族がいながらこれほど長く生存確認が放置されてきたのは極めて異常なことだ。
 しかし、とは言え全国には一人暮らしの高齢者が増加傾向にあると言われ、昨年9月時点で4万人余に達している。

 厚労省は110歳以上で年金を受給している人を総て面会して所在確認をする方針を示している。市町村職員が訪ねて確認が難しい場合は年金事務所の職員を派遣する…という。
 自治体の調査は無給の民生委員が全くのボランティアで訪問するケースが多く、面会を拒否されるケースも少なくないようだ。民生委員の役割を再評価した見直しが急がれる。

 調査の甘さが悪用されるケースも少なくない。親の年金をあてにする家族が死亡を隠して不正受給を続けて来た事例も明らかになっている。生活保護の申請が断られ止む無く不正受給が命綱になった…貧困と低所得に生活保護制度が追い打ちしている。本人に合わずに長寿祝いを事務的に処理した、行政の怠慢と責任が問われるケースも少なくない。

 医療や介護保険を長期間利用していない人の情報チェックが出来れば行政対応を早める可能性がある。必要に応じて行政が調査できる仕組みの構築や権限を見直す必要もある。
 住民の為の役割を殆んど果たしていない市町村議員に分担させる?方法は無いだろうか?

 今回の問題は何年も何十年も子供や親せきが連絡を取らなかったなど家族の絆が希薄な事が浮き彫りになった。大阪で2人の子供を放置して死亡させ殺人罪で再逮捕された母親をはじめ年間4万件を超える?子どもの虐待も同じ根っ子にある…と言えよう。
 全国には所謂保険証も年金手帳も無いホームレスの所在不明高齢者予備軍と言われる人達が数10万人も溢れている…。そこには、長年にわたって自民党政権がもたらした高度経済成長の歪みが生んだ核家族化と経済格差に地域コミュニィティーの破壊がある。

 今こそ民主党政権は党首選挙で現をぬかさずこれらの社会問題を解決する方策の追及を急ぐ時だ。さもなければ政権維持の意味は薄らぐ…。しっかりしろ、民主党!菅さん!!…。

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2010年8月30日 (月)

「広島・長崎における原子爆弾の影響」完全版発売

 戦時中、記録映画を製作する国策会社として存在した日本映画社が原爆投下後の広島・長崎で学術調査団に同行して記録したフイルム映像「広島・長崎における原子爆弾の影響が」の完全版が日本映画社を引き継ぎ昨年閉鎖されて日映新社の関係者の努力で一般に購買できるDVDとして発売され、甦った。

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 被爆直後の広島・長崎の惨状を記録した「広島・長崎における原子爆弾の影響」は戦時下でニュース映画や記録映画の制作を一手に担っていた国策会社日本映画社が広島・長崎の記録制作の為に原子物理学の第一人者の仁科芳雄博士に協力を求めた。仁科博士の要請で文部省の学術研究会議に『原子爆弾災害調査特別委員会』が設置され、200名の専門家調査団が編成された。この調査団に撮影スタッフが同行して記録映画の制作に掛かった。プロデューサーの元に生物班、物理班、土木建築班、ニュース遊撃班の13~4名で編成され、9月下旬から35㍉フイルムで撮影を始めた。
 食糧、移動手段、電気の供給、機材不足の中で「何とか記録に野課さねば…」という執念に駆られてガムシャラに撮影を続けた。
 所が、10月下旬長崎で撮影中のスタッフがMPに拘束されGHPから撮影中止を命じられる…フイルムの提出を命じられる。
 映画社は撮影の継続と編集までをしないと貴重なフイルムが意味を持たないと主張し、米国戦略爆撃調査団によって12月から撮影を行い、5月に完成した。
 米国側から撮影スタッフに対する干渉や強要は無かったが、GHQの命令で完成プリントは勿論、未使用のネガやフイルム等この映画に関わる全てが米国へ持ち去られた。
 スタッフはこんなことも予測してラッシュ・プリントを一揃い密かに保存していた。

 昭和27年(‘52年)に占領が終わると秘匿されていたフイルムが国内で部分的にニュースや映画に活用され始めた。一方、米国へ持ち去られた映像については学術調査団の科学者や撮影関係者が働きかけた結果、‘67年(昭和42年)完成から21年振りに16㍉フイルムのコピーが返還された。これを契機にノーカット・フィルムの返還などと市民運動とも連携し核兵器廃絶を目指す大きな布石にもなった。

 改めて、内容を見ると物理的建築土木的影響、生物的影響、人体的影響など当時としては最大最高の技術を活かした記録で、バラックで人体から臓器などを摘出する場面など、克明な記録がとどめられている。
 この映像を維持管理してきた日映新社は東宝の子会社として存在してきたが一昨年、本社に吸収合併されるにあたって、担当者のご努力でこの映像を活かし守り維持するために新たに『日映映像』と言う会社が立ち上げられた。

 広島・長崎へ修学旅行に行く学校の教師や中学、高校生には事前学習の貴重な素材としてお勧めしたい。
 今回の発売は先人たちの努力の結晶を何とか陽の目を見させたいと願って来た後輩達の並々ならない粘り強い尽力の成果で、心から敬意を払いたい。

 今回、発売されるDVD『HIROSHIMA NAGASAKI EFFECT OF THE ATOMIC BOMB on Hiroshima and nagasaki』は広島編が81分、長崎編83分、2時間42分の原版からの複製で英語のナレーションに和訳スーパー。
 発売:8月20日。
 値段は3880円+送料。
 インターネットで購入が出来る。
 発売元:日映映像=03-6380-9590
 販売元:クエスト=http://www.queststation.com    Tel :03-3360―3810

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2010年8月29日 (日)

故郷への貢献

 全国上映中の映画「ハナミズキ」の美術監督が推奨する映画の上映会が8日間にわたって行われた。「ハナミズキ」は広島学院から早稲田に進み、TBS制作部で話題のドラマ制作のデイレクターで映画も数々のヒット作品を演出している若手のホープ土井裕㤗監督の作品。美術監督は広島女学院出身の部谷京子さん。

1

 その部谷さんが美術監督した土井監督の「いま会いに行きます」「涙そうそう」の2本をはじめ「河童」「陰陽師Ⅰ,Ⅱ」など7作品を8月14日から21日までの8日間、一日3回上映で基町クレドのパセーラ11階ホールで行った。
 初日は土井さんと部谷さんの映画作りを巡るトークショーも行われた。
 この企画は、部谷さんが中心になって昨年から始まった米国シアトルの映画祭「ダマー映画祭inヒロシマ」を盛りたてる一環で広島出身の若手映画人が映画にかける想いと心意気を寄せたものだ。近い将来、故郷へ寄せる想いが大きい2人が協力して広島を舞台やテーマにした映画製作が試みられる…事に、期待を寄せる人は少なくない…と思う。

 いま“故郷貢献”の代表格は故郷の自治体へ寄付をして住民税が軽減される『ふるさと納税制度』が挙げられる。こんな時代だから、全国の自治体は競って故郷納税者を募り、県内でも多くの貢献者があると思う。

 部谷さんが自分なりの故郷貢献を考えたのは吉田喜重監督のヒロシマがテーマの「鏡の女」(2002年)を担当してからだ…。「仕事を通じて故郷に恩返ししたい…」と言う思いを募らせるようになり‘05年の日野原・小澤の「世界へ届け平和メッセージ」の演出をボランティアしたり、影絵作家の浜崎ゆう子さんと「小さな祈りの影絵展」(‘05~)を始めた。巡回展も続けて今年6回目を迎えた。年に2~3回のワークショップは当初の目標であった「市民が紡ぐ影絵展」に育ってきた。彼女を取り巻く故郷の友人知人の協力が支えだ。

 2回目を迎える「ダマー映画祭inヒロシマ」は30分の短編映画の製作の舞台としてもアジアから欧米まで関心を呼んで作品応募も増えて、運営を支える大学や学生に在広マスコミ等を巻き込みながらの取り組みは果敢で期待を大きく膨らませつつある。
 “映画”を通じた「広島」の活性化への期待は大きく、可能性も高い。
 職能である映画を通じて一つづつ着実に故郷へ貢献して恩返しする部谷さんの思いは、今年も熱く燃え上がっており、頭が下がる思いだ…。

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2010年8月28日 (土)

相撲協会新理事長・魁傑関の頃

 相撲協会の新しい理事長に元大関の放駒親方が就任した。岩国出身で現役時代の放駒さん、魁傑関を度々取材する機会があり懐かしいあの頃を振り返ってエールを送りたい…。

 私が東京勤務になった昭和48年夏頃の魁傑関は前年5月に小結に昇進して輪島、貴ノ花、三重ノ海らと共に大関・横綱候補の呼び声が高い人気力士にのし上がっていた。

 魁傑関は岩国に生まれ小学校3年生まで過ごし、その後下関に移った。中学で始めた柔道が高校に進んで飛躍し、講道館の試合で6人抜きを達成して3段に昇進。花籠親方<若貴兄弟の伯父:父の兄>が目をつけて勧誘した。しかし、本人が断って日大に進学して柔道に熱中するが、再び花籠親方が父親を説得して大学を1年で中退して入門、昭和41年9月場所で初土俵を踏んだ。

 東京支社の取材テリトリーは国会から地元に関わる人、物、行事何でもありで出かけた。
 阿佐ヶ谷にあった花篭部屋が魁傑関の所属部屋で取材の窓口は専ら女将さんだった。
 賀茂鶴や五橋を3本位新橋の全国名酒開館で求めて出かけると「取材にこんな気遣いしていてはだめよ」と言いながら、実に気持ち良く応じて下さったのが、思い出深い。

 花篭親方にマイクを向けてもなかなか言葉が出てこないで困っていると本人魁傑関を部屋の外へ連れて出て「自由に…」と助っ人をして下さる、大変よく気の付く女将さんだった。
 三賞や優勝など何かあると例の相撲記者クラブの幹事?が仕切って我々ローカル局の順番は後回しにされてしまう…。
 当時、実況中継の中心にいたNHKのFアナなどはまるで邪魔者扱いにする勢いを,女将さんは「魁傑の地元局、今からなら今日の放送に入れてもらえるのだから…地元優先!!」と仕切って頂いて、魁傑取材を大いに助けて頂いた。

 三賞の時は部屋での祝をソコソコに自宅に戻ると岩国と下関の市長や助役などが魚や酒を持ち込んで待ち受けていた。49年11月場所の初優勝時はたしか翌日か翌々日、改めて自宅でのお祝い会の取材にでかけた事がある。50年に大関に昇進するが怪我で陥落し、再度52年に大関に昇進した。

 彼の功績、実績は色々あるが何といっても一度も休場しなかった…事に尽きる。
 左肘の状態が良くなく2度、大関から陥落したが「腕の負傷が無ければ横綱は間違いなかった」と関係者を残念がらせた…と語り草だ。それにしても『休場は負けと一緒』という考えで、不調で黒星続きいでも休場しなかった。その事が力士生命を縮め横綱の道も断ったのかもしれないが『休場なし力士』の気概と誠実な人柄が人気の秘密でもあった。
 サインにも気軽に応じ頼めば“為ガキ“にも気軽に応じてくれ、職場や知人など結構沢山頼んだ記憶がある。

 報道によると改革派?貴ノ花らが推す前々理事長北の海理事を破っての就任は協会主流派・保守派・体制派?に成るのだろうか?[NHKの相撲中継再開のキー]を手探りの第一歩に、大いに大胆な改革を進めない限り発展継続は望めない。

 今後新たに、問題が発生した場合は「公益法人・国技・税制優遇の返上」の覚悟を具体的ケースにあてはめる形の方向を示す時期に来ている。

 土俵下での暴力団の組員観戦に端を発した「裏社会」との繋がりや地方場所や巡業における暴力団関係者からの宿舎提供問題などの関係や疑問は今だに解明されていない。

 混迷の相撲界を建て直す推進役の責任は大きい。内部の論理に振り回される事なく『休場は負けと同じ』精神と気概で、改革に取り組んで欲しい…期待したい。
 頑張れ、放駒理事長!!!

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2010年8月27日 (金)

横浜中華 石焼チャーハン?

横浜中華 石焼チャーハン?
何それ。

「チャーハン」て中華料理だろう、
「石焼」って韓国料理だろう?
それを和風にして出すの?

看板のメニューを見れば、結構美味しそうだ。
値段も330円とメチャ安い。

看板に釣られて、入った。

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チャーハンが熱せられた鉄鍋に入れられてでてくる。
メチャ重い。
韓国風石焼のチャーハンというわけだ。
トッピングをお選び下さいという。
セルフで、手前のカウンターに並べられた卵とか、コロッケとかを選ぶ。
トッピングといういい方はアイスクリームの上に乗せるナッツやチョコレートなどを指す言葉じゃなかったっけ?
英語だろう?

これは別料金になる。
並330円というのも、税込だと346円になる。
ちょっとおかしいが、まあ全体として安いからまあ良しとしよう。

お店の中の客席は、手前がカウンター席、その奥がテーブル席になっている。
結構きれいだ。

味もいい。
そこそこ腹も一杯になる。

お客は、殆どが若い女性だ。
女性の多い店は安くて美味いというのが相場だ。

良くできている。

この石焼チャーハン店はパルコの近く、以前サンマルクのあった跡にできた。
サンマルクチェーンのお店の1つだという。

アメリカから入ったマックのハンバーグというファーストフード店が、日本に入って、牛丼というオリジナルな方式を生み出し、それが今やチャーハンのファーストフード店までできた。

色々考える人がいるもんだ。
感心する。

このお店が、韓国や中国に進出したら、彼らはどう思うのだろうか。

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2010年8月26日 (木)

いすゞ・ヒルマン

近頃若者の車離れがいわれて久しい。
東京の30歳前後の若者の半分くらいは、車さえ持っていないという。

先日友人と酒を飲んだ時、ご機嫌になった友人が、いかに昔は車が若者のあこがれの的だったかということについて、得々とはなしてくれた。

「昭和30年代には車1台で家が買えた。
車はそれほど高かった。
アメリカ人のばかでかい車が脇を通っていくと、ほんとうに羨ましかった。
車を持つことは、当時にあっては、それこそ最高のステイタスだった。
そんな値段の高い車が、ガールフレンドの家にはあった。
その車に、彼女に乗せてもらった。
車は確かいすず・ヒルマンだったと思う」といっていた。

改めて、ネットで調べてみると、「いすゞ自動車は昭和28年2月に英国ルーツ社と技術提携して、昭和32年10月に完全に国産化されたニューヒルマンミンクスを発売しました。
スタンダードが720,000円です」と書かれている。

当時の大卒の初任給が1.5万円位だったらしいから、それから換算すると、今の価格で、約900万円ということになる。
家1軒というほどではないが、相当に高価だったことがわかる。
免許証取得の費用も、その頃も20万円位していたらしいから、免許証を取るだけでも大変だったことがわかる。
車の価格、免許証取得費用がそれだけ高価であれば、そりゃステイタスになるはずだ。

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昭和50年代になっても、若者たちは、前を走っている車の名前を当てて、得意になっていた。

それが今では、車をもっていない方が格好いいとさえいわれるようになった。
可笑しい。

変われば、変わるもんだ。

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2010年8月25日 (水)

中の棚商店街とベンチ

広島市の中心市街地、中の棚商店街は、本通り商店街の北側にある。
本通りいの賑わいから一歩入ったところにあることで、なんとなく裏街という雰囲気になっている。
それはそれで、なかなか風情があって、私は好きだ。

中の棚という名称も他では聞いたことがない、ちょっと不思議な呼び方だ。
ネットで調べてみると、
「元和5年(1619年)の浅野長晟公入城の時に西魚屋町(現在の袋町付近)と京橋町(現在の南区)に魚市場が設けられ、3ケ所の魚市場のまん中に位置していることから“うおの店”転じてまん中の店と云う意味で「中の(店・棚)」 と呼ばれるようになりました」とある。

商店街としては、広島の中心地ということらしい。

中の棚商店街は、車道と歩道の区分を止め、通路全体を石畳にした。
そうしたこともあってか、中の棚商店街全域が、なんとなく歩行者専用空間という雰囲気になっている。
車の通行も少ない。
歩く人も、通路の真ん中を歩いている。
道路に看板がはみ出しているのも、道路交通法上は違反だろうが、それも却って街を楽しくしている。

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そんな中の棚商店街の一角に、ベンチが2つ置かれていた。
早速、座ってみた。
前を通る人を、ボーッと見ているのも、結構面白い。

ベンチの両サイドにあるフリーペーパーのラックはちょっと雑然としていて、汚らしい。

フリーパーパーのラックだって、もう少しお金をかけてきちんと作れば、それはそれで、街の賑わいを作り出す重要なエレメントになるはずだ。

「うらぶくろ」の道路も車道と歩道の区別を止め、全てを石畳の道にしたらどうだろうか。
敢えて車を締め出そうとしなくたっていい。
なんとなく車が入り難い雰囲気をつくれば、自然と車は減っていき、人の賑わいの場になっていくように思う。

どうせなら、石畳でなく、真砂舗装の路にしたらいい。
その方がよほど広島らしくていい!
費用だって安いだろう?

並木通りだってそうすればいい。
街中ファッションコレクションだって、コスプレ大会だってやりやすくなる。

どうせなら、平和大通りと相生通り、中央通りと鯉城通りに囲まれた500M四方の地域を、この中の棚地区と同じような石畳の道とか真砂舗装の道にしたらどうだろうか。

そうなれば、広島の中心市街地一帯が大きな「広場」のようになり、新たな賑わいが生まれてくるかもしれない。

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2010年8月24日 (火)

「米国へヒロシマを届ける」熟年民間大使

 25年間「米国にヒロシマ出前する」平和ボランティア活動のネバーアゲインキャンペーン(NAC)、10代目に当たる草の根平和大使に初めて熟年の大使が誕生した。

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 米国でホームステーしながら1年間の長期滞在して教会や学校などで原爆の実情を話し、原爆映画の上映をして「ヒロシマの出前」をするNACは1985年に兵庫県三田市の教師・北浦葉子さんと米国の平和学者レイスロップ氏が始めた平和活動。
 既に51人の大使が延べ36万人以上にヒロシマを伝えてきた。
 しかし、2001年の同時多発テロ以来、米国政府がビザの発給を厳格にし、長期滞在が厳しくなり,NAC大使の派遣を6年間ストップしてきた。

 所が、オバマ大統領の出現や“プラハ宣言“で『核なき世界』への動きに内外の支援者から「この機を逃すな」の声に押された。ビザなし滞在が出来る3ケ月間に縮めて再派遣の決断をし、5人の大使を募集していた。

 これまでは20代が中心だったが初めて熟年の応募があり決定した。
 森川高明さん(71)だ。新聞報道で知って、早速激励のメールを送った。

 森川さんは広島国際文化センターのリーパー理事長が2年間、毎月第3金曜日に開催していた草の根平和Gの集会でご一緒した。森川さんは長年マツダでエンジニヤとして務め、海外勤務経験も豊富で、平和公園で国際交流奉仕で外国人を案内される姿をよく見かける。
 父上はNHK職員で被爆されヒロシマ壊滅の一報に奔走され、自は未だ被爆者に認定されていないが、川を挟んだ境界線ギリギリの佐伯区河内で黒い雨を浴びた経験がある。

 8・6前後、広島と長崎で若い5人の大使と一緒に被爆者や研究者に話を聞き、被爆関連施設の見学など合宿に参加した。
 森川さんは「これで来春の出発までの道筋が出来た…」と言い「色々な生き方がありますが、自分の信じた道を進みたいと思う」とメールが返ってきた。

 第1回のNACに取材班を送り、今も北浦さんや中村里美さんと繋がる者の一人として森川さんの選択と決断が熟年に新しい夢と希望を贈るエールとして受け止め、敬意を表し期待して帰国後の話を楽しみに待ちたい。ご健闘とご成功を祈念します。

NAC-HP:http://nac.junyx.net/  事務局(北浦)Tel:079-567-3660

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2010年8月23日 (月)

発展「市民が紡ぐ影絵展」

 今年も8月5~6日、夕闇迫る頃から平和公園の入り口の一つにあたる元安橋東詰めに『小さな祈りの影絵展』が展開され、多くの人の参加と交流が繰り広げられた。
 広島出身の映画の美術監督・部谷京子さんの発案で影絵作家の浜崎ゆう子さんの影絵で原爆犠牲者の慰霊と平和祈願を…と言う思いを、部谷さんの女学院の同級生や被爆60周年に日野原重明先生と小澤征爾さんが組んで発進した「世界へおくる平和へのメッセージ」に集った人達が支えてスタートして早いもので6回目になる。

 毎年テーマを設け、今年は「世界へ届け、私達の祈り」だ。昨年までは浜崎さんの作品が中心だったが、毎年幼稚園や小中学生を対象に重ねて来たワークショップが実を結び、明らかに風合いが変わってきた…?

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 上は一昨年の作品。下は今年の作品細やかさには欠けるがなかなかの力作揃いだ。24の枠の内、21までを幼稚園児と小中高学生一般の大人達が挑戦した作品が埋めた。

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 主宰の浜崎さんは原爆の悲惨さや苦しみを直接、影絵で表現するのではなく、優しさや穏やかさ和やかさで平和を訴える手法をとってきた。同時に広島の未来を支える子供達や一般市民が参加する『影絵展』が夢だった。今年はその夢に一歩近づいた『市民が紡ぐ影絵展』?の感じを強めた。

 8月5~6日には比治山の放射能影響研究所のオープンハウスで‘08年の「生きる」。6日は広島女学院の慰霊祭で‘09年の「家族」が展示公開された。6日、広島国際会議場の「ヒロシマの心を世界2010」では影絵紙芝居の上演に影絵制作のワークショップが開かれ「影絵展」の広がりを見せた。支援グループの努力によるところが大きい。
 今年も、フレーザー幼稚園を皮切りに12~3ケ所の巡回展示が始まった。ご覧ください。

http://www.geocities.jp/hamayujp/hiroshima2010/hiroshima2010.htm
http://kageepla.net

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2010年8月22日 (日)

中国山地残影②・文化の水脈

 7月19日付け・当ブログ『消えゆく故郷の学び舎』を紹介した元RCC記者・OBの山本喜介氏が月刊情報誌「環・太田川」に連載している、嘗ての取材エリアの県北に足を運んで振り返り・見つめる中国山地残影②を転載(リライト)紹介する。

 今回のテーマは文化。タイトルは「文化を耕す水脈は枯れず」一人で何でもこなさねばならない支局勤務は過酷な半面自分の思い入れの強いニュースソースの選択が出来る良い面もある。喜介記者の転勤が引き金になって実った成果は県民市民には知られていないが県北の文化として今も引き継がれている。

 「高暮ダム」と言えば1940年に着工し戦争に動員された日本人に代わって朝鮮半島から労働者が沢山強制連行されて酷使され、多数の犠牲者も出た。‘94年「この事実を出来るだけ調査して残そう」と高校教師や記者仲間に呼び掛けて『県北の現代史を調べる会』を立ち上げた。
 詩人で三菱徴用工問題に取り組んでいた深川宗俊(故人)さんや朝鮮人被爆者協議会の李実根さんらの協力を得て運動に広がりを持たせていった。彼特有の「抜きネタ」で「独走」するよりこの問題の社会化を優先した。共同の場で当事者や工事現場周辺のおとしよりからの聴き取り調査などに取り組んだ。西本願寺別院や被爆教師の会、周辺自治体の町村長、郷土史研究家などの協力もあって’95年にダムサイドに『追悼碑』が建てられた。
 碑文は「日本の植民地支配が生んだ悲劇を反省し、日本と朝鮮の両民族の変わらぬ友好を誓う…」ことが刻まれている。これを機に、毎年「高暮ダム平和の集い」は続いている。

 県北の文化を語る上で忘れられないのは農民文学・人権運動家だった山代巴さんだ。
 気軽に運転役や連絡役を引き受けていた山本記者を山代さんは「喜介さん、わたしらは畑の草むしりのような報われん仕事をゴソゴソやるんよ」「曲がらない」「自分の頭で考え、自分の足であくる」などなど…。「私の大学は三次刑務所だった。『曲りんさんな。思想犯が曲がったら値打ちゃなかかろうが』と励ましてくれた女囚たちが私の恩師だった」と言う多くの山代語録を残している。喜介記者にとって山代さんは恩師であり“大学は中国山地”だった…と振り返っている。

 三次には「げいびグラフ」という写真雑誌がある30年くらい前何度かお目にかかった事がある。矢野嘉之さん(93)が36年前に創刊、年4回の発行で113号を重ねている。「消えゆく郷土の姿を残そう…。部数は減るばかりだが…小回りが利く零細企業だから何とかやっていける」と屈託がない…コツコツと文化を耕す縁の下を支える人生に本物を見た…。

 三次市三和町にある納屋の2階の20畳余りを自分の作品や趣味で買った中国の書画を展示して開放している「日本一小さい美術館」がある。
元三和町長で、その後県会議員を4期務めた冨野井利明さんは県北にあって町民祭りや村芝居の発案者だった。「国定忠治物語」の脚本・演出までして町の住民自治を強く確立した人物だ。私が初めて訪れた30数年前の町長室はガタビシ音がする老朽木造建築の一角だった。いつも、住民がなにかと相談にまた雑談にやって来ていた…。
 いまは、絵筆と野菜作りの鍬を握り、地域の文化を支える自適の日々だ…。

 倉田百三の業績を顕彰する「倉田百三友の会」を長年支えて来た方の亡き後、進む高齢化の中で今後の支えに気配りする喜介記者は当分の間は三次駐在?から離れられまい。
 頼りにされると逃げられない、力の入る喜助記者。
 登場人物の顔が思い浮かぶ中国山地残影企画はまだまだ続きそうだ。
 次は何…?楽しみに待とう…。

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2010年8月21日 (土)

写真家森下一徹、透析の8・6

 写真家の森下一徹さんに初めて会ったのは私が東京支社勤務になった昭和48年(‘73年)から翌年頃と思う。被爆者が集まる会議や集会に行くと必ず出会うカメラマンがいた。
 今と違って、被爆者の取材に集まる人は極めて少なくいつの間にか何でも話し合い、いつしか一緒に飲んだり食事したりする仕事仲間に成っていた。
 突然、病に倒れ音信を絶っていた彼から3年振りの電話があり、8・6に再開した。

 東京勤務の昭和53年夏までの5年間、東友会(東京都内の被爆者団体)の集会や日本被団協の集会や会合に厚生省や国会請願、3・1ビキニデーや久保山愛吉さんの命日にあたる秋の彼岸の中日には焼津や静岡で必ず出会う取材仲間だった。

 彼の写真は穏やかで温かい被爆者の素顔を捉えたポートレートだ。ケロイドや切り傷があっても誇張しない自然に暮らしと生きざまを捉えた“生の被爆者”を捉えていた。
 ある人は医師として、農業や酪農家としての暮らしや日雇い労務者として一人暮らしの老婆などを全国に被爆者の実相を追った。1978年に出版した[HIBAKUSYA 被爆者]は大きな反響と高い評価を得た。「原爆資料館の遺品と資料」なども写真集として纏め、小中学校での平和教育の教材にも活用されたことがある。

 昭和53年夏に私が広島に戻ってきて以来も8・6前後には生協連の記録を中心に被爆者の撮影に年に1~2度広島に足を運び、“被爆者・ヒロシマ・ウオッチャー“としての活動をしてきた。

 21世紀を前に1997年からは5人の写真家とNPO法人「世界ヒバクシャ展」を立ち上げて100カ国で『ヒバクシャ写真展』の開催を呼び掛け多くの学者文化人などの指示で立ち上げ今も継続されている。

 そんな彼が3年前に糖尿病から来る慢性腎不全やパーキンソン病に見舞われて4日ごとの透析による療養生活を余儀なくされていた。その彼から『明日、広島に行くので会いたい』と電話がはいった。

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 いつも二人で落ち合うのは昨年春先に閉店した元安橋の東詰めにあった居酒屋「しげ」だった。今回は、影絵展会場を落ち合い場所にしていた。「しげ」に30年余も足を運び今は無いおばあさんに可愛がられた彼だったが閉店を知らない。
 小学生の息子を同行し、父が仕事をしている間、“しげのおばあさん”に面相を見て頂いた事もあった…。

 現れた彼は車いすで、介護の会社を経営している娘さんが付き添いだった。
 8・6には一度も来たことの無かった娘さんが病院への通院以外に全く外出したがらない父親にハッパをかけて出て来た…と言う訳だ。
 広島で透析をしてまで「8・6式典へ参列してみよう」と思った気分が大切だ…と思う。
 「これまでは専ら取材で式典への参加はしていない」と言う思いと「核兵器の無い世界へ」の世界的な波動が彼を動かせたのだろう。

 厳しい、食事制限があって普段は余り進まない食が『久しぶりによく食べた』と、とても元気になったように見えた。積もる話に花が咲いた。

 6日は、早くから平和公園の涼しい場所で式典に参加し、終了後に予約してきた病院で4時間の透析を行った様だ。夕方の電話では、とても気分が良く元気で過ごしていると3年振りのヒロシマを娘さんと一緒に楽しんだようだ。

 米国をはじめ英、仏の駐日大使ら核保有国の大使たちに国連事務総長が初めて出席した記念的な8・6が、病後、初めての旅とは、いかにも彼らしく思い出深い記念的な旅になった事だろう。リハビリを励んで来年は車いすに頼らないでお出で下さい。
 「一年単位では考えない」今の私だが地道に健康管理に励んで、待っています。

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2010年8月20日 (金)

旧市民球場跡地でジャズフェスができないだろうか

旧市民球場跡地でジャズフェスができないだろうか
 広島音楽シーンの目玉になるかも

 このごろ、なぜかジャズを聴きながら一杯飲みたい気分になる。そんな時、新聞社時代に携わったジャズフェスを思い出す。毎年8月に、チチヤスハイパーク、現在は中国新聞ちゅーピーパークになっている廿日市市大野町でのオールナイトジャズフェスティバルだ。
 昭和52年から、のうが高原で2回、チチヤスで10回開かれた。筆者は後半を担当。夕方から朝までのオールナイト。全国から毎回5~6千人のファンが集まった。当時のジャズ界の大物や人気グループが出演した真夏の暑い祭典だった。
 渡辺貞夫、松本英彦、ジョージ川口、日野皓正、山下洋輔、世良譲、渡辺香津美や広島出身の坂田明、藤家虹二、井上敬三、女性では阿川泰子、笠井紀美子、しばたはつみ、アンリ菅野やマリーン、そして原信夫や高橋達也などのビッグバンド、さらにカシオペア、本多俊之、ザ・スクェアに加えて外国人ジャズメンが熱演した。また地元バンドも前座を務めた。
 ヤマハやキリンビールが協賛し、RCCラジオも放送、盛り上げた。しかし周辺に団地が続々完成し、住民への騒音対策を事前に行ったが、音が風に乗って想定外の所へ届くようになり、やむなく中止した。
 その後、騒音の問題がない福山の山中、三和町のライディングファームへ会場を移したが、“足”の問題でチチヤスのような集客は難しかった。当時ジャズフェスは全国各地で開催されていた。今はめっきり少なくなった。
 昭和50年代、コーヒーやソフトドリンク、ウイスキー一杯でジャズが聞ける「ジャズ喫茶」が全国に800軒あったといわれた。広島市内でもジャズ倶楽部、シルバー、サテンドール、じゃずてっと、ママデッークなどたくさんあった。現在は酒場やレストラン、ホテルやライブハウスなど多くは生演奏が主流となった。旧市民球場跡地で騒音問題がクリアできれば、昼間にジャズフェスが開催できないだろうか。にぎわいの創出と同時に、広島の音楽シーンの一つの目玉になるかもしれない。

上村和博

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2010年8月19日 (木)

65年目の平和式典、評価?

 初めて米、英、仏の代表に国連事務総長が参加した今年の『平和祈念式典』は「核兵器廃絶」に向けた国際的な機運の高まりを見せ、内外のメディアも注目した。

 今年の式典は潘基文国連事務総長の参加と米国がルース駐日大使を派遣し英、仏がこれに合わせ、ロシアを含む参加国は過去最多の74カ国に達した。5月の国連で開かれたNPT再検討会議と昨年4月に米国のオバマ大統領のプラハ宣言の流れがもたらした…ものだ。

 秋葉市長は広島弁で被爆者の思いを代弁し、被爆者と市民の力で復興した広島は五輪招致を目指す今や「世界のモデル都市」として位置づけ、初参加の菅首相に『核兵器廃絶に向けて先頭に立つ』ために、非核三原則の法制化や核の傘からの離脱、核保有国の首脳に対して緊急性を訴えて核兵器禁止条約締結の音頭を取るように求めた。

 潘事務総長は「世界の安全のためには核兵器廃絶しかない」という熱意が参加を促し、記念講演では、平和市長会議が目指す『2020年までの廃絶』に賛同し、核兵器禁止条約の交渉へ向け、国連で議論を進める姿勢を示した。更に、被爆者証言を出来るだけ多くの言語に翻訳して全人類へ残す決意も表明した。

 一方、ルース米国大使はマスコミの質問に硬く口を閉ざしていたが「未来の世代の為に、核兵器のない世界の実現を目指す…」とコメントを発表した。11月に横浜で開かれるAPECに出席するオバマ大統領の来広の露払い説もあった。しかし、これら対してエノラゲイの機長だったポール・チィベッツの息子は「お詫び参加」と批判しており、こうした空気はまだ少なくない米国の複雑な世相を見せた。

 日本ではキィー局のテレビで毎日新聞の岸井主筆や評論家の鳥越俊太郎氏らベテランが一連の流れで果たした秋葉市長を「米国の大学準教授の40年前から米国内地方紙の記者を広島長崎に招く“アキバ・プロジェクト”の実施など地道な活動の上に築いた成果…マグサイサイ賞受賞はその現れ…などと、今年の『8・6』を高く評価していたのが目立った。

 地元マスコミは一般的に国連事務総長や米、英、仏などの参加を評価するものの、そこに至った経緯や背景には全く触れず初めて平和宣言に盛り込まれた「広島五輪」に関する海外からの関係者の賛否などの反応や意見は全く見かけない。

 何故なのだろうか…?私なりにその理由は思い当たるが、あえてここではふれないが
 記者一人ひとりが『今年の8・6』をどんな思いで過ごしたのか…その真実の声を聞きたい。

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2010年8月18日 (水)

児童画の里帰り展

 文房具や運動具の支援物資のお礼に63年も前に米国ワシントンの教会へ贈った児童の絵や習字の「里帰り展」が始まった。

 昭和22年に広島の子どもたちは物が無くて困っている事を知った米国ワシントンの教会から袋町や本川小学校へ絵具やクレパス等の文房具とボールなどの運動具が送られてきた。
 本川小学校ではそのお礼に子どもたちが絵や習字を書いて送った。

 2006年、三次市の吉舎町で生まれ15歳までは毎年広島で過ごし、今は米国メリーランド州に住む舞台芸術家の重藤マナーレ静美さん(58)はワシントンの教会で本川小の子供たちの絵に偶然出会い、心を揺さぶられた。「川べりに咲く桜」「遊ぶ子供達」「原爆ドーム」などカビが生えて傷んでいたが…この絵を描いた子どもたちを追跡し「広島を知ってもらういい機会になる」と『ヒロシマの校庭から届いた絵』の映画製作をスタートさせた。

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 早速、広島に来て当時の子どもたちを見つける中で里帰り展示会が持ち上がり、昨年夏に実行委員会が出来て、双方が知恵を出して準備をしてきた。
 里帰りした児童の作品は48点、7月31日から8月9日までの間、本川小学校の平和資料館に展示をはじめた。

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 7月31日には本川小学校の講堂に絵を描いた児童や家族に同窓生、米国の教会関係者200人が参加し、重藤さんが主宰するワシントンの子ども舞踊団も駆けつけて日本舞踊を披露するなど交流が繰り広げられた。
 秋葉市長も「子供達の未来を見まもろう…という米国の関係者の気持ちが活きていた」と核廃絶に繋がるこの交流を位置付けて評価した。

 重藤さんは映画に『和解と平和はどんな時でも実現可能だと…」のメッセージを込める…。完成は一年後になるが、これを契機に子供達の絵を保存してきた教会を中心にした人達と広島の交流がどのように発展し深まって行くか興味深く、期待したい。
今後の情報:http://www.hiroshimaschoolyard.com/jp.html

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2010年8月17日 (火)

里美さんのステージ

 7月29日付け、当ブログで紹介した(『里美さんの絵本出版』)米国の子どもたちや市民にヒロシマを出前する民間大使NAC(ネバー・アゲイン・キャンペーン)の初代大使を務めたシンガーソングライターの中村里美さんが出演する舞台を見た。

 今年で22回目を迎えた「広島市民平和の集い」が30日、平和公園の国際会議場フェニックスで開かれ1000人の市民が参加した。毎年テーマを設けており、今年は豪州在住の被爆画家・絵本作家の森本順子さんが1987年に豪州で発行した英語版のヒロシマを伝える絵本「MY Hiroshima」の日本語対訳本の出版に添って~世代を超えて考える平和な世界~がテーマだ。広島市の助成事業として主催者のNPO法人HPS国際ボランティアが発行に漕ぎつけた。

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 絵本「私のヒロシマ」を詩人で朗読ボランティアでもある井野口慧子さんが朗読して紹介した後、被爆者の証言を聞いた後、小中学高校生が感想を述べるなど平和について率直な意見を発表した。

 この後、25年前に里美さんが米国に出かける前に被爆証言を聞き、何かと相談に乗って頂き、里美さんが「広島のお母さん」と慕う沼田鈴子さんと一緒にステージに上がった。
 この日が沼田さんの誕生日とあって、里美さんは自分で作詞作曲した「アオギリにたくして」と「MOTHER」を熱唱して喝采を浴びた。

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 一年に亘って米国の小学校や教会を中心に「ヒロシマの出前」を続けた後、里美さんは最初の民間大使の役割を自分の一生の仕事として挑戦を続け多言語雑誌の発行を通じて「ヒロシマ」を伝える努力を
してきた。原爆をテーマにした朗読劇の上演や歌の制作に作曲にシンガーソングライターとして2年前から、ライブ「私のヒロシマ・ナガサキ」を全国の小中学を中心に1000回公演を目指して展開中だ。

 初めての日英対訳の絵本「おりずるにのって」を8月6日に出版し、秋には25年振りに訪米しニューヨークのカーネギー財団の庭に「被爆アオギリ」の孫苗を植え、米国の子どもたちに歌と絵本を届ける計画を進めている。
 「ヒロシマの出前」をこれからも生涯の道に選んだ里美さんは自分の知恵と力をフルに活かしてこの夏も生き生きと活動している。http://musevoice.com/satomi/

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2010年8月16日 (月)

懐に優しい居酒屋・ランチ

 話には聞いていた自宅近くの居酒屋「ひうらや」に出かけた。昨年11月にオープン以来の人気店だ。

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 中電本社の向かい側、大手町3丁目1-8清水ビルB1F。カウンターにテーブル、3~40人は座れる座敷もある。夜は居酒屋、昼間はランチの店だ。
 昼は11時半~15時。夜は18時~20時と20時~22時とグループの予約も受け入れる。

 オーナーは長年、広島の居酒屋の元祖”源蔵“の料理長などを務めていたが、私と同じ病気を患った後、一念発起した。「普通なら隠居の年だが、お客さんに自分の料理を食べてもらうのが生きがい…」と、71歳にして故郷・佐賀唐津の呼子港を頭にかぶせた自分の店「ひうらや」を開店した。

 夜、20時からの予約で仲間6人が出かけた。店内はほぼ満席で、座敷にも軽く30人を超える客でうまっていた。鯛にカンパチ、イカなどの刺身の盛り合わせをはじめ焼き魚、串焼き、タコの煮物、串カツ、野菜の煮物…と言った10品を好きな様に取れる和風バイキング。飲み物はフリードリンク。ビール、焼酎、日本酒、ワインも揃っている…これでお一人2800円。

 もちろん一品料理も沢山注文できる。小いわし天ぷら300円から7~800円と言った実にリーズナブルな設定に若者から結構な年齢のグループまで多様な層のお客だ。

 因みに、昼のメニューをご紹介すると写真の親子丼セットは豚汁、小鉢、漬物、果物付き350円。
豚生姜焼き定食450円。カツドンセット500円。煮魚定食400円…。

 広島の美味しい素材を活かしてまだまだ頑張る日浦真吾さんは「こんな時代にせめて美味しくて懐に優しいメニューで、みなさんに元気を出してもらえれば、仕事冥利に尽きます」と溌剌としている。嬉しい店の出現だ…。

問い合わせ:予約=「呼子港(よびこみなと)ひうらや」082-247-1517

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2010年8月15日 (日)

平和大通りと道100選

平和大通りを歩いていたら、四角い奇麗な石碑を見つけた。
慰霊碑?
よくみれば奇麗な鉄のパネルが嵌め込まれ「日本の道100選」と書かれていた。

国内の美しい道100か所の1つに、この平和大通りが選ばれているということのようだ。
確かに、この平和大通りはその美しさからも、作られた歴史から見ても、ベスト10に数えられるだろう。

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ネットで「日本の道100選について調べてみると、
「日本の道100選とは1986年に、道の日の制定を記念して、建設省と「道の日」実行委員会により制定された、日本の特色ある優れた道路104本のことである」
と書かれている。

あの有名な「日光いろは坂、京都哲学の道」も含まれている。

呉市の「美術館通り」も選ばれている。
この美術館通り脇には、有形登録文化財・旧呉海軍工廠塔時計が復元されて建っているという。
随分と美しい道のようだ。
今度いってみよう。

そう思う人が出てくるというのも、この制度を作った狙いの一つだろう。

各県それぞれ数か所選ばれているところをみると、相当に政治的配慮を感ずる。
どうせなら、アッケラカンとTV番組で「人気投票」をして、順位を決めたらいい。
近頃流行りのネット投票で決めてもいいだろう。
年度や年齢によっても好みも違ってくるかもしれない。

最近、あちこちのTV局で「世界遺産」を取り上げている。

日本の道100選だってTV番組として、取り上げればいい。
今年のベスト10なんて、やっても面白そうだ。

そうなれば、境港市の「水木しげるロード」も当然100選には入ってくるだろうと思う。
1993年にできたというから、日本の道100選の制度ができたときには水木しげるロードはなかったはずだ。
鬼太郎や化け草履、鼠男のロンズ像139体の妖怪たちが800Mの道路の脇に並べたという、新しいコンセプトで作られた道だ。

選ばれている道も哲学の道のように歩く道と、日光車いろは坂のように車からみて楽しむ道とある。
この際、「歩いて楽しむ道100選」と「車で楽しむ道100選」としたっていい。

全国各地で、魅力ある道作りが進めば、旅をするのもまた楽しくなる。

「日本の道100選」
ゼネコン各社がスポンサーになって、もっと宣伝したらいい。

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2010年8月14日 (土)

袋町小学校と複合化

袋町小学校は広島市のど真ん中にある。
小学校と市民交流プラザ、児童館、駐輪場、それに平和資料館を併せ持っている。
2002年に、全国的にも珍しい複合ビルとして作られたようだ。
まだバブルの余韻の残る時代にできたこともあるが、建物はなかなか立派だ。

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夕方になると小学校の前に停まっている迎えの車に乗り込む小学生を何度か見かけた。

なんで、車で迎えに来てるの?

越境入学の小学生がかなりいるのだろうか。

袋町小学校のHPをみると
「昭和30年代前半には児童数が2,300人を超えるという時代もありましたが、平成14年に学社融合施設として建て替えられ、現在は、近代的な校舎の中で、239人の児童が元気に学校生活を送っています」
と載っている。

239人とはまた随分と少ない。

それでもその内のかなりの人数は、いわゆる越境入学の小学生ではないかと思っていたが、「広島市では、越境入学に対し、かなり弾力的に対応している」とのことを、友人が教えてくれた。

『広島市の通学区は5年くらい前に見直し委員会「広島市通学区域弾力的運用検討委員会」が設置され、指定学校変更許可基準を満たす場合にのみ、越境の許される「通学区域制度」から、隣接する学校は自由に選べる「隣接校選択制」と同じ区内の学校は自由に選べる「行政区域内選択制」との併用になっています。

さらに、特別な事情(身体的理由や、いじめなど)がある場合は、更にそれを超えて選択ができることになっています。

袋町小学校は特別ですが、一般的には剣道部など部活で区域外の学校が選ばれることが多いようです』
ということだった。

改めて、広島市の斬新な試みに感心した。

それにしても、そもそも街の中心部に住む人口が少なくなり、小学校の生徒の減少傾向は、何も広島市だけに限ったことではないようだ。

有名な銀座の泰明小学校は「越境通学の生徒がほとんどのため、もしも厳重にそれが禁止されたら、全校生徒が数人または数十人と、現在(例年360人程度)に比べ極端に少なくなり、学校自体の統廃合が不可避となる」
と書かれている。

先日の産経新聞には、
「少子高齢化現象の中で、毎年400を越える小中学校、高等学校が廃校になっている。
廃校されるのは、かっては過疎地であったが、いまでは都会の真ん中でも起こっている。
子供たちの歓声が消えた校庭、校舎は地域にとって貴重な財産。
住民のために有効な活用を図ろうと様々な転用が進んでいる。
文部科学省では平成20年公立学校施設の財産処分手続きを大幅に緩和した。
学校を他用途に転用する場合、建設時に国から受け取っていた補助金に相当する額の返還を不要にしたことが、転用を促進する背景にある」と書かれていた。

その例として
千代田区の旧練成中学校跡地は、アーツ千代田3331として、現代芸術に関わる個人、会社が入居し、様々な創作活動の場としてだけでなく、コミュニティースペースとしてカフェ、屋上菜園、体育館としても利用されている」とある。

小学校には夏休み、冬休みがあり、土曜、休日も休みだ。
小学校の施設の稼働率は40~50%程度だといえる。
小学校の施設が、日が暮れてからの夜に使われることもない。
街中にある施設にも拘わらずだ。
これでは勿体ない。

敷地内にある広島市民交流プラザは、いつも満杯で予約が取れないほどに混んでいる。
保育所も足りないと聞く。

校舎と、校庭の開放を進め、広島市民交流プラザと、さらに一体化を進めた運営方法、利用方法を考えたらどうだろうか。

袋町小学校は、建設に当たっては、極めて複合化が進められた小学校だというが、いまでも市民交流プラザと小学校は金網のフェンスで厳然と区分されている。

小学校を街中の賑わいの拠点とするためには、縦割り行政の縛りを越える必要もあるだろう。
そのためには特区にする必要もあるかもしれない。

世の中の変化は激しい。
それに対応していくのも大変だ。

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2010年8月13日 (金)

ネット寄付

自宅のポストに、ある市議会議員のニュースレターが入っていた。
ニュースレターの最後に、「広島市にネットで寄付ができるようになりました」と書かれていた。

以前、広島市に寄付をしたことがあるが、随分と面倒だった記憶がある。
所管の課に電話をし、寄付申出書を送ってもらい、その用紙を持って、金融機関にいって、お金を払いこむという手続きをしなければいけなかった。
たいした額を寄付するのでもないのに、なんでこんなにいちいち手間暇をかけなければいけないんだと、腹が立ってきたことを覚えている。

ネットでの寄付。
これは簡単そうだ。
早速、もやって見た。

まず、広島市のHPを開く。
トップページの左の「市民参加」のコーナーに「寄付の募集」の欄をクリックする。
http://www.city.hiroshima.lg.jp/www/contents/0000000000000/1211348645240/index.html
次に「クレジットカード納付」をクリックし、
こちらのメールアドレスを書き込むと、
即市からメールがある。
「この度は、広島市寄付金の趣旨に賛同していただきまして誠にありがとうございます。
寄付手続開始URLをお知らせします。
https://koukin.f-regi.com/contribute/apply/agreement/J-554f4855e3bb1ff8966a3a19f0537c68
上記のURLにアクセスしていただき、注意事項などをご確認のうえ、
必要情報を入力し、手続を進めてください。

寄付完了までの流れは
 [1] 寄付手続開始URLから必要事項を入力してください
 [2] 後日、所管課から寄付金納付手続方法を電子メールにてお送りします
 [3] 寄付金納付手続方法の案内に従い、支払手続を行ってください
 [4] 後日、所管課から手続完了メールをお送りします
 [5] 寄付完了
 [6] 広島市にて納付が確認できましたら寄付証明書(領収証書)をお送りします」
と返信がきた。

クレジット番号と金額を書き込めば終了だ。
なんとも簡単だ。
パソコンに向かっているついでにやればいい。
アマゾンで本を買うような感じだ。

いちいち銀行に行かなくてもいいし、24時間いつでも出来るというのもいい。

1円以上いくらでもいいはずだ。
そんな小額のお金を、いちいち文書でやりとりするほどのことではない。
クレジットカードさえあれば、誰でも、簡単に寄付が出来るのがいい。

慰霊碑の前の賽銭箱にお金入れるような抵抗感もない。

寄付金が何万円ということになれば、税金の控除も受けられる。
後で市から送られてくる寄付証明書を税務署に出せばいいはずだ。

広島市のHPは全て英語、ハングル語、中国語の自動翻訳機能が付いている。
海外からの寄付も出来る筈だ。

これなら、広島市の寄付も大幅に増えそうだ。

オバマ大統領は大統領選で、ネットで寄付を集め、数ドルの寄付を数百万人から集め、数百億円を集めたという話を聞いたことがある。

日本でも企業献金に代わり、こうしたネット寄付が進めば、随分と政治も変わるかもしれない。
期待したい。

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2010年8月12日 (木)

扡デジ移行まであと1年、大丈夫?…

 来年7月24日の地上デジタル放送(地デジ)の完全移行まで残り一年を切り、テレビ画面や新聞でのキャンペーンがひと際目立って来た。
 全国で81%を、広島県内では85・8%を超える高い移行実施率だが、国がテレビの方式を強制的に移行させる政策に、今後の問題はないのだろうか?

 放送局側に発生した膨大な経費は当初は原因者の国が一部負担するとの考えがあったが、結果的には局側の負担となったが、引き換えに?切り替え後のアナログとデジタルの平行実施は無くなった…。それだけに、視聴者丈が被る負担や損害が放置されてはたまらない!!

 国がデジタル化を進める理由は、空いた周波数を携帯電話や携帯端末向向けのマルチメディア放送に振り分けるなど電波の有効利用である。
 また、デジタル放送に切り替えるメリットは高画質、高音質が楽しめる上気象や行楽情報を観られるデーター放送やクイズ番組に生で参加できる双方向番組、一つのチャンネルで複数の番組が放送されるマルチ編成が利用できる点が言われてきた。

 高い普及率を考えると後一年での完全移行は問題ない…と思いがちであるが、放送局サイドの問題は良いとしても、視聴者の側から見た場合、受像機の買い替えが困難な人に対する解決策は今のところ具体的に示されていない…。

 個人や企業でも今使用している機材や生活器具が使えなくなった場合は「原因者責任」で負担し、賠償する事は今や常識になっている。生活保護者や困窮・弱者・高齢者が買えない場合は今のままだと「国がテレビを奪う」ことに成りかねない。
 街中でも発生している共同アンテナ設置の費用負担やCA-TVへの加入が困難な人への対応も具体的な方針は示されていない。
 このままなら、一年先にテレビが見られない『デジタル難民』が相当数、出てくる恐れがある…との指摘もある。

 電波法は「電波は国民共有の財産」であると位置づけている。
 少なくとも、今テレビを見ている人がデジタル移行後に『テレビが見られない』事を無くするために、何が必要か…。2~3年の猶予期間を設けて、アナログ・デジタルのダブル放送を実施する事や確かな助成制度を確立しない限り『デジタル難民』は避けられまい。
 イギリス、米国のデジタル先進国の失敗?の二の舞いを踏まない為にも、政府のより具体的な対応策が急がれる。

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2010年8月11日 (水)

三菱の韓国人徴用工被爆者の記録・写真集出版

 在外被爆者補償の原点となってきた三菱の韓国人徴用工被爆者闘争を写真で綴る記録集『恨・ハン・三菱・廣島・日本~46人の韓国人徴用工被爆者~』が出版された。

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 三菱の韓国人徴用工被爆者の問題は歌人で戦時中三菱で徴用工の訓導として彼らの指導を担当していた深川宗俊さんが昭和20年の9月15日に帰国する241人の徴用工を広島駅で見送った事に始まった。

 それから28~9年後、広島駅で見送った徴用工と家族5人の誰一人も帰国していない事を知った深川さんは一人、軍事政権下の韓国へ一人で、度々足を運ぶ追跡を始めた。
 私は深川さんと知りあって間もなかったその頃、強い興味を抱いて深川さんと一緒に三菱に足を運び、東京転勤後は三菱本社にも度々足を運び、取材班を組んでフォローしてニュースや記録番組に取り組んだ因縁がある。

 戦争末期の日本は労働力不足を補うために、植民地だった朝鮮で「徴用令」を創って、紙切れ一枚で多くの朝鮮人を日本各地の軍需工場やダムなどの工事現場に強制的に連行して、過酷な労働を強いた。三菱広島でも2800人もの韓国人徴用工が被爆している。

 深川さんが見送った246人は9月17日に九州から西日本全体を襲った枕崎台風に遭遇し帰国途中の船ごと壱岐対馬付近で遭難した…追跡結果、おおよその推測が出来る状況にあったが結論を得るには至らないままになっている…?

 一方、その後帰国した元徴用工たちは後遺症や生活苦と闘いながらも1995年に46人の徴用工が「未払い賃金の返還」と「日本の被爆者と差別ない援護」を求めて提訴した。
 ‘07年、最高裁は「在外被爆者の排除は違法」と断定し、全員の損害賠償を認めた。
 この判決は後に多くの在外被爆者への援護につながる大きな意義をもたらした。
 しかし、三菱の未払い賃金や慰謝料、謝罪の言葉すら得られなかった…無念の思い。

 裁判や元徴用工を支えて来た多くの個人やグループの人達は「心の中に積もりに積もった不正義に対する無念さ・悲しみ・怒り」を『恨(ハン)』に込めてこの世を去った人達の思いと、加害の責任を背負っている広島の責任を果たす思いも込めている…。
 8月6日発行、書店に並ぶ。 編集:三菱広島・元徴用工被爆者裁判を支援する会。創史社、2200円+税

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2010年8月10日 (火)

「広島一中」慰霊祭

 7月の最終日曜日は旧制・広島一中(現・国泰寺高校)の原爆で犠牲になった生徒職員の慰霊祭だ。25日、朝からの炎天のもとしめやかに一足先に65回目の慰霊祭が行われた。

 我が家のベランダからすぐ下にある慰霊碑前は昨日から14~5張りのテントで式場が用意され、今朝は早くからブラスバンド部が吹奏の練習をして準備を整えていた。

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 一中は雑魚場(ざこば:現国泰寺町)で建物疎開に動員されていた一年生287人を中心に366人の犠牲者が出た。市内の中学、女学校の一年生は大部分が中心部の空襲時の延焼を食い止めるために民家を取り壊して防火帯をつくる建物疎開に動員され、一瞬にして数千、万の広島の若い英知と命が奪われた。

 あの日、西条の西部にあたる寺西国民学校一年生の私は自宅にいた。あの時間の直前にパラシュートが降下し、山の端に隠れる様子を見た。午後になって、怪我人を国立広島療養所に運び込む多くのトラックを見た記憶もある。

 私は国泰寺高校を目の下に見るこの地<中区小町>に移り住んで31年になる。
 現役時代は知らなかったがここ4~5年は毎年「旧制・広島第一中学校の原爆犠牲者の慰霊祭」を我が家から見守ってきた。子どもたちのご両親らしき姿は見られない…。

 この慰霊碑に佐々木和成の名前が刻まれている。身内ではないが田舎で隣の6歳上のお兄さんだった。当時、田舎の同級生で仲良しの3人組がいた。和成さんに2中のHさんに県工のSさん。毎朝揃って西条駅まで徒歩で30分余の道のりを歩き、列車で一時間かけて広島駅に着き、また歩いて30分、少なくとも片道2時間余りかけて通学していた。
 あの日も3人揃って西条駅まで行ったが県工のSさんはお母さん(実母が病死後入籍の義母)が寝坊をして弁当が間に合わず、駅で休校を決め込んで返ってきた…。

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 お母さんの寝坊が結果的にSさんの命を救ったことになった。和成さんもHさんも遺骨も遺品も見つからないまま65年を経て来た。こんな話はあちこちにいっぱいある。

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 もちろん和成さんのご両親は20年前?になくなり兄弟が式典に参列されていたが今はどうしておられるか知らない。
 和成さんと一緒に遊んだ記憶はないが私より一歳上の弟さんとよく遊んでいたので可愛がって頂いた。

 午後に一年振りに一中の碑にお参りした

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2010年8月 9日 (月)

映画「クロッシング」

 生きるために命がけで国境を超える北朝鮮の人々を描いた韓国映画「クロッシング」(行き違い:すれ違い)の試写を見た。韓国で100万人を動員して大ヒットし、国内外の映画賞を多数受賞した。
 北朝鮮の善良な一家に起きた悲劇を日本人の想像を超える、脱北の過酷な実態を描いて悲痛な感動を呼ぶ秀作だ。‘

 ‘02年に、脱北者25人が中国当局の警備と監視の目をかいくぐって、北京のスペイン大使館へ駆け込む事件があった。日本の共同通信の平井特派員が一部始終をVTRカメラに収録・公表し、世界中に駆け回ったニュース・事件をモチーフに極秘裏に4年間をかけて制作し、’08年6月に韓国政権の交代後に公開された作品。

 舞台は北朝鮮の中国国境沿いの炭鉱の町。炭坑夫で元人気のサッカー選手だったヨンスは妻と11歳の一人息子のジョニと、貧しいながらも幸せに暮らしていた。しかし、妻が肺結核で倒れる。
 薬を手に入れるためヨンスは危険を顧みず、決死の覚悟で中国に脱出し、妻の薬を買うために何とか仕事にありつくが、不法密入国者として公安に追われる。脱北者は発見されると強制送還されて死が待っている。

 北朝鮮では夫の帰りを待ちわびていた妻が息を引き取り、孤児になった息子は、父との再会を信じて国境の川を目指すが、無残にも発見されて強制収容所に入れられる…。

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 韓国に渡ったヨンスが「神様は豊かな国にしかいないのか、なぜ貧しい北朝鮮を見捨てるのか!」とはく言葉が胸を締め付ける…。
 父親との再会を信じてモンゴルの大草原をさまようが切なくもすれ違ってしまう…幼いジュニの運命に心が痛む…

 食糧難、飢餓、粗末な食事に衣服、子どものひったくりに、ストレートチルドレンなど北朝鮮の実態が細かく描かれているが北朝鮮国家や政治体制を直接批判する表現は避けている…。

 がしかし、世界で唯一の分断国家の歴史を辿る時、日本政府が繰り返して来た北朝鮮への制裁と弾圧では、一歩の前進も見られない…現実がある。
 先日、民主党政府が超国家的VIP扱いで招待した韓国航空機爆破の実行犯で元死刑囚の金賢姫がはしなくも日本の拉致の被害者家族に漏らした言葉は本音…と言えよう。

 「拉致問題解決の為には北朝鮮を尊重して話合わないと救出出来ない」

 100年前、日本は朝鮮に対し「言葉に文字、氏名に民族の生活習慣から誇り、国家と個人の尊厳」までを奪いつくした罪を償う為の交渉のスタートラインとして小泉提案の『日朝ピョンヤン宣言』に立ち戻る必要が、急がれる。6ケ国協議や米国、中国の助っ人を期待しても進展は望めまい…。

 その為に、今こそ日本国民が真正面から北朝鮮に必要な根本的対応策が何であるのかを理解するうえでも「クロッシング=歴史の行き違い:すれ違い」を埋めるための北朝鮮と日本の、いや世界の平和のために“講演会と映画をセット”で見せたい、鑑賞を勧めたい。

問い合わせ:広島映画センター http://www.h-eigasenter.co.jp 082-293-1119

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2010年8月 8日 (日)

モダンジャズバー MINGUS


三越裏の通りをちょっと東に向かって歩くと、モダンジャズのライブハウス「MINGUS」がある。
客席は、演奏スペースを囲むようにして設けられたカウンター席になっている。
10席くらいだろうか。
小さなお店だ。

オーナーの思いがこもったお店だ。

オーナーの井上氏がベースを弾き、その時々で相手の演奏者が変わる。
サックスであったり、ピアノであったりする。

若手のジャズマンにとっては、素晴らしい勉強の場になっているようだ。

オーナーの井上博義氏は、その昔、米軍のベースキャンプで演奏していたという。
もう70歳を優に超えているだろうが、羨ましいほど元気だ。
いつもベースを楽しいそうに弾いている。

数年前まで、カウンターの隅に、夫人が、借りてきた猫のようにジーッと座っていた。
それがまたなんとも絵になっていた。
その夫人ももう亡くなって、いない。
ちょっと寂しい。

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その昔、私も、モダンジャズにかなり嵌っていた。

暗い地下の喫茶店で、けたたましい音量のモダンジャズの音の中に浸る。
誰とも話をしてはいけない雰囲気もあったが、他人の話が聞けないほど音も大きかった。
コーヒーを飲み、
サルトルの「存在と無」を読み、
ひたすらジーッとジャズを聴いていた。

それが、その頃の若者にとって、最高に知的なことと思いこんでいた。

私はニーチェが好きだった。
高校生の頃から夢中になっていた。
コリン・ウイルソンの「アウトサイダー」には随分と影響を受けた。

モダンジャズには「古い価値観を破壊し、新しい世界を作り出す」というイメージがあった。
そしてそこに「個人」を感じた。

モダンジャズでは、ピアノは別だが、ベース、サックス、ドラムとその殆どがクラッシックの世界ではまったくマイナーな楽器が、メジャーな楽器になる。

譜面だって基本的にはない。
モダンジャズには、クラッシックのように1から10まできちんと指示する譜面がないのだ。

プレイヤーの1人1人が、そのときの「ひらめき」で演奏していく。
あるときは全く1人で演奏し、あるときは仲間に合わせて演奏する。

そんなモダンジャズの世界観にしびれたのだ。
夢中になった。

大学にいけば、全学連の学生たちがマイクでがなりたてていた。

親たちは、息子がデモに参加して、警察に捕まることを心配していた。

就職の際には、企業はそうした学生の活動歴が調べられ、逮捕歴なんぞあれば、当然企業に就職するのは難しくなった。

それでも皆デモに参加しなければという思いに駆られ、デモに参加し、逮捕された。
私の友人にはそんな奴が何人もいた。
みんないい奴だった。

でも、そんなデモに参加することを、冷やかに見ていた学生もいた。

そうしたグループの若者たちが夢中になっていたのが、モダンジャズだったようだ。

「MINGUS」は、そんな古き良き時代を思い出させてくれる。

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2010年8月 7日 (土)

そごうの外壁

紙屋町の交差点に面して、デパート「そごう」がある。
中国地方で路線価が最も高い地点だ。
そのそごうが倒産してから、しばらくの間、このあたりもなんとなく閑散としていたが、今は随分と勢いがでてきた。広電ビルの新築工事も始まった。

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そのそごうの外壁は、大きな半円形が連続していくデザインで覆われている。
鉄のプレートを曲げて作ったのだろうか。
ちょっと珍しい、不思議なデザインの外壁だ。

あるときフッと、
これは、あの広島カープの鯉のうろこをモチーフにしているんだと気づいた。

「今頃気づいたの、鈍いねー」といわれてしまいそうだ。

この外壁も随分と老朽化して汚れてきた。

そろそろ塗りかえる時期にきているようだ。
どうせ塗りかえるなら、この際「鯉のうろこ」だと、はっきりとわかるように、広島カープの赤い色にしたらどうだろうか。

それはあんまりにもけたたましすぎるというなら、カープフアンや広島市立大学美術学科の学生たちに、どうやって塗ったらいいのか、アイデアを募ったらいい。

外壁の1部を塗ったらどうなるかとか、鯉の形にぬりわけてみるとか、右から見た模様と、左から見た模様を変えるようにしたっていいだろうと思う。
CGでやれば簡単にテストできる。

「カープの赤いうろこの外壁」ができれば、また1つ広島に名所が増えるkとになる。

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2010年8月 6日 (金)

ALSOKホールとカフェ

7月19日、ALSOKホールで、劇団四季のマンマミーアの千秋楽の公演があった。
1時開演だったが、友人とは久しぶりに会うからと、少し早めに待ち合わせ、ALSOKホールの地下のレストランでカレーライスを食べた。

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地下のレストランは解りにくいだろうからと、ずっと正面玄関前で待っていた。
その待っている間、正面玄関の脇にもう一つの入り口にカフェの案内看板があるのを見つけた。

今まで、なんどもALSOKホールに来ているが、こんなところにカフェがあるのは知らなかった。
これも指定管理者制度になったことで、新たにつくられたカフェなのだろうか。

そうだとすれば、大変いいことだ。

ALSOKホールは、正式には広島県立芸術文化ホールというが、ネットで調べてみると、指定管理者制度によって、合人社計画研究所が運営を引き受けていると書かれている。

折角カフェをやるなら、このALSOKホールは太田川に面してあるのだから、太田川に面した壁を改修して、オープンカフェにしたらどうだろうか。

日本全国どこでもそうだが、実はこのALSOKホールのように、直接川に面している建物は意外と少ないのだ。

ほとんどが、建物と川の間に道路があり、建物は直接川に面してはいない。

このALSOKホールはその数少ない例外的な建物なのだ。

その川に面しているという特徴を生かしたらいい。
そんなに工事費をかけずとも、改装はできそうだ。
オープンカフェができたら、ホールで公演がないときでも、お客が来るかもしれない。

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2010年8月 5日 (木)

「五輪招致」を考える集い

 2020の五輪の誘致を巡って色々な動きがあるが2つの組織が主催する「2020五輪招致」の是非を考える集いが開かれた。平和資料館の会議室で開かれた集会は自治体問題研究会の呼びかけに日本ジャーナリスト会議広島支部が協賛して行われ50人の市民が参加した。

 最初にコーディネーターの自治研の田村和之広大名誉教授が「広島市は着々と招致準備を進めているが、市民の中には戸惑いがある。市当局から「説明」を受け、多くの市民が五輪招致について考える機会を創りたい」と話して3人のパネリストが発言した。

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 市のオリンピック招致検討第一課の荒木靖昌課長が昨年11月に計画発表以来の経過と「2020五輪の基本計画」を9月初旬を目途に作成し、招致委員会に諮った上で年末までに国内の候補都市に立候補するかどうか決定する事を説明した。また、複数都市の協力で世界の様々な地域で開催可能な五輪モデルの提案。平和や核兵器廃絶に関心の無かった人達へ平和への意識を共有するチャンスを創出する。国内外からに協力を得て全世界から祝福される大会を開く…会場設定、オリンピック村、宿泊施設など基本方針と東京都が150億円をかけて落選し、ロンドンは55億をそれぞれ招致に費やし、全体の財政計画等も説明した。

 元市の課長で企画会社の小林正則社長はオリンピックの理念と広島の現実との乖離、広島の街の停滞と暮らしの低迷する中で、独善的な平和論と米国偏重視点で政治的スタンドプレーが多い秋葉市長による誘致運動…と批判して、2020年の核廃絶を五輪で祝うと云う計画は非現実的で妄想にすぎないと…反対論を展開した。

 この春まで共同通信広島支局長だった沢田忠氏も2020年に核廃絶を実現していない場合にどのように祝う祭典にするのか…、五輪招致が出来なかった場合の責任は誰が負うのか、展望が無い事に数10億円遣ドブに捨て“ダメだった“で済むのだろうか…?と質し、市条例に基づいて18歳以上の市民を対象に賛否を聞く住民投票を実施すべきと提案した。

 これを受けて会場から意見が出された。
 核廃絶を結び付ければ五輪が本来の姿を取り戻すのではないか。
 広島で小規模で実行できれば発展途上国でも可能になる…のではないか。
 財政的に厳しければ知恵を出して広島と核廃絶を印象付ける大会にすべき…。
 東京開催がされて一部を広島で開く意見…等賛成の立場からの発言もあった。

 しかし、全体的には賛成の立場のパネリストもなく、専ら五輪と核廃絶を結び付けることへの違和感や市民への説明不足、招致検討委員会への市民参加、市民の財政負担への不安を指摘する意見が相次ぎ、反対集会の色合いが濃かった…。

 2人の批判は決して間違ってはいない。しかし、核兵器廃絶運動に金がかかる現実を少しでも軽減しながら世界の世論を盛り上げ高めるか、それを目指した「平和市長会議」の拡大連帯や国連へのアプローチと同じレベルに「五輪」を置く…発想は決して、無駄や間違いではないと思う。「五輪」が目的ではない。貴方が最も効果的な核廃絶への道を示す事も大切な役割ではありませんか…?

 広島市は9月に基本計画が出来れば積極的に市民に投げかけ協議の場に出ていく…との方針を示した。
間違いなく市民の間で『核廃絶を祝う広島五輪案』の議論や意見交換は浅い。
 基本計画が出来、立候補するかどうかを決めるまでの時間は十分ではないが少なくとも年内いっぱいは議会と市民の間で市長を先頭に議論を深める努力を期待したい。
 <24日:記>

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2010年8月 4日 (水)

大暑・考

 きょう23日は一年で一番暑い時期とされる二十四節気の「大暑」だ。
 日本列島は勢力の強い太平洋高気圧に覆われて連日猛暑に見舞われている。
 梅雨明け後、偏西風の蛇行が急激に変化して太平洋高気圧が北に張り出して、気温上昇したらしく岐阜県多治見では39.4度を館林でも38.9度を記録している。

 二十四節気はひと月2回の小節の節目を設けており、7月前半の小暑に次いで大暑となり8月7日の立秋までの2週間が一年で最も暑い時期にあたる。小暑から立秋までの一月を『暑中』といい、大暑から立秋まえの18日間が『夏の土用』だ。

 この時期は蒸し暑さに襲われることで体力の消耗が激しくなる為、夏バテ防止のために精力がつくウナギをたべる習慣が古くから伝えられた。「土用の丑の日」のウナギは丑の日に「う」のつくものを食べて夏バテを防ぐ風習の一つ。うどんに瓜、梅干しなどもあるが食欲減退する時期にぴったりの食べ物でウナギ以外にも「う」のつくものを食べて見るのも古人の知恵を活かすことになって楽しい…元気が出てきそうな気がする。
 また、体調を崩したりしないように相手を労わるのが『暑中見舞い』と言う訳だ。
 広島の8月6日の原爆祈念日はまさに大暑・炎暑の中の慰霊祭だ。

 農家にとってはこの時期は田んぼの草取りや害虫駆除など熱い中での農作業が辛い節目の時期だが、この熱さが稲株の生育を促進する大切な時期だ。子どもの頃に手押しの草取り機で炎天下の農作業に汗を流し、一汗かいた後に井戸水を頭からかぶって冷えたスイカやマクワ瓜をむさぼった記憶は懐かしい…。

 今では聞いた事もないが子どもの頃は「土用干し」と言って、梅雨で湿った畳や調度品を虫干しする習慣があった。高温多湿の日本の夏を快適に過ごすための生活の知恵だった。
 今では新建材の家やマンション暮らしには無縁だが、空気の入れ替えをする「虫干し」は今でも有効な生活の知恵ではなかろうか?

 気象庁は長い間、最高気温25度以上を「夏日」、30度以上を「真夏日」、夜間の25度以上を「熱帯夜」と言って来たが‘07年に35度以上を「猛暑日」と予報用語の追加をした。
 一般的には酷暑・極暑、炎暑、炎天、などがあり、いずれも暑さの程度が伝わって来る。

 この熱さは全国的に急速に熱中症患者を出している。
 命を落とし、重症に陥る人が増えている。
 33度越すと急激に増加する傾向が強くこまめな水分補給が必要だ。
 昨日、自宅近くで救急車のサイレンが止まったのでベランダに出て見ると近所のお年寄りが収容され家族が付き添って搬送された。熱中症に違いない…。老人は屋内に居ても水分補給はこまめにしないと危険…という、専門家のアドバイスに耳を傾ける必要がある。

 過日書いた「梅雨明け10日」もこの時期と重なっており、今年は正しく『大暑の中の梅雨明け10日』が活きている。
 天然の涼を探すのは街中では極めて難しいが、平和公園内には木陰や日陰の風通しの良く涼しく過ごせる場所は結構沢山ある。資料館の下は北からの風を建物全体で受け止めて資料館の下に運ぶので風通しは年中よく、夏の昼寝や?休憩には最高の場所だ…。
 また、広島は橋の下を通路や散歩道に開発しているところが多く、元安橋の下も音楽仲間の若者達の指定席…結構涼しさが得られる夏場の散歩に欠かせない穴場だ。

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 暑さ対策はクーラーだけではない。冷蔵用用の携帯保冷剤(15センチ×25センチ)のアイスノンをタオルに巻いて枕に乗せて保冷枕で頭と首筋を冷やすと気持ちよく眠れる。効果は人それぞれだろうが、体が冷えると腰痛に好ましくない私にとってここ3年ほど実行しているが、夏場の睡眠対策には効果的だ。一度お試しください。

 気象庁の長期予報は「残暑厳しい…」暫く、暑さに向き合い、受け入れ、対処するために生み出された、昔の人の感性や知恵に教えられながら活かせるように心がけたいものだ。
 暑さの中、時折玄関から南のベランダに吹きぬける風にほっとしながら…。
 大暑の午後。   ≪23日:記≫

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2010年8月 3日 (火)

金賢姫元死刑囚、来日の教訓?

 大韓航空機爆破事件の実行犯金賢姫(キム・ヨンヒ)元死刑囚が、北朝鮮による拉致被害者の家族たちと面会する為、20日午前4時に日本政府がチャーターした小型ジェット機で羽田に到着した。そして、その足で長野県の軽井沢にある鳩山由紀夫前首相の別荘に入った。

 そもそも金元死刑囚の来日は鳩山内閣発足時に中井国家公安委員長が唐突に「金賢姫の招日」を口にした事に始まった。小泉の訪朝と日朝平和条約交渉が決裂以来,安倍、福田、麻生の各内閣は激しく北朝鮮を非難し制裁処置の対応以外に拉致被害者救済や、被害者家族に対して全く何も打つ手がないままの、事実上の放置状態続けて来た。

 鳩山内閣発足時の中井発言も奇異な感じのまま何ら進展なく推移していたが、韓国政府と水面下の交渉が成立したらしく、突然に急浮上した感は否めない。

 金賢姫の来日は、拉致問題を一歩でも前進させたい思いの日本政府の意欲の表れとか金賢姫の来日その事が、北朝鮮に対し強い圧力になる等と指摘するマスコミもあるが、果たしてそうだろうか…?

 大韓航空爆破事件は1987年11月29日、乗客乗員115人を乗せたバクダット発ソウル行きの大韓航空機がミヤンマー南方の洋上で爆破され全員が死亡した。韓国当局はこの後バーレーンで、北朝鮮の工作員2人を取り押さえ、テロと断定。一人は自殺したが自殺に失敗した金賢姫工作員は、ソウル五輪妨害の為、北朝鮮ナンバー2だった金正日書記(当時)の指示で実行したと自供。死刑判決を受けたが‘90年に特赦された。
 韓国では数年前から事件は韓国情報機関の謀略との説が出ていた…?

 日本政府は金賢姫に北朝鮮で日本語を教えた「李恩恵(リ・ウネ)」が日本人拉致被害者の田口八重子さんであると断定しており、昨年3月には韓国の釜山で田口さんの兄で拉致被害者家族会の代表の飯塚 重雄(72)さんと長男の公一郎(33)さんが面会している。
 その後、韓国で面会した日本政府関係者に「(横田めぐみさんに)会った事がある」と証言したことで家族会が来日を求めていた。
 更に、韓国誌の最近のインタビューで「めぐみさんはいきている」等と発言している…。

 来日の背景には政権交代で膠着状態の拉致問題を進展させたい与党の思惑が指摘されているが、政府は『拉致問題への関心を高め、解決への機運を盛り上げる』としている。

 横田夫妻にも会ったが「特別、新しい事実」は伝えられてはいない。

 横田夫妻らは彼女自身、そうしなければ生きられなかった北朝鮮の被害者と位置付けているが、日本から見れば偽造パスポートなどの時効は成立していないれっきとした犯罪者で、超法規的な扱いの入国で、しかも小型機とはいえジェット機をチャーターしてまで招く必要や意味のある人物に対する処置だったのだろうか。

 制裁や圧力が全く通じず手をこまねいてばかりいた自民党政権の二の舞いを踏むまいとする民主党も全く同じ発想から脱却できていないのではないか…?

 金賢姫は昨日20日に面談した飯塚さん達に、拉致問題の解決の為には「北朝鮮を尊重して話し合わないと救出出来ない」と話したと報道されている。

 誰が考えても名前に文字・言葉に民族の誇りと国家までを奪いつくした(日本への)代償について話し合う平和条約交渉を優先しない限り北朝鮮とのあらゆる問題解決のめどは立つ筈がない。
 最底限度、小泉提案の「日朝ピョンヤン宣言」に立ち返り同時に拉致問題も解決の糸口を見出す…事以外にない事を金賢姫は、改めて示唆したと言える。

 短命だった鳩山さんが総理大臣当時果たせなかったささやかな気遣いを被害者家族の為に果たそうと云う思いは判るとしても、大きな進展や新情報入手を期待する事はとても無理で、超法規的処置して対応するようなことではない。

 改めて、金賢姫が言う様に『日朝平和交渉の原点に立ち返る』事の再認識こそ拉致問題解決への第一優先課題…と言えるのではなかろうか…?     <22日:記>

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2010年8月 2日 (月)

梅雨明け10日

 梅雨末期の豪雨は全県的に子どもたちに3日の休校を生んだ上、例年になく局部集中型で多くの犠牲と被害をもたらして一気に梅雨明けとなった。

 17日、九州北部から関東にかけて一斉に梅雨明けになり、この時期の3連休をそれなりに楽しめた様だ。それにしても、梅雨明けと同時に連日35度を超す猛暑が襲い全国的に30度以上の真夏日となった。今年の梅雨明けはどこも3~4日早い梅雨明けだ。

 梅雨明けにもタイプがあるようでオホーツク海高気圧が梅雨前線を押し下げて南下し暖かい海上からの熱で次第に暖まり太平洋高気圧と一体となり、ゆっくり梅雨前線が消滅に向かうグズグズ型。太平洋高気圧が梅雨前線を一気に北へ押し上げるすっきりした梅雨明けで湿気も少ないサッパリ型で今年は後者になる。

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 今日も青空が広がり朝から入道雲?が現れる典型的な夏の訪れだ。この時期に古くから伝わる「梅雨明け10日」と言う言葉がある。天気が安定して海や山に繰り出す最適時期の意味だが、長い間忘れていたように思う。
 専業農家や登山家の間では今も生きているようだ。ここ数年というか10年近くは長雨や時ならぬ台風の襲来?などが続いて、梅雨明けが無いままの年もあり異常気象続きで、まして「梅雨明け10日」が無く、久々の本格的「梅雨明け10日」の到来のようだ。

 先週15日から17日は雨予報だったが松山の義姉と神戸から姪の二人がやって来た。
 日程変更をしようかどうか迷っていたが意を決してやってきたら好天に恵まれ『行いが良いから…』と、あちこちとまわって楽しんで返って行った。「梅雨明け10日」のお陰だ。

 思わぬ3日の臨時休校があった孫の颯太と大直の学校は共に今週後半の夏休みの入り口で“3日間の借金清算”をするようだ。2人は連日、放課後はこの熱さの中でアメリカフットボールとサッカーで練習に汗まみれだ。休みに入って暫くは合宿に精を出す。雨よりは良いが、この炎暑での水分補給などを十分に出来るように…これも成長過程での大切なトレーニングになるだろう。これも久々の「梅雨明け10日」の恩恵?の内だろうか?

 私は、梅雨の間の腰痛に灸で向かい合った成果か、痛みの要因と言われる気圧低下を「梅雨明け10日」が吹き飛ばしたのか、効果ありで“和らいだ”。
 湿度が低く夕凪もなく、風があるのも「梅雨明け10日」の特徴?比較的凌ぎよい真夏の入口だ。
 すっかり夜の帳に包まれる8時頃まで夕焼け空を染め、茜色と紺色の織なす空に月が点睛を描くコントラスはこの時期独特の風情なのだろう。

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 入浴後ベランダで広げたクッションシートに胡坐を組んで飲むビールに清涼飲料の味は格別だ。
いつまで続くのか…夜だけでもいい、「梅雨明け10日」が一日でも長い事を祈りたい。<20日:記>

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2010年8月 1日 (日)

SMOKING AREA 喫煙所

渋谷駅のハチ公前広場の一角が、やたら沢山人だかりがしている。

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このコーナーの中、周りで皆懸命になってタバコを吸っている。

良く見ればガラスの壁面には白く「SMOKING AREA」と書かれている。
扉も天井もない。

タバコの煙は自然換気されるというわけだ。

それにしても随分と広い。
幅3M×10M、高さ5Mくらいはある。
なかなか恰好いい。
ちょっとしたストリートファニチャーだ。

ハチ公前は待ちあわせに良く使われる。
そんなとき、喫煙者にとっては、ここは最高の場所だろう。
相手が来るまでの間、ちょっと一服というわけだ。
ここでなら、イライラしなくて済む。

設置したのは渋谷区のようだ。

広島市内でもレストラン、カフエ、デパート等はタバコが吸えなくなり、街中も歩きタバコは禁止されている。

コンビニの前に灰皿が置かれ、そこでタバコを吸っている人も良く見かける。
あんまり恰好良くはない。

法律的にも、喫煙者を完全に止めさせることが出来ない以上
喫煙者のために、きちんとこうしたスペースを設けるのも、きれいな街を作るには必要なことかもしれない。

建設費は公共が負担するのでなく、タバコ産業も自らが負担してつくることも考えるべきだろう。

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