中沢啓冶・全作品原画を資料館に寄贈
「はだしのゲン」の原作者・中沢啓冶さん(70)が被爆後の広島を舞台にした多くの作品の原画と関連の資料を原爆資料館へ寄贈した。資料館では整理後に「中沢記念展」をする。
根っからの漫画少年だった中沢さんは昭和36年、22歳の時に広島の看板屋をやめて憧れの漫画家を志して上京し、アシスタントをしながら修業した。二年後に少年画報に連載物でデビューし、宇宙物や怪物物で売りだした。
昭和41年、27歳で結婚し漫画家として自立した秋、母の死にあう。火葬された母の骨が無く、原爆は母の人生を狂わせた上に骨までも奪ってしまったのかと怒りに震え、封印してきた原爆をテーマに初めて描いた作品が「黒い雨にうたれて」だった。
その後、次々に原爆物を手掛け昭和48年に発行部数150~200万部と言われた人気の「週刊少年ジャンプ」に『はだしのゲン』を連載、爆発的な人気をさらった。単行本化され全国の学校図書館に普及し、昭和62年までに単行本10巻が発行され、原爆物・広島物を多く手掛け、『ゲン』は劇映画化やオペラに舞台アニメ映画化され、反核平和を追求する代表的な漫画家としての評価を高めた。
私が中沢さんと出会ったのは昭和45年、「原爆の子」に手記を寄せている人達の同窓会?が開かれた千田町時代の広大だった。48年に東京支社に転勤し少年ジャンプの連載が人気を高め始めた頃だった。砂町のアトリエで助手を務める奥さんと格闘中の中沢さんと再会し、こと在る度に取材に引っ張り出した。同学年のよしみで何かあると声がかかってきた。50年のカープ初優勝は下町から銀座まで何かと理由を付けて飲み歩いた。『ゲン』の単行本化の出版社探しや広島の小学校で『ゲン』の副教材化など…。
『ゲン』の映画化の子役募集やオーディション、PR。以後、アニメ映画化や音ドリ(声優の台詞録音)、その他の映画製作など理解あるわがRCCは積極的に協力してくれた。
そんな関係のなかで10年前に、故郷回帰に目覚めた中沢さんは広島に住まいを構えたいと言い出した。親しい建設業者を紹介するとたちまち繁華街のマンションを購入し、爾来1年の半分を広島に充ててきた。健康不安がそうさせた?その頃、自分の作品原画やアニメのセル画に資料の山をどうしたものか…と相談を受けた。しかし、まだ先のことと考えていたが今年春ころから『糖尿により眼底出血で目が見えにくい』『線が引けない』「『ゲン二部』の企画は中止する」となって…資料館への寄贈。
夏の「ゲン英訳10巻完成」に続き“中沢さん漫画家引退”の報道に“中沢作品の寄贈”に繋がってきた。今年は漫画家としての整理がついた…と中沢さん。資料館の前田館長は資料館の財産として“中沢展示”の活用を期待して欲しいと意欲的なのが嬉しい。
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