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2010年5月14日 (金)

『記者からニコヨン』を生きた吉田治平さん②

 3月24日付けの「『記者からニコヨン』を生きた吉田治平さん」の2回目の原稿を頂いた。

 吉田さんは‘50年にGHQ(連合軍総司令部)が占領政策の一環で強行した「共産党と同調者・支持者」と判断された活動家を職場から追放したレットパージ(赤狩り)で中国新聞記者を追われた。その後、復職闘争などを経て失業対策事業(当時の給与からニコヨンと呼ばれた)を取り仕切る全日自治労の委員長として労働運動の先頭に立ち、平和運動にも傾注された広島の一時代を担った労働運動家だった。

 その吉田さんに「広島マスコミ9条の会」の会報に執筆をお願いしたものを、当ブログにも掲載させて頂いた。少し、長めの連載に成るか…と思っていたが、古巣の中国新聞が“生きる”欄への連載を始めるので今回で終わり、中国新聞を通じて改めて“吉田治平さん”をご覧いただくよう、紹介する。

 私と憲法 吉田治平 <下>

 敗戦、原爆と多大な犠牲を強いられた私たちは、二度と戦争をおこすまい、
 廣島を二度と繰り返すまいと再建と復興に立ち上がりました。
 国土も、国民生活も荒廃の極でした。不法と暴力のはびこる世に、頼りになるのが、平和憲法、民主憲法でした。
 働くこと以外に収入のみちのない私は、職場の中国新聞に入社した昭和20
年9月、先輩の指導ですぐ労働組合結成にとりかかり、賃上げ、職場民主化、などを要求してストライキを決行し、21年には「夕刊ひろしま」にとばされ、
クビになりました。
 「憲法で保障された、団結権、団体行動権の行使にクビにするとは何事か」と争いました。地方労働委員会に提訴し「解雇無効、現職復帰」の決定を得ました。しかしその時「夕刊ひろしま」はすでに廃刊となっており、職場復帰はかないませんでした。
 首切り反対闘争が長引いているあいだ、24年8月に「何かやらねば」と失業対策事業に登録し、ここでもすぐ、壊滅していた労働組合を再建しました。
 ここでの交渉相手は政府、県、市などです。「賃金あげろ」「アブレなくせ」などの交渉相手は公務員相手の憲法論争です。「戦争と失業と貧乏に反対する綱領」を持ち、憲法を楯にする組合側の、勝ちです。
 当時の本省から「組合と交渉するさい、憲法論争に巻き込まれるな」との趣旨の通達がきたことがあると、役人が述べていました。
 いま組合は、建設交通運輸一般労組(建交労)と名前もかわり、「憲法を活かし、平和を守るたたかい」に全力をあげています。<完>
 吉田さんは昭和30年代から平成の始め頃まで広島の労働界や平和運動の先頭に立っていた活動家だが、被爆直後の広島へ入市して被爆し、父上の職場だった中国新聞を訪れ偶然にも?記者になった。壊滅的な被害を受けた中国新聞の記者となって新聞社の再興を支え、混乱期から復興期の広島の裏面史や憲法を巡る事実や話題などの貴重な証言者だ。

 吉田さんの記事はこれで終わりますが中国新聞は十数回の連載に成る事でしょう。
 何はともあれ、中国新聞の連載企画記事に期待し、終わる。

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