在韓被爆者・郭貴勲さん(2)
8月15日、祖国解放の日が巡ってきて、祖国へ向かって駆け出したい衝動を抑える事が出来ず踊りまわった…そうだ。
8月25日には大野の陸軍病院分院を退院し原隊へ復帰した。9月2日部隊は解散されたが、米軍が落とした“新型爆弾”が原子爆弾である事は解散直前まで知らなかった。
郭さんが「大韓独立万歳」に迎えられて祖国に帰ったのは、徴兵から丁度一年目の9月7日だった。

帰国後も火傷の後から膿が出続ける状態だった。火傷の跡は2~3年後、ケロイドとなって上半身に
残っている。ケロイドの為に海水浴やプールに行く事は全く無くなった。しかし、ケロイド以外には、
大病に見舞われることもなく教師の道を励んだ。
この間、’50年から3年間朝鮮戦争が起き、帰国した広島・長崎の被爆者の多く、三分の一は巻き添えで亡くなり、生き残りは7~8000人ではなかったかと私は推測している。
‘65年に韓日国交正常化を迎え、原爆にあいながらも幸いに元気で過ごせ、’67年2月に戦後初めて気がかりだった広島へ来た。そこで初めて原爆被害の実態と日本の被爆者運動の様子、原爆医療法で被爆者の無料治療を知り、被爆者や記者に多くの指導を受けた。
これを契機に帰国後早速「韓国原爆被害者援護協会」を創った。被爆者の把握に奔走したがなかなか掴めなかった。被爆者と知れると色々な被害を受ける恐れがあった上、何の援護も治療などのプラスが無い協会に、容易に名乗ってくれなかった。名乗った被爆者の多くは住む家食べる物もなく、病気治療など出来ないまま多くが亡くなって行った。
韓国被爆者は日本が朝鮮を侵略した結果で、韓国被爆者はまず日本政府から補償を受けるのが当然だと考え、日本政府に補償を要求し続けた。
'70年、被爆者の孫振斗さんが在韓被爆者の権利と治療を求めて密航し、被爆者手帳の交付を求めて裁判を起こした。’78年に最高裁でも勝訴して被爆者の権利が認められた。
日本政府が主張してきた「韓日基本条約で解決済み」が完全に覆され『密航者である外国人でも被爆しておれば治療し手当を支払う』という韓国被爆者の権利が認められた。
‘74年7月当時の辛泳洙会長が東京都に手帳申請して交付されたが、郭さんは'98年5月に大阪の病院に入院し手帳に2月の健康管理手当を受けた。しかし、帰国にあたって「手帳も手当ても失権」を通知され、新しい自分の闘いを覚悟する…。 <続く>
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