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2009年6月30日 (火)

証言「原爆孤児」

 ピースフォーラムで原爆によって親兄弟を亡くし原爆孤児になった被爆者の半生を聞いた。多くの被爆証言を聞いてきたが、いわゆる原爆孤児の証言を聞くのは初めてだった。

 御堂義之さん(75)は苦学の末神戸大学の教官を務め、退官後は東広島市へ移り、いまは広島で証言活動をしている。
 この日の講座ではまず、科学者の立場から原爆開発の歴史が話された。ドイツで発見された原爆の原理が、のちにアメリカに亡命した学者たちによってナチス撲滅を目指して開発された。しかしドイツは降伏し、やがて広島長崎に投下される経過と原爆がもたらした被害、核の世界状況について時間を割かれた。

 御堂さんは6人兄弟の末っ子として育った。あの時は10歳の少年だったが父が幼いときに亡くなった為、母と15歳の兄と3人で、日赤病院の裏にあった家で暮らしていた。
 あの朝は、病院を火災から守るために建物疎開の命令が出て、引っ越しの最中だった。
 母は大八車に荷物を積んで鷹野橋の方へ向かって家を出た。
 間もなくして爆音を聞いたが警戒警報も無く家の前にいた御堂さんは、強烈な光と熱線を感じた。幸い、病院の壁が熱戦を遮蔽した為に家の下敷きになったが、火傷は負わなかった。物干し台にいた兄は吹き飛ばされて全身に熱戦を浴びて火傷を負った。
 火傷を負った兄と南の方へ逃げた。渡る橋は木で欄干などが燃えていた。兄の火傷はひどく顔は2倍くらいに腫れ、皮膚ははがれて垂れ下がり、目は見えなくなってきた。
 避難所に収容された兄は「水をくれ、水をくれ」と言いながら1週間後に亡くなった。
 母とも再会できたが背中を火傷して、膿を持ちウジが沸くのを取り除いて玉ねぎや彼岸花の球根をすって塗った。9月に入ると発熱脱毛し、紫の斑点が体中に出て、1月後の私の10歳の誕生日に亡くなった。空地で廃材を集めて亡骸を火葬した。まさに地獄を見た思いだ。

 亡くなった兄以外に4人の姉がいたが嫁いでいて全く頼ることはできず、事実上の「孤児」になった。大工や屋根屋の手伝いをして日銭を稼いだ。学校を休んで仕事をしていることを友達に知られるのが恥ずかしかった。空腹に友達の弁当を盗んで食べた。「犬が持って行った」とウソをついたのに先生が庇ってくれた事は忘れられない。
 また、周辺の畑から作物を盗み、見つけられて追いかけられ「親なし子」とののしられ、あちこちから厄介者扱いされた。
 
 一人きりになって社会に放り出され、二重三重の苦しみを味わい、何度も“死のう“と思いながらも、将来自分の子ども達に決して味あわせたくない…戦争の愚かさを知ってほしい、核兵器の恐ろしさを伝えなければいけない…と言う思うで生き抜いてきた。
 アルバイト先のおばさんに「勉強したいなら東京へ行って夜学に通いなさい」と紹介されて18歳で上京した。神田の古本屋で丁稚奉公をしながら勉強し、5年遅れで広大の理学部に入学した。親戚の家の養子に入って勉強を続けて、神戸大学理学部の教官になった。

 授業や平和集会で被爆体験を語り続けた。戦争をした大人たちへの恨みを訴えたかったからだ。鬼畜米英と言ってきた米国に対する思いが解けず長い間、渡米を拒否して来た。
 しかし、若い人の招きで’95年に初めて渡米し被爆体験を語った。対日戦勝記念日に退役軍人に話した時「原爆で多くの人が救われた」「真珠湾を考えろ」と言われ、「あなた達の子供を原爆に遭わせたくないだろう?」と…それだけを伝えたかったのに、翌日の現地の新聞は「被爆者が謝罪」とあったのは残念だった。
 
 米国人にアメリカに何を言いたいかと尋ねられ、今も米国に対して唯一「母を返して…」と言いたい気持ちを伝えた。
 
 オバマ大統領の誕生で「核のない世界」に期待が寄せられているが、退役軍人が強大な力を持ち幅を利かす米国における核兵器の廃棄は容易ではない…と覚悟して取りかかる必要があると思う。決して楽観は許されない。広島の声を米国に、核保有国にまだまだ沢山届ける努力が必要…と締めくくられた。

 言葉の端々に「自分が経験した苦しみと悲しさは、誰にも経験させたくない」という思いが溢れていた。10歳の少年が母や兄の亡骸を火葬し、学校をさぼって日銭を稼ぎ、なお且つアルバイトに励みながら大学を目指して生きた半生…。
 言葉は少なく決して激しくもないが、いま米国に求める事があるとすれば、恨みも辛みも込めて「母を返して…」は、重く悲しい…思いです。
 同世代に近い私にも想像を絶する壮烈な御堂さんの半生です。

 原爆で親や兄弟を失って「原爆孤児」になった人は少なくない。
 しかし、その多くは学童疎開中に自分だけが被爆することなく孤児になったケースだ。
 自分も被爆して「原爆孤児」になった人がどれほどいるか判らないが、御堂さんのように今こそ『原爆の恐怖と悲惨』を伝えたと証言に立っている方は貴重な存在だ。
 健康で、ご活躍頂くことを心から祈念する。

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