平和大通り・今昔
今年もFFが始まった。160万人の人出が予測されて、全国的にGW人出ランキングのベスト3を飾るイベントに成長した。
若い人には意外に知られていないのがFF発足の由来だ。昭和50年10月にカープが後楽園で巨人を破って初優勝した。広島に帰ってきたカープを出迎えて、平和大通りで行った凱旋パレードに30万人が埋め尽くした。これにヒントを得て昭和52年から始まった。
原爆でお祭りや行事が復興できなかった広島の新しい祭りを創って元気づけよう!!と始まって今年は34回目になった。
平和大通りは戦後すぐに平和都市建設法に基づいて行われた都市整備に始まり、広島の都市復興の背骨として造られた。そこは、皮肉にも米軍の空襲による火災延焼を食い止める為の防火帯として建物疎開が進んでいた…地域だった。実際には原爆で壊滅して何もない街に、道幅が百メートルもある事から“百メートル道路”の名前で建設は進んだ。
昭和23年には未だ建設途上の小町地区で大きなテントを張って、木下サーカスが行われている。木下サーカスは爾来5~6年ごとに広島市内で興業をしてきた歴史?がある。
昭和40年?(‘65年)には自衛隊が戦車を連ねたパレードを繰り広げて県民の間で物議を呼んだ。この時、RCC横を大きな地響きを立てて通過した際、放送機器に与えた振動で放送が中断するトラブルが発生するなど大きな反発があった。この為か、県庁前などでもあった自衛隊のパレードは広島市内から姿を消していった。
とは言え、FF当初は自衛隊13師団の音楽隊が先陣を切ってパレードをしたが、これにも少なからず抵抗の声があり、数回の出場で県警や消防の音楽隊に変わった経緯がある。
昭和3~40年代には、現在の大成建設広島支店の辺りに予備校の英数学館があった。
昭和32年から一年間お世話になった。
当時、英数学館の前には広島発祥のエスキーテニスのコートが10面くらいあった。
片面が畳4畳程度のコートをネットで挟み、木製の卓球よりやや大判のラケットでスポンジのたまに羽根がついた球を打ち合うテニスと卓球のミニ版のような競技だ。
いかにも原爆で壊滅した街で生まれたように木切れとスポンジがあればだれでもどこでもできる遊び?だった。当時、ラケットの使用料が10円位?か無料だったかもしれないが仲間同士でいつでも出来るようにキープして楽しんだものだ。
今はコートは牛田に移って全国組織の協会を維持しながら競技も行われているようだ。
鶴見朝界隈の大通り沿いには全国から寄せられた県木が植えられている。
世界各国から贈られた記念樹も多い。
長らく出来た当時のままだったANAホテル前の市の史蹟・愛宕池などの整備が進み、小町・中町界隈の平和大通りは,FF後には芝生の貼り付けもされて装いを新たにする。
FFが終わると平和大通りは楠木の萌黄色と白とピンクのアメリカハナミズキが輝きを増す、普段通りの公園録地帯に戻り、平和公園と並ぶ広島のシンボルとしての役割を担う。
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