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2009年6月 5日 (金)

在韓被爆者・郭貴勲さん(1)

 「被爆者はどこに居ても被爆者」と言う言葉を大阪高裁の判決で引き出した韓国人・被爆者郭貴勲さんの歩んできた歴史・半生を聞く会が開かれた。
 
 ‘67年に韓国原爆被害者協会を設立以来、副会長や会長として在韓被爆者の権利を獲得する為に尽力されてきた郭さんは今年84歳。血色もよく年齢より遥かに若々しく、通訳を介しないで一時間余りにわたって日本語で半生を振り返り、まだ多くの課題があると今後も在韓被爆者の為に働く決意と日本の平和友好団体との連携を強調された。

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 郭さんは小学校に入学した時から日本語を学ばされ、創始改名で「松山忠弘」の日本名にされ皇民化教育で日本人に仕立てられた。全州師範学校に入学したが差別やいじめに遭いながら、’44年4年生で20歳の時、朝鮮人徴兵第一期生として日本軍に徴兵され広島に連行された。’45年3月に幹部候補生となって中国第104部隊に配属され表面的には模範的な立派な日本軍人になった。しかし、心の中はいつも不平で満ち“朝鮮独立の為に何かしなければ”と言う心持ちだった…。

 8月6日の朝、白島の工兵隊から作業に出発する時、上空にB29が現れ、北に方向を転換する瞬間、銀色の機体が朝日にキラリと光るのを見た瞬間、黄燐弾のような巨大な火の玉が天と地の間を覆った。「アツ、熱い」と感じ、同時に「もうだめだ」との思いが走った。
 一方、「死んでたまるか。生き延びねば」と走り続け防空壕へ逃げ込んだ。背中に火傷を負いながら、隊内のあちこちに転がる死体を避けて工兵橋を渡って、黒い大粒の雨の中を歩き回った後、工兵隊に戻った。市内は未だ大火に包まれておらず不気味に静まり返っていた。市民や兵隊が避難して来た。乾パン2袋の配給を受けて双葉山に避難し、農家で失敬した藁を敷いて腹ばいになって休んだ。
 翌7日、東練兵場に呉から海軍の救護班が来ると聞いて行った。そこではこの世のものと思えない悲惨な光景を見た。丸3日間、何千何万人が苦しみ死んで行く人間地獄を見た。
 9日汽車で、佐伯郡大野町の国民学校に設置された陸軍病院分院に収容され、3日間も昏睡状態が続いた。多くの収容者が死んで行った。
 15日玉音放送を聞いたが、何のことか全くわからなかった。しかし、「戦争が終わった」と聞いて胸が熱くなり涙を流し、祖国に向かって駆け出したい衝動に駆られた。<続く>

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