キムタク“衝撃死”の映像
広島カープで一時代を築いた後、巨人に移籍し今年からコーチを務めていた木村拓也さんが試合開始直前のグラウンドに倒れたまま意識を回復することなく7日、くも膜下出血のため、入院中の広大病院で亡くなった。まだ37歳の若さだった。
彼は2日、マツダ・スタジアムで試合前の練習中に倒れた。テレビも新聞も連日異例の扱いで報じた。華やかな脚光を浴びる選手ではないが人望の厚さと人柄が支えで、同年齢の人気俳優・キムタクの向こうをはって“カープのキムタク”で人気が高かった。
木村コーチは1991年に宮崎南高校からドラフト外で日本ハムに捕手で入団し、‘95年に広島カープにトレードで移籍した。小柄な彼は本来、右投げ右打ちだがカープに来てスイッチヒッターを習得し、投手以外の内外野をすべてこなした。
2000年には全試合に出場し、‘04年にはアテネ五輪でどこでも守れる貴重な選手として長嶋監督から求められて代表入りし、銅メタルを獲得した。
カープで過ごした11年間でレギュラーの座を得たのは4年間だったが、「どうすればこの世界で生き延びられるか」を考えて、箸を左手に持ち替えてマスターした左打ちや全ポジションの守備は人一倍の努力を窺わせるエピソードだ。
03年にはフリーエイジェン権を得るが「カープに育てられた…」と残留を希望して留まった。しかし、‘06年の途中から巨人に移籍し代打や代走に守備固めの幅広い支えの存在として重宝されリーグ3連覇に貢献し、今年から高校の先輩の清武球団代表と原監督の強い要望でコーチを務めていた。
昨年,捕手を使い果たした原監督が後を託したのがキムタクで、ベンチに帰った彼を抱きかかえて迎えたシーンはスポーツニュースを通じて改めて彼の存在をアピールした…記憶を呼び起こす…。将来のプロ球界いやカープにとって、得難い存在でもあった。
巨人に移籍後も妻と3人の子供たちは広島の洋光台の自宅に残し単身赴任し、オフには故郷・宮崎の少年野球チームの育成に力を注ぎ、地域の少年野球の指導も行うなど第二の故郷・広島も大事にしていた…。
フジテレビは偶然に?木村コーチがホームベース上でノックの最中、突然バットを持ったまま前倒しに崩れる姿を撮っていた。
テレビのワイドショウは彼の死を通じて一斉に“くも膜下出血”について専門家の意見を交えて取り上げ、病気の予兆や病状への対応について、年間死亡者が1万5千人にもなる予備軍?に警告を発した。
彼の死後、フジテレビはこの映像を放送するかどうか悩んだと思うが『彼の最後の雄姿』とも言える“衝撃の映像”を放映した…。
この映像は、若くして逝った木村巨人コーチ“カープのキムタク“と…野球フアンの記憶に永く留まるだろう。ご冥福を祈るばかりだ…。<4月8日:記>
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