朝青龍の引退劇の遺産?
横綱朝青龍が突然の引退に追い込まれたのには驚いた。何度も“厳重注意”を受けるなど“大相撲のやんちゃ坊主“ではあったが、サッパリとした気性は“土俵の花”としての人気は随一で朝青龍フアンになっていた丈に残念であり、寂しくもあり、外国人力士問題として角界に大きな課題を残した…。
朝青龍はモンゴル相撲で少年横綱になり平成9年に高知の明徳義塾高校の留学で来日し2年生の冬に中退して高砂部屋に入門した。平成11年に初場所で初土俵を踏み、平成15年初場所で初土俵後25場所の最速で横綱に昇進した。この間、史上初の7連覇をはじめ幕内優勝は大鵬、千代の富士に次ぐ3位の25回を果たした。
何よりも改めて朝青龍の記録に驚かされる。生涯戦歴669勝173敗76休:勝率7割9分5厘、幕内戦歴596勝153敗76休:勝率7割9分6厘。幕内優勝25回に幕下、三段目、序二段各優勝1回。殊勲・敢闘賞各3回…があるが、負け越したのは3度しかない。
平成12年一月の3勝4敗と翌年名古屋の小結で7勝8敗。横綱になって平成15年の名古屋で5勝5敗5休みがあるだけだ。対戦力士との勝負も負け越しは貴乃花の2敗、武蔵丸の4勝5敗だけで、立会前に勢いよくまわしを叩くアクションや闘志がみなぎる取り組みや愛嬌たっぷりの笑顔は角界一の人気者に押し上げてきた。
こうした実績の一方で、土俵上の振る舞いでは“ガッツポーズ”“土俵際のダメ押し”“仮病疑惑”など『お騒がせ横綱』『角界の異端児』『奔放な豪傑』など、傍若無人振りを極めて厳重注意を5回も受け、3年前は巡業をケガで休場しながら、モンゴルに帰国してサッカーをして2場所の出場停止と4カ月の減俸処分を受け『横綱の品格』を問題にされてきた。
今回は初場所中に明け方まで飲酒して泥酔し知人を殴った疑いが浮上した。当初マネージャーが「殴られたのは自分」と言い、厳重注意で終わる見通しだった。所が、それが嘘だったとの報道で大騒ぎになってしまった。
外国人力士は高見山で始まりハワイ系力士時代からモンゴル・ヨーロッパ系力士に代わり、今や幕内の三分の一近くを支えている。しかし、相撲協会の役員や運営には『国技』を盾にヤクザ世界にしかない一門や一家という一般社会では通用しないしがらみ世界が中心の業界が生きている。先日の理事選挙はその一端をあらわにした…。
生れ育った生活環境や風習が全く違う外国人に『横綱の品格』を誰がどのように指導してきたのか?朝青龍の不幸は長らく一人横綱時代に支えた大相撲は彼に何を教え指導したのか?心技体を整えた“土俵の美学”が何なのかを叩きこまれる指導者に恵まれなかった事にあろう…。
弟子の指導名目で暴力をふるって死者を出しながら曖昧な対応しかできていない日本相撲協会が外国人力士の育成指導にどのような対応をするか…。
朝青龍の不幸は何と言っても出世スピードが速すぎた事。
横綱になるや否や一人で4年間、強い横綱を張って大相撲人気を支えた事。
この間、親方も協会も強い横綱で相撲人気を煽って『横綱の品格』など指導する間がないまま突っ走った…事にある。
親方にも相撲協会にも朝青龍への借りは大きく責任は極めて重いものがある。
協会は外部の力を導入して外国人力士の育成指導の体制を抜本的に考える時期が来ており、それが二人目の朝青龍を出さない為の教訓であり、朝青龍が残した遺産ではないか…。
今や、日本相撲協会の抜本的改革こそが最大の課題だ。
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