広島ブログランキング

  • 広島ブログ
無料ブログはココログ

« 2010年3月 | トップページ | 2010年5月 »

2010年4月

2010年4月30日 (金)

葉桜 2010

今年のサクラは4月20日を過ぎて、ようやく散り始めた。
所によっては、まだ満開の感すらある。
もう葉が出てきて、花が葉の中に隠れそうになっている。
珍しい光景だ。
これはこれで、なかなか風情があっていい。

1_5

今年のサクラの開花宣言は3月20日だったから、1カ月以上も咲いていることになる。
この調子ではゴールデンウイークになってもまだ咲いているかもしれない。
近年温暖化ということもあってか、3月の卒業式の頃に満開で、入学式の頃には桜の花は散ってしまっていることが多かった。
花吹雪の中を入学式に出席するなんて、もうあり得ないことだと思っていた。

葉だけになった状態を葉桜というのかと思っていたが、ネットで調べると、花びらが散り始め、若葉が芽吹き始めた頃から、葉だけになるまでの、どちらかというと葉と花が一緒にある状態を葉桜というようだ。

単に葉が茂っている状態は葉桜とはいわないという。

先日のアイスランドの火山の噴火でヨーロッパの空港は1週間近く閉鎖された。
交通への影響も大きかったが、気象への影響も懸念されるという。

数億年前、地球上に君臨していた恐竜は突如絶滅してしまったが、どうもそれは地球に隕石が衝突し、舞い上がった砂塵で、地球の気温が急激に下がったために絶滅したという説が、近頃有力になっているそうだ。

四川省の地震、アイスランドの火山の爆発、
100年に1度といわれる100ミリ以上の大雨が1日で降ったりする。
どうも地球がおかしい。
?????

*お願い
この文章の下にある《広島Blog》というバナー(画像)を クリックしてください。

2010年4月29日 (木)

満喫・匹見の春②

 匹見の春は広島より3週間は遅い。
 牛尾さんの故郷、匹見の山は以外にもよく手入れされていて、美しい。
 この時期、高津川や益田川はヤマメに岩魚の豊富な川で知られ、九州や広島からの釣り天狗が多く、この日も他県ナンバーの車が見かけられた。

1_42_43_2

 牛尾家のご長男はマツダの技術職のOBで実に起用な人だ。納屋だった建物を作業小屋と寝起きが出来る囲炉裏のある居間に改良し、台所とお風呂に椅子やテーブルがある休憩所は自分の設計で建築された。山小屋と言うより年中足を運ばせる環境が整った自慢の別荘と言える。

 この日は私にとっては数十年ぶりの焚き火を楽しむことも出来た。煙を避けながら、つい手もみしながらあたった焚き火は子供のころを思い出してとても懐かしく、嬉しい体験になった。

 昼職には、牛尾夫人らが腕をふるった野趣十分なシイタケにヨモギ、こごみ等を天ぷらで頂いた。葱の元祖?という“ちもと”はこの辺りにしか自生しない野草だが味噌で食べると実に旨かった。持ち帰りみそ汁に散らし葱以上の香りを味わった。

 焼豚や鳥の燻製は牛尾さん得意の料理で、耐火煉瓦を築いた燻製用の窯で桜のチィップを燻らせて、本格的中華の味に仕上がっていた。

 桜をはじめ花や野草など春の匂いに香り、加えて味までも満喫できた匹見の一日は久しぶりに大自然に身をさらし命の洗濯に十分な時間だった。

 機会がればアジサイやコスモスの季節に来てみたい…強く刺激された匹見の春だった

*お願い
この文章の下にある《広島Blog》というバナー(画像)を クリックしてください。

2010年4月28日 (水)

満喫・匹見の春①

 映画センターの牛尾さんに誘われて18日の日曜日に益田市にお花見に出かけた。
 縦貫道を戸河内で下り、国道191号線を下った。中国山地は冬の間は黒かった木々がやっと芽吹き始める頃、白や薄黄緑に変わりつつあって、山桜に山つつじが色付いている。

 牛尾さんの郷里は匹見峡で知られる益田市匹見町道川。西は山口県に北は日本海に南は中国山地に接し一級河川の高津川や益田川が日本海に注ぐ三角州の街。道川は昭和3~40年代の高度成長期には多くの若者は広島や大阪に就職しで出かけ、過疎に拍車がかかった。
 嘗ては50戸を超えた集落は今では7~8戸の高齢が残る限界集落だ。

 牛尾家が広島に越した後、自宅や蔵はたたんでいたが、10年前にマツダにお勤めだった長兄が牛尾さんら兄弟の協力で20本近いソメイヨシノを植樹された。今一斉に咲き誇り満開を迎えていた。ラッパ水仙も満開だった。

1_32_3

 チューリップも沢山の蕾をつけていた。
 50株もある紫陽花が満開の時期が楽しみだ。

 6月下旬にはジキタリス、和名が狐の手袋が美しく一面を埋める自生地がある。文久年間にオランダ船が薬用に持ち込み心筋梗塞に効用がある。半面毒性も強いと市教委が立てた案内板が注意しているが花は実に綺麗だ。
裏山に多い天然の芍薬が移設され、屋敷を取り巻く休耕田にはコスモスやヒマワリ等の草花の種がまかれて開花時期を待っている。

 満開の桜にメジロが群れをなして蜜を吸いに来て鶯も交じって盛んに谷渡りを披露した。

 ご一緒した朝被協の李実根さんが子供の頃身に付けたという草笛の“ふるさと”が静かな山里に、こだまするように響いた。

 土筆やウドにシイタケにヨモギ、こごみや蕨も頭を出し葱の元祖?という“ちもと”も天ぷらで頂くことになった。自然と花、遅い春満喫の一日だった。 <続く>

*お願い
この文章の下にある《広島Blog》というバナー(画像)を クリックしてください。

2010年4月27日 (火)

桜の後…

 4月17日の土曜日は久しぶりに18度の暖かさが戻り、平和公園の桜並木の下に4~5組の花見客が繰り出して未だ僅かに残る桜花を楽しんでいた。
 平和公園では桜吹雪と一緒に散った冬の楠木の葉に代わり燃え立つような新緑が輝きを増している。風薫る5月の尖兵は楠木の新芽だ…。

 この時期の公園は寒から咲き続けた椿やバラも姿を消してチューリップと五月や敷島が異彩を放っている。
 五月は公園のあちこちにあるが原爆資料館東館の東側の地階から一階にかけて見事な花を誇っている。どちらかと言えば目につきにくい場所だけに勿体ない…が、いまの平和公園ではナンバーワンの美しさだ。

1_2

 元安川を挟む原爆ドームの対岸にあたる花壇で冬を過ごしたチューリップがいま満開を迎えて咲き誇っている。赤一色の幅1メートルの帯は50メートル以上あって、訪れる観光客の多くがカメラを向けている。

 まだ蕾をつける前の2月末の頃、心無い人の悪戯でこのチューリップ花壇が荒らされた。幸いに、公園管理の人達の手入れのお陰で、いま見事な花を咲かせている。

2_23

 平和公園は世界からいろんな人を迎えるが、花壇や植栽の木々に草花がどれ程大きな役割を果たしているか?平和で安らかな気持ちを育む演出効果は、計り知れない…。改めて広島の心の拠り所・平和公園が果たす役割の大きさと大切さを感じる…。

*お願い
この文章の下にある《広島Blog》というバナー(画像)を クリックしてください。

2010年4月26日 (月)

わが家の端午

 雛飾り?を収めて一月余りたつと端午の節句のミニチュアセットが玄関の飾り台に座る。
 マンション住まいの、我が家の恒例行事だ。

1

 端午は七草、雛祭り、七夕、重用の五節句の一つだ。元々は中国の行事で男の子の健やかな成長を祈る風習は古く、日本ではいま国民の祝日『こどもの日』に受け継がれている。
 チマキや柏餅を食べて邪気を払う様になった時期は江戸時代からで、鯉のぼりや甲冑の武者人形を飾るようになるのは近世の事の様だ。

 我が家に息子が生まれた頃(昭和45年)は端午の節句のセットが流行り、我が家にも祖父母から大型三段飾りが贈られ数年は飾つけて、双方の祖父母たちも集まって祝っていた。

 48年の東京転勤を機に木箱に収まったままで、娘のひな飾りも同様な扱いになってしまった。東京では3DKの社宅暮らし、53年に本社に帰ってきて以来、街中のマンション暮らしでは大きな段飾りを出す機会は全く無くなってしまった。

 爾来、我が家には節句や季節の変わり目に相応しい民芸品や工芸品のミニチュアが代役をつとめてきた。写真、上のミニチュアは藁の束に吹き流しと赤と白の鯉のぼりに金太郎があしらわれた工芸品で、長年この時期に我が家の玄関を飾ってきた。

 孫たちの家には団地サイズの兜や雛飾りがあるが、孫たちが小さい頃は団地サイズの鯉のぼりと並んで寝ころんで、成長の度合いを測る写真を撮るのを習慣にしていた。

2

 鯉のぼりは中国の登竜門の故事に由来し急な流れを上る出世魚として考えられ、子供の立身出世の象徴として江戸時代から盛になった。しかし、最近では個人宅での掲揚は減り、お蔵入りしていた鯉のぼりが街や地域興しのシンボルとして全国的に数百匹が川や湖上で泳ぐケースが目立っている。
 広島県内では呉のポートピアなどがある。
 中学と高校に進んだ我が2人の端午には、爽やかな五月の風になびく鯉のぼりにあやかって、元気で勢いの良い中高校生活を満喫して欲しいと願うばかりだ…。

お願い
この文章の下にある《広島Blog》というバナー(画像)を クリックしてください。

2010年4月25日 (日)

携帯で「平和と観光情報ガイド」サービス開始

 平和と観光の情報ガイドを携帯電話やパソコンを使って見られるサービス『広島P2ウオーカー』が4月10日から始まった。全く新しい試みで広島観光の強い味方が期待される。

 平和公園や周辺を訪れる、国内外の観光客が携帯電話や携帯のパソコン、スマートフォンを通じて、その場で平和や観光に関する情報を入手できる。広島の原点・平和公園でもっと平和<Peace>を学び、公園<Park>や広島の街を深く知りながら歩いて欲しいと言う思いが込められたネーミングで、多様な情報が得られる。

 受信地域は平和公園と平和大通りに限定されるが、webサイト『広島P2-Walker』にアクセスするとその場で記念碑や爆心地の様子などをより深く理解でき、広島の観光スポットやイベントなども映像で見ることが出来、平和公園エリアの飲食店やホテルなどのガイド情報が満載されている。

1_32_3

 携帯電話はインターネット接続でどこからでも可。公園内レストハウス、資料館東館1f、シャレオ、バスセンター等7ケ所のデジタルサイネージ・電子看板で市の行政情報として見る事も出来て面白い。

 因みに得られる情報は*公園内の施設や美術館、ホテル、名所など平和公園周辺ガイド*観光スポットや名物を動画で紹介する広島じゃけえ*RCCが米国から返還された被爆直後の記録フィルムと同じ場所の今を比較して制作したドキュメント映像広島の記録)*被爆前の繁華街をCGで再現した蘇る街並み*公園内と周辺にある46の記念碑の動画メモリアル46*原爆詩などの朗読ヒロシマを聞く*慰霊碑参拝した内外の要人を映像で紹介するVIPがやって来るこの他、天気や困った時に役立つ交通機関、病院、警察、宿泊施設などの連絡先一覧

 修学旅行や社会見学をする学校の先生方には強い味方になる他、英語のガイド説明がついているので外国人や旅行エイジェントなど幅広い活用が期待できる。
 この事業は広島市の委託事業としてRCC中国放送がシスティムを構築し、コンテンツ制作とシスティム運用も行っている。活用については、下記のP2ウオーカーにアクセスしてください
 広島P2ウオーカー http://p2walker.jp/
 <問い合わせ:RCCコンテンツセンター082-222-1157……:広島市情報政策課082-504-2024>

*お願い
この文章の下にある《広島Blog》というバナー(画像)を クリックしてください。

2010年4月24日 (土)

ピンクの絨毯

 長かった今年の桜花も10~11日の土日が最後の花見と楽しみにしていた。
 しかし、残念ながら12日の月曜日まで雨に見舞われた。すっかり散ってしまったものと思って訪ねた平和公園の桜は未だ少し見納めを楽しめる程度残っていた。

 そればかりか、3日間の雨と吹雪で散った花びらは訪れる人が居なかった為に、河岸の桜の木の下にピンクの絨毯を敷いた…自然が織りなす美しさが演出されていた。
 3日間の雨が人を遠ざけた結果で、これまでこんな桜花風景は見た事がない。
 雨がもたらした思わぬ花見が楽しめ、いい気分を味わった。

1_22_2

 7日のこの欄に“写真俳句”と言う一文を書いた。作家の森村誠一さんが提唱者で“散歩のお伴にカメラとペンで5・7・5の写真説明“をつける新種の楽しみ方だ。
 それに習って、捻って見た

<行く春を 惜しむ桜花の 花絨毯>
<花吹雪 創る名残の 春模様>
<待つ人の 心を埋める 花吹雪>

 今年は長い桜花の季節を思いもしなかった形の経験が出来た。
 少し進歩したかどうか?時を見てカメラとペンの合作に挑戦してみよう…と思う。

*お願い
この文章の下にある《広島Blog》というバナー(画像)を クリックしてください。

2010年4月23日 (金)

史跡・愛宕池の公園整備

 ANAホテル前にある広島市の史蹟愛宕池が改修されて新装の公園に生まれ変わった。
 この辺りは、藩主の菩提寺である旧国泰寺の境内で、池は国泰寺の鎮守愛宕社があったことから呼ばれるようになった…と説明板にある。

 国泰寺は1601年に広島城主の福島正則が1594年に創建された臨済宗の安国寺を曹洞宗国泰寺と改め、弟を住職に据えたのが始まりで『豊臣秀吉の戒名』に因んで名付けられた。
 その後、引き継いだ浅野氏が菩提寺としておさめた広島の名刹。当時、境内から南は海で、寛永年間(1634年)に埋め立てられ、この地を寺の名前から”国泰寺村“とされた。

 寺は何度か火災に遭いその都度再建された。原爆でも全壊全焼し再建されたが再開発が進む中、昭和53年(1978年)に己斐の山に移転した。跡地に広島全日空ホテル(現/ANAクラウンホテル)が建てられた。ホテルの正面に残された国泰寺唯一の遺構の愛宕池は昭和59年(’84年)に市の史蹟に指定され往時を偲ばせて来た。

 池を取り巻く木々の中にはクロガネモチやせんだんの他被爆した柿の木やエノキもある。
 一抱え以上あるエノキは被爆後に切り倒されたが新しく吹いた芽が成長して、古い木の根本は大きな石を抱くようにシッカリと根付いて生き延びている。

123

 整備された公園は雨を吸いやすいブロックと砂土が敷かれ、FF後に芝がはられる。
 ベンチや被爆樹木を取り巻くように椅子座を設えたお洒落な造りになっている。
 従来あった白神神社前からホテルに入る副道は廃止され、歩行者と自転車の利用に安全が拡大された。白神さんの秋祭り恒例の神楽の舞台や見物の席も拡大確保しやすくなった。
 前年度に整備されたクリスタルビル前の緑地公園との統一された照明やベンチなどのバランスも良く、昼休みはサラリーマンの良い憩いの場にもなる。
 あまり知られていない広島の史蹟が装い新たに市民の憩いの場としてデビューした。
 平和大通りの新しい魅力の誕生は嬉しい。<4月14日・記>

*お願い
この文章の下にある《広島Blog》というバナー(画像)を クリックしてください。

2010年4月22日 (木)

落語の祖・策伝ゆかりの寺で開かれる寄席

 今、落語が静かなブームを呼んでいるなか、落語の祖とされる安楽庵策伝をしのんで「第19回策伝会・落語まつり」が4月25日、広島市西区の誓願寺(広瀬隆慶住職)で開かれる。
 誓願寺は山陽地方を布教した策伝が岡山、広島に7カ寺を建立したその一つ。毛利輝元が広島の材木町、今の平和公園に開基したもの。その後原爆で全焼。昭和38年に現在地に再建。被爆した釣り灯籠と水盤石が残っている。
 策伝は安土桃山時代から江戸時代前期の浄土宗の僧侶。笑い話が得意で説教に取り入れていたのを、当時の京都所司代板倉重宗が知り、策伝に依頼し、幼年時代に聞いた笑い話や奇談などを集めた「醒睡笑」を著した。それが後世落語の種本となったことで「落語の祖」と呼ばれるようになった。
 策伝会は午前10時と午後2時の2回、落語が奉納される。東京の八光亭春輔がトリを取り、主に大学の落語研究会(落研)OBで構成する広島演芸協会の秋風亭てい朝、柱笑福、ジャンボ衣笠、善亭ぶ生らが前座を務める。現在東京、大阪で活躍している広島出身のプロ落語家に、柳亭左楽、古今亭楽、古今亭菊丸、柳家福治、古今亭菊志ん、桂九雀、桂さん都らがいる。ちなみに筆者は菊丸、福治と親交を深めている。
 広島の落研は、プロを輩出した広大、修大が休止状態で、市立大で最近結成された。
 広島では戦前、寄席ができる専門の小屋は、中島勧商場の「鶴の席」、新天地の「演芸館」などがあった。現在はない。来広したプロの落語家や演芸協会などは、区民文化センター、アステールプラザ(中区)、フリースペース「宇那木亭」(安佐南区)、名陶カフェ「チアス」(西区)や寺院などで開いている。演芸協会の「話芸に親しむ夕べ」(南区民)は14年も続いている。最近は年6回開催。デオデオ本店で(中区)毎月吉本興業が漫才を上演しているが、好評だ。
 旧市民球場の跡地に、寄席のできる小屋が誕生すれば、広島の寄席文化がさらに発展し、賑(にぎ)わいの創出につながると思う。

 上村和博

*お願い
この文章の下にある《広島Blog》というバナー(画像)を クリックしてください。

2010年4月21日 (水)

コーヒータンブラーとスターバックス

アメリカから帰国した友人から、お土産だといって、小さなボトルをもらった。
ボトルの蓋に、スタバ―のコーヒーカップの蓋についているような小さな飲み口が付いている。

何これ・・

聞けば、スタバ―でこのジャーにコーヒーを入れてもらい、その場で飲んでもいいし、それを持って、川岸で飲んでもいいように、コーヒーを入れて持ち運べるようにジャーになっているのだという。
フーン・・・
名称は、タンブラーと言うらしい。

飲み口のクリップを動かせば開閉できるようになっている。
ペットボトルのように蓋を一々回して外さなくてもいい。
アルミの2重構造になっているから、断熱性が高いようだ。

そういえば先日スタバ―でこれに似たようなボトルをテーブルの上に置いて、本を読んでいるお客がいた。
コーヒーも注文しないで、座っているなんて、変な客だな―と不審におもったが、あのボトルはこれだったんだ。

大体スタバ―のコーヒーは量が多すぎる。
アメリカ人のスケールに合わせているせいだろうと思うが、私はいつも半分近く、捨ててしまっている。
このタンブラーがあれば捨てなくて済む。

残りはいつでもどこでも飲めるし、紙のカップだって捨てなくて済む。
環境にもいい。

1

早速スタバ―でコーヒーを注文して入れてもらった。

なんとコーヒーが20円引になる。
いつもはSサイズを頼むが、折角だからとMサイズにした。
350円が320円になったのだ。

お店の中では飲みきれないから、午後から出席した講演会でも、テーブルの上に置き、時々飲んだ。

隣の人に、それなんですかと聞かれた。
説明したら「いいですねー」といっていた。
彼もそうする?

別の人に聞けば、スタバ―では以前からタンブラーを売っていたという。
でも20円引きになるとは知らなかったようだ。

スタバ―ももっと宣伝したらいい。

入れるのは熱いコーヒーだけでなく、冷えたドリンクだっていい。
横にしてもこぼれない密閉式のタンブラー、地域限定のタンブラーも売られているようだ。

電車の中でペットボトルのお茶や、清涼飲料水を飲んでる若者をよく見かける。
彼らもこのタンブラーを持っていれば、いつでも熱いコーヒー、或いは冷たい清涼飲料水を飲めるようになるわけだ。

これは流行りそうだ。
環境問題を考えたら、もっとPRすべきだ。

*お願い
この文章の下にある《広島Blog》というバナー(画像)を クリックしてください。

2010年4月20日 (火)

「国家の嘘」の責任?

 沖縄返還を巡る日米間の密約文書の開示を求める裁判で東京地裁は密約を認め、国に文書の開示を命じる判決を出した。自民党と官僚がついた「国家的な嘘」が40年も罷り通ったその責任はだれが、どのように取るのだろうか…。

 裁判は元毎日新聞記者の西山太吉氏や彼を支持する作家等が原告になって、米国が支払うべき旧軍用地の原状回復費等を日本が肩代わりすることを示す文書の開示などを巡って争われた。国は『文書は無い。メモ類は廃棄されてもおかしくない…』と主張してきた。

 判決は「日本国民に知らせないままにこれらの負担は米国公文書館で発見された米側の公文書や元外務省高官の証言をもとに『密約の存在や国による文書作成』を認め、国民の知る権利をないがしろにする外務省の対応を不誠実で違法とし「沖縄を金で買い戻す」との印象を国民に持たれたくないと考えたからだと指摘した。

 密約問題は沖縄返還協定が調印された‘71年、毎日新聞の記者だった西山太吉氏が米軍用地の原状回復費400万ドルを日本側が肩代わりすると密約に絡む機密の公電のコピーを入手し、これを基に社会党の横路隆弘衆議員(現・衆議院議長)が国会で追及した。
 この為、西山記者は取材上知りえた機密情報を国会議員に漏らした外務省機密漏洩事件の被告として国家公務員法違反(漏えい教唆)で逮捕起訴され有罪となった。

 当初マスコミ各社は言論弾圧と西山記者を擁護したが、西山記者がこの情報を外務省の既婚の女性事務官と不倫関係を持って機密情報を持ち出させたと政府が暴露して、一斉に各社は”セックス・スキャンダル報道“と非難し、毎日新聞の不買運動が起き、西山記者は毎日新聞を去り…毎日新聞は経営破たんに追い込まれた。
 国家は権力を総動員して…問題の本質をすり替えた。

 日米の密約は現在では4密約が明らかになっている。‘60年安保条約改定時の①核搭載艦の寄港・通過を「事前協議」の対象とせず、日本が黙認②朝鮮半島有事の際、米軍が日本国内の基地から自由に出撃可能とする…と、‘72年沖縄返還時①有事の際、米軍が沖縄に再び核兵器を持ち込むことを容認②米国が本来負担すべき軍用地の原状回復費400万ドルを日本が肩代わりする…である。

 は‘00年以降密約を裏付ける公文書が米国で明らかになり、‘06年外務所の元アメリカ局長が密約の存在を証言して明らかになってきた経緯がある。

 情報入手の方法には問題があったが真実を暴いた記者が国家権力による嘘のため人生を棒に振り、葬られたが40年ぶりに陽の目を見た。再建された新聞社の経営は今も苦しい。

 既に西山元記者は‘05年に損害賠償など求めて提訴したが東京地裁は密約の存否を判断しないで請求を退け、最高裁でも敗訴している。しかし、今回判決をベースに考えるなら西山氏の請求や新聞社が被った大きな損害の賠償を求めることが残されている?…従って、政府は一定の謝罪と被害救済を行う責任が発生したと考えられる…?

 政権交代した民主党政権は控訴を検討している。しかし、国は控訴は止めて、改めて認証された『国家の嘘』の検証を深め、密約という歪んだ歴史を解明すると共に沖縄基地問題を含む新しい日米関係の構築を進めるべきだ。さもないと日本の戦後史・現代史に誤りを残す事に成り、日本の民主主義が否定されることになりかねない…?
 マスコミ各社は「知る権利」問題としても今後どう対応するか注目される…?

 同じ時代をマスコミに身を置いたものの一人として、政府に対して機密文書を公開しここは一本筋の通った解決を目指してほしいと強く思う。

*お願い
この文章の下にある《広島Blog》というバナー(画像)を クリックしてください。

2010年4月19日 (月)

ブログ3年回顧

 このブログ「タウンNES広島平和大通り」をスタートして月末で満3年を迎える。
 同時に、私の執筆分が500本に達した。
 おまけにアクセス数が33万件を超えて、驚きと嬉しさに包まれ…元気づけられた。

 切っ掛けは、毎日忙しい河野美代子さんが寸暇を惜しんでパソコンに入力している姿に出あったことだ。当時は全く無関心だったブログを “河野ブログ”を通じて知り読むようになり、大いに刺激された。河野さんのブログはこの年の2月にスタートしたばかりで、医師の日常と性を巡る忌憚ない熱い思いと社会・政治に鋭い目を注いだ感性が溢れるブログは興味深く、その真摯な姿勢は刺激的で、暇な高齢者の私も挑戦の意欲をそそられた。

 同じように河野さんを見ていた友人数人で「やって見ようか…」と話が弾み、土曜日の午後、大手町の喫茶店に集まり、立ち上げることにした。タイトル名を宿題に2度目のミーティングで目の前を走る“平和大通り”を活かしたら…との声で捻ったのが「タウンNEWS…」と言う訳だ…。

 当初、毎日続くかどうか…無理しないで“身近な話題で広島の元気を引き出す応援団”を自称することを定款に据えた。どちらかと言えばIT系に弱いものが多く、実施運営に不安があったがプロ並みの実績を持って多くの公的なサポートや指導をしておられる工場長に仲間に加わっていただく事で、結果的には原稿を書くだけで実現できた。

 私は大病後、一年が経過して再発や転移の不安を抱えて、ともすれば精神的に落ち込み易い時期にあってどう切り抜け生き抜くか…いくつもの課題を抱えていた。身近な問題に目を注ぎ3人の孫達との交流なども綴って見た。時には自分が歩んできた道を振り返り、病状の経過や治療の対応をはじめ、自らの進む道と心構えなど、以外にも冷静に対応できる場になった事は有難かった。これからの自分を考える縁(よすが)にもする…など、いつの間にか思いもよらない“自分を元気づける、励みの場”になってしまった。

 映画や新聞テレビを賑わす話題、とりわけ政治的話題などで気を揉んだり腹の立つ事には歯に衣着せず忌憚なく“憂さを晴らす効果“が十分に果たせることを体験してしまった。
 真実をえぐり冷静な分析力を求められた現職時代と違い、そこは新聞やテレビの時評・解説をネタに『年寄りの腹立ち紛れのうっぷん晴らし』の場にもなっている?

 思わぬ多くの読者を得て元気づけられ、河野さんの100万件アクセスには遠く及ばないが33万件に達した事は当初は予想しなかった事で、驚いたり喜んだりしでいる。
 読者の半数以上が県外の人という結果もおぼろ句と同時に嬉しいことだ。
 私が書くブログも通算500本になった。友人らの文章も頂いて掲載させて頂いた数は50本にも及ぶだろう。従って、私のブログNo:500はこうした友人たちにも支えられている。
 何はともあれ、ステッキ頼りの散歩とブログ書きは私の暮らしの大きな柱となっている。

 残念ながら、体力は着実に低下している事を実感することが多くなった。
 しかし、今のところ胃癌から肺に転移した患者に多いと言われる脳への転移は無く、手と指先はブログの原稿執筆に不自由は感じていない。
 力まず、無理しない体と精神のバランスを保ちながら自然体で日々の暮らしを大切に、支えて頂く方々に感謝しながら続く限り維持したいと願っている。

*お願い
この文章の下にある《広島Blog》というバナー(画像)を クリックしてください。

2010年4月18日 (日)

キムタク“衝撃死”の映像

 広島カープで一時代を築いた後、巨人に移籍し今年からコーチを務めていた木村拓也さんが試合開始直前のグラウンドに倒れたまま意識を回復することなく7日、くも膜下出血のため、入院中の広大病院で亡くなった。まだ37歳の若さだった。

 彼は2日、マツダ・スタジアムで試合前の練習中に倒れた。テレビも新聞も連日異例の扱いで報じた。華やかな脚光を浴びる選手ではないが人望の厚さと人柄が支えで、同年齢の人気俳優・キムタクの向こうをはって“カープのキムタク”で人気が高かった。

 木村コーチは1991年に宮崎南高校からドラフト外で日本ハムに捕手で入団し、‘95年に広島カープにトレードで移籍した。小柄な彼は本来、右投げ右打ちだがカープに来てスイッチヒッターを習得し、投手以外の内外野をすべてこなした。
 2000年には全試合に出場し、‘04年にはアテネ五輪でどこでも守れる貴重な選手として長嶋監督から求められて代表入りし、銅メタルを獲得した。

 カープで過ごした11年間でレギュラーの座を得たのは4年間だったが、「どうすればこの世界で生き延びられるか」を考えて、箸を左手に持ち替えてマスターした左打ちや全ポジションの守備は人一倍の努力を窺わせるエピソードだ。

 03年にはフリーエイジェン権を得るが「カープに育てられた…」と残留を希望して留まった。しかし、‘06年の途中から巨人に移籍し代打や代走に守備固めの幅広い支えの存在として重宝されリーグ3連覇に貢献し、今年から高校の先輩の清武球団代表と原監督の強い要望でコーチを務めていた。
 昨年,捕手を使い果たした原監督が後を託したのがキムタクで、ベンチに帰った彼を抱きかかえて迎えたシーンはスポーツニュースを通じて改めて彼の存在をアピールした…記憶を呼び起こす…。将来のプロ球界いやカープにとって、得難い存在でもあった。

 巨人に移籍後も妻と3人の子供たちは広島の洋光台の自宅に残し単身赴任し、オフには故郷・宮崎の少年野球チームの育成に力を注ぎ、地域の少年野球の指導も行うなど第二の故郷・広島も大事にしていた…。

 フジテレビは偶然に?木村コーチがホームベース上でノックの最中、突然バットを持ったまま前倒しに崩れる姿を撮っていた。

 テレビのワイドショウは彼の死を通じて一斉に“くも膜下出血”について専門家の意見を交えて取り上げ、病気の予兆や病状への対応について、年間死亡者が1万5千人にもなる予備軍?に警告を発した。

 彼の死後、フジテレビはこの映像を放送するかどうか悩んだと思うが『彼の最後の雄姿』とも言える“衝撃の映像”を放映した…。
 この映像は、若くして逝った木村巨人コーチ“カープのキムタク“と…野球フアンの記憶に永く留まるだろう。ご冥福を祈るばかりだ…。<4月8日:記>

*お願い
この文章の下にある《広島Blog》というバナー(画像)を クリックしてください。

2010年4月17日 (土)

花吹雪・桜吹雪

 桜の開花予想は今年から気象庁から民間の気象会社が参加して行われるようになった。
 そのせいでは無かろうが、全国的に開花予測日が数日早くなった。広島は20~21日だったが最初の週に寒波が戻り、例年以上に桜の開花期間が長引いた。

 先週の土日(3~4日)の平和公園の元安川の両岸はラッシュアワー並みの花見客で賑わった。満開の
桜を愛でながらお弁当を広げるグループと散策する家族ずれや若者で溢れかえっていた。

1_22

 一方空鞘橋の上流、西本願寺別院に至る河岸は桜のトンネルを散歩で楽しむ人が多かった

 本日、出かけてみると既に桜は散り始め、薄いピンクの花びらの塊があちこちに出来ている。
 しかし、花はまだ十分に残っており次の土日(10~11日)は花びらがあたかも雪が吹雪いている様に舞い散る見納めの「花吹雪」が楽しめそうだ。

日本では、古来『桜』は俳句や和歌の世界では『花』と言い、特に『花吹雪』は『桜吹雪』であり、満開の桜が吹雪のように散る様子を言って、桜花の中でもでも一番美しい風情とされてきた…。

 余談ながら『この桜吹雪が目に入らネーか…』はご存知、町奉行・遠山の金さん名台詞だ。片肌脱いだ白肌に薄い桃色の桜の花弁の刺青が浮かぶ…。江戸の街で町民の正義の味方は粋でいなせで桜吹雪は金さんのトレードマークだった。
 日本人の美的意識を支えてきた代表的な物のひとつが「桜・花吹雪」と言え、花見は『花・桜吹雪の下』が最高だ…。それにしても桜吹雪の写真撮影は難しい…。

 因みにこの時期、公園のごみ箱は溢れ桜吹雪も台無しになるが、以外にも自分達の出したごみを持ち帰る人達が多いのに接して感心した。歌舞音曲の持ち込みや泥酔客もいない。
 みんな春を満喫している。桜花は清潔感や公徳心を刺激するのかもしれない。
 今年最後の花見はもう一度“桜吹雪”を楽しめそうだ。
 桜吹雪の後は一年で最も過ごし易い新芽輝く新緑の季節を迎える…。<4月7日:記>

*お願い
この文章の下にある《広島Blog》というバナー(画像)を クリックしてください。

2010年4月16日 (金)

広島市現代美術館

比治山の山の上に広島現代美術館がある。

アクセスも悪いが、広島市現代美術館の展示内容は一般市民にはなかなかとっつきにくいこともあって、市民があの山の上まで行くことは少ない。
勿体ない。

建物の設計は黒川紀章市の設計。
美術作品は自然光を嫌うということもあってか、展示スペースは地下に作られ、外壁部分には殆ど窓がない。
日本に古くからある蔵をイメージしているのだろうが、ちょっと近づき難い雰囲気になっている。
建物は、周りの自然とも、景観とも隔絶されている。
階段を登らなければ、玄関ホールにも入れない。
車でいったら、駐車場はいつも満杯で止められない。
この日は、比治山の東、サティーの駐車場に車を止め、あの大きなエスカレーターを使って、現代美術館にいった。

1_2

土休日には、放影研の駐車場を解放するとかもしたらいい。
比治山の上からの展望は素晴らしい。
駐車し易くしたら、散歩がてら、美術館に寄るという人も増えるかもしれない。

そもそも現代美術は総じて難解だ。
純粋であること、最先端であること、見る人に考えることを要求することが多くなかなか近づき難い。
製作者には、俺の考えていることがそんなに簡単に解ってたまるかという思いもあるのだろうとすら思えてくる。

理解不能な世界に、現代の不条理があると嘯いていた人もいた。

理屈のない芸術、解りやすい芸術は、現代芸術ではないといった感じである。

私も学生の頃、サルトル、カミュ、ニーチェ、キルケゴールに夢中になっていたことがある。
知的であることと難解な言葉を発することとはイコールであると思っていた。

現代アートもそんな難解な美術の時代を経て、今や村上隆氏らの作品にみられるように、妙に突き抜けた解りやすい世界もある。
村上隆氏の可愛らしいマネキンのような作品が数億円もしたりする。
「どうして?」といいたくなる。

マンガも世界の言葉になった。
クール・ジャパンなんて言葉まで生まれた。

そうした解り易く、面白い文化も芸術だと近年は認められるようになった。
と同時に、日本の文化も世界に誇る産業にもなった。

現代美術館もこの際、隣接する漫画図書館と提携して、もっと解りやすく、多様なイベントをやったらいい。

コスプレも日本の素晴らしい文化の1つだ。
広島でも街中で不思議な格好をした少女たちを時々見かける。
服飾専門学校の先生と生徒のコスプレパレードをみたことがある。
広島市現代美術館はそんな専門学校と提携し、作品の発表会場となってもいいだろうと思う。

広島市現代美術館は内容も、アクセスも、環境ももっと取っ付きやすくする必要があるようだ。

*お願い
この文章の下にある《広島Blog》というバナー(画像)を クリックしてください。

2010年4月15日 (木)

花見とゴミとカラス

今年のサクラの開花宣言は3月21日、以降寒い日が続き、満開は4月5日頃と予想の3月30日より大分に遅れた。
4月の第3週になっても、サクラは美しく咲いている。
散り始める前に葉が芽を出してきている。

お花見の翌日は悲惨だ。
数十羽のカラスがゴミ袋に停まって、袋を食いちぎっている。
脇を通るのはいいさか怖い。
写真はビニール袋がカラスに食いちぎられる瞬間前の状況だ。
このあと、道路一杯にプラスチックの弁当箱、カップ、ビニールの袋、紙袋が道路いっぱいに盛大に拡げられる。
元安川には、ビニール袋も浮いている。
風が吹いたら悲惨だ。

1

お花見をした人たちは、きちんとゴミを片付けたつもりだろうが、そうではないということを知って欲しい。。

お花見のシーズンに限らず、普段でも、夜中に生ものを入れたビニール袋を置いていく人がいる。
翌日の朝には、たちまちカラスに食いちぎられ、ゴミが周辺に散乱していることが度々ある。
後は市がやってくれるだろうと思っているようだ。
中には「早く片付けろ」と文句を言ってくる人もいるという。

困ったもんだ。
「自分のやったことは、最後まで自分でやんなさい」と母によくいわれたもんだが。

現在スーパーではビニール袋を有料にしたが、コンビニでもどこでもすべて袋は有料とするのも手かもしれない。
有料化収益の問題では、こうした環境的問題からも意味があるようだ。

*お願い
この文章の下にある《広島Blog》というバナー(画像)を クリックしてください。

2010年4月14日 (水)

映画「NINE」とシネツイン新天地

先日、久しぶりに映画を見た。
グランパの映画批評に刺激され、時々映画館に寄るが、チャンスを逸していた。
近頃の映画はやたらCGを使って、想像もできない人間や状況を作りだしたり、やたら暴力的だったりし、見る気がおこらなかったり、見たいと思っても、次の上映まで大分時間があったりしていた。

八丁堀周辺の映画館を何軒も回ったりしたこともある。

ソレイユのシネコンなら、幾つも部屋があり、幾つも違う映画が上映されているから、その中から選べばいい。
市内の映画館同士、もう少し協力してソレイユのシネコンに負けないようなネットワークを作る必要があるようだ。
近くの映画館のどこでは何を何時からやっているかの掲示をするだけでも随分違うだろう。

ネットや新聞で見ればそんなことは、わかるいえばわかるが、なにしろ見たいと思うのは、そんなに計画的ではない。

シネツイン新天地はビルの5階にある。
100席位席があるのに、客は10人もいない。
勿体ない。

1_3

映画NINEは面白かった。

もともとは、フェデリコ・フェリーニによる自伝的映画『8 1/2』をミュージカル化し、トニー賞を受賞した同名ブロードウェイ・ミュージカルを、さらに今回ミュージカル『シカゴ』のロブ・マーシャル監督が映画化した作品だ。
随分と手が込んでいる。

ストリーは、
数々の栄光に輝く映画監督が新作をつくるといいながらも、実は脚本も全く書けていない。
なんとかしたいと自らを追み込み、もがき苦しむ。

そんな男は、女にとって極めて魅力的に映るようだ。
女は、そんな凄い才能をもった男に、自分が一番愛されていると思うようでもある。

男は、なんとかしようとやってきたリゾートホテルに、突然愛人が押し掛けてくる。
愛人を置きざりにして、出てきたバーで、隣に座ったフアンだという女性ジャーナリストとできてしまう。
捨てられた思った愛人は自殺騒ぎを起こす。

駄目なときには何をやっても駄目だ。

なんとか妻とやり直そうとして呼んだスクリーンテストの新人の女性に、妻と結婚する契機になった時と全く同じ台詞と行動をとってしまう。
本人はまったくそれに気がついていないが、妻はそれに傷つき、とうとう男に愛想をつかし、別れてしまう。
ありそうなことだ。

ブロードウエイのミュージカルをベースにしているというが、ダンスシーンは官能的で、圧倒的だ。
劇団四季の健康的なダンスとは趣をかなり異にする。

抜け殻のようになった男は、2年後古くからのスタッフ、母親のような女性の説得でまた映画監督に戻ろうとするところで映画は終わる。

そんな男と女の退廃と隠微な関係が描かれている。
男にとって、なんとも都合がいい世界がそこにはある。
映画はやっぱり面白い?!

*お願い
この文章の下にある《広島Blog》というバナー(画像)を クリックしてください。

2010年4月13日 (火)

平和公園の慰霊碑前寄付金箱

平和公園の慰霊碑の前に寄付金箱がある。
今まで、普段寄付金箱は献花等に隠れて見えないこともあって、全く気づかなかった。
寄付金を入れる人を見たこともなかった。
先日寄付金を入れる人がいて、初めてそこに寄付金箱があるのを知った。
私も硬貨を入れて、手を合わせてお祈りした。
私の後に続いて何人かの人が献金していた。

1_2

日本では、神社の賽銭箱ではないが、「もっと儲かりますようにとか、何かいいことがありますように」とお願いするときに、お金を賽銭箱に入れるのが普通だ。
慰霊碑に向い、何かいいことがありますようにとお願いするのは、ちょっとそれは違う。
そんなこともあって、私もちょっと躊躇したが、前の人が献金をしたことにつられ、お賽銭箱があるということは入れてくださいということでもあるはずだと、自分に言い聞かせて献金した。

平和資料館の展示はとてもよくできている。
平和文化センターも素晴らしい活動をしている。
原爆の悲惨さ、平和の意味を訴える活動の必要性を改めて感じるが、そうした活動をするにはそれなりの資金がいる筈だ。
私も少しでもそうした活動にお役にたちたいと、平和資料館の中で寄付金箱を探したことがあるが、見つけらなかった。

高額の寄付であれば、税の控除も受けられる。
そんな寄付金についても、平和資料館の中では直接には受け付けていないようだ。
市民局国際平和推進部平和推進課へ連絡すれば寄付申出書が送付される。
それを持って銀行から振り込めばいいということのようだが、しかしちょっと面倒だ。

ネットで調べてみると、平成21年度の平和文化センターの活動に対し、広島市は約10億9千万円の予算をあげているが、そのうち寄付金は約370万円だという。
平和文化センターの活動の殆どは税金で賄われていることがわかる。

寄付金はもっとあってもいい。
そのためには、もっと容易に、寄付し易い仕組みを作る必要がある。

日本にはお金を寄付する言葉には、献金、寄付金、お賽銭、募金、義捐金、お布施、奉加帳と色々ある。
それぞれに意味することがちょっとずつ違うことで、微妙に使い分けられている。
英語はdonationだけなのだろうか。

最近はネットで寄付金を募る方法も普及し始めている。
オバマ大統領は大統領選の際、数百億円をネットで集めたという。

1人1万円、1億人から集めたとすれば、それだけで1兆円になる。
ネットの世界の恐ろしさも感じるが、それにしても日本では、寄付する文化をもっと育てていく必要があるようだ。

*お願い
この文章の下にある《広島Blog》というバナー(画像)を クリックしてください。

2010年4月12日 (月)

ゴルフとゴルフ練習場

先日アメリカ人夫妻を案内した。
ゴルフ練習場を指して「向こうにみえる高いグリーンのネットは何だ?」と聞かれ、説明に困った。
言われてみればアメリカにはない施設だ。

1

ゴルフ練習場では、人は幅数Mのところに立ち、何も喋らず、ただひたすら修行僧のようにボールを打つ。
殆どの人が、1人で来て、1人で練習して、帰っていく。
餌を突っつく鶏のブロイラーのようでもあるが、いかにも日本人らしい遊び方だ。

日本人はお茶を飲むのさえ、茶道として、人間修業の一つとしてしまった。
今やゴルフの練習とその練習場はその一つになったようだ。

政府は日本の文化、習慣をスマート文化として世界に発信しようとしている。
そのうちこのゴルフ練習場も日本のスマート文化として世界に普及していくのだろうか。
可笑しい。

バブルの頃、練習場は2時間待ちとかもざらだった。
今は随分とお客も減ってしまい。混んでいるときでも30分程度だ。

私の友人で練習して上手くなるなら練習するといって、一切練習をしない人がいた。
そんな彼に私はいつも負けていた。
彼は100万円もするゴルフセットを持っていた。
何事も道具だと思い、長尺のドライバーは流行った頃、10万円近くもするドライバーを買ったこともあったが、長いクラブはとても難しく、すぐにあきらめてしまった。

ゴルフは練習すれば上手くなるというわけではないが、練習しなければ上手くならないともいうのも真実だ。

練習場とコースとでは違う。
練習場ではどうしても飛ばそうとしてしまうから力んでしまう。
それではコースに出ると、とてつもなく曲がってしまう。
コースでは、飛ばなくてもいいから、まっすぐ飛ばすほうに価値があるということに、最近ようやくわかった。

ということで、最近はゴルフ練習場でも50級程度で止めることにした。
昔みたいに300球とかは打たない。
体力的な衰えもあるが、どうもその方が、妙な癖がつかなくていいようだ。

ある友人は、ゴルフはこの世で最高に上手く出来た遊びだと言っていた。
その理由は
① 年をとっても遊べる。
最近は乗用カートが導入され、80、90歳になって、歩けなくなってもゴルフができるようになった。
青木功なんて、60歳を過ぎてもプロとして活躍している。
② ハンディキャップがあるので、上手い人も下手な人も、男でも女でも一緒に遊べる。
皆自分は上手いと思っている。
とんでもなく錯覚の遊びだ。
③ コースやカートに乗るか否かによっても違うが、1日に大体6、7KM程度は歩く。
健康にいいといわれるが、実は健康な人でなければゴルフはできないということもある。
ここにも錯覚がある。
ある人はゴルフをやりたいがために、一生懸命健康維持に努めているといっていた。
④ 雨の日でも、風の強い日でもできる。
相手は自然であり、自分との戦いでもある。
その日によって、全くスコアが違う。
⑤ 1打いくらで賭けの対象にもなる。
⑥ コースにもよるが、料金も1ラウンド1万円程度と昔に比べ随分と安くなった。
⑦ 殆ど丸1日一緒に時間を過ごせるので、営業的には、最高の接待になる。
時間当たりの単価としても、食事をして2次会にいくより安い。
⑧ タイガー・ウッズや石川遼みたいに、数10億円、数100億円稼げるかもしれない。
⑨ ゴルフ会員権を買えば儲かるかもしれない。
ということがあったが、それはバブルの崩壊とともに消えた。
今では、会員権は本来のお友達をつくる契機になるということに戻ったようだ。

まあそれにしても、ゴルフは面白い。
そのあまりの面白さに夢中になり、国会会期中にゴルフをしていたと問題になった議員もいた。

そんな面白い遊びを男に独占させとくわけにはいかないと、近頃は随分とゴルフをする女性も増えた。
友人の娘さんもゴルフを始めたと言っていた。

4月になって随分と暖かくなってきた。
ゴルフをするには最高のシーズンだ。

ゴルフができるうちが華と、精々楽しみたい。

*お願い
この文章の下にある《広島Blog》というバナー(画像)を クリックしてください。

2010年4月11日 (日)

童話作家の誕生

 広島ではこの時期の恒例になった「アンデルセン・メルヘン大賞」に友人の斎藤忠臣さんが選ばれた。

 病気の父親の介護をまかせっきりにしていた奥さんが体調を崩され、介護を手助けするために3年前に広島平和センターの理事長を引いた斎藤さんは時間を見つけて童話教室で手解きを受けながら童話執筆に挑戦していた。
 「被爆した馬の話を温めている…」と聞いた覚えがある。

 アンデルセン・メルヘン大賞は広島のベーカリー“アンデルセン”が自社商品のお手本の国デンマークを代表する童話作家アンデルセンに因んで1983年に創設した。爾来、回を重ねて27回目を迎えた創作童話の公募で、これまで多くの作家を育ててきた童話作家・児童文学者への登竜門になっている。

 斎藤さんは朝日新聞の記者として2度の広島勤務を経験し、大阪本社でも編集委員として長年『原爆・平和問題』を担当したベテラン記者だ。朝日を退職した後は前記のように‘03年から4年間広島平和文化センターの理事長を務めた…。

 斎藤さんは原爆資料館で多くの子供たちと接して子供に語れる童話の創作を学びたい…と聞いた事がある。退職後に父の介護をしながらアンデルセンが主宰する童話教室に大阪から通い続け、今回初めてメルヘン大賞に応募して1615点の中から大賞を射止めた。

 受賞作の「無人島の公衆電話」は記者時代に取材した実話を題材に創作した。
 夏休みに、洋はおじいちゃんの船でミカン山のある無人島に初めて行くことにした。島は10年前に無人島になったが、遭難者が困らないように公衆電話を残していた。おじいちゃんは赤電話の前に手造りのカリン糖と10円玉を置く。思いついた洋はおばあちゃんに電話をかけて潮騒の音を聞かせてあげる…祖父母と孫が織りなす家族の心の触れ合いを400字詰め原稿用紙9枚に託した。

 このブログで全文を紹介しようと考えたが既に版権がアンデルセンに帰属していて出来ないことが分かった。秋(10月1日)には絵本として出版の運びになっている。
 斎藤さんは次作にヒロシマをテーマにした作品を主題に童話作家としてのスタートを切っている。記者として長年培った経験と出会いとりわけヒロシマを意識した子ども達の心を捉える作品づくりに専心されることに期待しエールを送りたい。
<27回受賞リストと過去の作品リストはアンデルセンHPで閲覧できる>

*お願い
この文章の下にある《広島Blog》というバナー(画像)を クリックしてください。

2010年4月10日 (土)

広島五輪招致検討予算の復活

 2020年の五輪を広島に招致するかどうかを検討する広島市の新年度予算は31日の臨時市議会で市長の再議の要求に応えてほぼ原案に近い形で決着した。
 それにしても「核兵器の廃絶」という広島が抱える宿命的な課題を推進するための『広島五輪』をどれ程簡素で効果的に開けるか…を検討する為の予算。これを拒否する市議会会派の思惑は何なのか?『核兵器廃絶なんか関係ない、市長のやることは一事が万事反対…』とさえ受け止められる。果たしていま何が重要なのか…。

 先月の26日、広島市議会は本会議で‘20年に招致を検討している広島五輪について、関連の10年度予算案約2600万円を全額削除する案を賛成多数で可決した。「市民の十分な理解がなく、財政面でも困難」との理由だ。これで市は招致活動の方針転換を迫られていた。

 秋葉市長は「五輪の招致費ではなく、あくまで検討のための費用で専門的な観点からの調査が必要。五輪開催の可能性を探る為に必要な予算」と31日に異例の拒否権に当たる再議権を行使して臨時議会を招集し、修正予算案の再議を求める方針で対応した。

 これが可決された最大の要因は公明党の8人が賛成へまわった為だ。
 公明党の『広島五輪』への姿勢は2月の衆議院予算委員会で斎藤鉄夫議員が「広島の五輪招致の応援を…」と党の幹部として鳩山総理に求めた経緯が公になっている。
 また、私は、在広のマスコミの幹部から斎藤議員が「秋葉を応援するわけではないが、平和五輪は何としても誘致する方向で全面協力したい」との発言を聞いていた。

 市は今後、基本計画の策定に入るが、計画にはメーンスタジアムや選手村などの関連施設の整備、財政負担、宿泊施設確保など具体案を練り、年内をめどに『五輪招致に名乗りを上げるかどうか』を判断する運びになる。

 反対している会派や一部の市民の間では都市規模や財政的に無理と声をあげている。
中にはヒトラーのベルリン五輪を引き合いに出して“ヒロシマ五輪は政治利用”…という立場を主張する人もいる。
 しかし、“核兵器廃絶”という最も平和の根幹をなす人類共通の願望が五輪を通じて世界の隅々まで広まることを“政治的“と言って避ける理由は無い。更に、アジア大会当時の設備の活用や仮設の設備などで極力経費の圧縮をして今後の五輪のモデルになるような大会を目指した基本計画を作れば、政府もJOCも財界も『広島五輪』開催に協力することは期待出来る。無理な場合は潔く引くしかないが、今は平和都市広島の使命として“優れた広島五輪招致計画”の策定を待つことが大切だ。

*お願い
この文章の下にある《広島Blog》というバナー(画像)を クリックしてください。

2010年4月 9日 (金)

許されない警察の危険行為? 

 1995年3月に国松警察庁長官が銃撃された事件が時効となり、警視庁は「オウム真理教グル―プのテロ」と断定する驚くべき見解を発表した。
 犯人を起訴できず時効が成立した事件で捜査機関が特定の組織・団体を犯人と断じる行為と姿勢はどんな人間や団体であっても法治国家で許される事ではない。
 オウム真理教の数々の事件は厳罰を求められるケースが多いが狙撃犯人を特定できないのになぜオウムと言えるのか。以外にもマスコミの警察批判が弱いのは何故だろうか…?

 事件は‘95年3月30日に起きた。その10日前に、地下鉄サリン事件が、22日にはオウム真理教の本部の家宅捜索の直後だった。
 警視庁はこれらの捜査を手掛けていた捜査の指揮を刑事部から「教団の報復」とみて公安部に切り替えた。『オウムが犯人と思わない者は捜査本部から出ていけ』と公言する幹部がいたと言うほど確証もないままの捜査がスタートした…。
 状況は①発生一時間後、テレビ局に「教団への捜査を中止しなければ国松長官らに危害を加える」との脅迫電話があった②事件翌日に教団が配布したビラに脅迫電話の時間が正確に記されていた③元教団幹部が在家信者だった元警視庁巡査長≪‘96年懲戒免職≫の関与をほのめかし、元巡査長のコートなどから火薬成分が検出された…などから教祖だった麻原の指示によるテロとの疑いを強めて捜査した。一旦は『長官を撃った』との自供を得るが、東京地検は「信用性に重大な疑問がある」と立件を見送り、不起訴処分とした…。

 警視庁は今回、改めて『捜査結果概要』を公表してオウムの関係者の行動や会話を列挙して『本事件は、教祖たる松本の意思の下で、教団信者のグループにより敢行された計画的、組織的なテロであったと認めた』と結論付けている。
 これについて警視庁は「個人の刑事責任を問う手続きと、組織の犯行を認められる理由を明らかにすることは別の事と考える」と説明している。敢えて冤罪を避けた訳でもない?しかし、一枚めくれば冤罪を生む体質が滲み出た危険な匂いが…とも言える。
 大々的に報じてきたマスコミも同罪…意識があって?…批判が鈍ったのか。

 過去の事件で時効を受けて、今回の様な容疑について見解が公表された例は無いと言う。
 オウム真理教がどれ程反社会的な集団であったかという事とは全く別の問題として、法治国家のルールを大きく逸脱した行為と言わざるを得ない。『捜査結果概要』での断定の根拠も曖昧な上、決め手になる証言や証拠は示されていない…。都合に良い部分だけをつまみ食いした、警察のメンツや体面を保とうとする論理だけが優先された…結果と言わざるを得ない。このまま放置されれば、古いようだが『民主警察』が消滅しかねない。
 警察庁や国・国家公安委員会は果たして今後どう対応するのだろうか…。

*お願い
この文章の下にある《広島Blog》というバナー(画像)を クリックしてください。

2010年4月 8日 (木)

映画「加藤周一 幽霊と語る」

 戦後の日本を代表する知識人として発言してきた加藤周一さんが亡くなって2年余。
 憲法9条の会の呼びかけ人の一人である加藤さんの記録を追い続けていた加藤フアンのドキュメンタリスト達が1周忌を機に纏めたドキュメンタリー映画『しかし、それだけではない。~加藤周一幽霊と語る~』をみた。

 文学をはじめ芸術、文明、社会、政治と幅広い視点から日本について語ってきた加藤周一が死を意識するようになって試みたのは“決して意見を変えることがない幽霊=故人“たちとの対話だった。戦時中に、自らの運命との共通性を感じた源実朝や自由な言論が失われる中でも自分の意見を曲げることが無かった恩師たちや、学徒出陣で戦争に駆り出されて若い命を落とした友人達は「歳を取らないし、意見を変えない人“幽霊”」として捉えて、日本の未来を背負う若い世代への期待をつないで語る…。

 加藤周一は1919年に東京で開業医の家に生まれ、1943年に東大医学部を卒業して医師になる。学生時代から文学に関心を寄せ評論や小説を書く。
 終戦直後、血液の専門家として日米の「原子爆弾影響合同調査団」の一員として被爆実態調査のため広島で原爆被害調査に携わった。文学・評論活動も続けながら‘51年からフランスへ血液学の研究で留学するが‘58年には医学を廃業し評論家となる。
‘60年安保闘争では改定反対の立場で積極的発言をした。‘60年以降は内外の大学で教鞭をとりながら執筆活動をする。

 彼が医者をやめて評論活動に専念するようになったのは、自分が幽霊達と重なった時、未だその思いが果たせていないことや広島で自分が医者として何も役立たなかった…という思いが「日本が平和国家であり続け、憲法9条を守らなければいけない…」事が原点になっているようだ…。
 常に死を意識し26歳で暗殺された源実朝と26歳で徴兵され死を覚悟した自分を重ねて『死んだつもりで生きる』覚悟を、死んでいった親友や日記をフランス語で書き質素に抵抗した恩師の反戦思想を現代の若者たちに伝える…。

 憲法改正手続き法が成立する危機感を前に、国民投票で二分の一確保して改正させない為には「人生の中で自由な精神を持っていられる会社や役所を辞めた老人と学生が連帯すれば止めることが出来る」「学生には4年間は精神の自由がある。就職したら定年まで言えなくなる、私たち老人は間もなく死ぬから同じ数年間じゃないか…」。若者に見てほしい。
 軸がブレない“加藤周一の現代平和禅問答“と言える記録映像だ。
 問い合わせ:広島映画センター 広島市中区堺町1-2-9 貴志ビル 082-293-1119

*お願い
この文章の下にある《広島Blog》というバナー(画像)を クリックしてください。

2010年4月 7日 (水)

写真俳句?

 聞き慣れない「写真俳句」と言うのがあるそうだ。カメラの腕に自信がなく、ましてや俳句なんて難しそうと言う人も心配ないというのは作家の森村誠一さんだ。
 「写真俳句」は森村さんの発案で『カメラとペンさえあれば、だれでも気軽に作れる』と言う。
 平凡な写真と俳句を組み合わせることで、思わぬ相乗効果が生まれるのが写真俳句の面白さだと言う。芸術的な写真より、何てことのない写真の方が句とジョイントした時の発見や意外性がある…。俳句も難しく考える必要は無い…と。
 感動を17文字に凝縮しようと試行錯誤するうちに、何事も観る目が深く豊かに変わっていき、何時しか秀作を得られる…。「ひねるより一句一写の花便り」…とは森村さんの説だ。
 気軽に撮った写真に“5・7・5”と17文字で写真説明をつけるつもりの挑戦と考えれば気は楽に出来よう。散歩に出かけた平和公園で早速捻って見た。

1_2

 25日は全体的に未だ三分咲きだが、古木の幹の花はよその樹の咲き具合を偵察している様な風情の樹を見つけた。

三分咲き 様子窺う 幹の花
枝ぶりが 遠慮がちな 古木桜

 花見をしながら写真を撮って俳句を作るというのはまさしく一石三鳥だ。

「きれいだ」「面白い」と心が動いたときがシャッターチャンスで、写真俳句を作るチャンスのようだ。花の季節、お花見の時期は写真俳句の絶好の機会になる。カメラとペンを持って出かけよう…写真俳句でいつもと違った景色が見えてくる…が森村さんの言だ。


2_23_2

 28日の日曜日は開花宣言時では満開の予想だった。生憎の寒波が3~4日満開をずらし、今年の桜は長く楽しめる。しかし、予定の変更はしないでお花見は決行。馴染みの12人で桜より話に花が咲きました。

三分咲き 七輪の火と 昔話が燃え上がり
花忘れ 昔話に 酔いしれる
満開で もう一度 期待する 花見日和

 まだ「写真俳句」の体をなしていないが、暫く時間をかけて挑戦し、改めて披露したいと思う。

*お願い
この文章の下にある《広島Blog》というバナー(画像)を クリックしてください。

2010年4月 6日 (火)

窯元の仕事

 西条の実家は弟が陶芸の窯を開いて間もなく30年になる。
 マツダで翻訳や通訳の仕事をしていた5歳下の弟は昭和50年に退職し、島根県の斐川町の出西窯で6年余の修行をした後“無二窯”と名乗る民芸窯を開いた。

123

 電気釜にガス窯も使うがここ数年は薪で焼く平窯を専ら使っている。当然、燃料は松を中心にした木材で間伐の樹があれば遠くまで出かけて確保するのが大変なようだ。チェーンソウで適当な長さに切った後は薪割がひと苦労だった。
 ところが最近は薪割り機がある。油圧を使ってかなり大きな丸太も楽々と割ることが出来る。機械の薪割りも使い方次第で根本の側から斧が入るようにセットすれば樹の自然力を活かして楽に割れる。

 年に3回の火入れは四昼夜に渡って薪を焚き続ける。写真にある位の薪が一度の窯焚きに必要で、その上に結構な労力と時間を要するようだ。陶芸家の仕事は容器の制作と乾燥に加えてこうした下準備に費やする。土をこねる作業も重労働だがこれら諸々の準備作業はことごとく重労働だ。
 しかし、物を作りあげる喜びは何物にも代え難い制作者冥利に尽きることが長続きの素のようだ。

 年に一度、福屋八丁堀店の画廊での個展やGW前後に福屋で開かれている郷土作家展に出品してきた。7階の陶芸品売り場に小さな無二窯コーナーを設けて頂いていたが、今は撤退している。この他、年に数回の個展を維持してきたが、この業界にも不況の波は大きく、しばらく個展は休んでいたが、この秋3年ぶりに9月9日から福屋での個展を開くようだ。

 NHKの陶芸教室の講師を長らく務めている他、自宅の工房でも地元の人を中心に教室を持っている。陶芸教室も若者の姿が減り、専らリタイア―組の高齢者とご婦人のようだ。

 何はともあれ、定年がない仕事だが体力勝負の仕事でもある。ゆっくりのんびり構えて息長く自分の作風を大事に踏ん張って欲しいと思う。
無二窯:佐々木求・東広島市西条町寺家3713  Tel:0824-22-0848 携帯:090-7508-2948

*お願い
この文章の下にある《広島Blog》というバナー(画像)を クリックしてください。

2010年4月 5日 (月)

墓参と我が家の墓地候補

 久しぶりに息子に誘われて西条の実家へお墓参りに出かけた。
 好天に恵まれ、黄砂もかなり酷いようだが途中の山陽自動車道沿いに開花した山桜の樹木を数本見かけた。昨日はソメイヨシノが例年より5~6日早い開花宣言だった?事を考えれば当然だ。ソメイヨシノのように開化の後に葉を出すのでなく、葉が先に出て開花するのが山桜で地味な存在だが先に春を告げる桜だ。

 かねてより我が家の課題だった墓地について家内と息子に相談した。実家の墓地の入口付近に我が家が所有する新しい墓地一区画がある。お墓の広さは一坪を宅地の一坪(3,3㎡)の四分の一、畳半畳分で表すのが一般的でここは7~8坪ある。これを我が家の墓地に切り替えるかどうか?だ。息子も娘も年に1~2度それぞれ孫たちを伴って墓参をしている。従って、ここが遠隔地で不便などとは考えていないようで、ここを我が家の墓地にすることを確認し、姉と弟の了解を得た。

 何といっても最初に収まるのは私に違いない。家内と息子達に姉や弟にも万一の時はよろしく頼むとお願いできたのは有難いことだ。名義等については今後弟と打ち合わせて必要な手続きを進めなければなるまい。我が家の・私の“安住の地”が出来ることになる

 いま、市内で墓地を求めるとなれば色々だが400万円から1千万円は掛かると言う。
 お寺の納骨堂へ永代供養をつけてお願い出来るケースもある。
 しかし、実家が遠方でないのと子や孫たちに鎌倉時代に和歌山を経て西条の地に移った佐々木家のルーツを繋いで置くことも必要と考えて本籍も実家に残してきた。

 特に歴史に興味を抱いてきた颯太は強い関心を寄せるだろう。息子も孫もいずれ西条の地と無縁になる事もあろうが、それは彼らの判断に委ねればよいと考えている。

 お参りの後、家内と息子と改めて“我が家の墓地”候補地を見た。周囲を花崗岩で石垣が積まれ確りとした造りになっているが、管理してきた弟の話では野草が生えたりするとたまに猪が出没して掘り返すなどの被害が出た事があるという。

 墓地のすぐ下は嘗て松茸が土筆のように生えていた我が家の山林があるが、今は松林から孟宗竹に占領された竹林になってしまった。江戸時代の大名行列が行き来した八本松飯田から寺家の旧国道2号線に通じる大名松の痕跡が残る旧山陽街道沿いだ。
 終の別れの後の安住の地を固め、なんとなく安心した気分だ。今後どんな形のどんな記載の墓石にするか時間をかけていろいろ相談しながら考えたい…ものだ。

*お願い
この文章の下にある《広島Blog》というバナー(画像)を クリックしてください。

2010年4月 4日 (日)

ゾーナイタリア

夕方6時、窓際の席を予約していった。

ゾーナイタリアは急な斜面の途中を切り開いた高台に建っている。
アクセス道路は建物を囲むようにグルッと回っている。
座席の窓からは広島の街と瀬戸内海を望める。
食事をしている間に、徐々に日が暮れ、街が灯りの世界に変わっていく。
素晴らしい景観だ。

イタリアンレストラン・ゾーナイタリアは広島市内から2号バイパスを通って、井口ICを降りて、右に曲がって、急な斜面をあがるとある。
市内から車で20分ほどの距離だ。

そんな近いところに市内のレストランとは全く違った雰囲気のレストランがあることに感激する。

料理も美味い。
ワインもさして高いワインを注文したわけではないが、ひどく高級なワインを飲んでいるように感じる。

茶色の土壁のような壁に真っ赤なプレートが嵌め込まれ、そこにお店の名前が書かれている。

1_3

門を入ると、右手横が玄関になっている。
玄関を入ると、座席の向こうに広島の景色が広がって見える。

玄関を入って左手は厨房になっている。
ガラス越しに厨房の中がみられる。

レストランとしての演出がなかなか上手い。

大きなレンガの窯が設えており、そこでピザを焼いている。
レンガはイタリアから輸入して作ったという。
日本人らしい拘りだ。

*お願い
この文章の下にある《広島Blog》というバナー(画像)を クリックしてください。

2010年4月 3日 (土)

お花見 2010

今年も友人たちとお花見の会をした。
今年でもう何回目だろうか、すっかり恒例の行事になった。

今年のサクラは3月20日の開花、30日が満開との予想だったが、開花宣言がされてから以降、雨の日、寒い日が続き、28日の日曜日でもまだサクラの花は2分咲きという程度だった。
当日の気温は15℃程度までにあがり、陽射しは暑いくらいだった。
直ぐ止んだが、途中ぱらぱらと雨が降ってきたのには驚いた。

1_2

参加者の年齢は様々だったが、高齢の方は、皆それぞれの世界で、それなりの実績を残した人たちだ。
そんな人たちから、新聞やTVにはとても書くことができないだろう本当の本当の話を聞くことができた。
皆話も上手い。
ブログに書くには、ちょっとヤバい話だ。
エッ、この人がそんな経験をしているのということを知るのも面白かった。

お花見という気楽さで、なんのテーマもなく、友達の友達は皆友達だという感じで集まり、話があちこち飛ぶと、そんな意外性が生じるようだ。

お花見は日本独特の催事なのだろう。
通りかかったブラジル人のカップルが一緒に写真をとらせてくれてといってきた。
そういえば、去年はフランス人の人たちが加わり、一緒に日本酒をのんだ覚えがある。
それはそれで面白かった。

こんな宴ならまたしたい。

*お願い
この文章の下にある《広島Blog》というバナー(画像)を クリックしてください。

2010年4月 2日 (金)

まちコレー広島まちなかコレクション

3月21日、12時から4時までの間、並木通りが歩行者空間「ほこてん」になった。
「ほこてん」のイベントの1つとして、並木通りに赤いジュータンが敷かれ、ファッションショー「広島まちなかコレクション」が開かれた。

明け方まで降っていた雨もあがって、日が射してきたのは良かったが、ちょっと風が強かった。
道路に敷いた赤ジュータンが風で飛ばされそうなり、懸命にビニールテープで止めるが、部分的に留めていては直ぐ飛ばされてしまう。
結局全面留めることになってしまった。
何事もやってみれば、思ってもみなかったことも起こるということだろう。

その赤いジュータンが敷かれただけで、街の雰囲気が一変するからおかしい。

今回のショーには、広島市内の専門学校4校とフッションクリエーター5名 アパレルショップ5社 それとモデルとしてボランティアで学生たち30名、それにスタッフの総勢約200名が参加したという。

1

第1部では、専門学校の生徒達が自分の作った作品を、自分達で着て、赤いジュータンの上を歩いた。
皆プロのモデルではないから、ちょっと恥ずかしそうに歩き、ポーズをとったりしている。
それがまた初々しくていい。
途中、知り合いだろう友達に会うと、手を振つて応えていた。
パーティードレスをテーマにしたファッションは、こんな自由で華やかな服を着た若者たちの参加した結婚式なら、さぞ楽しい結婚式になるだろうと思わせてもくれた。

第2部は広島市内で働くクリエイターの作品だという。
友人の娘さんの彼氏の作品も出品されていた。
フワッとしたベージュのスカートと淡いブルーのジャケットだ。
終わったらもらうことになっているという。
幼児とそのお母さんをテーマにしたファッションもある。
近所にこんな服を着た家族が越してきたら、近所付き合いも楽しくなりそうだ。

そんなリアルさで全体が構成されているのが、この「広島まちなかコレクション」のユニークなところであり、面白いところでもある。
パリコレの1着数百万円もするファッションショーとは次元を異にする。

第3部は地元アパレルショップが提供してのショーだ。

東京ガールズコレクションはそうしたリアルさをコンセプトにしたファッションショーだという。
東京ガールズコレクションはプロのモデルが歩き、広告代理店が参加し、かなり大掛かりなショーだ。

「広島まちなかコレクション」は2児の幼児を抱えた安佐南区に住む普通の主婦、山下ミカさんがプロデュースしたショーだ。
「ファッションショー」をやりたいという山下ミカさんの思いを、アキハバラ塾の河口さんが、並木通りで「ほこてん」をするという「NPOせとら」に繋ぎ、それがあれよあれよという間に、「広島まちなかコレクション」になったのだという。
かかった費用は、ポスター、パンフレット等をつくる費用の十万円だけだという。
市、国からの補助金等は全くなしだ。
電通等の広告代理店も拘わっていない。
素人の、それもまったくの手作りのショーだ。
幼児2人を抱える主婦、山下カナさんの思い。
後押しをしたアキハバラ塾の河口さん。
NPOせとら。
それに地元商店街の人たち、専門学校の生徒達のボランティアの活動で、これだけのイベントを成功させた。
奇跡的といっていい?
凄いとしかいいようがない。

「広島まちなかコレクション」の観客数を私なりに計算してみた。
レッドカーペットの長さ55M×2=110M
3人/M×110M=330人
1人当たり滞在時間20分
ショーの継続時間12時から4時までの4時間
とすると、
330人×12回転=3,960人
が見たということになる。
ちらっと見て、脇を通り過ぎて行った人はもっといるだろうと思う。
そんな人たちを加えれば数万人になるかもしれない。

並木通りに面したカフェに入ったが、エレベーターで上がらなければいけないほどの上の方の階だったにも拘わらず、満席だった。
カフェの人は「まちなかコレクション」のお陰ですと言っていた。

金井氏はイベントの経済効果は1人当たり8,000円だといっていた。
3,960人×8,000円=3,168万円
の経済効果が地元にもたらされたことになる。

こんなやり方なら、どの地方都市でも実現できるはずだ。
そうした意味でも価値のあるイベントだった。

今回、並木通りは20年ぶりに歩行者天国を再開したという。
それだけでもたいしたもんだと思うが、「ほこてん」にすればこんな楽しいことができるということも教えてくれた。

4時に秋葉市長も参加してのフィナーレでは、挨拶にたった山下ミカさんは感極まって泣いていた。
そりゃそうだろう。
苦労もあったろうが、どこにでもいる普通の若い主婦がこれだけのイベント成功させたのだ。
何度も打ち合わせをし、前日にはグリーンアリーナ前の広場でリハーサルもしたという。
人にいえない苦労もあったのだろうと思う。

「広島まちなかコレクション」
ファッション専門学校の生徒たちにすれば、作品発表会は学内では日常的にやっているようだが、沢山の市民にこうして見てもらえたということでも、学内での発表会とはまた違った刺激を受けたことだろうと思う。

ファッション専門店にしても新しい販売方法を見つけたということでもあるだろう。

「広島まちなかコレクション」にはアキハバラ塾も参加している。
モデルが着ている服を携帯で撮り、その場でメールから注文できるできるようにしたらいい。

この日は、街のあちこちで様々のイベントが催されていた。
中の棚商店街では太鼓の実演がされていた。
袋町公園では白い馬車に乗って回るイベントもあった。
アリスガーデンではミュージックキューブの野外コンサートもあった。

「まちなかコレクション」は広島にとっては全く新しいコンセプトイベントだ。
中心市街地の楽しさ、奥深さを見せてくれたイベントでもあった。
これからも度々開かれることを期待したい。

*お願い
この文章の下にある《広島Blog》というバナー(画像)を クリックしてください。

« 2010年3月 | トップページ | 2010年5月 »

関連書籍

  • サイフもココロもハッピーに!ちょびリッチ
2018年5月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31