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2009年12月

2009年12月31日 (木)

夜神楽フェスティバル

12月に入っての土曜日、広島NHKビルの2階ホールで夜神楽を見た。
広島商工会議所が広島の夜の観光の目玉にしようということで、昨年から始めたそうだ。
当日の出演は横田神楽団、演目は「紅葉狩」だった。
出演する人たちは皆普段は仕事をもっている人たちだそうだが、相当に訓練されていて、ピタッと息もあっている。
とてもアマチュアとは思えない。
衣装も数百万円もするというものがあるという。
「こんなに、きちんと神楽を見たのは初めて」という友人の奥さんは「面白かった」と感激していた。
私は2曲目が始まると同時に寝てしまった。

神楽はそもそも秋の収穫を終え、豊かな実りを授けてくれた八百万の神々と先祖の魂をお迎えして奉納する農耕儀礼だという。
広島県北部には数百年も前から、石見系神楽として伝えられてきたようだ。
近年になって、かなり物語性が加わり、芸術性も高くなっているのだという。
神楽は意外と若い人にフアンが多い。
踊り手には最近は随分と若い人も増えているという。
かなり激しい踊りだから若くなくてはとても勤まらないだろうと思える。
私の友人の娘さんも神楽の練習に結構夢中になっている。
神楽のグループも増え、各地で幾つもの大会が開かれているという。
この横田神楽団は「ひろしま神楽グランプリ」でグランプリも獲得しているという。

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夜神楽は、そもそもは各集落で踊り手の男たちが酒を飲みながら、夜を徹して踊ったものだという。

薪能は野外に特設ステージを設け、ステージの脇で薪を燃やして演じられる。
夜の暗闇の中に浮かび上がる舞台には、なんとも不思議な幽玄の世界が創り出される。

この夜神楽も、市民球場跡地の広場のあちこちに特設ステージを設け、薪を燃やし、お酒を飲みながら見るようにしたどうだろうか。
秋に開催されるフードフェスティバルと組み合わせ、フードフェスティバルの夜のイベントとしたっていい。
「ひろしま夜神楽フェスティバル」
秋の夜長に、薪が広場のあちこちで燃やされ、その火に囲まれ、酒を飲みながら、陶然として、夜神楽を見るなんてのはまたオツなもんだろうと思う。

全国にはまたそれぞれ異なった流れを汲む神楽のグループもあるようだ。
椎葉村の神楽は、神様への言葉「唱行」歌い、神楽子と呼ばれる踊り手たちが太鼓の音に合わせ、右手で鈴を鳴らし、左手で扇子を操るのだという。
そうした各地に古くから伝わる神楽、新しいコンセプトによる神楽と様々のグループが参加する全国大会を広島で行えば、それこそ世界中から観光客が呼べるかもしれない。
それだけで、数10万人の観客を集められるかもしれない?

県西部の「石見の夜神楽毎日公演」では8~11月の122日間、温泉施設等7か所でリレー上演し、1日平均83人、計10,098人の来場客があったという。
昨年は無料だったが、今年は300円の有料にしたにも拘わらず、来場客は増えたという。

広島から古くて、新しい文化を発信できたら面白い。

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2009年12月30日 (水)

ひろしま音楽芸能懇話会と上村和博さん

2009年12月13日、アークホテル広島で「8.12慰霊の夕べコンサート」と「ひろしま音楽芸能文化懇話会」の合同懇親会が開かれた。
当日の出席者は約170人。
この懇親会も、今年でもう5回目になるという。

広島からは、吉田拓郎、奥田民生、矢沢永吉のようなメジャーなミュージシャンがかなり育っているが、広島にいて、地道に活動している歌手、芸能人も沢山いる。
広島をテーマにした歌もあるし、平和をテーマにした美空ひばりの「一本の鉛筆」のような素晴らしい歌もある。
上村さんは、広島にはそうした沢山のいい歌があり、素晴らしい芸能人がいることをきちんと市民に伝えていこう、広島をもっと楽しい街にしようということで、そうした活動を支援する「ひろしま音楽芸能文化懇話会」を立ち上げた。
歌謡曲、大衆芸能に関わる人たちはとかく孤立しがちで、発表の機会を探すのにも苦労している。
そうした人たちにとって上村さんの「ひろしま音楽芸能文化懇話会」の活動は力強い味方になっている。
広島駅前のエールエールの地下街広場で、月2回ほど会員によるコンサートも開いているという。

「ひろしま音楽芸能文化懇話会」は、今様の言葉でいえば立派な芸能プロダクションだといえる。

当日は広島でコンサート活動をしている榎本陽子さんのバイオリン演奏、海田、酒松、佐々木さんによる二胡の演奏、元劇団四季団員の道田涼子さんの歌、片山景子さんのバンドネオン演奏、あららぎさゆりさんのサキソホン、
関口一清さんの尺八、岡内さんの草笛
と多彩な演奏が披露された。
名簿を見れば、もっと多士済々の人がいるようだ。

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最後は、先日なくなった広島出身の作詞家石本美由起さんの妹さんが挨拶されたあと、石本美由起さんの作詞した「憧れのハワイ航路」を皆で合唱した。
この歌は、石本美由起さんが広島に住んでいる頃、瀬戸内海を走る別府航路の船をヒントにして作曲したのだと、以前上村さんが書いていた。

「ひろしま音楽芸能懇話会」が、さらに発展することを期待したい。

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2009年12月29日 (火)

演歌流しの時代が懐かしい

 広島の盛り場、中区薬研堀で35年続いた「琴団」が閉店した。オーナーの元演歌流し“保っちゃん”(水間保)が病気療養のためだ。流しの全国大会で大賞に輝き、持ち歌1,000曲以上の腕前。ギターの弾き語りに癒され、勇気づけられた者は多いはず。筆者もその一人だ。
 流し=演歌師のルーツは明治初期、自由民権運動の宣伝のため、世相を風刺した「演説歌」(演歌の由来)を歌った壮士や学生だといわれている。戦後の流しと違うのは、歌でお金を取るのでなく、歌本を売って生活していたことだ。
 添田唖弾坊、神長瞭月、島取春陽や広島の安芸郡出身の石田一松などはその流れ。同じく広島では大正年間、中区新天地で「ヨサホイ節」をバイオリンで歌い、広島から全国へ流行らせた秋月四郎もいる。(一説には「籠の鳥」の作詞者)
 戦前戦後の歌謡界では作曲家の上原げんと、遠藤実、歌手の岡晴夫、北島三郎、渥美二郎、アイジョージ、竜鉄也等が流しを経ている.
 戦後の広島では、流しのグループ「明星会」が有名だ。“保っちゃん”はここに所属していた。最盛期は50人もいた。先輩格には玉井擴(後の玉井会)がいる。彼が東京で活動していた時の弟子に、アイジョージや南洲太郎がいたという。筆者の知る当時の広島で活躍していた者に、白井いとく(白井会)、後に「艶歌」という店を持った“大和(やま)ちゃん”(大和正幸)、三味線の“琴ちゃん”(中谷菊夫)などがいた。3曲100円から200円だった。玉井と大和は現在カラオケ教室を主宰している。
 玉井の話によると、明星会が分裂後、広島市内の西から「玉井会」「明星会」「猪上会」の三つに地域割し活動したという。ところが昭和50年代にカラオケが出現。お客は聴くほうから歌うほうに回った。だんだん仕事が減り、転業せざるを得なかった。スタンドやクラブの弾き語りや歌の店を開いた者はいたが数少ない。カラオケ教室を開いた者は現在まで存続しているという。
 現在はカラオケで歌う時代。ギターやアコーデオンなど生の演奏でリクエストした歌が聴ける時代が懐かしいのは、筆者だけだろうか。

上村和博

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2009年12月28日 (月)

中沢啓冶・全作品原画を資料館に寄贈

 「はだしのゲン」の原作者・中沢啓冶さん(70)が被爆後の広島を舞台にした多くの作品の原画と関連の資料を原爆資料館へ寄贈した。資料館では整理後に「中沢記念展」をする。

 根っからの漫画少年だった中沢さんは昭和36年、22歳の時に広島の看板屋をやめて憧れの漫画家を志して上京し、アシスタントをしながら修業した。二年後に少年画報に連載物でデビューし、宇宙物や怪物物で売りだした。
 昭和41年、27歳で結婚し漫画家として自立した秋、母の死にあう。火葬された母の骨が無く、原爆は母の人生を狂わせた上に骨までも奪ってしまったのかと怒りに震え、封印してきた原爆をテーマに初めて描いた作品が「黒い雨にうたれて」だった。
 その後、次々に原爆物を手掛け昭和48年に発行部数150~200万部と言われた人気の「週刊少年ジャンプ」に『はだしのゲン』を連載、爆発的な人気をさらった。単行本化され全国の学校図書館に普及し、昭和62年までに単行本10巻が発行され、原爆物・広島物を多く手掛け、『ゲン』は劇映画化やオペラに舞台アニメ映画化され、反核平和を追求する代表的な漫画家としての評価を高めた。

 私が中沢さんと出会ったのは昭和45年、「原爆の子」に手記を寄せている人達の同窓会?が開かれた千田町時代の広大だった。48年に東京支社に転勤し少年ジャンプの連載が人気を高め始めた頃だった。砂町のアトリエで助手を務める奥さんと格闘中の中沢さんと再会し、こと在る度に取材に引っ張り出した。同学年のよしみで何かあると声がかかってきた。50年のカープ初優勝は下町から銀座まで何かと理由を付けて飲み歩いた。『ゲン』の単行本化の出版社探しや広島の小学校で『ゲン』の副教材化など…。
 『ゲン』の映画化の子役募集やオーディション、PR。以後、アニメ映画化や音ドリ(声優の台詞録音)、その他の映画製作など理解あるわがRCCは積極的に協力してくれた。

 そんな関係のなかで10年前に、故郷回帰に目覚めた中沢さんは広島に住まいを構えたいと言い出した。親しい建設業者を紹介するとたちまち繁華街のマンションを購入し、爾来1年の半分を広島に充ててきた。健康不安がそうさせた?その頃、自分の作品原画やアニメのセル画に資料の山をどうしたものか…と相談を受けた。しかし、まだ先のことと考えていたが今年春ころから『糖尿により眼底出血で目が見えにくい』『線が引けない』「『ゲン二部』の企画は中止する」となって…資料館への寄贈。

 夏の「ゲン英訳10巻完成」に続き“中沢さん漫画家引退”の報道に“中沢作品の寄贈”に繋がってきた。今年は漫画家としての整理がついた…と中沢さん。資料館の前田館長は資料館の財産として“中沢展示”の活用を期待して欲しいと意欲的なのが嬉しい。

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2009年12月27日 (日)

ダマー映画祭・広島開催への想い

 11日から3日間、広島国際会議場で米国シアトル生れの『ダマー映画祭inヒロシマ』が開かれ、映画に憧れるフアンと市民の参加で師走の広島に時ならぬ活気を見せた。

 ダマーとはヘブライ語で人にひらめきを与える比喩を意味し、人間の内面の描写方法に焦点を当てた30分前後のショートムービー作品を世界中から公募する映画祭で、新人の発掘と育成が大きな目的。米国では毎年開いて本年7回目で広島に関心の高いプロデューサー達が初めて広島に持ち込んで一年がかりの準備をしてきた。

 広島では「ココロとココロをつなぐ」をテーマに募集した作品は米国、韓国、中国など8カ国地域から120本が寄せられ、最終審査に残った10本が上映され観客も投票して最終審査した。他にも米国のダマー映画祭の入賞作品や地元の作家の作品4本も特別上映された。
 ワークショップでは米国の著名なプロデューサーや日本の新進気鋭の人気監督らと映画製作を巡るS&Qが展開され、若者の参加が目立った。

 この映画祭の実現には広島に熱い心を寄せる二人の映画人の力が大きかった。一人は岩国出身で映画「チィームバチスタの栄光」やこの夏人気を呼んだ「真夏のオリオン」等のプロデューサーの佐倉寛二郎氏と広島出身で映画「しこふんじゃった」や「北の零年」「それでもわたしはやっていない」等の美術監督の部谷京子さん。佐倉さんは米国のTV人気映画の日本語版制作に関わりダマーのスタート時から日本人唯一の審査員で参加してきた。
 部谷さんは8・6に平和公園の元安橋東詰で開く「小さな祈りの影絵展」に寄せる故郷への想いに重ねて自らの職能を通した恩返しを映画で…活かす…想いが人一倍強い。
 米国のダマーの主催者が“日本開催したい”という想いを、同じ作品に何度も取り組んできたプロデューサーと美術監督が“広島開催”で一致するのに時間は要らなかった。

 広島には2年に一度の「アニメーション・フェスティバル」が世界の3大アニメ・フェスタとして定着してきた。ダマーの主催者も故郷に映画で夢と希望を運びたい想いが強い佐倉・部谷のコンビも『ヒロシマの発信力』に期待を寄せているに違いない。ヒロシマが持つ“人類最初の被爆から核廃絶まで、人類史課題”は多く、映画がヒロシマを通じて果たすべき役割も多い…映画人が目指す普遍的な課題との共通項がある…と考えられる。

 開催準備に字幕の翻訳・スーパーの加工に通訳、運営などに広島国際大、広島市立大等10大学の教授と学生に在広TV5局の現場も協力した。来年以降の開催に更なる力になって発展に貢献し、合わせて『映画製作の街・広島』の礎になることが期待できる。2人の夢もそこにあるに違いない。「ダマー映画祭inヒロシマ」の今後の発展を期待したい。

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2009年12月26日 (土)

野中広務の遺言「9条改憲阻止」

 自民党の幹事長や小渕内閣の官房長官を務めた野中広務氏(84)が『昭和世代からの遺言』をテーマに講演し、憲法9条について「改正を阻止しなければならない」と訴えた。

 仏教者の戦争責任を問い続ける龍谷大学元学長の信楽峻麿氏の教え子で西本願寺系の僧侶達が集う「寒露の会」が開いた会は野中さんの講演を受けて野中、信楽に朝鮮人被爆者協議会の李実根さんが加わって“戦争を語り継ぎ憲法9条に学ぶ”をテーマに討論された。

 野中さんは京都で生まれ旧制中学を卒業後戦時下の国鉄に入り、男性が徴兵された後を守る女性ばかりの職場で奮闘し、終戦直前には自らも徴兵された経験がる。戦後、職場復帰した野中さんは未開放部落の出身であることを陰口をされ差別に義憤を感じて退職し、’51年(昭和26年)25歳の若さで出身地園部町の町会議員になる。以後、町長に府議から副知事を経て’83年(昭和58年)に衆議院議員に初当選、’98年に小渕内閣の官房長官、’00年の森内閣時代の自民党幹事長に就任し、一貫して解放運動の先頭にも立った。
 
 この日野中さんは52年の政治生活に終止符を打った動機について、小泉首相に反発する勢力を党から追い出し、米国の経済至上主義を持ち込み、米国の権益が関わる戦場に自衛隊を派遣して日本社会の屋台骨を粉々にした…。こんな総理と同時代に国会議員でいたら後世に恥ずかしい…と、議員を引いたことを披歴し、あの戦争を体験した人間として、今日ほど日本人がこの国の進路を誤らないよう歴史を振り返って、平和を考えなければならない時はないと強調した。
 そして憲法をめぐってはソマリア沖の海賊対策の為の自衛隊の海外派遣を目指した一部の動きに触れて「このままでは日本は取り返しのつかない方向へ行ってしまう」と懸念し、戦争放棄を謳った憲法9条の意義を訴えて「戦争を起こさせないよう努力しよう」と投げかけ、拍手を浴びた。

 自民党の中にも改憲に反対の意見の人はいる。かつて副総理だった後藤田正晴さんは「アジアの国々が平和主義の日本を信頼してくれるまで改憲はすべきでない」が持論だった。

 野中さんも後藤田さんもそれぞれ自らの戦争体験に支えられた信念であり、野中さん流に言えば「富国強兵」を掲げた明治以来の狂った時代を創った近現代史を子供たちに正しく伝えることが「昭和世代を生きた者からの遺言」だ。野中さんは、その信念に従って今は戦後日本が放置してきた戦争責任の後始末に当たる『中国残留孤児の養父母対策』『中国に放棄している毒ガスの処理』『北朝鮮との平和条約締結』などに戦後未解決問題の解決に情熱を注いでいる。3人の討論は改めて報告する。

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2009年12月25日 (金)

郊外型大型ショッピングセンター

祇園の三菱重工祇園工場跡地にイオンモールができた。
敷地面積7.8万Mもある。
府中にあるソレイユ6.5万M2より、さらに広い。
3,000台あるという駐車場はすべて地面に平置きだ。
アクセス道路が狭いということもあり、当面は計画の半分の売り場面積5.7万M2,130店でスタートするという。

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先日は宇品にショッピングセンターゆめタウンができた。

南にはJTの跡地のゆめタウン、北には緑井のフジグラン、天満屋がある。
郊外型大型ショッピングセンターの競争は激しい。
そうしたことを受けて、すでに西の商工センターはアルパークも大規模な改装工事をした。
中心市街地を囲み、東西南北に大型ショッピングセンターが、郊外からの街中に来る人々をせき止めるダムのようにできている。
ショッピングセンターの売り場面積の規模も、中心市街地のそれの数倍になるだろうと思われる。


私の友人も「日曜日など子供連れで出かけるときは「ソレイユ、ゆめタウンにいきます。そこにいけば買物だけでなく食事、子供を遊ばせることからぜんぶ済んでしまうので、紙屋町や八丁堀にはいきません」といっていた。
無料の駐車場はあるし、値段だってデパートに比べれば格段に安い。
市民の立場からみれば、郊外型ショッピングセンターは有難い存在だ。

経済面からみてもその存在価値は大きい。
祇園のイオンモールは1,800人のパート、アルバイトを採用したという。
府中のキリンビール跡地にイオンモール・ソレイユができた時は、市内のアルバイト、パートの応募者が枯渇し、時給1,200円位にまで跳ね上がった。
こうした大型ショッピングセンターの雇用の経済効果は大きい。

しかし中心市街地を訪れる人の数は年々減っている。
中国新聞の「もっともよく利用する繁華街」調査では、1988年には紙屋町地区42.9%、八丁堀地区32.6%と合わせて8割近くあった。
そのころは、中心市街地はまさに広島の中心だった。
それが今年はとうとう両者合わせて36%にまで落ちた。
商圏の分散化は著しい。

しかし同時にこんな時代に、こんなにどんどん大型ショッピングセンターができてやっていけるのかと、他人事ながら心配になってくる。

日本で郊外型大型ショッピングセンターのはしりといわれた横浜のマイカル本牧も、今やシャッター街になってしまったという。
アメリカでもSCはどんどん潰れているともいう。

マリーナホップの例もある。
あれほど鳴り物入りでできたショッピングセンターも、シャッター街になってしまった。
2008年5月には、マリーナホップのディベロッパー会社は倒産した。

一世を風靡したダイエー、西友が倒産したころ、食品売り場は流行っているが、他の売り場には殆ど人はみかえない、閑散としていたということがあった。

多種多様な専門店を数百店と集め、無料駐車場を数千台そなえ、子供連れのファミリーを集客するというのが郊外型ショッピングセンターのビジネスモデルだ。
ファミリー層にターゲットをしぼり、極めて精緻に計画され、建設されている。

しかし今その計画の前提が崩れてきているような気がする。
少子高齢化が進み、物が有り余る時代になった。
このショッピングセンターというビジネスモデルは、もうそろそろ時代に合わなくなってきているではないかという気がする。
そうであればあの映画のセットのような建物は何の価値もない廃墟になる恐れもある。

あの華やかだった多摩ニュータウンだって、今やゴーストタウンと化している。
その二の舞になる恐れはないのだろうか。
精緻な計画であればあるほど、計画の前提が崩れたときが恐ろしい。

今逆に、その存在価値を高めているのが中心市街地だと思う。
中心市街地はその長い歴史の中で、多種多様な、なんとも説明のつかない、不思議な街を作り上げてきた。
本通りには江戸時代から続くという老舗もあれば、その隣には100円ショップ、カラオケ店もある。
うらぶくろもなかなかオシャレな街になった。
稲荷神社のとうかさん、胡神社のえべっさんのお祭りも大変な賑わいをみせている。
衰退が言われているが、デパートだってそれなりに頑張っている。
隣接して流川、薬研堀の隠微な繁華街もある。
県庁、市役所、国の出先機関、事務所ビルもある。
みな歩いていける範囲にあるのは大きな魅力だ。

広島にあっては、路面電車が生き残ったように、紙屋町、八丁堀の中心市街地は意外としぶとく生き残り、次の時代には、その価値を改めて評価されるのではないだろうか。

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2009年12月24日 (木)

住宅建築の資産価値

私の友人が、事情があって自宅を売却したいと、ある大手の不動産会社に査定してもらった。
土地は約200坪、建物は約80坪もある。
大きなコンクリート製の住宅だ。
竣工は昭和58年だから、すでに築27年ということになる。
あちこち錆びたり、水回りやエアコンは古くなっているが、建物そのものはしっかりしている。
ひび割れもなく、雨漏りもまったくない。
丁寧に作られている。
デザインは建築家の設計だから、なかなか芸術的な味わいのあるいい住宅でもある。

査定価格は、土地が8,000万円、建物が1,000万円の計9,000万円だ。
いささか大きすぎるということと、価格が高いということで、一般的ではないということでそんな価格になったようだ。
それにしても、建物部分の評価が低いのには呆れる。
彼は、建設時の10分の1にもならないと嘆いていた。
地下の駐車場や屋根裏部屋は全くカウントされない。
土地しか価値はないというわけだ。

最近100年住宅とかがいわれ、住宅を長持ちさせようということで、建物の構造、材料をしっかりしたもので作ろうと活動が始まった。
しかし100年持つような住宅を作ったところで、その価値がほとんどゼロとしか評価されないようでは、何もお金をかけて100年住宅を作る必要はないと誰しもが思ってしまうだろう。
建物の価値が認められなかったのは、戦後、日本中が焼け野原になってしまったときに、ともかく雨露が凌げればいいということで、住宅はバラック同然で作られてきたという歴史もある。
日本の経済も急激に回復、発展し、豊かになって見直された時には、そうして建てられた建物の価値は全くなかったということだろうと推察される。

しかしここ数十年の間に作られた建物は、いまだ十分に使用に耐える状態にある。
それなのに建物の価値を殆ど認めないというのは全く解せない。
その住宅が、建築家が作品として作っているのであれば、余計だ。
絵画や陶器と同様その価値を評価する仕組みもあるべきだろう。
殆どの住宅は、芸術作品としての価値を全く評価されないというのも、大変悲しいことだ。

畳となんとかは新しいほうがいいなんて言い方も日本にはある。
日本酒は新酒の方がうまいなんていうのは、酒造メーカー陰謀だということを聞いたことがある。
古酒をつくると、資金の回転が遅くなって大変なのだという。

そうしたことが日本の文の背景にあることが、東京駅の中央郵便局の取り壊しという発想の原点にあるのではないだろうか思えてくる。
そろそろ建物の資産としての価値についてその仕組みそのものを作り変える時が来ているようだ。

アメリカでは、住宅を取得してから、あちこち手を入れて、取得時より高く売るというのは珍しいことではない。

日本の古民家はようやく、その価値を評価されるようになってきた。
中古のオフィスビルを取得し、改装して高く売却するというビジネスモデルも生まれてきた。
そうした建物の価値、そのものを評価する仕組みを一般の住宅にももっと広げるべきだし、建築家の作った住宅の価値については、それは別途評価するという仕組みもつくるべきだ。
建物の価値を評価しないというのは、あまりに雑すぎる。
建物の評価するのはそんなに簡単なことではない。
しかしだからといって今のままでいいというのはおかしい。
スクラップ&ビルドはあまりに勿体ない。
能がない。

古くなった住宅建築を資産としてきちんと評価する仕組みを創ることが、こらからの時代の求めるビジネスモデル作ることにもなるのだろうし、わが国が真の意味で豊かになるということではないだろうか。

住宅建築についても価値観の転換、パラダイムシフトをすべき時がきているようだ。

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2009年12月23日 (水)

ひろしま文庫

12月9日の日経新聞に、
岡山の小さな出版社の黒田さんという方が、岡山文庫を出版しているという記事が載っていた。
岡山の人、歴史、企業、植物、お祭り、お城、庭、美術館、街、村、海藻と、岡山県のことをテーマしていれば、何でもありということのようだ。
1964年から始め、年3回、2冊ずつのペースで出版し、すでに262点発行しているという。
262冊!
凄い。
たった2人でやっているというのにも驚くが、岡山には本にするだけの知識、能力をもった書き手がいるということにも驚く。
購読をしている会員は現在1,000人、初版の出版は大体1,700部位だという。

私もさっそく1冊、ネットで岡山文庫254「岡山の考現学」を注文した。
価格は800円だ。
編集者と著者の思い入れの沢山詰まっている。

友人に聞けば、広島にも、昭和50年代だったらしいが「広島県民文庫」というシリーズがあったという。
タイトルは「広島県の祭」、「広島県の服飾」など様々だったらしい。

さつき出版社だったいうことなので、ネット検索したが、ヒットしない。
出版社はつぶれてしまい、今では発行も途絶えてしまったようだ。

広島にだって、岡山以上に素晴らしいテーマはたくさんあるはずだし、書く人も、読者もいるだろうと思うと思って、探していた。

1

あった。
ひろしま美術館の売店で売っていた。
広学図書株式会社発行の「ひろしま文庫」だ。
「茶道 上田宗箇流」上田宗嗣著、750円。
写真も多く、きれいな装丁だ。
この他にも、
「ひろしま水と緑と彫刻」
「ひろしま城と古戦場」等
すでに14冊くらい「広島文庫」として発行されているようだ。
こうした類の図書は街中の書店ではなかなか見つからない。
それが、ちょっと残念だ。

ネット時代になって、若者の活字離れがいわれて久しい。
東京でもかなり大手の出版社が倒産している。

地方の時代であるともいわれている。
ひろしま文庫も岡山文庫も文庫本ではあるが、資料としては、歴史的な評価に十分耐え得るような内容である。
こうした類の書籍は、広島の文化を豊かにするためには極めて重要なことだ。

広島に関心を持つ人は世界中に広がっている。
英語版、中国語版もつくり、ネットで販売することも考えたらいい。

広島、ひろしま、ヒロシマ、HIROSHIMAをテーマにした本が次々と発行されることを期待している。

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2009年12月22日 (火)

被爆者執筆「自分史」の意義

 「自分史」の執筆は静かなブームだ。書店の棚には自分史の書き方指導書などを集めた”自分史コーナー”がある。知人の中には500ページにも及ぶ大作を孫たちの為に…と書きあげた出版にこぎ付けた人や目下格闘中の在日韓国人もいる。

 原爆被爆者相談員の会が開いた東京の栗原淑江さんの『自分史』を書く、『自分史』を読む~被爆者との40年をふりかえる~講演会には50人を超える市民が参加した。
 栗原さんは一橋大学に在学中に石田忠教授の社会調査ゼミナールの実習で被爆者の生活し調査に参加した。以来、研究者や日本被団協のスタッフを経た後、社会保険労務士として働くかたわら‘93年2月に小冊子「自分史つうしん ヒバクシャ」を創刊した。被爆者に自分史の執筆指導しながら9月に、足かけ17年で600人余の『自分史』を掲載し200号になり、12月で203号を迎えて、毎月700人に届けている。栗原さんとは東京支社勤務時代に取材でお世話になって以来のお付き合いだ。
 
 栗原さんは「生い立ちから今日までの人生の軌跡を丸ごと記す『自分史』の方法なら、原爆で何が破壊され、人生がどのように捻じ曲げられたかを浮き彫りにすることができる。また戦争中の自分の行動や考え方が、戦後どのように変化していったかを明らかにすることも出来る」と「生きた軌跡を形にして残しては」と執筆を促してきた。
 
 この日、栗原さんは被爆者と関わってきた40年を振り返りながら自分史を書く意味を、『書く』ことで自分自身の生きた「証」と失われた命の重み、自分にとっての<原爆・戦争>を制度や社会の仕組みを、被爆者としての生き方、生かされた意味を確かめ、体験のない人たちと繋がる…。出来るだけ思い出したくない…しかし、この苦しみを誰かに理解して欲しい、判って欲しい…二つの心が同居する被爆者の人生が総括されると位置付ける。
 また「自分史を」読む意義を長野在住だった被爆者前座良明さんの「今日の聞き手は明日の語り手」という言葉を引用して<原爆とは、戦争とは、人間にとって何だったのか>
そして核兵器廃絶に繋がる被爆者の想いを受け継ぎ、未来に橋渡しする大切さを指摘する。

 相談員の会も被爆者の「自分史集・生きる」の3号まで発行し4号の原稿を募集している。聞き書きや代筆という方法もある。思い立ったら応募してみてはいかがでしょうか。
 『原爆の子』は被爆し、孤児になった少年少女の原爆に関する最初の手記集で、今も貴重な資料だ。後世に引き継ぐ為にも、改めて被爆者の『自分史』集の出版が期待される。
<問い合わせ>:自分史つうしん・ヒバクシャ 編集発行:栗原淑江 
 〒166-0001 東京都杉並区阿佐ヶ谷北5-20-20・101  TEL/FAX 03-3338-8003 yk-kuri@mbp.ocn.ne.jp
 原爆被害者相談員の会:〒730-0036 広島市中区袋町4-32 日商岩井袋町マンション402

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2009年12月21日 (月)

筑紫哲也のメッセージ

 筑紫哲也さんが亡くなって一年が過ぎた。彼のジャーナリストとしての足跡をたどる書籍数冊が書店の店頭を飾った。その一冊を手にした。

 筑紫さんが‘03~’08年に早稲田と立命館の大学院生を対象に講義した「情報や情緒に流されることなく自分の頭で考えることの素晴らしさ」の講義録(録音テープ)を構成した『若き友人たちへ』~筑紫哲也ラスト・メッセージ~(集英社新書)。目次をひらい読みすると、憲法、日本人、沖縄、メディア、雑誌と新聞、国家、教育、この国の行方がテーマで、筑紫さんが講義した後、学生にはレポートの提出を求めたが、ここでは学生だけでなく”日本人”へのメッセージになっている。

 筑紫さんに初めてお会いしたのは‘73年(昭和48年)夏、8・6前のワシントンだった。東京支社に転勤と同時に田中首相の日米首脳会談の随行記者団の一員として参加し、朝日新聞のワシントン支局長だった筑紫さんに会った。(’08・11・25当ブログ掲載)
 田中首相と大平外務大臣の記者会見で、被爆者の治療はせず放射能が人体に及ぼす影響の研究をし、米軍基地と同様な治外法権下にあったABCC(原爆後障害調査研究)の今後について質問し、大平大臣とやり取りした。私以外にこの問題に関心を示す者はなかった。ところが、会見後に筑紫さんから「ABCC問題について、聞かせてほしい」と電話があって食事をご一緒した。
 それから20年、筑紫さんが‘89年にTBSのニュース23のキャスターとして登場。JNNニュース編集者会議の席上、筑紫さんは「あの時はありがとう」と声をかけて頂いた。まさか、ご記憶ではあるまいと思っていた私は仰天した。その後は広島への関わりは多く、時々お忍びでカープ観戦にやって来る筑紫さんに声をかけるとはにかんでいた。

 そんな筑紫さんがこの著書を通じて残した沢山のメッセージの中からひとつピックアップすると『差し迫った、この国の三つの危機』を挙げている。
 そのトップは、国の破産状態。なぜ、こんな膨大な借金を抱えたか?その要素の一つに日本の官僚機構を挙げている。次いで、人口の減少。縮ませないために何をするか。三番目にこの国を背負っていく次世代が逞しく育っている、という状況では全くない…と教育を憂いている。いま差し迫った危機を改革するのに、この三つにどういう処方箋を出すか、それが改革の中身ではないか…問題を挙げている。
 本当に日本を変えるのであれば政権を交代する…日本人は何かを決めるという局面では臆病になる、大きく変わってしまうことへの恐怖感がある…と指摘している。
 政権交代を果たした今、筑紫さんがお元気なら何と言うのだろうか?アジアで孤立しない…日本の優先課題を挙げるのだろうか…。

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2009年12月20日 (日)

発展するか?自治体の「事業仕分け」

 就任したばかりの広島県の湯崎英彦知事がさっそく来年度予算の編成で無駄の洗い出しをする「事業仕分け」の導入を表明した。
 
 政権交代の目玉として鳩山内閣が初めて導入した行財政改革の「事業仕分け」は荒っぽさが指摘される場面もありながら100を超える事業を廃止や凍結し「埋蔵金」の国庫への返納など含めて目安にした3兆には届かなかったが1,8兆の財政効果を洗い出した。
 洗い出し対象になった事業は全体の数百分の一で、独立行政法人など「天下り先」などにメスが入って全体を洗い出すには来年以降になるだろう。それにしても、何よりもこれまで長年密室で行われてきた国の予算編成を国民の見える場で公開し、国民の高い関心を呼び起こした意義は極めて大きい。

 “事業仕分け”は、今回の政府の行政改革刷新会議の仕分けも手掛けた民間の政策シンクタンク『構想日本』が‘02年に宮城、岩手など10県と横浜など10市町のプロジェクトとして『国と地方の税制を考える会』で行政の事業仕分け始め、これまで全国の44自治体で実績を積み、そこで経験してきた関係者たちが中心に今回の国の事業仕分け人を務めた。

 この「構想日本」は‘97年に元大蔵官僚の加藤秀樹代表が官僚だけが独占してきた政策立案と予算編成の無駄を洗い出す風穴をあけようと政党や政治家などからの中立的なNPO法人として設立し、独自のマニュアルを創った。国レベルでは’05年衆議院選で民主党がマニフェストに盛り込み、’06年に自民党も「事業仕分けプロジェクト」を立ち上げたが機能するまでに至らなかった。その為か?仕分け会場を視察した河野太郎さんら自民党議員等も評価する一方で、自分達が活かせなかった事を残念がる声を上げていたのは印象的。

 報道によると広島市の秋葉市長は‘03年度に有識者で設置した『公共事業見直し委員会』が’04年度に議会の反対で設置できなかった経緯を踏まえながら「国の仕分け作業」を評価し『見直し委員会』を再評価する方針で“自前の仕分け作業”を導入する姿勢を示した。

 無駄や天下りは国レベル丈ではない。都道府県に市町村に至るまで土地開発や農業に住宅や道路建設管理から上下水関連など、役人の第二の就職先として自民党が利権構造と集票マシンの一角として全国の自治体に育んだ歴史がある。マシンが壊れ、財政苦の自治体は今こそ国に歩調を合わせた『自治体の事業仕分け』採用は避けられない所に来ている。
 新知事の『仕分け』決断に広島市も歩調を合わせ、これが契機になって全市町に波及することが望まれる。景気の浮揚も対応しながら、まずは各市町が独自に『事業仕分け』に踏み切る事が政権交代に伴う最初の課題であり、期待される施策と言えよう。

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2009年12月19日 (土)

玄関扉の飾り

先日、友人のお宅を訪ねたら、表札の脇の玄関扉に可愛らしいシャレた飾りが取り付けられていた。
クリスマスも近い冬のシーズンに合わせたのだろう、白い雪だるまが赤い襟巻をしている図柄の鉄の細工ものだ。
この飾りは、夫人がその時の季節に合わせて変えているようだ。

これも中国製?
芸術家の作品というわけではなさそうだが、
なにげないこうした飾りがあるだけで、殺風景な玄関前のロビーの雰囲気もがらりと変わる。
住んでいる人まで、何か優しい人に思えてくるからおかしい。

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2009年12月18日 (金)

ドリミネーションと白い馬車

平和大通りを白い馬車が走っていた。
馬も白いし、馬車も白い。
客席は満席だ。
パカッ、パカッと蹄の音も聞こえる。
手綱をとるサンタクロースの赤い服装を着た若者たちはずっと走りっぱなしのようだ。
幻想的なドリミネーションと一体になって、絵になっている。
見かけたひとは、みな一生懸命写真を撮っている。
キャッチコピーは「ひろしまのおとぎの国を白い馬車が走ります」とある。
上手い表現だ。

白い馬車の運行は、昨年から始めたようだが、気づかなかった。
今年は、ドリミネーションの時間に合わせ、サンルートホテルとオリエンタルホテルの間を、水曜日と日曜日の夜、1日4往復している。
料金は大人1人1,500円、定員は12名だ。
距離換算すれば、タクシーより高いが、それでもほぼ予約で完売だという。

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一般道路を馬車が走るという許可をとるのは大変だったろうと思うが、それにしても白い馬車をドリミネーションに合わせて走らせるというのは上手い。

ドリミネーションも、光のイルミネーションだけでなく、だんだんエレメントが増えてきた。
どんなイベントも時間をかけて育っていくようだ。

ドリミネーションを見に行く楽しみがまたひとつ増えた。

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2009年12月17日 (木)

ビルの白い壁がクリスマスツリーに

冬至が近づき、日が暮れるのが随分と早くなった。
5時というと、もう薄暗い。
そんな時間に、旧日銀ビルの前を歩いていたら、ブックオフの建物壁に大きなクリスマスツリーが描かれているのを見つけた。
エーッ、こんなクリスマスツリーありー、としばらく眺めてしまった。
幅10M、高さ20M位はあろうかという巨大なツリーだ。
絵の模様は何種類かあるようだ。
色も時々変わる。
なかなか奇麗だ。

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石崎本店ビル。
1階にブックオフが入っている。
このビルは10階建位くらいだが、3階から上の壁が乳白色のガラスのような仕上げになっている。
いわゆる窓がないから、事務所ではないようだ。
駐車場?
そういえば裏の通りに駐車場の出入り口があつた。
通常駐車場ビルは排気の問題もあって、外壁は隙間があるだけの無愛想な仕上げになっているのが普通だが、このビルはその隙間部分と梁を乳白色のガラスで覆っている。
なかなか奇麗な仕上げだ。
その壁に今度はクリスマスツリーを映し出した。
裏にはネオン管が組み込まれているのであろう。
なかなか上手い。
街の景観に大きく貢献している。

広島のドリミネーションも随分と多様な作品が登場するようになった。
イベントは年々内容が充実していく。
それが楽しみだ。

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2009年12月16日 (水)

草分けニュースキャスター逝く

 TBS「ニュース23」の筑紫哲也さんの一周忌が過ぎた直後の11月13日に、民放のワイドニュースでキャスターの草分け・田英夫さんが亡くなった。86歳だった。
 田さんがニュースキャスターだったことを知らない人が多いのは隔世の感だ。

 田さんは東大在学中の‘43年学徒動員で出征し、ボートに爆薬を積んで相手戦艦に突撃する特攻隊員だった。終戦で命を永らえ戦後、共同通信の記者を経てTBSが民放で初めて夕方に30分のワイドなニュース時間を始めた時の初代キャスターとしてスタートした。

 田さんは一貫して自身の戦争体験から反戦平和を軸に記者活動をし、‘62年(昭和37年)TBS系の「JNNニュースコープ」で自らの考えや想いもこめて語るコメンテーターとして民放がジャーナリズムとしての立ち上がりを創り、今では当たり前のニュースキャスターという呼び名は田英夫さんが初代となって生まれた。同じ年、系列の局の一年生記者としてスタートし…東京支社勤務時代の5年間、国会担当でしばしば接することもあり、多くの薫陶を得た想いは強い…。

 アナウンサーでないコメンテーターが画面から落ち着いた語り口で分かりやすくにこやかに、爽やかに、時に厳しく眦を決して伝えられるニュースは田さんの「ニュースコープ」から生まれた歴史がある。

 田さんは‘67年(昭和42年)西側のテレビとしては初めてのベトナム戦争取材を北ベトナムで行い、米国に屈しない北ベトナムの実情を報告した。北爆の下で、灯火管制が敷かれ暗闇の中で歯を喰いしばって耐えているのだろう…と考えていた田さんの目に映った北の人達は、煌々と灯りをつけみんな明るく“戦争をしている国だろうか”…と疑うほど。若い娘は白い歯を見せながら微笑みを浮かべ逞しく生きていた。この微笑みは何なのか?近代兵器と強大な軍隊を送り込む米国の爆撃下の北ベトナムの様子を『ハノイ 田英夫の証言』(’68年10月30日:TBS系列放送)で“ハノイの微笑み”として報道し、米国を批判し戦争をやめるよう呼びかけた。

 今でこそ当たり前になった8月6日の広島からのキャスター・レポートの第一号は田さんだった。時折ヒロシマへ足を運ばれ、筑紫さんはこれを引き継いだ人だった。

 ベトナム戦争に反対し厳しい米国批判を繰り返す田さんを排除するために自民党はTBSに“放送の「再免許」の更新をしない“ことをチラつかせて辞任を迫った。この時、自民党は「北ベトナムが負けていない」という『真実でない』報道で放送法違反があると圧力をかけた…抵抗するTBSに成田空港建設反対集会の取材中にTBSの取材スタッフの車に集会参加の農婦やヘルメットの若者を乗せた”TBS成田事件“ が絡んで田さんは番組を降板する。
 最後の放送で「それではみなさん、さようなら」とだけ言って6年余にわたったTVの画面から去った。
キャスターを終えた田さんを後に首相になる自民党の三木武夫さんらが呼び掛けて「田君を励ます会」を開くなどは言論人の田さんの人柄をしのばせる知られない一面を物語るエピソードだ。

 その後、参議院議員になった田さんは6期34年間の議員生活を送ったが、一貫して群れない政治家として骨太く平和、人権、核廃絶、護憲、言論の自由などをぶれることなく追求した信念の人…と云う声は大きい。
 政権交代後の新政府の行く先に注文を付けられる人…を失ったことは残念と言えよう。
改めて、ご冥福を祈る。 

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2009年12月15日 (火)

宮島を舞台にライトノベルコンテスト

 「アニメで街おこし」に取り組んで来た市民団体が世界遺産「安芸の宮島・瀬戸内海」をテーマや舞台にした小説・ライトノベルの募集をしている。

 広島からのアニメ文化の発信を目指す市民団体の広島アニメーション・シティー(代表:安東善博中国放送社長)はアニメ映画の原作になるような小説と随筆を募る「みんなのライトノベルコンテスト」をしている。
 アニメシティーは‘04年に設立され5年間活動した『広島経済同友会アニメーション基金』でつくられた市民団体で「地域発の新しい物語」を創出する目的で「宮島・瀬戸内海」を舞台やテーマに’07年に第一回のライトノベルコンテストを行った。
 
 ライトノベルは一般的には軽い小説といわれるが中高校生が対象の挿絵やイラストを重用した読みやすい娯楽小説。魅力的なキャラクターや舞台設定によって作品が構成されるのが特徴で、アニメーション作品の原作になるものが多く“地域から発信するアニメ原作”にふさわしい作品が生まれることが期待される。賞金総額は50万円。

 今回は二回目で小説(ライトノベル)部門は8万字以内(400字×200枚)で、ファンタジー・ミステリィー・SF・恋愛などジャンルは問いません。随筆(エッセイ)部門は2万字以内(400字×50枚)で、形式にとらわれず、宮島・厳島・瀬戸内海について、意の趣くままに旅行記・グルメリポートなど幅広い感想・見聞記。

 応募資格は宮島・瀬戸内海をテーマにした日本語の作品であれば、年齢・国籍・アマ・プロを問いません。ウエッブサイト「広島アニメーション・シテー(http://www.hac.or.jp/)」
 (宮島文庫)へ会員登録の上、同ウエブサイトを通じて応募する。
 応募方法はウエブサイト上にPCで投稿する。締め切りは:2010年2月28日。
3月1~14日の間、サイト上で人気投票し、その後2次審査し4月に入賞作品を発表。

 宮島や瀬戸内海の新しい魅力を発掘し、宮島1400年の歴史の中に新たな物語や詩にオペラを創造することに挑戦してみませんか。

問い合わせ:広島アニメーション・シティー  URL http://www.hac.or.jp/
Tel: 082-511-3415 fax : 082-511-3416  Email info@hac.or.jp
担当:小森 090-9066-7847

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2009年12月14日 (月)

「町と村の悲鳴」広告

 最近、新聞に「日本人よ、故郷をなくして どこへ行くのですか」という意見広告が掲載された。山間の集落写真をバックに7段抜きの地味だがその日の紙面では異彩を放つ広告だ。広告主は全国町村会と広島県町村会になっている。

 今どきなぜ、こんな意見広告か?不思議に思っていたら同じ日のテレビニュースで政権交代後初めての全国町村大会が東京都内で開かれたことを伝えていた。来年3月に期限切れになる過疎法に代わる新法の制定や地方分権の推進を出席の鳩山首相に要望した…。

 全国町村会は国会に近い永田町に全国町村会館を構え2600町村が参加してホテルや会議室などの経営と全国センターの役割を果たしてきたが大合併で今では1000にまで縮小した。
 言うまでもないが全国町村会は町村議員会とタイアップして概ね自民党の集票マシンの一部として機能する役割を果たしてきた。肥大化した自治体経営の合理化の一環でしかない合併は大部分の保守系首長と議員の事実上解雇と住民サービスの省力化で財政運営上のつじつまを合わせた。その結果、全国の中山間地の僻地に限界集落を促進する結果をもたらし、同時に引き換えに自民党保守系の集票機能も崩壊させた。
 この結果が、夏の衆議院選挙で政権交代をもたす大きな要因となって現れた。

 この意見広告は「…かけがえのない“ふるさと”が、いま、危機に面しています。過疎化、少子高齢化が一段と進み集落のにぎわいは消えました。地域の祭りや伝統芸能も失われようとしています。そして、農林水産業の衰退や知己経済の低迷といった厳しい状況にも好転の兆しは見えない…」と嘆き、“ふるさと”を失うことは「日本」を失うこと。日本人のアイデンティテーを永遠に失うこと…と悲鳴に似た叫びを発している。

 身近な事例を中国新聞が1面企画『政~まつりごと・あとさき』に連載している。この夏の衆議院選挙で県内の自自体で投票率が最も高かった北広島町で有権者が自民党から民主党に移って行った具体的な事例を挙げて掲載している。自民党一本指示だった家族の中から民主党支持に代わって行く様や地域組織の支持構造の変化が克明で興味深い。支持者たちが自民党離れを自覚して、自民党の集票マシンが崩壊していくレポートでもある。

 “事業仕分人”的な見方をすれば全国の地方紙に一斉に掲載された?この町村会の広告費も削減対象と考えられる。前政府が補助金漬けで引っ張ってきた過疎対策が、いま『町村の叫び・悲鳴』に変わった今、新政府はこの変革にどう応えるかどんな対策を打つか責任は大きく注目される。
 同時に町や村の有権者が今後政治的に更にどう対応し変化していくかも注目される。

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2009年12月13日 (日)

明日への希望・・歌のチェーンネットワーク

今年の広島市商のピースデパートの催しに、平和、被爆、広島に関連する歌が紹介しているコーナーがあった。
なにかと話題を呼んだ「オバマジョリティー音頭」、美空ひばりの「一本の鉛筆」等何曲も紹介されていた。
その中に、市商音楽部の学生と先生が作った「明日への希望」という歌があった。
当初この歌は市商ピースデパートのテーマソングとして作られたようだ。
作曲は元音楽科教諭の本田貴子さん、1番は広島市立広島商業高等学校吹奏楽部、2番は長崎市立長崎商業高等学校生徒会の作詞だという。
3番は「広島市長 秋葉 忠利氏にお願いできたらいいねということで、恐る恐る頼んだら、快く引き受けてくれた」とその大喜びの様子も書かれていた。
それならと、4番は是非長崎市長にと作詞を頼んだのだという。
そうして出来上がったのが次の詞だ。
1番.伝えよう 平和を 市商(ここ)から世界へ
  私からあなたへ続く 平和の道 
   一人から みんなへと  ひろげて行こう
   未来への道 進む 手を取り合い
   僕たちの あの青空へ  祈りを込めて
2番.届けよう 笑顔を 長商(ここ)から世界へ 
  私からあなたへ送る 笑顔の花
   一人から みんなへと 咲かせて行こう
   輝きの花 開く 夢を信じ
   僕たちの あの青空へ 祈りを込めて
3番.生み出そう 希望を 広島(ここ)から永遠(とわ)に 
  私たちみんなで創る 明日の地球
   一人から みんなへと 繋いで行こう
   未来への歌 世界に こだましつ
   僕たちの あの青空へ  祈りを込めて
4番.広げよう 思いを 長崎(ここ)から永遠(とわ)に 
  私たちみんなで一つ 地球も一つ
   一人から みんなへと 話しかけよう
   未来への道 つくる 強い思い
   僕たちの あの青空へ 祈りを込めて

今では1000番まで作ろうと進めているという。
面白い試みだ。

それならいっそ、平和市長会議の参加都市、すべての市長に市長会議参加記念に作詞してもらったらいい。
「明日への希望」というテーマの歌が、チェーンになって、次々とつながっていけば面白い。
英語の歌、中国語の歌、フランス語、スワヒリ語の歌もできるだろうと思う。
世界の都市が歌でつながるのだ。
想像するだけでワクワクしてくる。
素晴らしい。
そんな試みが、広島の高校生から始まったのだ。

世界中の市民からの応募も受け付けるようにしたらいい。
すぐ数万曲になるだろう。
それこそギネスものだ。

CDも作ったそうだ。
天神FMで流したこともあるという。
ジャズ風とか、タンゴ風とか色々アレンジすればもっと面白くなる。
You Tubeで公開したらいい。
専用のFM局を作って朝から晩まで流したっていい。

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2009年12月12日 (土)

ピースコーナー・・市商ピースデパート

今年の広島市商のピースデパートのピースコーナーに「折り鶴ミュージアムについて」のコメントが掲示されていた。
広島市商の生徒達は普段授業の中で、自分たちで自主的に平和についての勉強会をしているのだという。
そうした活動の中で折り鶴ミュージアムについても様々な意見交換がされ、それを集約したのがこの文章のようだ。
会場に展示されていた文章を写真に撮ったので、そっくりそのまま載せることとした。

*****************

「 みなさんは、広島に届けられた折鶴がどこへ行っているかしっていますか? 広島市平和記念公園の「原爆の子の像」には、国内や海外から多くの折鶴が捧げられており、1年間で約1,000万羽になります。
 折鶴には原爆で亡くなられた方々の慰霊、核兵器のない世界の実現や平和への願いなと、折られた方々の様々な思いが込められています。そこで広島市は、「原爆の子の像」にささげられた折鶴を大切に保管し、その1部を旧市民球場に展示しているのです。
 今、旧市民球場の利用法として「折鶴ホール」が提案されていますが、秋葉忠利市長は、もっとスケールの大きい「折鶴ミュージアム」という施設を考えておられます。「折鶴ホール」はシンボルとしてもデザインとしても優れており、公園としてまた広場として使う際の貴重な「アクセント」になります。しかし10年分の折り鶴を一目で見渡せる形で展示することはできません。秋葉市長のアイデアである「折鶴ミュージアム」は物理的な量を一目で見てもらうというスケールの大きなもので、少なくとも10年分、できれば20年分の折鶴を一望できる大規模なものです。想像しただけでも圧倒されそうで、視覚的効果は絶大だと思います。
 私たちは市長はじめ様々の人たちと共に、折鶴に託された子供たちの思いや佐々木貞子さんの思いを受け継いだ多くの人たちの努力を、どう受け止め、それをどのような形で発信していけばよいのか、真剣に考えるべきだと思います。鶴を折る方々の気持ちをしっかり感じ取り、心の糸で繋がっていくためには、その出発点として捧げられた折鶴を大切にすることでまず感謝の気持ちを表すことが大切です。
 今まで雨に濡れたりして異臭を放つようになった折鶴はゴミ収集車で回収して焼却処分をしていました。それも現時点では、たくさんの折鶴をきれいなまま保存できるだけのスペースがないからだと思います。最初にも述べましたが、広島には約1,000万羽の折鶴が捧げられています。1人ひとりが思いを込めて折った鶴を、保存スペースがないからという理由で、焼いたり捨てたりするというのは、平和に対する人々の思いをきちんと受け止めようとしていないからだと言われても仕方ないと思います。
 みなさんはどう思いますか。広島に住んでいると、平和について考える機会も多く、それを「めんどうくさい」「うんざりだ」と思っている人もいるかもしれません。しかし私は、国内そして海外から広島に捧げられた折鶴を大切に保管することは、広島に住んでいる私たちの使命だと思います。
 私は、秋葉忠利市長の「折鶴ミュージアム」案に賛成です。折り鶴に込められた思いを大切にするためにも、きちんと保存して感謝の気持ちを表したいと思うからです。

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2009年12月11日 (金)

広島市商・ピースデパートー広島市商モデル

広島市商・ピースデパートが、今年も11月28、29日の2日間開かれた。
今年は3回目だという。
回を重ねるごとに随分と充実してきた。
11月29日(日)、まだ10時ちょっと過ぎだというのに、駐車場に開放した校庭は、もう半分くらい車で埋まっている。
今日はパンクするんじゃないのと心配になる。
駐車場整理をしている生徒に聞けば、昨日の土曜日より出だしは早いという。

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生徒達は会う人全てに「いらっしゃいませ」と挨拶している。
一生懸命だ。
お辞儀の仕方を何度も練習したのだろう。
様になっている。
靴を入れるビニール袋を自分でとって、靴をいれていたら「すいません」と飛んできた。
家では、こんなことはやったことがないだろうにと思う。
可笑しくなった。
「うるせーぇんだよー」とか言っているんだろうと思う。
家の息子もそうだった。
それがこれだ。
いい経験をしている。

会場の大きな体育館では、野菜、果物、パン、スポーツウエア等多種多様な品物を売っている。
先輩との伝手で仕入れたのだろう、安いものあるし、そこそこのものもある。

私は今日の昼食にとアロフト製のパンを買った。
生徒のレジを打つのはびっくりするほど早い。

売る品物には全て原価があって、費用がかかる。
仕入れにはそれなりの準備金もいる。
そして売れなければ赤字になる。
収入と支出、そして損益があるというビジネスには極く当たり前のことがどういうことなのか、勉強するにはいいチャンスだ。
HPをみると仕入部、販売部、経理部なんて組織もある。
一応株式会社の体裁を整え社長を選び、決算発表もしている。

今回のピースデパートでは、クラスごとにお店を設け、計18店あるという。
当然売り上げに、差が出るはずだ。
どうして売れる店と売れない店ができるのか、分析するのもいい勉強だ。

中にはクレームもあるだろう。
それも勉強だ。

ハーバード大学のケーススタディーという教育法が有名だが、市商ピースデパートはそれ以上の教育法だ。
最高のOn the Job Training, OJTだ。
簿記なんて無味乾燥で面白くもない勉強も、こうした経験をすれば、自ずとその役割を理解し、興味も出てくるだろうと思う。

新聞紙を折って、エコバックを作るコーナーもあった。
それに折り鶴を付けてエコ・ピースバッグと称している。
なかなか奇麗にできている。

長崎市立商業との提携も今年から始めたという。
特別支援学校、市立工業のコーナーもある。
外部との連携も積極的に進めている。
いいことだ。

門を入ってすぐの建物にはピースコーナーが設けられている。
広島市商の生徒達は、日ごろ自主的に平和について議論をしてきているようだ。
このコーナーではその成果を発表している。
今懸案になっている折り鶴ホールの件、2020のオリンピック広島・長崎大会の件と色々とりあげている。

代表取締役社長の3年生の松尾さんは、「平和でなければビジネス活動はできない」と、平和の意味を改めてパンフレットに書いている。

今年の目標は来客数5千人、売り上げ目標1,000万円だという。
利益の1部は平和団体に寄付するという。

広島市商ピースデパートの内容は大学が催す大学祭のレベルをはるかに超えている。
「広島市商モデル」として、全国の商業高校に広まりそうだ。

こうした経験をした広島市商の学生たちが、これから社会に出て、どう行動するのか、どう評価されるか楽しみでもある。

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2009年12月10日 (木)

ブリックスクェア

東京丸ビル街の一角に、3階建てのシャレた赤レンガの建物が建っている。
こんなところに、こんな建物があったかなーと考えてしまった。
「俺も記憶力が悪いからな―」と思っていたが、地主の三菱地所が丸の内地区の象徴として100年以上前の建物をそっくりそのまんま復元したのだという。
元々の建物の設計は、英国の建築家ジョサイア・コンドル、1894年竣工、三菱1号館として作られたのだという。
今回それを当時の設計図や写真を元に、230万個のレンガを特注して、全国から職人を集め、復元したのだという。
さすが三菱だ。やることが徹底している。
建物の中に入ってみると、部屋もせまく、天井高も低い。階段幅も狭い。
最近建て直された丸ビルや新丸ビルの大きさに比べるとその寸法の違いを改めて感じる。
しかし細かい部分まで丁寧に作リ込まれている。
新しい建物だが、デザインが古いせいか、まったく新しさを感じさせない。
この建物には人の温もりを感じる。

建物の裏に回ると、中庭がある。
庭には沢山の植物が植えられ、結構大きな木も植えられている。
木々の間にはムーアの彫刻も置かれている。
庭に面してシャレたカフェもある。
お茶でも飲もうと思ったが、満席で座れない。
凄い人気だ。

丸ビル街も大きく変わったが、その賑わいの中心にあるのが、このブリックスクェアだ。
街の中の小さな公園のあり方を見たような気がする。

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かって丸ビル街は土休日となると人っ子一人いない街だった。
平日の喧騒がうそのように静まり返っていた。
それがいま土休日でも、この賑わいだ。

丸ビル街の建て直しの進行と共に、すべての建物の1階にブランドショップが入り、歩道は石に変わった。
あたかも銀座通りがここに移ったかのようでさえある。

しかしちょっと上を見上げれば、全く異質の鉄とガラスの冷たいデザインのオフィスビルがある。
随分と違和感がある。

丸ビル街は、なんとも不思議な雰囲気の街になった。

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2009年12月 9日 (水)

未来都市には人はいない?

先日、東京湾で船に乗った。
海からみる東京は、私の知っている東京とは全く違っていた。
別世界に来たような感じである。
鉄とガラスとコンクリートで作られた超高層の建築が、大きな壁のように連なっていた。
これらの建物は、ここ数年の間に、東京湾の埋め立て地に建てられた。

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新橋からはゆりかもめに乗った。
ホテル、オフィスビル、マンション、コンテナターミナル等の港湾施設の間を走る。
ゆりかもめはまさに横に動くエレベーターだ。
エレベーター同様、無人で動く。
横に動くから、エネルギー消費が少ないだけでなく、乗客数も多い。
1編成で約350人も運べるという。

地盤面より10Mくらい高いところを走るし、かなりの部分は橋の上を走るから、街がよく見渡せる。
ゆりかもめから見る景観は素晴らしく美しい。
この景観を見るだけに来る人はかなりいるという。
観光路線ともいえるようだ。

ゆりかもめの駅を降りると大きな駅前広場があり、その向こうに超高層のホテルや事務所ビル、展示場の巨大ビルが建っている。
しかし殆ど人は見あたらない。
見えても、人は何か蟻のように小さく見える。
歩道が決められているから、列をなして歩く様も蟻のようだ。

ここにはビルはあっても人の賑わいや喧騒はない。
温もりもない。
建築だけがあるなんとも殺風景な街だ。
夜になったら、いくら明るくとも、1人で歩くのは男でも怖い。
これが未来都市だとしたら、そんな未来都市には住みたくないと思ってしまう。

長生きするのも考えもんだ。

東京では、戦後のバラックがそのまま残っている新宿ゴールデン街や明治の街並が残っているような谷中、そして昭和の温もりがある飯田橋が見直されているという。

こんな臨海副都心の巨大ビル群をみると、それもわかる気がする。

でも近頃は、世田谷等の山の手地区に住むより、こっちの臨海副都心の方がいいと、埋め立て地の超高層のマンションを購入する人が増えているという。

どうなってんの、それ?

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2009年12月 8日 (火)

イチョウの黄葉

平和大橋の東の袂にあるイチョウが今年も奇麗に黄葉した。
モミジの葉はまさに真っ赤に紅葉するが、イチョウは真っ黄色に黄葉する。
両方音読みすればコウヨウと読む。
おかしい。

イチョウの木は2本あるが、車道に近い方はどうも元気がない。
黄葉する前に葉が落ちてしまう。
やはり排気ガスにやられたのだろうか。

イチョウの太い幹は気もちいいいくらいに、真っすぐとスクッと立っている。
高さが20Mはあろうかという大きなイチョウの木の葉は上から下まで、見事に黄色く色づいている。
自然の色だからどこか柔らかく、深みがある。

1_3

イチョウは漢字で銀杏と書く。
イチョウの実のギンナンも、漢字では同じように銀杏と書く。
日本語の面白さだ。
外国人が一番困るところでもある。

黄葉の季節になると、銀杏の実が木の根元に沢山落ちている。
近所の人たちが朝早く、拾っているのを時々みかける。

平和大通りの木々は、どの木もそれぞれに四季折々の姿を見せてくれる。
広島ならではのことだ。

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2009年12月 7日 (月)

沖縄考④

沖縄感想記④  吉本 尊則

沖縄で学んだこと

戦争のことから考えました。沖縄戦では20―23万人の人達が亡くなりました。アメリカ軍は1.万2000人が死んだと記録されています。
なぜこんな悲劇が起こったのでしょうか?
本土を守るための時間稼ぎをするため、住民を巻き込んでゲリラ戦をしたために住民が多数死にました。4月にアメリカ軍が北部に上陸し6月始の陸軍の降伏まで続きました。
この間の悲劇は想像を絶するものです。
集団自決、陸軍の横暴、住民の本当に献身的戦争協力(ひめゆり)などなど。
また離島でも強制移住させられて、マラリヤ被害で住民の3割以上が死んだところも出てきました。与那国では7割の人達が死にました。
伊江島などはとても悲惨な状況でした。
小さな島ですからアメリカからの一方的な攻撃になすすべがなかったのです。
こんな住民を巻き込んだ悲劇がなぜ起こったのか?
日本軍が沖縄の住民をかなり差別してみていたと思われます。
背が小さく(これは食糧事情が悪かったために)また南の穏やかな風土のため穏やかな人達。本土と比べるとやはり少し違う感覚を持ったのでしょう。

陸軍の指揮官牛島満中将。海軍の指揮官大山實少尉この2人に全部責任を負わすのは無理です。
それでいろいろ本を読みました。そんな時読んだのが司馬遼太郎の「坂の上の雲」 全8冊です。
この本を読みいろいろ分からなかったことがかなり解明できたように思います。
この本は司馬遼太郎が10年かけて書いた本です。小説というよりは歴史書に近いと思います。明治維新から日露戦争までで特に日露戦争を中心に書いています。日本の青年たちがはじめて国に夢を抱いて生きた時代です。
明治の初め世界の列強国が植民地政策を進める時期でした。ロシアがアジアに眼をつけて
満州から朝鮮を支配下の置こうと行動を起こしたときでした。
江戸から明治に代わりまだまだ国の形も整わないこの時期にこのままだと日本もロシアの植民地になってしまいそうな情勢でした。
その上10年前には日清戦争をしており国力はかなり落ちていました。
そこで明治政府はロシアの機を制して満州に行くしかないと判断し、日露戦争を始めました。世界の誰もが日本が負けると考えていました。でも奇蹟が起こるのです。勝利はしなかったのですがアメリカなどの仲裁で講和条約が結ばれ結果的に引き分けになるのです。
奇蹟とは満州で日本軍の3倍の兵力と圧倒的な軍事力(爆弾その他)を持つロシアと引き分けたことです。天が味方したとしか思われないようなことが次々と起こるのです。
ロシアは帝政の末期で革命の起こる直前で有能な人材が少なかった。ロシア革命が後半もし遅かったら確実に日本は負けていたと思われる(兵や弾薬は底を付いていた)。
海軍の勝利も奇蹟の連続でした。
こんな数々の奇蹟を起こしたのも日本の青年たちでした。203高地の想像を絶する戦い。
満州の冬の寒さの中、兵力と爆弾などの圧倒的な力の差を跳ね返す気力、精神力で戦ったのです。それが数々の奇蹟を起こしたのです。
この数々の奇蹟を起こしたことが日本の不幸の始まりだと考えました。
これ以後日本の軍は精神論を中心に突き進んでいくことになります。
「天皇を中心に日本は神の国だ 」とのまったくばかげた考えが国民にまで広がったのだと思います。
日本の不幸は第2次世界大戦を引き起こします。
これによって300万人の日本人が死にます。アジアでは1800万人が犠牲になりました。日本軍のこんな考えがなければここまでの被害は起こらなかったと思います。南太平洋のほとんど全滅した戦場。それも餓死したのがほとんどです。パプアニュギニアでは203高地での勝利した経験からあんな無謀な山脈越を慣行したのだと思います。これでほとんどの日本軍は死にました。
また南太平洋の補給路がアメリカに支配されてしまったら、陸軍は満州の部隊を陸路の補給路確保のため満州からベトナムまで移動させます。大陸打通作戦50万人が2400キロを8ヶ月かけて往復した作戦、これもほとんど無益な戦争でかなりの死者を出しました
こんな無駄な作戦もあの奇蹟からきていると思われます。神風特攻隊こそ極め付けだと思います。
沖縄の悲劇も私はここから来ていると思いました。日本軍は沖縄で住民たちをかなり差別していました。それは貧しさから来ている身長の低さ、南の島独特のおおらかさからだと思います。そのための軍による住民の集団自決事件や食料の強奪など、また八重山諸島での強制移住そのためのマラリヤ被害。
4月にアメリカが北部に上陸します。日本軍は北部を捨てて那覇を中心に戦闘します。でも圧倒的戦力差から住民を巻き込んだゲリラ戦に持ち込んだのです。
那覇から南のほうへ夜に山の中を移動しながら、戦う兵器がないのに2ヶ月近く戦ったのです。そのために沖縄住民の約10数万人が死んだのです。
もう爆薬その他兵器はほとんどありませんでした。

沖縄の海軍は本当に悲劇でした。豊見城の地下壕が今でも保存されています。
この海軍には船はなく約4000人が戦う武器もなく竹やりなどで戦ったのですが全滅しています。沖縄の日本軍は本土決戦までの時間稼ぎのため無謀な戦略に走ったのです。
仮定の考えですが、もしあの日露戦争での奇蹟がなければこんな悲劇は起こらなかったと思われます。沖縄の悲劇のここにあると思いました。

司馬遼太郎はあのばかげた戦争の原因を突き止めるために書いた小説が「坂の上の雲」だと思いました。私もこれにはびっくりしました。沖縄でこの本を読んだからこそこのことに気がついたように思います。
このことを学んだことが私の沖縄で住んだ1番の収穫だと思いました。

そして考えることは日本がまたまた戦後奇蹟を起こしました。経済成長です。
この奇蹟が再び同じような悲劇を起こすのではないかの思うことです。
奇蹟の経済成長を起こしたことでお金万能社会の時代。お金が人より大切な考え方。
経済成長を促進するための莫大な借金。
国債の残高は850兆円まで膨らんでいます。どのように返済するのでしょうか?
国民の財産が1400兆円 後もう少しで日本売りが始まるのではないかと心配しています。
私たちは歴史から何かを学び現在の私たちの生きることに役立てることができるのでしょうか?
あまりにも安定した時代が続いたため私たちは慢心になりすぎているのではないかと心配します。

終わりに

今までとはまったく時間の流れの違う沖縄、沖縄は縄文人文化、本土は弥生人文化。沖縄は南から来た人種。本土は北から来た人種。
かなり違う生活、文化。
この中で1年暮らしてまた私自身の人生の幅が少し広がったような気がします。
沖縄でたくさんの知り合いができました。最初は戸惑いましたがだんだんと中にはいていくとどんどん人輪が広がってきました。
私にとって大きな財産ができたと思います。
感謝!感謝!

さあー京都に行くぞー
また1年新たな出会いを求めて!!

<感想> グランパ

こんな生き方をしている人がどれ程いるだろうか。
暮らし向きの良い東南アジアや遠くは東欧に出かける年金生活者は少なくない。
しかし、国内を順々に巡って暮らす人はあまり聞いたことがない。
恵まれた人達の中でも可なり意識的には高い目標と実践力を早くから計画しないと難しいと思う。日本人離れした?発想と実践力が成せる業?が及ぼす影響は、新しい生き方を作っていくのではなかろうか。

羨ましがる前にこうした実践をする友人がいることを知っていただくことも大切な情報と考えて掲示します。
一線を引いたとは言え、出版関係での経験と力は大きく、来年広島にやって来るのが楽しみだ…。

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2009年12月 6日 (日)

沖縄考③

沖縄感想記③  吉本 尊則

沖縄の仕事

賃金は本土の6割くらい、今でもパートの時給650円くらいが相場です。タクシーの始乗り料金が450円か500円です。
仕事がとても少なく若者の失業率がとても高い。
でも本土には働きには行かない。またとても格差の大きい地域です。
地主が幅を利かせています。
沖縄経済は第1次産業が1割、2次産業が2割、3次産業が7割の社会です。
沖縄は3Kでなり立っているともいわれています。一Kは公共事業2Kは基地3Kは観光です。
1番の稼ぎ頭の観光事業はほとんど本土資本です、ホテル、レンタカー、航空運賃などなど。

沖縄は国からの補助金ナシでは成り立ちません。基地問題の難しさをとても感じました。
軍用地代、軍関係で働く人達、基地に関係する予算。もし今すぐ全部米軍が
グアムに行けば確かに広大な土地は帰ってきます。でも帰ってきた土地を有効利用して経済を活性化するのはどうしても無理だと思います。経済の中心の観光産業のための土地はもう余ってます。これ以上は必要ないように思われます。
観光に夢を追ってどれだけの無駄な投資がされて、夢に終わったかはいろんなところで証明されています。夢の後の廃墟の建物が今でもかなり残されています。これから人口が減っていく中当然国からの補助金も減ってくと思われます。補助金依存の体質の沖縄はどうなっていくのでしょうか?地場産業はほとんどなく、農地は少なく、人口は戦後本土より2割くらい多く増えました。私はとても不安に思うのですが、沖縄の人たちはみんな「なんくるなるさー」とあまり気にしているようには思われません。相変わらず泡瀬干潟を埋め立てで観光事業の開発を進めればいいと考えているようです。

アメリカの演習飛行機の爆音はものすごいです。低空飛行のためです。
これはなくしてほしいと思いますが===

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2009年12月 5日 (土)

沖縄考②

沖縄感想記②   吉本 尊則

沖縄の車について

車の運転にはビックリです。バイクの無法運転、方向指示を出さないで廻る。

信号無視、携帯電話をしながらの運転はとても多いです。警察が道路で取り調べをしててるのは見たことがありません、これが関係あると思います
駐車は頭から、軽自動車の多さ、スピードのとても遅い車(止まってるのではと思われるほど)人のことは気にしなくマイペース運転。幹線道路を除いて道がとても狭いです。ですから死亡事故は少なく、保険も本土に比べてとても安いそうです。
車の傷(沖縄では傷ついた車がとても多いです。運転がとても下手なのか、道が狭いからなのか、修理をしないからなのか、ほとんどの車が何処か傷があります。)
アメリカの影響からか(車は足代わりとしての考え方)、或いは沖縄独特の小さなことにくよくよしないおおらかさなのかもしれません。

 沖縄の人たちについて

沖縄が本土と決定的に違うのは横社会です。横ですから仲間中心です。
ですから仲間に入ればとても親しくなります。本土から来て仲間になるのに時間がかかります。でも仲間になれればドンドン横繋がりで友だちが広がってきます。今でもほとんどの人達がモアイをやってます。戦前本土にもあった頼母子講とか、無尽などの互助制度です。モアイを通して横繋がりを強くしています。同級生繋がりもそんな関係で強いです。

沖縄のしきたりは我々には理解できません。門中制度(長男が中心)がまだまだ残ってし、封建的なしきたり。などなど。
方言はほとんどわかりませんでした。沖縄おばーもビックリです。女性がとてもよく働きます。そんな関係からおばあさんたちの言動が良く紹介されます。彼女たちは人のことは全然気にしません。わが道を行く!!糸満のおばーが最強だそうです。
でもとても温かみのある人達だと感じました。この裏返しには沖縄の貧しさが感じられます。歴史的に見ても薩摩から侵略され税金で苦しめられ、戦争被害にあい、アメリカからの支配、また土地は農作物ができにくい痩せた土地で、戦前は食べるものがなくてほとんどの人が米ではなく粟やひえ、芋しか食べられなかったようです。

日本全国戦前は貧しかったのですが沖縄は特にひどかったようです。山が多いのと水の問題から農地が余りありません。ですから海外移民がとても多かったようです。
ですから老人はとても背が低く小さいです。
こんな貧しさから人達は皆で支えあいながら生きるようになったのではないでしょうか?
それが優しさの根底にあるように思いました。

よく人は猫系、と犬系に分けますが、沖縄は典型的な猫系だと思いました。人に慣れるのではなくわが道を行く系です。昨年住んだ北海道は典型的犬系でした。やはり開拓という
歴史から縦の系列が強い犬系でした。
両方の典型的なところに住んでいろいろ考えさせられました。

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2009年12月 4日 (金)

沖縄考①

 第一線を引いた後、一年ごとに希望の地に住処を求めている友人がいる。初年を札幌で過ごし2年目を那覇で過ごした彼は三年目を京都で過ごすために移住した。
 中沢啓二の「はだしのゲン」を世に送り出し多くの広島や平和問題に関わる図書を発行してきた汐文社の社長・会長を引いた後の計画を着実に重ねている。

 最初の一年を終えて沖縄に移る際、北海道での一年を振り返った一文を寄せてくれた。
 名付けて「北海道文化論」としてこのブログで紹介した。早いもので、沖縄での暮らしを振り返った「沖縄考」を寄せてくれた。短時間の滞在では感じられない沖縄考だ。
 沖縄人の立場に立った感情や感覚を大切に考える想いがにじんでいる…。
 5回に分けてご紹介する京都の後は、広島で…と考えているようで、来年のこの頃は、広島にやって来ている事だろう…。
  
沖縄感想記① 吉本 尊則

 2008年11月初め那覇に来る。住む場所探しこれは札幌とおなじで悪戦苦闘する。
 11月から4月までは毎日新都心公園で午前中10キロ1時間30分。5月から10月までは日差しの強さの為朝5時から6時30まで毎日歩くこれでバスタブ1杯ほどの汗をかく。
 青い海と青い空の沖縄で感じたことを書いてみます。

感じたこと

 沖縄は考えていた以上に暑い。7ヶ月くらい30度を越す月がある。
 特に7―9月の暑さはすごい。気温よりも日差しの暑さ。沖縄に来たときに地元の人から「真夏には人は歩いていない」といわれ信じがたかったけど本当でした。それくらい直射日光がすごいです。もちろん自転車は少ないです。
 この時期は夜も本当に蒸し暑く今まで感じたことのない暑さでした。
 クーラーがまだ家庭に入る前の生活を考えると、沖縄の人達は暑さに耐える力の強い人たちなのだと思います。
 ビックリしたのはみんなとても毛深いことです。発刊作用のためだとの説や、蚊から身を守るとの説。(笑)
 10月の始には急に気温が下がります。本土で秋雨前線がなくなり移動性の高気圧があらわれる頃から気温が下がります。
 最高気温が30度を切り、最低気温が25度くらいになります。
 その時に秋を感じました。
 昨年北海道にいたときは4月になったときにやっと寒さが終わり暖かくなる喜びを感じましたが、沖縄では10月10日頃秋を感じとても爽快な感じを持ちました。
 沖縄の季節のよさは10―4月までがいいです。冬は最低気温が10度をきることはほとんどありません。風が強い日は少し寒さを感じますが、でもとても暖かいです。
 最低気温が10度をきると魚が仮死状態になるそうです。朝海岸でそれを拾って歩く姿がテレビのニュースで放送されていました。沖縄の生活のリズムはとても緩やかです。ですから沖縄病にかかるのだと思いました。ゆったりと時が流れていて、あまり本土みたいにあくせくしていません。いい意味ではゆったりですが悪く言えば少しる暢気すぎる感じがします。

 「女性はとてもよく働くが、沖縄の男性はあまり働かない」と言われていますが、なぜだろうと考えてみました。沖縄では男性中心社会です。門中思想で男性が中心です。ですから母親が男の子供たちを甘やかせて育てるそんなことが原因ではないでしょか?

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2009年12月 3日 (木)

桑山紀彦の「地球のステージ」

 広島市内で国際交流や協力活動を続けている市民団体や企業などが毎年行っている「国際交流・協力の日」の集いに医師でシンガーソングライターに国際的な医療救援活動に取り組んでいる桑山紀彦(47)の「地球のステージ」が今年もやってきた。

 桑山さんの活動は映画「ありがとうの物語」(当ブログ5月 日、掲載)で知った。
 飛騨高山生れの桑山さんは斎藤茂吉の孫で医師の北杜夫さんの「ドクトルマンボウ航海記」を読んで医師を目指した。山形大学の医学部病院に勤務していた‘89年からタイやカンボジアの国境で難民救護活動に参加しパレスチナやソマリア、東チモール、旧ユーゴなど世界の紛争地や被災地の50か所で救援活動に携わってきた。
 悲惨な現実や現地で触れ合った交流や感動を日本に伝えることが使命と考え‘96年からギターと歌と映像に託した活動を始めた。

1_4

 映画は桑山さんの活動に感動したドクメンタリー映画の佐藤威一郎監督が「桑山さんの目線を通じて子供たちの命の鼓動を伝えたい」製作した。本当の豊かさとは何かを考えさせる作品として鑑賞推薦できる秀作だ。

 桑山さんは山形の病院で精神科の医師として勤務し、紛争地や災害地で心に傷を負った人達へのケアを中心に海外支援活動を続け、同時にNPO法人「地球のステージ」の代表として年に200回を超える講演と音楽の出前に励んでいる。

 広島の「国際交流」の会への参加は4回目で、今年はヒロシマ編を盛り込んだ「地球のステージ5…果てしなき地平線」(全110分)が披露された。ガーナで活動する若き協力隊員の姿を追った国際協力・前篇“陽炎”定年後、ガーナで活動するシニアボランティアをうたった国際協力・後篇の“しろき村人”、“ガザ危機編”“アラブ紛争編”に被爆地の〝ヒロシマ編“若い世代へ語り継がれるヒロシマの話。人は忘れてしまう生き物、だからこそ続けている平和教育の取り組みなどを語り被爆後の映像をベースに”あかね雲“をうたう。
 被爆直後の映像に64年後の今の映像を重ね、家族全部を失っていじめに会って広島を離れた原爆孤児が友に促されて帰郷し広島を伝えるボランティアガイドを務めている…。
 瓦礫の中から這い上がってきた広島の生きる強さと勇気をうたったヒロシマ編は平和教育の教材として、いま全国の小中学校で講演されている。
 地球のステージhttp://w ww.e-stageone.org/stageone/goaisatsu.html
http://www.yamacomi.com/193.html
 映画「ありがとうの物語」問い合わせ:広島映画センター 082-293-1119

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2009年12月 2日 (水)

石原知事の東京五輪再挑戦の真意?

 2016年五輪候補地に落選した東京都の石原知事が2020年五輪の招致に再度立候補する意向を表明した。2020五輪招致の検討を始めたばかりの広島市について「平和を祈念する都市との共催はIOCの平和理念にかなう」として「広島との共催」案を掲げた。都議会第一党の民主党は否定的?と伝えられ、知事の狙いと言うか真意はどこにあるのか…?

 広島長崎両市は2020年までに核兵器廃絶を実現し、全世界をあげて記念する被爆地五輪を共同招致・開催の実現可能性を探り課題解決の検討する為の委員会を発足させた。2008年五輪招致に失敗している大阪は橋下府知事「日本中が広島長崎を応援しなきゃいけない」と「平和の理念は世界に伝わると思う」と招致検討会への参加を決めた。幸いにと言うか検討委員会への参加協力は両県内をはじ大阪市を含めて感触は良く、応援団を希望する都市が相次いで名乗りを上げている。

 広島が名乗りを上げた直後には広島・長崎を支持して応援に回る発言をしていた石原都知事が再挑戦を表明した訳はいろいろ指摘されている。
 知事の任期は11年4月まで。招致失敗の引責辞任は否定したが、今期限りでの引退を明らかにしている。残任期間の求心力低下は避けられない…と見る向きは強い。
 新銀行東京や築地市場の移転問題など頭が痛い大問題を抱えて議会与党の自公は夏の選挙で少数派に転落し、一層厳しさが拡大している。

 150億円と言われる招致費用の使い道の説明や10万人を収容するメーンスタジアム建設を予定していた晴海の土地の利用法など頭の痛い課題のクリアーが待ち受けている。とりわけ、議会野党多数派の民主党は厳しい対応をしてくる事は避けられない。少し乱暴だが再挑戦すれば用地問題などは継続になって棚上げ・塩漬けになる…。

 注目されるのは、石原知事は落選直後「勝負に勝って試合に負けた」と発言している事。再挑戦は16年五輪で「環境」に加えて戦争体験に触れる「平和」のメッセージを提示したが,IOCを突き動かすインパクトが無かった。帰国直後に20年の招致検討を目指す秋葉市長と意見を交わしたことで「潮目が変わった」と知事周辺で見る向きが強いようだ。この事実は意外にも“広島・長崎”が石原知事の琴線を震わせたのではなかろうか。

 「広島と共催することはIOCの掲げる平和と共存という理念に適う」と考え、東京の財政力などに、広島のより強い“平和と共存”という理念を結びつける…。
 核武装論者?と思われている石原知事からは広島長崎に話しにくかった…が、ここにきて思いもしないタイミングで20年五輪の招致に動く広島は“渡りに船”だった…のではなかろうか…。

 核兵器廃絶を目指し、実現を喜び祝う平和五輪と石原・東京五輪は日本での開催に互いに必要な相手として組むことで、実現可能性は高まる…と見れば、政治性の高いメッセージを発信できる五輪共催は十分にあり得ることと理解できる。

 はたして石原知事の東京五輪招致の再挑戦の背景に何があるか判らないが、いくつかの情報をピックアップして見ると推測できる条件が浮かんで来て…満更、無責任な憶測…とも言い難いように思える。
憲法9条にも通じる広島・長崎平和五輪と石原・東京五輪が結びつき共催の道が開く可能性がどれだけあるか…?興味深い。
 とは言え、単なる下司の勘繰り?にしか過ぎないことかも知れない。

 元々多都市開催が出来ない上に財政的にも難しい広島・長崎招致は「核兵器廃絶」記念という人類的課題の追求が一義的で、東京との共催でも十分理念を達することは出来る。
 東京五輪は広島でマラソンなどの一部を共催する…満更の夢ではなさそうに思え…今後の成り行きを注目したい。

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2009年12月 1日 (火)

「必殺! 仕分け人」に期待

 鳩山内閣の浮沈が懸った行政刷新会議の「事業仕分け」をインターネットで見ている。公開で民主党議員と民間の有識者が、各省庁の担当者に矢継ぎ早に質問をぶっつけて「聖域」にも踏み込んで快刀乱麻の大ナタを振い「廃止」「見直し」と判断する様は痛快だ。
 
 発足直後に小沢幹事長のブレーキで混乱?したかに見えた「事業仕分け」。予算の無駄使いを洗い出すことで、現場のやり取りをすべて公開し、インターネットでも公開するアイディァは優れた取り組みだ。従来の予算編成は自民党政府が族議員と大蔵省を中心に各省庁の間で綱引きする形の非公開で、予算編成過程は闇の中で知る機会は極めて薄かった。
 それだけに政治の現場を見える形にした試みは国民の政治や参加意識を高める役割は大きく悪の元凶を暴く「映画・必殺!仕掛け人」に肖った『必殺!仕分け人』は言い得て妙だ。

 自公政権が持っていた利権としがらみの尺度が取っ払われてこの事業はなぜ必要か、これだけの予算がいるのか、国がすべきことなのか?徹底して官僚主導で決めて来た施策の必要性を追求し、結果「廃止」や「縮減」などと判断する。
 判り易い一例を見る。年間9兆円の国費がつぎ込まれる診療報酬は医師不足が問題になっている産婦人科・外科に比べ医師が増加の皮膚科などの収入が高くなっている問題をどうするか…。仕分け人は必要とされている診療科で人が足りないなら、そこに報酬のウエイトを何故かけられないのかと追及。別の仕分け人は、勤務医に比べて開業医の労働時間も短く年収が高いことから診療報酬の配分の見直しを求め、厚労省は反発する…。
 
 開業医中心の日本医師会が長年自民党の支持をバックに作り上げた医療制度が今やっと見直される時期を迎えている。高額納税のランキングに顔を連ね、地域の名士面で幅をきかせて来た開業医の実態は変わるだろう。地方の医師会が徐々に自民党離れを起こしつつあってここ数年のうちに日本の医療制度が大きく変わることが期待できる。同じことで土建をはじめとする公共事業や機材や備品納入などで甘い汁に群がった経済団体や企業のしがらみ構造は事実上解体しており、新予算編成は数年のうちに間違い無く変わる…。

 この方式を借金で悩む地方自治体も採用すれば大きく変わることが出来る。しかし、首長と議会が歩調を合わさない限り出来ない相談でもあるが、やる気次第で可能になる…。
 新政府の予算編成の試みは意外な所に予算削減をもたらしている。毎年この時期から年末にかけて全国の都道府県に市町村が予算獲得の為に繰り返した陳情合戦は民主党の陳情一
 元化でほとんど意味を持たなくなってきており、この経費節減は大きいに違いない。
 手法が荒っぽいとか乱暴…と言う声もあるが60年の垢を洗い落とすには止むをえまい…。
 新予算編成がどれだけ国民目線に近付くか、期待して見守りたい。<11月13日:記>

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