写真家森下一徹、透析の8・6
写真家の森下一徹さんに初めて会ったのは私が東京支社勤務になった昭和48年(‘73年)から翌年頃と思う。被爆者が集まる会議や集会に行くと必ず出会うカメラマンがいた。
今と違って、被爆者の取材に集まる人は極めて少なくいつの間にか何でも話し合い、いつしか一緒に飲んだり食事したりする仕事仲間に成っていた。
突然、病に倒れ音信を絶っていた彼から3年振りの電話があり、8・6に再開した。
東京勤務の昭和53年夏までの5年間、東友会(東京都内の被爆者団体)の集会や日本被団協の集会や会合に厚生省や国会請願、3・1ビキニデーや久保山愛吉さんの命日にあたる秋の彼岸の中日には焼津や静岡で必ず出会う取材仲間だった。
彼の写真は穏やかで温かい被爆者の素顔を捉えたポートレートだ。ケロイドや切り傷があっても誇張しない自然に暮らしと生きざまを捉えた“生の被爆者”を捉えていた。
ある人は医師として、農業や酪農家としての暮らしや日雇い労務者として一人暮らしの老婆などを全国に被爆者の実相を追った。1978年に出版した[HIBAKUSYA 被爆者]は大きな反響と高い評価を得た。「原爆資料館の遺品と資料」なども写真集として纏め、小中学校での平和教育の教材にも活用されたことがある。
昭和53年夏に私が広島に戻ってきて以来も8・6前後には生協連の記録を中心に被爆者の撮影に年に1~2度広島に足を運び、“被爆者・ヒロシマ・ウオッチャー“としての活動をしてきた。
21世紀を前に1997年からは5人の写真家とNPO法人「世界ヒバクシャ展」を立ち上げて100カ国で『ヒバクシャ写真展』の開催を呼び掛け多くの学者文化人などの指示で立ち上げ今も継続されている。
そんな彼が3年前に糖尿病から来る慢性腎不全やパーキンソン病に見舞われて4日ごとの透析による療養生活を余儀なくされていた。その彼から『明日、広島に行くので会いたい』と電話がはいった。
いつも二人で落ち合うのは昨年春先に閉店した元安橋の東詰めにあった居酒屋「しげ」だった。今回は、影絵展会場を落ち合い場所にしていた。「しげ」に30年余も足を運び今は無いおばあさんに可愛がられた彼だったが閉店を知らない。
小学生の息子を同行し、父が仕事をしている間、“しげのおばあさん”に面相を見て頂いた事もあった…。
現れた彼は車いすで、介護の会社を経営している娘さんが付き添いだった。
8・6には一度も来たことの無かった娘さんが病院への通院以外に全く外出したがらない父親にハッパをかけて出て来た…と言う訳だ。
広島で透析をしてまで「8・6式典へ参列してみよう」と思った気分が大切だ…と思う。
「これまでは専ら取材で式典への参加はしていない」と言う思いと「核兵器の無い世界へ」の世界的な波動が彼を動かせたのだろう。
厳しい、食事制限があって普段は余り進まない食が『久しぶりによく食べた』と、とても元気になったように見えた。積もる話に花が咲いた。
6日は、早くから平和公園の涼しい場所で式典に参加し、終了後に予約してきた病院で4時間の透析を行った様だ。夕方の電話では、とても気分が良く元気で過ごしていると3年振りのヒロシマを娘さんと一緒に楽しんだようだ。
米国をはじめ英、仏の駐日大使ら核保有国の大使たちに国連事務総長が初めて出席した記念的な8・6が、病後、初めての旅とは、いかにも彼らしく思い出深い記念的な旅になった事だろう。リハビリを励んで来年は車いすに頼らないでお出で下さい。
「一年単位では考えない」今の私だが地道に健康管理に励んで、待っています。
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