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2010年5月

2010年5月31日 (月)

愛 LOVE フェスタ  広島まちづくり市民交流フェスタ

5月中旬の土曜日、本通りを歩いていたら、チンドン屋さんの演奏に出会った。
チンドン屋さんなんて、珍しい。
パンフレットを配り、お客の呼び込みをしている。
市民交流プラザで何かやっているらしい。

市民交流プラザの入り口前には、いくつかのテントが張られ、おでんの販売をしたり、シャボン玉を飛ばしたりしていた。
子供たちが、楽しそうにシャボン玉を追いかけている。

中に入ると、1階では中高年のおじさんおばさん達がマンドリンの演奏をしていた。
皆きちんとした服装をし、一生懸命演奏していた。
しばらく後ろの方で座って聞いた。
結構上手だ。
ここまで来るには相当練習したのだろうと思う。

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改めてパンフレットを見れば、館内のあちこちで、随分と多種多様の催しがされている。
似顔絵コーナー、
本のフリーフリーマーケット
自分でできる足裏マッサージの講習会、
小唄の三味線と唄
ハワイアンフラ
朗読 葉っぱのフレディ
お手玉の縫い方と遊び方
広島ユネスコ協会の活動展示
発明教室
パソコン講座・・・・・・
まあ何でも有りだ。

「こんなイベントは、全国のどこにでもありそうに思うかもしれないが、実は意外とないよ。
広島だからできることだと思う。
広島の人口と街の規模が、調度いいんだろうね」
と、友人が解説してくれた。

「そうかもしれない」

こうした集まり、イベントも、街中に「市民交流プラザ」という受け皿があってこそ、可能になったんだろうと思う。

バブルの頃、全国のあちこちで市民ホールが作られたが、こけら落としに東京から有名な歌手を呼んで、コンサートを開いた後は、地元の人たちのカラオケ大会に使われる程度で、客席が一杯になったことは以来ないという話をよく聞く。

それにしても音楽、踊りの発表会をするんだったら、1階ロビーでなく、もうちょっとちゃんとしたステージがあった方がいいだろうと思う。

聞くほうだって、やるほうだって、その方が楽しいだろうと思う。

私の友人が「100人くらい収容のホールが、広島市内に欲しい」とよく言っていた。
アステールプラザの一番小さい多目的ホールにしても224人収容の規模だ。
市民が発表会をするには、100人程度の規模が調度いいのだという。

そういえば結婚式も100人程度が一番多いと、あるホテルの支配人がいっていた。

人と人が集まるのは、100人が1つの基準なのだろうか。

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2010年5月30日 (日)

自動車税の振り込み

自動車税の振り込みをしようと、広島中央郵便局にいった。
入口手前にあるATMから振り込もうとしたら、「お取り扱い出来ません」との表示がでた。

郵便局で納付できますと書いてあるじゃないか。

職員に聞けば、「この用紙は窓口でないと扱えません。
もう6時を過ぎていますので、今日はお取り扱いできません」といわれた。

「コンビニでは、どうですか」と聞けば、「さー?」という。

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まあ、ともかくいってみようと、郵便局の前にあるコンビニにいった。
中年のおばさんに書類を渡すと、「ハイ」と、ポンポンとスタンプを押して、1分もかからずに処理してくれた。

このコンビニのおばさんは、多分パートかなんかだろう。
コンビニではそうしたおばさん、お姉さんが買物の清算から、宅配便の手続きから、なんでもやってくれる。

店内にはATMの機器、コピーの機器と多様な機器も置かれている。
店員はそうした機器への対応もしなければいけない。

振り込みの手続きだって、そのうちの1つにすぎない。

郵便局には、随分と沢山の窓口がある。
郵便物の受け渡し、切手の販売、振り込みをする等とそれぞれの窓口で業務が分担されている。
これは、どこの窓口かなと確認しなければいけない。

コンビニなら1人でやっているような仕事を、郵便局では数人で分担している。

それでも黒字になっている。

何かおかしい。

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2010年5月29日 (土)

ドラゴンフライ

仏壇通りの三村松本店の前のビルの最上階に、しゃれたレストランがある。

ドラゴンフライ。
なんとも恐ろしげな名前のレストランだが、料理は美味いし、部屋もなかなかシャレている。

「ドラゴンフライ」は日本語に訳せばトンボだ。
その昔、トンボは飛ぶときは羽を自在にあやつり、決して後ろに下がらないということで、戦国武将はトンボを「勝ち虫」と称し、兜や鎧に付けて戦ったという。
それにちなんで、お店の名前にしたことにちなんでつけたという。
ドラゴン=竜が、フライ=飛ぶと理解すれば、それはそれで縁起がいいだろう
??
ロフトの部分から吊り下げられた照明器具もトンボをイメージしているのだろうか、不思議な形をしている。
壁に掛けられた照明の上には仏像が乗っている。
お店の入り口には、安達春汀さんの書かれた大きな木の看板が掛けられている。

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入口を入ってすぐの回り階段を上がって中2階のロフトはロビーラウンジのように、ゆったりとした椅子が置かれ、その下はバーカウンターになっている。
エレベーターを降りてすぐの右側には10名位の個室もある。

部屋は白を基調に仕上げられている。
その白い壁には大海原を泳ぐクジラが映されている。

もともと住宅だったというが、その住宅をレストランにコンバージョン、改装しているからか、いわゆるレストランとは違った不思議な雰囲気がつくりだされている。

コンバージョンした建物の面白さといえのかもしれない。
これからこんなレストランが増えてくれば、広島の街はもっと楽しくなる。

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2010年5月28日 (金)

吹屋

GW、江戸時代から明治にかけてベンガラの生産、販売で栄えたという吹屋の街を訪ねた。

途中、中国自動車道はさして混んでもなく、新緑は美しく、いいところだな―なんて感激して走っていた。

いままで行ったことがなくとも、カーナビがあれば大丈夫と安心しきっていたのが、そもそも間違いだった。
新城ICを降りてから、おかしくなった。
カーナビの案内に従って走っていると、最短経路を案内してくれるのだろうが、道はどんどん山の中に入っていく。
すれ違いもできないような道に入っていく。
向こうから来る車がきたら、どうやって戻るんだというような道に入ってしまった。
そもそも向こうから来る車が全くない。
そんな細い道だ。
怖くなって、とうとう途中で引き返した。

太い道だろうと思われる道にルート変更して、吹屋の街に向かった。
吹屋の街は、随分と山の中だ。

街のすぐ手前の道も、すれ違いもできないような細さの道だった。
そんな山の中に、吹屋の街はあつた。

吹屋はそもそも1637年吉岡銅山として始まったという。
ベンガラの原料は銅鉱山の近くで採掘されたそうだ。

ベンガラの色は赤い。
陶磁器の模様書き(九谷、伊万里、薩摩等)漆器の下塗(輪島・讃岐等)家具塗装、染料、印肉、船舶錆止め等、非常に広範囲に使われたこともあり、古くから貴重品として扱われてきたという。

あの陶工柿右衛門の赤い柿の絵もこのベンガラを使って画かれたのだろうか。

街の建物は、ベンガラ格子に石州瓦の建物は随分と立派だ。
普通なら白い漆喰の部分もベンガラを使っているからだろう、ちょっと赤い。

もともとは玄関だったところにまで、はみだして民芸品を売っている家もある。
なかなか風情があっていい。

ベンガラの製造販売で栄えたという数十軒の建物が建つこの街は、昭和52年5月文化庁選定 国の重要伝統的建造物群保存地区として選ばれた。


1975年創業だという旧片山家の建物は、その中でも随分と立派だ。
往時の栄華が偲ばれる。
冬になると、この地域は相当に冷え込むのだろう、個々の部屋はかなり個室的に作られている。
瀬戸内海に面した柳井の家とは随分と違う。

街の北側の高台には、ちょっと洋風の、随分と立派な小学校が建っている。
日本最古の木造の小学校だという。
この建物は地域の人たちの寄付で作られたというが、この小学校の建物をみただけでも、ベンガラの製造と販売が、極めて収益の高い事業だったことがわかるが、それにしても昔の人がいかに教育に熱心だったかには感心する。

それが、いまでは生徒はたったの7人だという。
昨年は5人だったという。

こんな素晴らしい街が、東京近辺にあれば、それこそ週末ともなれば凄い人混みになるだろうと思う。

いずれ中国等から観光客がドカーンと増えたとき、日本の歴史を伝えるこうした街は貴重な観光スポットとなるだろうと思う。
大切に保存したい。

帰りは新見IC経由でと、カーナビに指示したこともあってスムーズに帰れた。
文明の利器も使い方があることを、思い知らされた。

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2010年5月27日 (木)

「ひろしまジン大学」いよいよ開校

 広島の街を丸ごと「大学」に見立てて広島のことを改めて幅広く深く学ぶ…事を掲げて生涯教育に取り組む市民団体が推進する『ひろしまジン大学』が開校に漕ぎつけた。

 開校式の会場はパルコ南側の公共広場アリスガーデン。土曜日の10時から50人余が参加して行われた。

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 この大学は学校教育法で言う学校法人ではない。校舎を持たないで街を丸ごとキャンパスに見立てた「知りたいことを学ぶ“学校”」で時事や社会性に富んだ授業をする。教室は時に厳島神社、時に平和公園、地元の公民館や美術館にカフェに海辺や森などが充てられ、毎月土曜日に授業を継続する。
 メールで登録すればだれでも無料で参加できる。

 平尾順平学長が「10年20年後の広島を考え,政治にも関心の高い街づくり…自分達の街をもっと自分達の街として考え…魅力再発見する」と大学の狙いを宣言した。

 平尾学長は広島市立大国際学部を卒業後、財団法人・日本国際協力センターに入り、JIC(国際協力機構)等を通じてアジア、中米、アフリカなど世界を股に人材教育に携わった。
 その経験を活かしたいと国外から広島を見つめ直し「広島の為に出来る事をしたい」と熱い思いを抱いて帰郷。広島平和文化センターで2年間、環境や平和問題を中心に若い仲間が集まって磨きをかけながら「大学」の開校準備に取り組んできた。

 この日、開校式の後に県立美術館の講堂で“広島のいまやこれから”についてザックバランに話す「みんなで話そう!広島のこと~」、続いて“スタメンは生徒が決め、全体練習は週2回、サッカーノートの活用”で全国大会の常連に成長した観音高校サッカー監督の育成の理念を聞く「観音高校からIMAGINを学べ!」の2講座を行った。
 気になる広島の課題なども取り上げられる…。発展を期待して見守りたい。

 授業料は要らないが社会教育や街づくり推進事業を支える「支援サポーター制度」がある。
 NPO法人の認可を目指している。ひろしまジン大学:http://hirojin.univnet.jp/support/

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2010年5月26日 (水)

ご存知ですか?幻霜ポーク

 久しぶりに元同僚のSさんに誘われて夕食をご一緒した。
 共通の友人だった東京のS氏の未亡人が昨年暮れも押し迫って無くなったSさん奥様のお参りに来られた。S氏も昨年秋、52歳の若さで交通事故のため他界された。
 Sさんの故郷は津和野で身内の法事に帰郷された途中に立ち寄られた。

 三人で出かけたのは「幻霜ポーク」が売り物の店だった。
 「幻霜ポーク」は広島生まれの豚肉で、安佐北区安佐町の「大栄ファーム」の長田誠史さんが30年かけて独自に開発し誕生させ、広島の特産品として売り出し中だ。

 袋町公園のそばにある『幻霜庵』は丸ごと幻霜ポークの店。昼がカツで夜はシャブシャブが売り。メニューはカツにステーキや生姜焼き、角煮、せいろ蒸し、どんぶりやカレーにグラタン、ハンバーグ、肉まん、おでん、茶碗蒸しなど幻霜ポークをふんだんに生かしたものばかりだ。

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 店長がお勧めはやはり“しゃぶしゃぶ”を頂いた。豚と言えば、全国的に良く知られているのは鹿児島の黒豚があるが、我が家では長い間沖縄のアグーを愛好している。とても旨い豚肉だ。幻霜ポークはこれまでに2~3度ステ―キで食べた事はあったが、それほど印象深くは無かった。
 この日、バラとロースのシャブシャブは口の中でしとりとした食感と柔らかさにとろける旨さがある。何より脂の質の良さを感じる。肉は全体的に薄いピンク色で、和牛のような細かい霜降りが入っている。
 その特徴を創っているのはパンやトウモロコシを独自にブレンドした飼料にあり、四方を山に囲まれ澄んだ空気と湧き出す山水にあるようだ。

 それにしてもしゃぶしゃぶのコースでお値段は2000円から3000円で飲み放題1500円。
 サラダや焼き物等6~7品がついている。単品でもステーキ1200円、生姜焼き680円など値段はリーズナブルなのが良い。昼間の日替わりランチは550円。お勧めです。

 Sさんはこのファームへ出資していてあちこちのお店に紹介するなどしているが、生産体制がまだ少なく、県内生産者は6ケ所でこれからの発展が期待されているようだ。
 販売は広島市内や山口、備後の量販店へ拡大しつつあるがインターネットで購入も出来る。
<幻霜庵:広島市中区中町 082-258-1100  http://gensoan.jp/food_menu/ >

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2010年5月25日 (火)

平和の使者・ヒロシマのバラ

 平和公園には一年中どこかで花が咲くように造られている。
 桜の後は平戸つつじやチューリップがGW中に満開を迎えていた。
 いま、原爆の子の像の脇にあるバラ園が満開を迎え、絢爛たる花を咲かせ甘い香りを振りまいている。カメラを向ける内外の観光客が目立っている。

 この場所にバラ園が出来たのが昭和46年(‘71年)オランダ政府贈呈の石碑がある。
 いまは、10数種の120~30株のバラが一斉に咲き誇っている。

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 バラの名前のプレートを見ると「バーミンガムポスト」「ウエンディカリンズ」に「クイーンエリザベス」などの名前に交じって『ピース』や『ヒロシマヘイワキネンコウエン』などの広島に由来するような名前のバラもある。
 『広島平和記念公園』はドイツのエルトビレ市から贈られた鮮やかな黄色の大輪だ。

 バラのことは何も知らないが被爆者医療に貢献された医師・故原田東岷さんはバラの愛好家研究家として良く知られている。
「 ヒロシマチィルドレン」は英国の愛好家が’84年に原田さんに贈った新種だ。

 広島でも’95年に原田さん自身が創られた「ヒロシママインド」をはじめ「ピースメーカー」「フェニックスヒロシマ」「ヒロシマスピリッツ」「千羽鶴」「ヒロシマレクエイム」など十数種のヒロシマシリーズのバラがあるようだ。

 ヒロシマの名前を冠した一連のシリーズの誕生に関わった人達はみな戦争の、原爆の辛酸を
なめた人たちだった…。           <写真:中・ヒロシマ平和記念公園、下・ピース>

 そしてこのバラ達は今『平和の使者』として、世界中のバラ愛好家の間で、大輪の花を咲かせて『ヒロシマの心』を伝え続けている…ようだ。

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2010年5月24日 (月)

オリンピックのバーチャル化 ―施設規模は小さくてもいい?

5月15日号の週間東洋経済に、様々のスポーツをビジネスという観点から分析した記事が載っていた。
私の普段の生活にあっては、スポーツはカープが昨晩の巨人戦で勝ったとか、松坂がアメリカメジャーリーグで2勝目をあげたとかのニュースに一喜一憂する程度だ。
スポーツのビジネスとしての側面に触れることはまったくない。

そのスポーツビジネス特集の中に、ちょっと考えされられる記事が載っていた。
国際オリンピック委員会IOCの収入の推移だ。
1993年から96年までの4年間の収入は、
放映権料12億ドル+スポンサー収入8億ドル+チケット収入5億ドル+ライセンス収入1億ドル=26億ドルだった。
それ以降も年々増え続け、
2005~08年にあっては、
放映権料25億ドル+スポンサー収入25億ドル+チケット収入3憶ドル+ライセンス収入2億ドル=54.5憶ドルだという。

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1ドル93円として換算すれば、54.5憶ドル→5068.5憶円にもなる。
凄まじいビッグビジネスになっているということがわかる。

その収入も年を経るごとに、大幅に増えていることもまた驚きだ。

その収入の内訳をみると、これもなかなか興味深い。

チケット収入は、05年から08年度にあっては、約3億ドル×93円→279億円だという。
この額は、広島アジア大会の収入とそれほど差がないようだ。
北京オリンピックで販売されたチケット枚数は700万枚だといわれているから、1枚あたり約4000円ということになる。
チケット収入とは、会場に来た観客からの収入ということだろうが、その収入がIOCの全体の収入からみれば、たったの5.5%にしかなっていないというのだ。
これには驚いた。

北京オリンピックの競技のスタート時間がアメリカのTVの都合で決められたと批判されたが、この収入の内訳をみれば、そりゃ当然だろうと頷ける。

オリンピックはそもそも1896年、クーベルタン男爵の呼びかけで、アテネでオリンピックが開かれたことに始まるが、以来、オリンピックは頑なにアマチュアイズムに拘ってきた。
そしてその当時の収入源は、もっぱらチケット販売収入だったと思われる。
そうしたこともあってか、オリンピックは財政的にも苦しくなり、開催に名乗りを上げるところもなくなったようだ。
その危機を救ったのが1984年のロサンゼルス大会のピーター・ユベロスだ。
オリンピックをショービジネス化したことで、大会は結果として2.1億ドルの黒字を計上した。
それだけでなく、選手にとってもオリンピックは名誉だけでなく、大きな収入をもたらすようになったようだ。
今年のバンクーバーオリンピックで優勝したキム・ヨナ選手は今年の年俸が8億円だといわれている。
そうした現象は、1992年のバルセロナ大会では、バスケットボール種目ではアメリカのNBA所属の選手による「ドリームチーム」が参加したりするようになり、オリンピックはまさに全てのスポーツの最高のレベルの競技会になりつつある。

そのロサンゼルス大会以降、「オリンピックは儲かる」との認識が広まり、立候補都市も激増し、開催都市となるために、国をあげて応援するようにもなった。

こうした大きな変化は、見方をかえていえば、オリンピックというスポーツのイベントが、今ではその会場に来た観客だけのイベントではなく、TVを見る人、新聞を見る世界の人、世界の人々を対象にするイベントに変貌したということでもある。

オリンピックが、会場に来た観客700万人を対象にしたイベントから、会場にはいないが、TV、新聞をみる観客60億人を対象としたイベントに変貌したということだ。

「オリンピックがバーチャル化した」ということだ。

ということは、いまや闇雲にオリンピック競技会場を大きくし、チケット収入の増加だけに拘る必要もなくなったということでもある。

オリンピックにとって、より重要なことは、広告収入を、スポンサー収入を増やすためにどうしたいいのかということのほうに比重が移ってきたということだ。

世界の人々が見たいと思うような世界的レベルの選手をどうしたらが集められるのか、その一流の選手がどうしたら命をかけて競うような状況をつくりだせるのか、その会場にいる観客の興奮をどうしたら作り出せるのか、それをどうしたらうまく世界に伝えられるかを考慮することで、が、より極めて重要になってきたと言えそうだ。

そうした様々の要件を満たすために、どのようにカメラ席、新聞記者席をつくればいいのかということでもあるだろう。
それは場合によっては会場にいる観客席よりも重要な場所に設置されることもあるだろう。

近年のネットの変化も凄まじい。
ネット時代への対応の仕方も、オリンピックのあり方を大きく変えるだろうと思われる。
しかしまだそのネット時代のオリンピックの姿は見えてはいない。

いずれにしろ、オリンピックがよりバーチャル化する方向に進んでいることは確かだ。

広島にオリンピックを誘致しようとするとき、このオリンピックのバーチャル化という現象を、どう反映させるかは、これからの大きなテーマだろうと思う。

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2010年5月23日 (日)

機内サービスの有料化

ANAの無料の機内サービスが廃止され、すべてが有料になった。
4月1日から?
座席の前にMY CHOICEというメニューが置かれている。
スターバックスのコーヒーが200円、日本橋千疋屋のミカンジュースが500円、コカコーラが300円といった具合だ。

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日本航空が事実上倒産したことに象徴されるように、航空業界の競争は厳しい。
広島・東京間は通常料金で30,900円するところが、6月一杯までというが、45日前に購入すれば10,800円だ。
なんと3分の1だ。
広島駅・広島空港間がバスで1,300円することを考えれば、メチャ安い。

これじゃ、とてもやっていけない。
いままで無料でサービスとしていたものも、全て有料にしたいというのは当然だ。

航空運賃が30,900円なら、コーヒーの原価は100円としても、0.3%程度の負担ということになる。
まあこの程度なら無料にしてもたいしたことはない。
しかし航空運賃が10,800円となれば、話が違ってくる。
100円でも1%の負担だ。
200円で売れば、2%の収益になる。
この差は大きい。

それに加えて、有料にしたからといって、お客が減るわけではない。
有料化は企業としては当然の決断だ。

私は以前から機内のサービスは殆ど断っていたから、別に違和感はない。
この日は、スタバ―の密封型のコーヒータンブラーをもっていたこともあって、これで充分だ。

イヤホンも席に常時置かれていない。
頼めば持ってくるようだ。
新聞もなくなった。

本を持っていたから、おかげで読みたい本が読めるようになった。
有料化はいいことだ。
そもそも無料なんてのは、あるわけがないのだ。

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2010年5月22日 (土)

フラワーフェスティバルとANAホテル

フラワーフェスティバルには多種多様な屋台が沢山出店している。
その数、何店あるのかのかわからい位多い。
何しろ3間で、165万人の見物客の胃袋満たすだけの店舗だから、相当な数になることは確かだ。

平和大大通りに面して建つANAホテルの前にも屋台が出店している。
普段は車回し、駐車場になっているスペースに屋台を設置している。
ホテルにアクセスする道路が乗り入れ禁止になっているために考えたのだろうと思う。
屋台で食べ物や飲み物を売るーホテルにすれば、普段宴会場でやっていることを、屋外でやっているだけだ。
手なれたもんだ。
車のアプローチ部分に屋台を置いて、入口のドアに近い奥の方にテーブルと椅子を置いている。
テーブルとイスは屋根があるから、陽射しを遮ってくれるから調度いい。
雨が降ったときなんかは最高だろう。
真白な高い帽子と白い服を着ているシェフもホテルの中の宴会場で見るより恰好いい。

屋台の前にはかなりの行列が出来ている。
ワインとステーキとか、メニューもなかなかしゃれている。
ステーキとポテトのセットを買って食べた。
800円、ちょっと高いがまあホテルの料理だからこのくらい値段がしてもしょうがないか。

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ANAホテルにとっては、結構な収入になっただろうと思う。
フラワーフェスティバルの経済効果がこんなところにもあった。

ANAホテルの前の愛宕池の岩に座って食べている人も多い。
これも絵にもなる。

平和大通りに面してはもっと多様な沢山のお店がある。
それらが皆、こんな風に出店したら、フラワーフェスティバルはもっと面白くなる?

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2010年5月21日 (金)

映画「アンを探して」いよいよ広島劇場上映へ

 「赤毛のアン」が出版されて100年を記念した映画「アンを探して」がいよいよ広島で上映される運びになり、若き女性監督らスタッフを迎えた公開試写会が行われた。

 カナダ政府の助成金一億円に日本政府も協力した日本とカナダの共同制作映画で沖縄生まれで、今カナダを拠点に活動している宮平貴子監督が長年企画を温めてきた日本人プロデューサー、ユリ・ヨシムラ・ガニオン夫妻がアンの故郷、カナダでのプリンスエドワード島でオールロケで一年前に完成させた(2時間)作品。

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 監督はいま、ガニオン夫妻と3人で《全国の人に見てほしい》と鹿児島を振り出しに小さなキャンピングカー“テントむし”で北海道まで80日の予定で≪「人」と「心」と「町」を繋げる7000キロの旅≫に取り組んでいる。

 広島上映は6月19日から府中町のイオンモール・広島ソレイユ4Fの「バルト11」(082-561-0600)で2週間の予定で上映される。

 映画は‘08年の夏。プリンスエドワード島に一人の少女がやって来る。一緒に来るはずだった祖母が大切にしていた「赤毛のアン」を持ってきた。祖母が60年余も前に戦争の傷跡が残る東京で、初恋の相手だったカナダ人兵士の貰ったものだった。祖母が残したノートには黄ばんだ灯台の写真とバラ”ピース“が描かれていた。これを手掛かりに少女は祖母の初恋の人を探す…。暖かく見守る人達。淡い恋…。
 旅の終わりに、祖母の初恋の人?の墓に辿りつく…。

 大詰めに恋人の遺品から「被爆後の広島」の写真を見つける。悲惨な戦争にまつわる歴史環境の中で育った監督が機会あるごとに広島・長崎・沖縄の事実を伝える重要さを持ち続ける片鱗がさりげない形で織り込まれている…。退役軍人が「日本の捕虜収容者所で多くのカナダ人捕虜が死んだ…」事実を語り「攻めてはいない、知っておいてほしい」と語る。
 若い監督が初めての映画の中で試みる「戦争は最大の悪…」と小さな仕掛けが活きている。
 爽やかな、暖かい思いを残す。大人も子供も男女共に人の繋がりと愛情に満ちた作品だ。
<問い合わせ:広島映画センター:082-293-1119 http://www.h-eigacenter.co.jp/>

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2010年5月20日 (木)

憲法記念日・スケッチ

 「マスコミ9条の会」機関紙用に書いた山本喜介さんの原稿を転載します。
 足が悪いのに杖をつきながらあちこちと繋いで、現役記者顔負けのいいフットワークで5月3日のヒロシマをひらっています。

<ドキュメント「5・3」、ヒロシマを歩く>

■ 青空の憲法記念日
ことしの5月3日は日本晴れ。その空の下で「改憲反対」の署名の呼びかけ、渡されるビラには「戦争するための基地はいらない」の文字。
 「女性9条の会・ひろしま」の街頭行動に道行く人が足を停める。

■ ドーム前で、ホールで
 原爆ドームの広場では、「第九条の会ヒロシマ」の憲法リレートーク。「憲法実現のための法律」をテーマに、市民団体代表らが、非核3原則の法制化や、改憲手続法と九条の会の役割などについて訴えた。
 会場では、改憲についてのシール投票も行われ、「九条改正ノー」のシールが続々と貼られていた。YMCAホールでは、憲法を守る広島会議など4団体の「輝け 九条・活かそう憲法」と銘打った集会「憲法と日米地位協定」について、法政大本間浩名誉教授の講演を聴いた。

■ 歳月17年、継続は力
 開演30分前には長蛇の列。県民文化センターでの「2010年憲法集会」は超満員、600人あまりがホールを埋めた。
 恒例の憲法ミュージカルは、もう17年目。憲法記念日のヒロシマに大きな足跡を刻んでいる。
ことしのテーマは~子どもの幸せ、みんなの幸せ~、実行委の弁護士や高校生らの手作り台本を、半年かけて総勢100人を越すスタッフが仕上げた舞台。
 保育園から老人施設まで、福祉や教育の現場を憲法を通して
 考える演出は、記念講演(○面参照)と合わせて、心に響く。
 総合司会石口弁護士の最後の挨拶「この舞台、ギネスに刻まれるまで続けましょう」
 終演後聞こえてくる歓談「私の初舞台のとき2歳だったこの娘もう19です」「来年は卒業、この舞台決して忘れない」

■ しかし、新聞は
 翌朝、期待を込めて地元紙朝刊を開く。紙面はF・F一色。憲法とヒロシマをつなぐ記事は「シール投票とリレートーク」1本だけ。それに対しF・F関連は、写真26枚・記事23本。ヒロシマはどこへ向かうのか。

 字数制限の中で、実に効率良いスケッチが現場を彷彿とさせます。広島の活動家?たちはNYに結集中。3日はFFの初日とは言え中国新聞の編集長以下現場の記者も寝ぼけているのだろうか。
 私もまったく同感でした。極めて残念なことですね。新聞購読数の減少傾向に歯止めがかからないのも頷けます。あるべき読みたい、期待する記事のない新聞…が徐々に、減って行くのは当然の傾向でしょう。

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2010年5月19日 (水)

「木の芽和え」の頃

 季節の変わり目は旬の食材に恵まれ、旬を楽しむ喜びは大きい。この時期は、何といっても「木の芽和え」だ。昨日、今日と今年初めての「木の芽和え」をいただいた。

 映画センターの牛尾さんが茹でたての筍と山椒の小枝を届けてくれた。昨年は故郷匹見の竹藪が猪に荒れされて全滅だった。今年は猪が人の髪を嫌うと聞いて、美容院で髪をもらって竹藪のあちこちにおいた…と聞いていた。
 猪の被害をかいくぐった貴重な筍だ。牛尾家の匹見の別宅には筍や蕨などを湯がく直径1mを超える大釜を据えてカマドが築いてある。

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 医食同源の東洋医学的には筍は胃や体を冷やすと敬遠される食材だ。しかし、一捻りすると冷えを消す事が出来る。山椒がその役割をする。木の芽和えは正に打って付の旬の料理と言える。

 田舎育ちの私は子どもの頃から、祖母や母がつくる木の芽和えが大好物だった。
 白味噌に砂糖を利かして山椒がたっぷり刷り込まれ、賽の目に切られた筍と茹でたイカが酒や味醂の味と絡まって旨く、歯触りと食感に山椒の香りが春の味を醸して心地よい。

 所が、その山椒たるやスーパーやデパ地下の売り場では4~5枚が150~180円の値がついている。木の芽和えにするには2000円分でも買わないととても出来ない…事に驚いた。

 さて、もう35年も前のことだが「木の芽和え」に特別の思い出がある。
 この年の一月に急性肝炎を患って長期の療養をした。(後に、胆石のサイレントストーンが胆道を塞いで黄疸を引き起こした急性肝炎…とわかった)
 東京は世田谷の社宅マンションに住んでいたが、隣地の空き屋敷に大きな山椒の樹があって、我が社宅敷地にしなだれかかる様に越境していた。従って、毎年たっぷりと山椒を活かした木の芽和ええを頂く事が出来た。

 この時は4ケ月余、禁酒していたが「木の芽和え」を食べようとした時、久しぶりにお酒を欲しいと思った。冷酒をグラスに注いで口に運ぼうとした時、「そのお酒を飲んではだめ!」と当時小学校3年生だった娘が叫んだ。「お父さん、それを飲んだら死んでしまう!!」と泣き叫ぶ。やむなく酒を辞めて何故?と聞くと『お酒を飲みすぎて病気になると死んでしまう』と、だれかに聞き、父が酒を飲み続けると命を縮めてしまう…と、小さな心を震わせていたのだ。

 かねてより医師に「飲酒解禁はいつ頃か?」尋ねていた。医師は「飲みたいと思うようになれば、それが時期」と話していた。

 いくら説明しても聞き入れない娘の手を引いて医師を訪ねた。娘は医師の話を聞きながら「お酒は止めなさいと言えないの…」と言った。
 流石に医者も父の健康を気遣う娘に「酒は飲んでも良い」と言えず、私は暫くの間、禁酒状態を続けた…。

 この時、娘にとって「木の芽和え」は父に酒をそそのかす恐れの種になっていた。
 我が家では今でも「木の芽和え」時期の話題で、旬の味を通して思い出している。
 忘れられない「木の芽和え」にまつわる思い出だ。

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2010年5月18日 (火)

想定・鳩山首相の「安保NO?」作戦

 鳩山首相の就任後初めての沖縄訪問は米軍の普天間飛行場の移設を“県外”から県内移設への考えを初めて表明し、首相自身が設定した「5月末決着」が難しい事を示した。

 『最低でも県外移設』と掲げてきた首相の目標は「県外は現実的に難しい。沖縄に負担をお願いしなければならない」と県知事らに述べ、謝罪したかに見え…、マスコミは一斉に鳩山内閣の窮地を告げている。果たしてそうなのだろうか…?真の解決は…?何なのか。

 普天間基地問題は県内か県外かそれとも国外か?という問題なのだろうか…。
 沖縄が要らないモノを徳之島や他県が「受け入れる」と言う可能性があるのだろうか…。
 「全く無い」と考えて次の策を考えるべきではないか。

 東西冷戦構造が終わった後も自民党政府は米国に追随して解決出来なかった問題を、今ここで民主党政権が一気に解決できる…と考える方が不自然ではないか?

 マスコミは長年「米軍の駐留はやむを得ない」と世論を支えてきたが、ここに来て沖縄県では『安保条約は無い方が良い、もはや必要ない』との世論が広がった…と見る事が出来る。一般国民の多くは『安保で米軍に守られてきたから駐留は仕方ない』と思ってきた。しかし、安保は‘70年以後いつでも破棄できるのに一年ごと、自動延長されてきた

 それは米国が安保で日本を守る為ではなく、ペリーの来航以来ずっと米国のアジア戦略上、沖縄の重要性は変わらず“米国の国益を守る上で”手放せない…のが本音だ。

 安保が解消されると何はあるか。当然、日本国内の米軍基地・施設が無くなり、米兵も居なくなって犯罪もなくなる。返還された土地は経済活性化に活かせ、不平等条約だった≪地位協定≫は破棄される。年間2000億円の“思いやり予算”と6500億円の“在日米軍支援金“の必要性が無くなる。毎年1兆円を超える?米国の兵器購入もしなくて良い…などが挙げられる。単純な差し引きでは考えにくいが間違いなく激変が生じる。

 大阪府の橋本知事の「大赤字の関空対策で受け入れ?」案は逆説のブラックユーモア?ではないが、『米軍への思いやり予算を活かして基地を受け入れる自治体に大幅な助成金』を出す案など思い切った荒療治が、この際重要な策になって来るのではなかろうか?
 全国の各県に2つ以上あって、そのほとんどが赤字に陥っている地方空港を活用する案も打診してみては?恐らく米国は沖縄が欲しいわけだから地方空港が協力の名乗りを上げても、逆に断る…可能性が強いと考えられる…。
 改めて、日米安保条約に基づく米軍基地の導入を各県に打診し、場合によっては国民投票に付して『安保条約』の必要性を問う時期に来ていると言えよう。

 今こそ、日本のマスコミは「米軍基地の必要性」「全国の自治体の基地受け入れ」「安保の必要性」などを本気で国民と自治体に問いかけ、新たな日米関係や唯一の被爆国としての平和戦略を正してみる時期に来ているのではないだろうか?

 鳩山さん、今更“抑止力”などと言っていてはいけません。
 発想を大胆に切り替えて考え直してみるチャンスではないでしょうか…。

 いやいや、冗談ではなく実は鳩山首相は社民党や共産党と違って自ら『安保破棄』を言えない立場上、『国民の事実上の安保破棄』を引き出し、これを逆手にとる為の工作をしている…とならば、多少の迷走はむしろ対米的な政治的演出?と見る事もまんざら考えられない事でなない…?
 少なくとも民主党が政権の座に留まる3年以内を目標に「安保廃棄」をチラつかせながら「国外移設」を目指している…そんな想定をしているとは考えられないか?

 はたして日本にとって本当はどうするのが一番良いか。
 今一度、考えて見る必要性は…あろう。

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2010年5月17日 (月)

第一生命のTV CM

「これっ、アストラムラインじゃない」
妻にいわれて、気が付いた。

第一生命のTVCMに、夕暮れの中を走るアストラムラインとその車内、それに相生橋がチラッと出てくる。

子供がお母さんに「お父さん、偉くなったんだってねー」と話しかける。
「そうよ」と答える母親にダブって、課長になったというスーツ姿の男性が上司に怒られ、お得意先では作業服の男性に取り入ろうと懸命にペコペコ頭を下げている。
相生橋の欄干にぐったりと、もたれた姿も映る。
つり革を握り、暗くなりかけた太田川の上を?アストラムラインに乗って帰宅すると、子供が「お父さん」と出迎えてくれる。
というストーリーだ。
誰でもが経験するだろうと思わせるようなストーリーだ。

そのCMにアストラムラインと相生橋が出てくる。

CMは、広テレの「世界の果てまでイッテQ!」とTSSの「めざましテレビ」の「幸せの道 新米課長」編だという。

http://event.dai-ichi-life.co.jp/company/public/tv_cm/index.html

広島だけの放映かと思っていたが、全国放映されているようだ。

TVのCMの背景に広島の景色が出てくるというのは、結構嬉しいもんだ。
広島の景観が良いから使われたのだろうが、
このCMを作るに当たっては、広島フィルムコミッションが手配したのだという。
そんな人たちの努力があって、実現したのだろう。

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2010年5月16日 (日)

水辺のコンサートと雁木タクシーと折り鶴灯籠

原爆ドームの対岸の護岸広場では休日になると様々なコンサートが開かれる。

時々隣接する平和公園の上から聞いたり、元安橋の欄干の手すりにもたれて聞くこともある。

先日は、そこに1.5M位の大きさの白い折り鶴が数羽置かれていた。
フラワーフェスティバルのイベントの一環だったようだ。
日が暮れると、その折り鶴に青、赤、黄色と色とりどりの灯りがつけられ、元安川に浮かべられた。
奇麗だった。

広島ならではの光景だ。

1_4

数年前から、その護岸広場に雁木タクシーの発着場が設けられた。
縮景園との入場券とセット券も売られている。

コンサート、雁木タクシー、折り鶴、灯籠流し・・・

1か所にいくつもの要素が加わると、それなりの拠点性が生まれるようだ。
それにはやはり時間がかかる。

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2010年5月15日 (土)

フラワーフェスティバル 2010

今年のフラワーフェスティバルも無事終わった。
3日間とも晴れたこともあって、昨年より7万人多い168.4万人と歴代3番目の人出だったという。

「フラワーフェスティバルというから、花のお祭りだと思ってた。花なんてないじゃないか」
と東京から来た友人にいわれた。

そういわれてみれば、本物の花は平和資料館の前に作られた「花の塔」を飾る花と、パレードの先頭を走った花電車、
それに今年から加わった平和公園の芝生火広場に花のじゅうたん程度だ。
以前開かれた緑化フェア等とは大分様子が違う。

敢えていえば、フラワーフェスティバルのテーマである「きっと咲く!つないだ手と手に 平和の花」、そして仮設ステージに名付けられたるさくらステージ、カーネーションステージ、さつきステージとか。
バーチャルな花が一杯咲いている。
まあそれでも、みんな楽しそうだからそれでいいじゃないか。

広島のフラワーフェスティバルは、電通とか博報堂とかの広告代理店が取り仕切っているのではなく、34年間という歴史の中で、市民が中心になって少しずつの内容を充実させてきたことも大事なことだ。

2002年からは、5月5日に「きんさいYOSAKOIパレード」が加わった。

それぞれのグループは、おじさん、おばさん、それに若者、子供が、手作りだろう法被を着て、飛ぶようにして踊る。
なんともエネルギッシュで、格好いい。
これだけ恰好よく踊るには相当に練習したのだろうと思う。

お昼の12時から夕方6時ごろまでパレードは続く。
今ではフラワーフェスティバルのメインイベントになったようだ。

今年は54チーム2,600人が参加したという。
原爆資料館南に設けられたカーネーションステージではその技を競うコンテストも開かれた。

パレードは東の鶴見橋近くを出発し、平和公園で終わる。
1.2キロの間に、1グループは4回踊った。

どんなお祭りも、テーマは何か、どんな終わり方をするのかは極めて重要なことだ。
始まりよりも終わり方のほうが重要だ。

日本古来のお祭りは、通常五穀豊穣を願い、神社にお神輿を奉納して終わる。
「きんさいYOSAKOIパレード」は、「平和を願い、平和公園に納めて終わる」

フラワーフスティバルのパレードが西から東に向かって進むというのは、あり得ないことと誰しも思うだろうが、
それが、ごく自然にそうなっていたことが、このフラワーフェスティバルの凄いところだ。

でも平和公園と平和大通りの位置が逆になっていれば、パレードは西から東に向かっていたはずだ。

以前ある都市で、いろんなイベントができるようにと広場を作ったことがあるが、イベントは盛り上がらず、数も減り、いつの間にか、その広場も他の用途に変更され、消えてしまったということあった。

イベントを成功させるのには、賑わいを作ろうという思いを越えた「イベントのテーマとそれを象徴する空間」が必須の条件のようだ。
その都市の広場計画にはそれが欠けていたといえるようだ。

ソレイユやJTゆめタウンといったショッピングセンターにはいくつもの広場があるが、そこではそんなテーマをもったイベントを計画するのは難しいだろう。

それが中心市街地とショッピングセンターの大きな違いの1つなのだ。

フラワーフェスティバルには、そうしたテーマとそのための空間があるだけでなく、それに加えて、テーマを支える市民の思い、協力があった。
そうしたいくつもの要素が絡み合って、初めてイベントは成功するようだ。

5日の最終日の午後5時ごろ、三井ガーデンホテルの前のさくらステージの前は数百Mの間、通り抜けできないほどに混んでいた。
何事?
ガードマンが「側道におまわり下さい」と看板を掲げ、ハンドスピーカーで懸命に叫んでいた。
その数、何万人になるのだろか?
凄い数の人が道路に座りこんでいた。

聞けば西野カナさんのコンサートが、これから開かれるという。
西野カナ?
そんな歌手知らん?
携帯世代の歌姫だという。

1_3

フラワーフェスティバル期間中には、平和大通りに限らず、基町等市内のあちこちに仮設ステージが設けられた。
AからZまで計26か所もあるようだ。
カラオケの大会、トークショー、神楽とありとあらゆるイベントが催された。

このフラワーフェスティバルは今年で34回目だという。
1975年に広島東洋カープのセントラル・リーグ優勝パレードが行われ、当時としては驚異的な30万人を動員したことを契機にこのフェスティバルが始まった。
それが今では1日に50~60万人もの人が集まり、3日間で200万人近くもの人がくるイベントになった。
国内でのGW期間中の最大のイベントになっているという。

広島市には、それだけの人を集めるポテンシャルがあるということだ。

当然駐車場はパンク状態だろうし、アストラムライン、広電、バスの公共機関を使う人も多いはずだ。
本通り、うらぶくろ、いたる所が普段では見られない賑わいを見せていた。

金井氏はこうしたイベントの経済波及効果は1人当たり8千円だと言っていた。
そこから計算すると、168.4万人×8,000円=134億円ということになる。
たった3日間でこれだ。
凄い。

広島の街中にあるこうした広場、オープンスペースは長い歴史の中で育まれてきたことでその価値を創ってきた。
歴史の重みと広場の価値を改めて知った。

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2010年5月14日 (金)

『記者からニコヨン』を生きた吉田治平さん②

 3月24日付けの「『記者からニコヨン』を生きた吉田治平さん」の2回目の原稿を頂いた。

 吉田さんは‘50年にGHQ(連合軍総司令部)が占領政策の一環で強行した「共産党と同調者・支持者」と判断された活動家を職場から追放したレットパージ(赤狩り)で中国新聞記者を追われた。その後、復職闘争などを経て失業対策事業(当時の給与からニコヨンと呼ばれた)を取り仕切る全日自治労の委員長として労働運動の先頭に立ち、平和運動にも傾注された広島の一時代を担った労働運動家だった。

 その吉田さんに「広島マスコミ9条の会」の会報に執筆をお願いしたものを、当ブログにも掲載させて頂いた。少し、長めの連載に成るか…と思っていたが、古巣の中国新聞が“生きる”欄への連載を始めるので今回で終わり、中国新聞を通じて改めて“吉田治平さん”をご覧いただくよう、紹介する。

 私と憲法 吉田治平 <下>

 敗戦、原爆と多大な犠牲を強いられた私たちは、二度と戦争をおこすまい、
 廣島を二度と繰り返すまいと再建と復興に立ち上がりました。
 国土も、国民生活も荒廃の極でした。不法と暴力のはびこる世に、頼りになるのが、平和憲法、民主憲法でした。
 働くこと以外に収入のみちのない私は、職場の中国新聞に入社した昭和20
年9月、先輩の指導ですぐ労働組合結成にとりかかり、賃上げ、職場民主化、などを要求してストライキを決行し、21年には「夕刊ひろしま」にとばされ、
クビになりました。
 「憲法で保障された、団結権、団体行動権の行使にクビにするとは何事か」と争いました。地方労働委員会に提訴し「解雇無効、現職復帰」の決定を得ました。しかしその時「夕刊ひろしま」はすでに廃刊となっており、職場復帰はかないませんでした。
 首切り反対闘争が長引いているあいだ、24年8月に「何かやらねば」と失業対策事業に登録し、ここでもすぐ、壊滅していた労働組合を再建しました。
 ここでの交渉相手は政府、県、市などです。「賃金あげろ」「アブレなくせ」などの交渉相手は公務員相手の憲法論争です。「戦争と失業と貧乏に反対する綱領」を持ち、憲法を楯にする組合側の、勝ちです。
 当時の本省から「組合と交渉するさい、憲法論争に巻き込まれるな」との趣旨の通達がきたことがあると、役人が述べていました。
 いま組合は、建設交通運輸一般労組(建交労)と名前もかわり、「憲法を活かし、平和を守るたたかい」に全力をあげています。<完>
 吉田さんは昭和30年代から平成の始め頃まで広島の労働界や平和運動の先頭に立っていた活動家だが、被爆直後の広島へ入市して被爆し、父上の職場だった中国新聞を訪れ偶然にも?記者になった。壊滅的な被害を受けた中国新聞の記者となって新聞社の再興を支え、混乱期から復興期の広島の裏面史や憲法を巡る事実や話題などの貴重な証言者だ。

 吉田さんの記事はこれで終わりますが中国新聞は十数回の連載に成る事でしょう。
 何はともあれ、中国新聞の連載企画記事に期待し、終わる。

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2010年5月13日 (木)

平和大通り・今昔

 今年もFFが始まった。160万人の人出が予測されて、全国的にGW人出ランキングのベスト3を飾るイベントに成長した。

 若い人には意外に知られていないのがFF発足の由来だ。昭和50年10月にカープが後楽園で巨人を破って初優勝した。広島に帰ってきたカープを出迎えて、平和大通りで行った凱旋パレードに30万人が埋め尽くした。これにヒントを得て昭和52年から始まった。
 原爆でお祭りや行事が復興できなかった広島の新しい祭りを創って元気づけよう!!と始まって今年は34回目になった。

 平和大通りは戦後すぐに平和都市建設法に基づいて行われた都市整備に始まり、広島の都市復興の背骨として造られた。そこは、皮肉にも米軍の空襲による火災延焼を食い止める為の防火帯として建物疎開が進んでいた…地域だった。実際には原爆で壊滅して何もない街に、道幅が百メートルもある事から“百メートル道路”の名前で建設は進んだ。
 昭和23年には未だ建設途上の小町地区で大きなテントを張って、木下サーカスが行われている。木下サーカスは爾来5~6年ごとに広島市内で興業をしてきた歴史?がある。

 昭和40年?(‘65年)には自衛隊が戦車を連ねたパレードを繰り広げて県民の間で物議を呼んだ。この時、RCC横を大きな地響きを立てて通過した際、放送機器に与えた振動で放送が中断するトラブルが発生するなど大きな反発があった。この為か、県庁前などでもあった自衛隊のパレードは広島市内から姿を消していった。

 とは言え、FF当初は自衛隊13師団の音楽隊が先陣を切ってパレードをしたが、これにも少なからず抵抗の声があり、数回の出場で県警や消防の音楽隊に変わった経緯がある。

 昭和3~40年代には、現在の大成建設広島支店の辺りに予備校の英数学館があった。
 昭和32年から一年間お世話になった。
 当時、英数学館の前には広島発祥のエスキーテニスのコートが10面くらいあった。
 片面が畳4畳程度のコートをネットで挟み、木製の卓球よりやや大判のラケットでスポンジのたまに羽根がついた球を打ち合うテニスと卓球のミニ版のような競技だ。

 いかにも原爆で壊滅した街で生まれたように木切れとスポンジがあればだれでもどこでもできる遊び?だった。当時、ラケットの使用料が10円位?か無料だったかもしれないが仲間同士でいつでも出来るようにキープして楽しんだものだ。
 今はコートは牛田に移って全国組織の協会を維持しながら競技も行われているようだ。
 鶴見朝界隈の大通り沿いには全国から寄せられた県木が植えられている。
 世界各国から贈られた記念樹も多い。
 長らく出来た当時のままだったANAホテル前の市の史蹟・愛宕池などの整備が進み、小町・中町界隈の平和大通りは,FF後には芝生の貼り付けもされて装いを新たにする。

 FFが終わると平和大通りは楠木の萌黄色と白とピンクのアメリカハナミズキが輝きを増す、普段通りの公園録地帯に戻り、平和公園と並ぶ広島のシンボルとしての役割を担う。

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2010年5月12日 (水)

術後4周年

 4月末で、胃の全摘出手術をしてから4年が経過した。
 肺へ転移告知を受けて2年余が過ぎたが、幸いにも何とか生き延びている。

 4年前の手術では脾臓と胆嚢を切除し、胃と接した膵臓の一部を浸潤防止の為に削った。
 胆嚢は長年あった胆石の塊を除去するためで、脾臓は貧血や出血傾向を防ぐために摘出された。原因不明の出血は無くなったが、ヘモグロビン値は常に正常値を割っている。
 成人で11~17が正常な所が、常に10以下の低位安定だったが、3月の検診で8,5とひどい貧血状態だった。この為3月末から貧血の治療を続けている。

 そういえばヘモグロビンの値は年末ころから下がっているのでは?とシバシバ感じながら推移した。自転車で平和大橋渡る際に橋の袂の坂を上がるのに少し息切れを感じていた。
 大して苦痛は無いので、そのままにしていた。4年前の手術前、朝起きがけにふら付いたり布団の上げ下げでしんどかったり、少し動くと呼吸や脈が早まった。案の定、検査結果7-2と異常に低い値で為緊急入院した事があった。

 貧血は女性に多いが、成人男性には少ない。赤血球は血流に乗って酸素を全身に運ぶ働きをしており、これが足りなくなると十分な酸素を運ぶには血流量自体を増やしたり、呼吸量を増やすことで代えなければならない…。

 中学3年から高校生時代に年に1~2度、とてつもなく大量の鼻血が出て医者の往診を頼んだ事がある。たいてい春の時期だったように思う。
 体質的なものが尾を引いているのか?分からないが、脾臓の切除以後一度だけ下血があり、短期入院して検査をしたが分からなかった。しかし、それ以後、理由のはっきりしない終結や下血は無い。

 今回の貧血に対しては大学病院に通わず、昔から知り合いの近場の医院で週一回の鉄分の血管注射で補強をしている。5回済んだ4月末のチェックでヘモグロビン値は9.3で、意外に低く後しばらく継続することとなった。

 人の体はおかしなもので、低位の数値が続くとそこに慣れて、あまりシンドイとか苦しいと思わなくなる…らしい。しかし、それは怖い事でもあるので、今回は10を目標に治療している。8月末のCTチェックまでに少し気長な治療を進める事になる。

 がん患者のチェックポイントは一般的にまず5年と言われている?
 胃から肺への転移の次に、一般的には脳への転移が多いと言われている。幸い、と言うか今のところは、それは無いが、手に足腰は着実に加齢?現象が顕著になっている。
 あれこれと余分な事は考えず、来年の満5年を目指して与えられた余命を繋げていきたい…と思う。

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2010年5月11日 (火)

北朝鮮の被爆者救援に寄せる想い

 北朝鮮に暮らす被爆者への支援について考える講演会と映画の上映会を開いた。
 日曜日の午後、200人近くが参加して3時間半に及ぶ会は途中で帰る人もなく盛会だった。

 『被爆者はどこにいても被爆者』は在韓被爆者の郭貴勲さんが‘02年に大阪高裁で勝ち取った判決だ。以後、政府は海外在住被爆者支援の拡大を徐々に定着させてきた。

 長年、日本の『過去』と『現在』をアジアの民衆の視点で捉えてきたホト・ジャーナリストの伊藤孝司さんは朝鮮民主主義人民共和国で暮らす被爆者の一人にスポットを当てた「ヒロシマ・ピョンヤン~棄てられた被爆者~』を制作した。

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 3歳の時、母親と入市被爆した。その後何も知らないまま、18歳の時に一人で祖国建設の為に北朝鮮に渡った李桂先さん(68)は59年後の‘04年に初めて被爆の事実を知る。
 健康を害している李さんは被爆者手帳の申請を希望するが日本政府は『在外公館を通じて…』を原則
に対応している。国交がなく日本公館が無い北朝鮮の被爆者は打つ手がない。かつては2千人を超える者が帰還した北朝鮮の被爆者は高齢化と後遺症?が進み、今は400人足らずと伝えられ、日本から差別の中で棄てられた状態が続いている。

 25日に開かれた北朝鮮の被爆者支援を考える講演会と映画上映会ではまず伊藤監督が立った。映画の最後に李さんが広島の大竹に住む母に向けて9分間にわたる想いを語る場面について語った。
 「見る人達がどれだけ自分のこととして受け止められるか。日本の朝鮮支配と被爆、加害の歴史を正面から捉え、忘れられた存在を考え直してほしい」とこの映画に寄せる強い想いを訴えた。

 「はだしのゲン」や丸木位里・俊夫妻の「ヒロシマ」や「カラス」が自分にとってこの問題の原点と言う広島市立大の金栄鎬準教授は東京生まれの在日3世。『日朝不正常関係の中の在朝被爆者』をテーマに講演し「早急な人道支援が必要」と指摘した。

 未だに国交がなく不正常な関係の日朝は核開発や拉致問題と殖民地化の歴史の中にあって、在韓被爆者と比べて在朝被爆者には大きな差別を残したままの状態が維持されている。
 この現実を「国交がない」というだけで放置することは最早、人道上許されない。歴史上、殖民地被害側が国交正常化求め、加害の側が拒否した状態が続くのは異常なことで、「早急な人道支援は日本政府の責任」と強調する。

 2人の発言にはそれぞれ日本から見捨てられた北朝鮮の被爆者に寄せる強い想いを感じた。
 不正常な日朝関係は拉致問題にも増して、人道的な被爆者支援が重要で、これが国交正常化の入口に成る可能性は強い。
 日韓合併百年の今年、いま一度、歴史を正視した北朝鮮被爆者支援は焦眉の急…との認識が必要に思える。
 その為の手掛かりに、映画「ヒロシマ・ピョンヤン~棄てられた被爆者~」は大きな手掛かりに成る。ぜひ、普及に活用ください。

上映の連絡先:〒730-0853 広島市中区堺町1-2-9 貴志ビルf1・
広島映画センター:082-293-1119
http://www.jca.apc.org/~earth/

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2010年5月10日 (月)

3Dテレビ

 世紀の大ヒット3D映画「アバダ―」の影響?なのか、偶然のタイミングか?家電量販店のテレビ売り場は、デジタルテレビの次世代テレビ“3Dテレビ“が幅を利かせている。

 3Dとは3次元コンピューターグラフィックの立体映像・音響で、所謂“飛び出す映像“だ。
 初めて本格的な3D映像にお目にかかったのは10年位前のディズニーランドだった。
 これは3D映像と座席が連動して、3Dメガネをかけてみる映像は大きな動物が動くと地響きが座席に伝わり、頭の上から被さって、雨や雪が降るような感覚も伴って観客はみんな悲鳴を上げて体を捩じらす…そんな3D映像に度肝を抜かれた経験がある。

 3D映像は人間が左右の目で少しだけ異なる映像を見ている。この『視差』が脳の処理で奥行きや立体感を生みだす特徴を活かし、右目用と左目用の映像を交互に1秒間に60コマ,計120コマを交互に高速再生する。これを専用の3Dメガネで見る…のが臨場感のある3D映像として楽しめる。原理を活かした写真映像は子どもの頃の雑誌の付録でもあった。

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 店頭に並ぶ3Dテレビは40から60インチと大型で値段も4~50万円余とまだ一般家庭への普及には高すぎる?が、さすがに迫力は満点で野球やサッカーにゴルフなどスポーツ番組の観戦には打って付だ。しかし,3Dメガネの着用が必須な分メガネの人には使い勝手が悪く改良が課題だ。

 電機メーカー各社は今年、家庭用の3Dテレビを投入の予定で、エコポイントの追い風を受けて好調な売れ行きの薄型デジタルテレビに続く「次世代テレビ」の本命…視され、世界市場ではデフレの救世主と期待されているようだ。

 受像機の開発、売り出しは本格化しつつあるが、映像を送り出す放送局側の体制は出来ているか?と言えば、まだ不十分極まりない。テレビ局側はキィー局ローカル局共に、来年7月に迫ってきたデジタル化と今のアナログ放送終了と言う大命題を抱えて、3D化は正しく次世代の課題であって、まだまだ追いついていない。
 また、3D映像ソフトの商品化もこれからで映画とタイアップした開発などが企画中でお茶の間への普及となるとまだしばらく先のことになるだろう。
“広島五輪“が実現すればその頃は間違いなく3Dテレビ時代が到来している!?

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2010年5月 9日 (日)

ゼロリスク

日経ビジネス2010年4月19日号にちょっと面白いインタビュー記事が載っていたので、紹介したい。
インタビューに答えていたのは弁護士の国広正氏だ。

「アメリカにおけるトヨタのHV自動車のリコール問題や花王のエコナの特定保健用食品表示許可返上など、企業にとって厳しい時代になった。

人はゼロリスクを求める傾向がある。
しかしリスクを完全に払拭するのは不可能だ。

火事の可能性をゼロにするのは現実問題として不可能だが、消火器を置くことで、被害のリスクは小さくできる。
ゼロにしようとすれば、建物を建てないのがベストだということになってしまうか、或いはとてつもないコストがかかるということになってしまう。
それは消費者の不利益につながることでもある。
リスクをゼロにするのでなく、適正な範囲にとどめるというのが正しい選択だ。

消費者の求めるままに回収して処分するのが正しい選択では必ずしもない。
勇気をもって戦うことも必要だ。
消費者の批判が高まると、技術論、法律論の次元を越えて、企業イメージへの損害をいかに抑えるかの視点からの判断をしてしまいがちだ。

つまるところ対策は日ごろから、消費者の意識を理解する仕組みを作っておく必要がある」
といっている。

極めて当たり前の結論になっているが、
「ゼロリスクにすることは不可能だ。あるいは社会的コストが高くなりすぎ、それは消費者にとって、必ずしも利益にはならない」という指摘は興味深い。

建築にあっても、冬になると窓ガラスが結露する。
ガラスを二重にするとか、自動車のフロントガラスのようにガラスの中に熱線を組み込むとか、温風を吹き付けるとかということをことすれば避けられるが、ビルの窓ガラスの全てにそんなことをすれば、膨大な額になってしまう。
そんな負担ができなければ、窓ガラスを止めろということになってしまう。
建築では、結露しないようにするのではなく、結露した水が部屋の中にこぼれてこないように、サッシの下に溝を設け、結露の水をうけ、自然に蒸発するのを待つか、サッシに設けた穴から水を外に逃がすようにしている。

人はなにかあるとすぐ、「ゼロリスク」にしろというようなことをいうが、そうではない工夫をすることについて、人々はもう一度考えてみる必要がありそうだ。

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2010年5月 8日 (土)

広島市現代美術館へのアクセス

時々平和大通りを散歩する。
GWの頃は暑くもなく、寒くもなく、新緑の平和大通りを散歩するのには最適だ。

平和大橋から歩き始め、フラワーフェスティバルの準備作業を見ながら歩いていたら、平和大通りの東の端、鶴見橋まできてしまった。
ついでだと、比治山の上の現代美術館まで足を伸ばした。

平和大通りから直接比治山に登る道はない?
仕方なく鶴見橋を東に折れ、広電の電停比治山下の先を右に曲がって、車道の脇の歩道を歩いて登った。

企画展は「ウイリアム・ケントリッジ展」、常設展は広島市現代美術館の収蔵品の都築響一市の選による展覧会の2つが開かれていた。
2つともなかなか見応えがある。

広島に住んでいるからこそ、こんな気軽に展覧会が見られると改めて感じた。
東京でなら、これだけ内容のある展覧会をみようとした大変だ。

帰りは、平和大通りへ降りる短絡路はないかと探した。
美術館の石垣にかかっている地図を見ても、そんな道は画かれていない。
だからといって、あの車道をもう一度歩いて帰る気にはとてもならない。

比治山トンネルの真上にいくと、それらしき道をみつけた。
あまり歩く人はいないのか、木と草の間に獣道のように道がある。
駄目なら引き返してくればいいやと、分け入った。
平和大通りまでなんと降りられた。
比治山トンネルを通る道の両サイドには、ちゃんと現代美術館に通ずる道はあるではないか。

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それにしても勿体ない。
この階段と道を、もっときちんと整備したらいい。
平和大通りから比治山が繋がり、平和公園・平和大通り・比治山公園が一体のものとなるはずだ。

そうなればフラワーフェスティバルの時などには、平和大通りから比治山に登って、一休みする人もいるだろうと思う。

比治山トンネルの東側には立派なエスカレーターがあるではないかというかもしれないが、平和大通りを歩いている人がトンネルをくぐって東側にでて、エスカレーターを使うなんてことはあり得ない。

比治山公園は、平和公園と車ならすぐ行ける距離にあるからといって、繋がっているとはいえない。
歩いて行ける状態になって、初めて空間的にも繋がっていると言えるのだ。

日本全国どこでもそうだが、いままで車主体に街づくりをしてきた。
これからの街づくは、「歩いて暮らせる街づくり」をすべきろう。

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2010年5月 7日 (金)

明日の神話と広島市現代美術館

広島美術館には常設展と企画展の2つのゾーンがある。
その常設展の出口に近いコーナーに岡本太郎の明日の神話の原画が展示されている。
1967年に描かれたという原画は、横幅が195cm、縦が148cmと小さい。
畳1畳を縦に半分に割った程度の大きさだ。

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壁画本体は、縦5.5M、横30Mと大きい。
原画は広島市民が誘致運動をしていた壁画本体に比べればはるかに小さいが、壁画の原画=オリジナルだから、その精神は同じだといえる。
ある意味、その思いはもっと強いといえるかもしれない。
広島市現代美術館は、広島にある美術館として、その存在理由=レゾンデトレをまた1つ加えた。

壁画本体は、岡本太郎がメキシコで建設されるホテルのため製作したが、ホテルが倒産したために行方不明となっていた。
それが2003年メキシコの倉庫で発見され、日本に移送されて修復された。
壁画を広島に展示しようという市民運動も起こったが、結局2009年8月23日、渋谷マークシティーの京王井の頭線渋谷駅とJR渋谷駅を結ぶ通路の壁面に展示されることとなった。
通路の人通りは毎日30万人からあるという。
広島に展示されなかったことは残念ではあるが、
「核廃絶というメッセージを発信する場が東京にもある」
ということでもある。

核廃絶への思いを訴える方法は様々にあるということを、今回の件は教えてくれた。

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2010年5月 6日 (木)

ラジオ「ちびっこバンザイ!」復活出版

 RCCラジオの午前中、その時々のテーマに子ども達が本音で答える「ちびっ子バンザイ」と言う36年も続いた長寿のミニ人気番組があった。
 残念ながら2年前に終了したが、20年間、番組を担当したディレクターが活字にまとめて出版した。 『ちびっ子バンザイ!広島っ子バンザイ!~ラジオの向こうの子どもたち~』だ。

 番組のスタートは昭和47年の3月だった。当時は複数のディレクターが担当して、家族のこと、遊びや学校のこと、友達そして日常の話題で子どもの本音トークや爆笑トークで“子ども主役“のインタビュー番組だった。放送は3分間と短いが広島弁や備後弁丸出しで子どもたちが本音で屈託なく語るテンポが視聴者に好評を得ていた。番組のコンセプトは『家族の繋がりを大切にし、子どもたちの健やかな成長を応援する』と言うスポンサーのタカギベーカリーの企業理念が反映されて長寿を支えていたようだ。

 著者の川島由美さんはRCCへ入社後、昭和64年からインタビュアーとなり結婚出産で退職後も、子育てをしながら引き続いて最終放送までこの番組を20年に渡って担当した。
 420ケ所で延べ12000人の子どもたちと、3200本の番組を制作・放送した。

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 放送終了を機会に膨大な記録テープの音起こしから子どもたちの輝く言葉を残している。しかし
活字にするとラジオで伝えた明るさや躍動感が伝わりきらない。そこで、その時々の記憶を辿って印章に残ったエピーソードをエッセイにまとめて
 構成し雰囲気を伝える表紙も自作で飾っている。

 目次をめくって見ると『学校・友だち・くらし・家族・ちびっ子』“バンザイ”の5章に放送テーマを柱に現場インタビューを採録しながら、コラムを添えている。
 *1年生になったーら*新一年生にアドバイス*6年生は大変です!*こんな家庭訪問だったらなあ…といった具合。先生の自慢、特技や介護に自分たちの未来、父母の存在、親孝行、故郷、平和など実に幅広いテーマに軽妙洒脱な発言がてんこ盛りで面白い。
 子育て中の若い両親にはとてもいい参考になるアドヴァイザー的な読み物になっている。

 残念ながら本屋さんには置かれていない。
 購読を希望される方やご意見のある方は以下のメーを通じて行ってください

川島 由美<RCCラジオ:ちびっ子バンザイ・元ディレクター:tibikkoban@yahoo.co.jp>

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2010年5月 5日 (水)

被爆者ドキュメント映画・2題

 世界の国々を船で訪ねるピースボートの「ヒバクシャ地球一周・証言の航海」を舞台に二人の若い監督が製作したドキュメンタリー映画の上映会が開かれた。

 NGOのピースボートは長い歴史の中で初めて‘08年9月から4ケ月に渡る航海で103人の被爆者を招待し、一般乗船客800人と一緒に20ケ国を訪れ、核廃絶を訴える活動に取り組んだ。

 この航海にコスタリカと日本の若い監督が同行し「原爆について何も知らない人」に向けてそれぞれの思いを込めて完成させた記録映画を、全国巡回して上映している。

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 軍隊を持たない平和な国として知られるコスタリカ生れで米国の大学院で映画製作を学び、母国で社会派映画の製作に取り組んでいるエリカ・バニャレロ監督(29)は『フラッシュ・オブ・ホープ~世界を航海する被爆者たち~』(61分)を制作。核兵器のない世界への“希望の光”(タイトル)に願いを込めた…。彼女の制作意欲を掻き立てたのは「広島・長崎の惨状は戦争を終わらせた」という中学の教科書2行の記述だった

 被爆者の意味を正確に解きほぐしながら、カナダ在住の被爆者サーロ・節子さん(78)の「核兵器は人類と共存できない」怒りと核の恐ろしさを、素直に伝えている。
 船旅に参加した英、米、豪の専門家の解説と自作のサダコのオリジナルアニメやアニメ映画「はだしのゲン」に被爆者が書いた絵のどを上手に使いこなして、ヒロシマ・ナガサキは知っているが『そこで何が起き、どうなったのか』を知らない人達が「核兵器の恐ろしさ」が理解できる内容にまとめている。
 核問題の入門教材として世界各国での活用が期待されており、日本の中高校などでも十分活かされる作品だ。

2_3

 『ヒバクシャとボクの旅』(64分)は、かつて広島修学旅行で被爆者の証言を聞いても「どうすればいいのか分らなかった」と言う国本崇史(29)監督が被爆者との船旅を通じて「被爆体験の継承とは何か」をテーマ描いた作品。

 ベトナムで枯葉剤被害者の話を聞いて「どうすればよいか分からない」と悩む被爆者に、監督自身が「自分と同じもの」を感じる。
 被爆当時3~4歳以下で被爆の記憶がない被爆者は、自分達が何をすれば良いのか悩み、船内で話し合いを始める。
 被爆の記憶を持たない若年被爆者は学習による追体験をしない限りなのも知らない非被爆者・関心を持たない、何も知らない一般人と同じ…と気付き始める。
 そして、見る人それぞれに『私たちは何が出来るか』を投げかける。

 5月3日から国連で始まるNPT再検討会議に合わせて、世界から参集する人達を対象にニューヨークでも上映する。

 二人の監督は『核兵器で何がもたらされたのか、世界はそれを知り、継承の義務がある』と言い、「被爆者から聞くだけでなく、一緒に何が出来るか考えなければいけない」その為のヒントに是非見てほしいと訴えた。

 横浜、山口、長崎と上映して来たエリカ・バニャレロ監督は空席の目立つ会場を見渡して“残念“と繰り返した。広島で多くの観客を期待していたことをうかがわせると共に『核兵器廃絶への道』への厳しい現実を実感させた?かに見えた。…。

 ピースボートは今後も全国上映を展開しながらこの2作品のDVDをセット3千円で販売すると共に個人やグループでの上映権を2本セット3万円で販売を始める。

 また、ピースボートは、現在『ヒバクシャ地球一周-第三弾』を展開中だ。
 こんな厳しい時期に平和活動に積極的な取り組みをするピースボートに敬意を表すと共にDVD普及と同時に上映を希望する学校への貸出にも取り組んで欲しいと期待する。

<問い合わせ>
ピースボート『ヒバクシャ地球一周』プロジェクト:担当・森田あさと
〒169-0075 東京都新宿区高田馬場3-13-1-B1 
http://www.peaceboat.org Tel:03-3369-7561 
E-mail: info@peaceboat.gr.jp

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2010年5月 4日 (火)

聖湖の正直村

 匹見から帰る途中、北広島町の聖湖の湖畔にあるユニークなレストラン喫茶“正直村”に寄り道した。

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 去年の6月、匹見からに帰りに行ってすっかりフアンになった牛尾夫人のお勧めだ。
 驚いた事に、日曜の夕方と言うのに数十台の車があって、店内は満席なので湖畔の野外のテーブルでコーヒーを頂いた。

 湖畔のログハウスは臥竜山を正面に眺め、カラマツの木立を柱に活かしたベランダや屋外ステージも静寂の中にあって、ゆったりした時間が過ごせる。

 聖湖は昭和32年に(‘57年)出来た樽床ダムの人工湖で、臥竜山(1223m)の美しい姿を湖面に映す周囲27キロもある湖だ。ブナやミズナラ、カラマツの原生林が新緑と紅葉の頃はとくに美しく、夏はキャンプ地として知名度が高い。

 屋外のステージではしばしば神楽や太鼓にバンド演奏が行われ、熱いフアンの支持が大きいようだ。湖面を泳ぐ数十羽のカモは渡りをしてきた野生だ。餌場に立つと一斉に集まって来て餌をねだる姿は愛嬌がある、が…餌箱から上のロッジには近づかないのは感心だ。

 所で、この時期こんなに多くの人が何故?と不思議に思っていた所、帰り際にオーナー夫人の「お友達が亡くなった主人の追悼会を開いてくださった」との話に驚いた。
 冬場の閉店中に亡くなった為、春からの開店を機に“正直村フアン”が今後お店を引き継いで頑張る夫人を励ます会が開かれていたのだ…。彫の深い中近東系人の風貌のご主人の印象が強かった牛尾夫人たちにもショックは大きかったようだ。ご冥福を祈るばかりだ。

 帰路に就く頃、正直村の入り口までの数百メートルの取り付け道路の両端には可愛い小さなランタンが輝き、夕暮れの深い森の静かで優しい雰囲気を演出していた。
 国の特別名勝三段峡のすぐの上流で西中国山地国定公園に指定されているこの一帯は瀬戸内と並んで広島が誇る優れた観光地だ。
 思いもしなかった40年振りの聖湖を満喫し、匹見の桜と双川峡…と充実の一日だった。

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2010年5月 3日 (月)

島根の名勝・双川峡

 匹見の春を満喫しての帰り同じ益田市の美都町にある島根県が名勝に指定している双川峡(そうせんきょう)に行った。
 この辺りでは匹見峡や断魚溪や旭峡は知られているが、初めて知った滝と峡谷で新緑と紅葉の名所だが、個人所有の名勝とは珍しい。

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 双川峡は三隅川の支流の板井川上流の渓谷で落差20mの豪快な『養戸の滝』がある。

 そばにある大銀杏の幹は大人5人が手を繋いで6m、高さ43mの古木であるが樹齢は不明だ。

 滝の正面には“400年前、京都の清水から飛来した“との伝説が残る観音堂があり、“霊が感じ
られる…霊場“として、いまも毎年7月17日に『17夜祭』が盛大に引き継がれている。

 滝の下流は巨岩や奇岩が積み重なり、ケヤキ林を中心にカエデ類の落葉広葉樹やウラジロ、藪椿等の渓谷特有の常緑樹が広がっている。

 また、大銀杏から100m下がった所にある六地蔵脇の杉の古木は『薬師杉』と呼ばれ、幹の中に“薬師“を刻んだ石を抱き込み、地元では『歯の神様』として古くから崇敬を集めている…という。

 周辺は名所としての景観が維持され、滝と巨木に渓流の岩が周囲の樹木と調和し、川には天然のクレソンが自生し、だれでも採取することが出来る。

 地形の特徴と貴重な植生が残された600mにわたる急流と広い淵が織りなす渓谷の景勝地は希勝であり正しく島根の名勝だ。

 広島から一時間半と以外な近場、春が良いが夏も秋もお勧め出来る…。ここも、アクアス等に行ったついでに立ち寄って見る価値の高い名勝だ。是非、一度足をはかばれる事をお勧めしたい…。

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2010年5月 2日 (日)

大学のオープンカフェ

久しぶりに東京に出かけた。

明治通りに面した大学のキャンパスの塀の一部を改装して、タリーズのカフェが出来ていた。
いままでのコンクリートの棒を並べて作られた塀を取り除き、建物との間のわずかな隙間を使ってカフェは作られている。
カフェの窓ガラスはその塀の代わりになっている。
窓側に座れば、大きなガラス窓越しに明治通りを通る車、人が見られる。
これは結構楽しい。
キャンパス側は床には木製のデッキボードが張られ、木製の椅子、テーブルが置かれ、オープンカフェになっている。
大きなクスの木が庇の一部をくりぬいて残されている。

通りを歩く人は誰でも入れる。
カフェは学生専用ではない。
門を通らずとも入れる。

近頃の大学は、随分と粋なことをする。

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こんなカフェの作り方は、1960年代、大学が荒れ、全共闘世代と言われる人々には信じられないことだろう。
あの頃は、大学は校門を閉め、建物を占拠しようとする学生たちを締め出した。
塀は大学を守る象徴でもあった。

それが今では、大学の塀がどんどん消えていっている。
とうとう塀に代わって、カフェまで作られた。

大学にとって産官との連携は今重要なテーマになっているが、それに加えて地域との連携の仕方についても問われるようになっている。
塀に代えてオープンカフェを作るというのは、その象徴的な答えだといえるようだ。

でも、これではコンクリートの塀に代わってガラスの塀ができたような感じだ。
もっと徹底するなら、パリのカフェのように、道路に面した側に人が座れるようにしたらいい。

門の南側にはまだ半分塀が残っている。
こんどはそちら側にそんなカフェを作って欲しい。

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2010年5月 1日 (土)

日本焚き火学会2010

今年の日本焚き火学会は4月17日、安芸太田町大字穴で催された。
休耕田だろう、東斜面の棚田の真ん中に、石が積まれ、焚き火用の炉が作られた。
周りには丸太の椅子がおかれ、数軒の模擬店も出店していた。

2時頃から三々五々が集まって来て、なんとなくお喋りして、飲んで、食べて、解散になる。
たったそれだけのことだが、それで日本焚き火学会と称している。
可笑しい。

色々工夫はされている。
お酒を輪切りにした竹筒にいれて、火の脇に突き刺して温めて、飲んだり、仰々しく日本焚き火学会発行の地域通貨もある。
500焚で100焚の焼き鳥を2本買ったら、お釣りに100焚2枚と500焚1枚が戻ってきた。
焼き鳥は2度美味しい?
後で気付いたが、返すのもどうかと思い、そのまんま財布の中にある。

今年はNHKの取材もあったようだ。

脇では、丸太を割って、薪を作っている人がいた。
奇麗に割っていた。
相当に慣れている。

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割って薪にした方が燃えやすく、火力が強くなるのは確かだが、それは竈でご飯を炊いたり、料理したりする場合だろうと思う。
燃えている火を楽しむなら、割らずに丸太のまんまの方が風情がある。

暖炉に丸太を数本放り込んでおくと、生木でも一晩中燃えている。
不思議なのは1本だと消えてしまうが、2本重ねたり、並べて置いたりすれば、火は消えずに燃えている。

火を見ていると何時間たっても飽きない。
火は、見ているだけで、人を妙に哲学的にするようだ。
生きているってこんなことかなーなんて考えたりする?
それが焚き火学会の命名の由来・・・?

名前の由来は各人それぞれが勝手に考えてくださいということだろうと、敢えて聞かないことにした。

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