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2009年6月

2009年6月30日 (火)

証言「原爆孤児」

 ピースフォーラムで原爆によって親兄弟を亡くし原爆孤児になった被爆者の半生を聞いた。多くの被爆証言を聞いてきたが、いわゆる原爆孤児の証言を聞くのは初めてだった。

 御堂義之さん(75)は苦学の末神戸大学の教官を務め、退官後は東広島市へ移り、いまは広島で証言活動をしている。
 この日の講座ではまず、科学者の立場から原爆開発の歴史が話された。ドイツで発見された原爆の原理が、のちにアメリカに亡命した学者たちによってナチス撲滅を目指して開発された。しかしドイツは降伏し、やがて広島長崎に投下される経過と原爆がもたらした被害、核の世界状況について時間を割かれた。

 御堂さんは6人兄弟の末っ子として育った。あの時は10歳の少年だったが父が幼いときに亡くなった為、母と15歳の兄と3人で、日赤病院の裏にあった家で暮らしていた。
 あの朝は、病院を火災から守るために建物疎開の命令が出て、引っ越しの最中だった。
 母は大八車に荷物を積んで鷹野橋の方へ向かって家を出た。
 間もなくして爆音を聞いたが警戒警報も無く家の前にいた御堂さんは、強烈な光と熱線を感じた。幸い、病院の壁が熱戦を遮蔽した為に家の下敷きになったが、火傷は負わなかった。物干し台にいた兄は吹き飛ばされて全身に熱戦を浴びて火傷を負った。
 火傷を負った兄と南の方へ逃げた。渡る橋は木で欄干などが燃えていた。兄の火傷はひどく顔は2倍くらいに腫れ、皮膚ははがれて垂れ下がり、目は見えなくなってきた。
 避難所に収容された兄は「水をくれ、水をくれ」と言いながら1週間後に亡くなった。
 母とも再会できたが背中を火傷して、膿を持ちウジが沸くのを取り除いて玉ねぎや彼岸花の球根をすって塗った。9月に入ると発熱脱毛し、紫の斑点が体中に出て、1月後の私の10歳の誕生日に亡くなった。空地で廃材を集めて亡骸を火葬した。まさに地獄を見た思いだ。

 亡くなった兄以外に4人の姉がいたが嫁いでいて全く頼ることはできず、事実上の「孤児」になった。大工や屋根屋の手伝いをして日銭を稼いだ。学校を休んで仕事をしていることを友達に知られるのが恥ずかしかった。空腹に友達の弁当を盗んで食べた。「犬が持って行った」とウソをついたのに先生が庇ってくれた事は忘れられない。
 また、周辺の畑から作物を盗み、見つけられて追いかけられ「親なし子」とののしられ、あちこちから厄介者扱いされた。
 
 一人きりになって社会に放り出され、二重三重の苦しみを味わい、何度も“死のう“と思いながらも、将来自分の子ども達に決して味あわせたくない…戦争の愚かさを知ってほしい、核兵器の恐ろしさを伝えなければいけない…と言う思うで生き抜いてきた。
 アルバイト先のおばさんに「勉強したいなら東京へ行って夜学に通いなさい」と紹介されて18歳で上京した。神田の古本屋で丁稚奉公をしながら勉強し、5年遅れで広大の理学部に入学した。親戚の家の養子に入って勉強を続けて、神戸大学理学部の教官になった。

 授業や平和集会で被爆体験を語り続けた。戦争をした大人たちへの恨みを訴えたかったからだ。鬼畜米英と言ってきた米国に対する思いが解けず長い間、渡米を拒否して来た。
 しかし、若い人の招きで’95年に初めて渡米し被爆体験を語った。対日戦勝記念日に退役軍人に話した時「原爆で多くの人が救われた」「真珠湾を考えろ」と言われ、「あなた達の子供を原爆に遭わせたくないだろう?」と…それだけを伝えたかったのに、翌日の現地の新聞は「被爆者が謝罪」とあったのは残念だった。
 
 米国人にアメリカに何を言いたいかと尋ねられ、今も米国に対して唯一「母を返して…」と言いたい気持ちを伝えた。
 
 オバマ大統領の誕生で「核のない世界」に期待が寄せられているが、退役軍人が強大な力を持ち幅を利かす米国における核兵器の廃棄は容易ではない…と覚悟して取りかかる必要があると思う。決して楽観は許されない。広島の声を米国に、核保有国にまだまだ沢山届ける努力が必要…と締めくくられた。

 言葉の端々に「自分が経験した苦しみと悲しさは、誰にも経験させたくない」という思いが溢れていた。10歳の少年が母や兄の亡骸を火葬し、学校をさぼって日銭を稼ぎ、なお且つアルバイトに励みながら大学を目指して生きた半生…。
 言葉は少なく決して激しくもないが、いま米国に求める事があるとすれば、恨みも辛みも込めて「母を返して…」は、重く悲しい…思いです。
 同世代に近い私にも想像を絶する壮烈な御堂さんの半生です。

 原爆で親や兄弟を失って「原爆孤児」になった人は少なくない。
 しかし、その多くは学童疎開中に自分だけが被爆することなく孤児になったケースだ。
 自分も被爆して「原爆孤児」になった人がどれほどいるか判らないが、御堂さんのように今こそ『原爆の恐怖と悲惨』を伝えたと証言に立っている方は貴重な存在だ。
 健康で、ご活躍頂くことを心から祈念する。

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2009年6月29日 (月)

国際デザイン・コンペ -広島南道路の橋

太田川放水路と広島西飛行場を跨ぐ広島南道路の橋のデザインが国際的なコンペで募集された。
その応募作品が広島市役所内1Fロビーで公開されていた。
海外からの2点を含む15点の応募があったという。
高さ2.3Mのボードにそのデザインと設計意図が書かれていた。

瀬戸内海の多島美と波をデザインした橋とか、広島の過去、現在、未来を象徴したという3連のアーチ橋とか、いろいろテーマを設定したり、橋を通して宮島を望んだイメージを表現したりと、多彩だ。

個人的には、なんの理屈もいわず、ゆったりとしたウエーブのアーチ橋のデザインが気に入ったが、広島市の市章にもなっている3本の川をチープにしたデザインは斬新で面白い。
タイトルはTHE RIVER OVER THE RIVERという。
綾とりの糸のような縦の細い柱が川面の波のようでもある。

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でもその3層になっているその大きな桁が橋の北側だけにある理由がよくわからない。
道路の中央分離帯にあったほうがバランス上もいいと思うが、どうして片側に寄せたのだろうか。

コンペの対象となった橋は、長さは800M、既存の道路との接続もあり、結構複雑だ。
総工事費予算は140億円と示されていたようだ。

2013年の完成予定というから、4年後には完成することになっている。
極めて具体的な計画である。

普通はコンペでデザインを募集して建設するようなことをすれば、予算をオーバーするのが当たり前だが、今回応募された案はすべてが140億円を大幅に下回っている。
中には工事費90億円近いのもある。

平和大橋の脇に作られる予定の歩道橋のデザインも先日コンペで決まった。
そして今回の南道路の800Mもある大きな橋のデザイン・コンペだ。

この2つの橋が完成すれば広島のイメージも大きく変わるだろうことは確かだ。
広島市も粋なことをする。

橋のデザインがいままで市民にこんなに注目されることはなかった。

いつの頃からか、橋をはじめとする土木的インフラはその役割、構造的技術が強調されるあまり、そのデザインが注目されることは殆どなかった。

今回のコンペは、そうしたことでは、土木の技術者にとっても画期的なことだったと思う。

広島高速の高架の自動車道だってもっと美しくあって欲しいと思う。

これを機会に、広島市内の沢山の土木的施設が景観という視点から見直されることを願っている。

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2009年6月28日 (日)

シネマ・カフェ

渋谷駅のプラットホームの壁面に映画の広告がある。

良く見ればCinema Caféとかかれ、メニューの立看板も置かれている。
カフェ?
中はスタンドになっていて、そこでコーヒー、サンドイッチ、ホットドッグが食べられるようになっている。
小さな厨房もついている。
奥行きは1.5Mくらい、幅は10Mくらいだ。
ホームを狭めてはいけないという配慮からだろう、奥行きは極端に狭い。

スタンドに座ってホームをみていると、結構混んでいる電車、空いている電車があるのがわかる。
空いている電車が来た時に、店をでて、乗った。
ここはそんなことができる場だ。

店内には2台の大きなモニターTVが置かれ、映画の予告編を上映している。
映画のチケットを売るのが主たる目的のようだ。
ヘーッ!
こんなチケット売り場の造り方があるんだ。

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映画の宣伝とチケット売り場を人通りの多い駅のプラットホームに作るついでに、カフェもつくったということだろう。
経営は角川映画だという。
今はターミネーターの広告になっているが、1ヶ月ぐらいで次の映画の広告に変わるという。

見るたびに、壁面が変わるというのは楽しそうだ。

ここには、建築のデザインはない。
広告看板だけで空間が作られている。
こんな大きな広告看板がそうお金をかけずともできるようになったという技術の進歩もあるのだろう。
面白い。

しかし恐ろしい時代になったもんだ。

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2009年6月27日 (土)

本郷カントリークラブと会員権

先日、広島市内から約1時間、広島空港からほど近いゴルフ場、本郷カントリークラブでプレイした。

開場は1977年というから、開業して32年目になる。
木も随分と大きくなって、落ち着いたゴルフ場になっている。
コナラやクスの類も多く、メタセコイアやナナカマドも植えられている。
新緑がきれいだった。
秋には紅葉が美しいだろうと思う。

コースは中国地方のゴルフ場にしてはフラットで、広い。
一つ一つのホールに表情があり、楽しいコースだ。
しかし右ドッグレッグのコースが多かったり、ミドルの4番ホールの2打目はとんでもなく長い谷越えのコースがあったりし、ちょっとコース全体のバランスが悪いのが気になるといえばいえる。
コースの設計は浅見緑蔵さんだ。日本のプロゴルファーの草分けの一人でもある。

1

このゴルフ場もバブル景気崩壊とともに倒産し、今では外資系のアコーディアグループが運営している。
今正会員を募集している。
募集要綱によれば、入会金35万円、年会費31,500円、募集人員は200名だという。

このゴルフ場が、かってバブルの頃会員権がいくらしたか知らないが、広島カントリークラブが1億円したといわれた頃には、やはり数千万円はしただろうと思われる。
それが今回の募集では預託金がゼロ、入会金のみだ。

バブルの頃は、預託金付の会員権を買えば、数か月後には倍になるなんてこともあった。
ゴルフをして、お金が儲かるのだ。
その頃は皆競って会員権を買った。
ゴルフの人気も凄かった。
猫も杓子もゴルフをしたという感じだった。

会員権を買って正会員にならなければ、プレイの予約はできないとか、ビジターフィーは数万円もするのに、平日、土休日に関係なくプレイフィーは500円位とかの優遇制度もあった。
でも会員権を買う人にとっては、そんなことは会員権が数倍に値上がりすることを思えばどうでもよかった。

その頃は首都圏で、ゴルフ場をつくるには大体土地を取得するだけで100億円、コースとクラブハウスを作るのに100億円位していた。
計200億円位が標準的なゴルフ場の建設費だった。

2,000万円の会員権を、1,000人に売れば、無利息のお金が簡単に集められ、ゴルフ場を作ることができたのだ。
200億円の事業だから、ゼネコンにとっても、金融機関にとっても美味しい仕事だった。

バブルがはじけ、不動産は永久に値上がりするという神話が消えると、ゴルフ場の会員権価格も暴落した。
会員権の値上がりが期待できなくなったら、預託金も返済を求められるようになった。
預託金は、通常10年後にお返ししますよと約束して、無利息のお金を集めていたのだ。
値上がりが期待できなくなれば、預託金を払った人は返してくださいということになるのは当然のことだろう。

しかしその預託金の200億円はゴルフ場のコースと建物になっているわけだから、返済なんてできるわけがない。

その200億円を銀行から借りれば、金利3%としたって、支払利息だけで年間6億円になる。
ゴルフ場の利用客数は通常年間で大体5万人くらい、単価は15,000円くらいだから、総収入は7.5億円くらいにしかならない。
それで6億円の金利を払えるわけがない。
そうなれば、銀行だって貸してくれない。
その結果、日本中の殆どのゴルフ場は倒産したというのが、あのバブル景気の典型的な姿だ。

倒産したって、営業収支はなんとか黒字にはなっているから、ゴルフ場が閉鎖され、荒地となって、元の山林に戻ることはなかった。
ということもあって、殆どすべてのゴルフ場は倒産しても、閉鎖されることなく、そのまま営業は続けられている。

でもその利益は数千万円のオーダーだから、収益還元法でいけばゴルフ場の価値は数億円ということになる。
その価格で取得したのがいわゆる外資だ。

200億で作られたゴルフ場がたったのゴルフ場が数億円で取得できるのだ。
それなら日本の企業が買えばいいだろうにと思うが、そんな余裕のある企業はその頃はなかった。

この本郷カントリークラブも外資のゴルフ場運営会社アコーディアグループが取得し、経営している。
アコーディアグループの株の44%はThe Goldman Sachs Group(ゴールドマン・サックス・グループ)所有している。
アコーディアグループはスポーツ振興、日東鉱業、土浦カントリークラブ、フェニックス・カントリー・クラブなどを子会社に持ち、今では全国に123カ所のゴルフ場を所有している。

世の移り変わりの激しさをここにも見ることができる。

今では正会員でなくとも、大体どこのゴルフ場でもプレイの予約はできるようになったから、よほどのことがない限り会員権を買う人はいない。

こうした背景の中で生まれたのが、この本郷カントリークラブの始めた入会金のみの正会員制度ということなのだろう。
プレイフィーは平日6,020円、土休日6,8200円というのも、預託金なしだから当然の価格だろう。
グルファーを確保し、収益性を確保しようということでは、よく考えられた仕組みだ。

この本郷カントリークラブの工事費がいくらかかかったか知らない。
しかしそれ相応に土地代、工事費がかかっているはずだから、この金額で正会員になれるというのは、安いともいえる。

もしかしたら、いずれこの会員権は高くなるかもしれないという楽しみもある。
あくまで「かも」だが。

私もお金と暇があったら買いたいくらいだ。
会員権が値上がりしなくたって、年に10回、10年いけば充分モトはとれる。
私だって、後10年はゴルフができる?

問題はその暇と金だ。
ちょっとな!

貧乏人はいつも損するというのは、世の常なのだろう?
仕方ない、諦めるか。

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2009年6月26日 (金)

映画「ふみ子の海」上映推進運動

 映画はいろんな上映の方法や見方がある。いま、秋から年末にかけて県内各地で見て頂ける映画上映の準備が進んでいる。視覚障害者教育に人生をささげた盲目の教師の少女時代を描いた映画「ふみ子の海」の県単位の上映委員会が近く発足する。

 この映画は昭和初期の新潟を舞台に、過酷な境遇に置かれながらも教育に憧れ、学ぶことへの喜びを感じ、やがて盲教育への道を歩む少女の希望と、少女を支える周囲の人々の姿を描いたものです。実在した盲目の女教師 粟津キヨさんの少女時代をモデルにした物語は80年の時を経て、人の心の隙間に入り込む障害者や弱者に対する“差別意識”は時代を超えて克服しなければ成らないテーマである事をアピールし、暖かく教えてくれる。

 視覚障害者が主人公の映画だから盲人の方達にも鑑賞出来る様に、場面ごとの状況や人の動きを副音声で聞き、スクリーンの音声と合わせて理解できる方式が準備されている。

 製作者の希望で、昨年から岩手、山形、宮城、福島の東北4県での上映が取り組まれ映画館のある都市部だけでなく、東北の隅々の市町村にも伝えたいと「上映運動方式」で取り組んだ結果130ケ所での上映が成功し各県3~4万人が鑑賞した。
 この波は北海道から関東地方へと広がり、いま全国にその輪が広がろうとしている。

 この動きを知った各地の視覚障害者団体はそれぞれ各地での上映運動を待ちわびている。
 広島でも広島映画センターとRCCがタイアップし、県と広島市の社会福祉協議会とそれぞれの視覚障害者団体が発起人となって「ふみ子の海」上映推進委員会を14市5町に結成して26会場で少なくとも2万人の鑑賞を目指して準備に取り掛かっている。
 協力を要請に訪れた県視覚障害団体連合会の前川会長は「全国の会議の席でこの映画の取り組みを聞き、広島での開催を心待ちにしていた」と期待を寄せて協力を約束された。

 かつて昭和3~40年代にはこうした映画上映運動が盛んだった時期があったが、途絶えて久しい。しかしここ数年、作品によっては映画館上映より地方の地域上映に相応しい作品が見受けられるようになった。この「ふみ子の海」はその成功例なのかも知れない。
 
 広島ではRCCが取り組んでいる視覚障害へ音の出る信号機を贈るチャリティー「RCCラジオ チャリティー ミュージックソン」へ上映収入から寄付して活動に協賛する。
 シネマ・クラブひろしまも小さな支えになって取り組みたい。社会的弱者に一層厳しい時代になりつつある時だけに、『心の隙間に入る“差別意識”』を克服する為にも…。
 問合せ:RCC事業部<082-222-1133>  広島映画センター<082-293-1119>

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2009年6月25日 (木)

ブラボー! 銀座ライフ!!

 この春、東京に移った柴田家からのごあいさつ状が届いた。
 柴田だんなは正月明けの転勤で一足早く単身赴任していたが、春休みに家族が越して東京暮らしが始まった。なんと、住所が銀座7丁目ではないか。東京ど真ん中だ!
 主人のポジションは報道部長。各社とも東京支社の報道部長は専らキー局やネットワーク各局との会議とお付き合いに忙殺されるところだ。
 それにも拘らず、今年になって東京発の柴田レポートが目立って増えて来た。仕事好きな柴田部長が現場の記者に戻って生き生きとしている様子が垣間見られる…。

 柴田さんは10年前にRCC・JNNの上海支局長として3年間勤務した経験がある。
 夫人の希奈さんはRCCワイド番組のディレクター経験がある聡明で好奇心旺盛な人だ。
 その一家が東京勤務を機に住まいを銀座にしている。メールでやり取りしてみると次々にその理由と考え方が判って興味深い…。

 管理職と現場記者を両立させるには職住接近で、東京の通勤地獄から解放し支社の近場で利便性を優先した…という。これは一家が上海で暮らした経験が活きている。JNNのネットワーク各社の支社報道部長達は対TBSへのアプローチや各社の情報収集にあの手この手を使う“JNN政治”が横行した時代もあって、息を抜けない重要なポジションだ。
 一方、支社では一人でカメラを廻してレポートする取材。取材準備をはじめ、何から何まで一人でこなさなければならない。自宅は新橋演舞場の並びで築地市場に歩いて5分、支社までは歩いてせいぜい10分前後、この位置ならいつ何時でも対応可能な職住距離で、通勤時間や疲労を考えると『銀座ライフ』は見事な選択!!!と感服し、エールを送る。

 家族にとっては大都会のビル街で公園や緑には恵まれないが、考え方次第で銀座を楽しく生きられる喜びが生まれるだろう。息子のカスケ君は創立130年を超える日本一の伝統校の泰明小学校に転入し、親子で銀座ライフを開発中のようだ。
 先日の日曜日には1丁目の空きで「銀座でコメづくり」と言うイベントがあった。茨城県から運んできた田んぼの土で30㎡の水田を造って「銀座の田植え」が行われ、カスケ君は銀座で農業体験をした。広島でも長年賀茂鶴酒造が八丁堀行っていたが今は無い。

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 希奈さんは銀座にオープンした外資系宝飾店が5千人にダイヤを無料配布したニュースで話題の行列に1770番目に並んでゲットした。画面に姿は見えないが…ニュースの真只中にいる時の人?だ。

 なんと、早くも銀座ライフをフルに楽しんでいるようだ。
                     
 私が東京支社勤務したのは昭和48年~53年(’73~’78)の30代後半の5年間。世田谷の代沢から銀座の支社に出社する。大半は当時から相互乗り入れしていた小田急線の下北沢から地下鉄千代田線で国会や官邸に出勤した。下北沢に近く、渋谷や新宿、吉祥寺にも利便が良く高尾山や箱根にもよく出かけた。

 定年までにチャンスがあればもう一度、東京支社勤務を希望して、その時には銀座に住んでみたい…そんな夢を果たせないままだっただけに、柴田一家の銀座ライフには“ブラボー”とばかりエールを送りたい気分だ。

 銀座には銀座の名店が昭和29年から銀座の復興を推進し、信用と奉仕の百点満点を目指す「銀座百店会」を結成し、30年から小冊子『銀座百点』を出し続け通算650号を超えた。
 コートのポケットにも入るB6という変形サイズで百ページ余りの冊子には銀座の匂いが詰まっている。家内が年に何度かお取り寄せするお店から、荷物と一緒に届く『銀座百点』はお洒落な銀座に気安さと安心感のある銀座がある。お店だけではない地域の風情や街並みに裏街に露路奥の裏方として銀座を支える職人さんなどが見える。
決して敷居が高くない銀座が見える。

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何はともあれ柴田一家には『銀座百点』を手引きに、そんな銀座を沢山見つけて“銀座ライフ”を楽しんでほしいと思う。
 仕事と家族の関わりを東京のど真ん中で究極の選択をした柴田家に敬意を表すと共に、飛びっきりの面白ニュース情報を届けて下さる事に期待を寄せている。
 
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2009年6月24日 (水)

トリプル祝賀

 環境問題や平和問題などに取り組んでいる若者、グラスルーツの会のメンバー3人の新生活スタートを祝う会が土曜の夜に開かれた。

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 グラスルーツやシネクラブなども利用する大手町のフェア・トレード・コーヒーのカフェ・デポに30人余りが集まった。女性陣がサラダやおつまみに煮物、巻物など腕によりをかけて料理を作り、会場を飾ってなかなかいい雰囲気づくりを演出した。

 平尾さんは海外を中心に10年間勤めた国際機関を止めてヒロシマに関わりたいと帰郷して働きながらグラスルーツをはじめボランティアグループを通じて将来の我が道を模索している。同級生と同じ総合商社につとめていて知り合った新婦のさおりさんは南アフリカの勤務を終えて、“何事にも寛容な順平さん”のもとにやってきた。30年後にどうありたいかを考えながら前進したい…と。

 沖横田さんは保育士をしていた幼稚園を辞めて数か月のインドを中心に旅に出て自分探しの末、将来は農業の道を目指したいと目標を定めて頑張っている。旅から帰った年末の企画を通じて知り合ったともみさんに一目ぼれして押しまくった。「楽しく、明るい、どろんこまみれになれる家庭」を目指す…。

 英語教師をしている武蔵は<何故、武蔵かは知らない。リーバイ ヴァーノンブレイ>米国ミルオーキー出身。熊本で5年過ごしたのち広島に来て2年半。英語を教えたみゆき夫人の妹を通じて知り合った。お腹にいる息子が中学生になる頃に古里へ戻りたい…。
 それぞれは、いま自分の歩む道探しの途中だ。しかし、共通しているのは広島に学んで活かしたい…と前向きなことだ。3組の若者が新しい家庭と人格を目指し歩みだした。
 真摯で爽やかな気分を十分に味わうことができた一夜だった。3組の発展が楽しみだ。

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2009年6月23日 (火)

クルージング船・銀河

いままでに何度か、瀬戸内海汽船のクルージング船「銀河」に乗ったことがある。

ランチクルーズは、食事も美味しいし、街中のレストランと違いゆったりした気分になる。
広島港を出て、宮島沖までいって、厳島神社を参拝して戻ってくる。
約2時間40分。料金は5.000円/人。
港を離れてしばらくすると、陸地は遠くなり、周りは海だけになる。
そんなときは、久しぶりの夫婦の会話の時間になる。

ディナークルーズは、船が港を出ると、すぐ周りは真っ暗になって何も見えなくなる。
遠くに陸の灯りが見えるだけだ。
なんとも幻想的な世界になる。

メインフロアのレストランは結婚式の披露宴にも使えるという。
100名収容というから調度適当な大きさだ。
2F後方デッキでは、夏になるとビアレストランにもなる。
これがまたいい。

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こんな素晴らしい遊び方があるのに、広島市民の話題には殆どならない。
勿体ない。

先日、東京から来た友人は「広島で瀬戸内海を走るクルージング船をやったらどうか」といっていた。
何をいってるかと、広島には瀬戸内海汽船の運行するクルージング船銀河のことを説明したら、びっくりしていた。

東京の人には、全く知られていないのだ。
残念なことだ。

しかし広島市民だって、どれくらいこのクルージング船に乗ったことのある人がいるのか、怪しいもんだ。

広島市は瀬戸内海に面している都市ですといっているが、市民の日常生活に、海は殆ど関わっていないのが現状だ。

昔は元宇品の海岸で泳いだという人もいるが、今は泳ぐ人はいない。
水質が、泳ぐには適さないということでもないようだ。

海から見る元宇品の原生林と、そこに建つ広島プリンスホテル、そして岬の白い灯台だって素晴らしい。

でも出島のコンテナヤード、三菱重工の工場はあんまり美しいとはいえない。
いまでは広島市に限らず、全国の臨海部が殆ど工場とかコンテナヤードになってしまっている。

そんな工場も、森で囲まれるようにするだけでもいい。
海からの景観を意識して作られるようになれば大分変るだろうと思う。

臨海部にビーチがあったり、レストランがあれば、船にも乗ってみようかという気にもなるだろう。

広島港ビルも随分と立派だが、ガランとして、あまり人はいない。
2階はまだほとんど空き室だ。
これも勿体ない話だ。

クルージング船銀河は広島にとって、貴重な財産だ。
「クルージング船・銀河」を中心にして、瀬戸内海と街が一体になるように環境整備を進めていくことが必要だろう。
そうなれば、広島の街も随分と変わるだろうと思う。

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2009年6月22日 (月)

街のラウンジ

新宿の街の一角にオープンカフェが出現した。
オープンカフェということでは、広島が一歩先じているともいえるが、設けられている場所が違えば、自ずと役割も、雰囲気も違ってくる。

ここのオープンカフェは、新宿通りと靖国通りの間を結ぶちょっとスケールアウトした広い通りを、車の交通をシャットアウトして設けられている。

いままでも新宿通りは、土休日には車が締め出され、歩行者天国になっている。
でもそこは、ただ単に車道を歩行者専用にしたという感じである。

ここでは、このモア4番街という通りと、1つ東のモア5番街の通りも含めて、この付近一帯が休日にはオープンカフェになるようだ。
椅子が置かれ、パラソルが立てられ、コーヒーをサービスするボックスが置かれている。
花を植えたプランターボックスも置かれている。
ときどき、ここではコンサートも開かれているという。

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街の景観が一変した。
いままでの新宿の街は、なんでみんなそんなに忙しいの言いたくなるくらいひたすら人が歩いているという感じであった。
それが、このオープンカフェが設けられたことで、「街にゆとり」が生まれたようだ。

新宿区が主導し、昨年の暮れに3月間の社会実験として始めたというが、評判がよかったからだろう、その後も続けられているという。

人の買い物行動は、途中でちょっと一休みすると、全体の行動時間が倍近く伸びるという調査結果を読んだことがある。
行動時間が伸びれば、当然買い物の量も額も増える。
デパートでも各フロアにカフェがあるが、そんなコーナーを設ける理由はそうしたことによるのだろう。

それなら街の中にだって、こうした空間を設ければ街の賑わいにつながるということになる。

こうした空間は街の中のラウンジ空間ともいえる。
「公園+広場+庭園+道路+カフェ→街のラウンジ」というわけだ。
こうしたなんともはっきりしない空間が、これからの街づくりには大きな意味をもってくるのではないだろうか。

道路にオープンカフェを作ることは、法律上道路占用許可を得なければならないし、その際、通行の妨げにならないようにするとか、いろいろ厄介なことがいわれる。

昔の下町では、露地に縁台が置かれ、年寄りが煙草をすって、遊ぶ子供たちを眺めているなんていう絵もみたことがある。
茶道には野点なんていうこともある。
日本では古くから街中にこうした空間があったのだ。

広島についてみれば、堰堤のオープンカフェだけでなく、本通りと相生通りの間のゾーンも、オープンカフェ等が張りだしてくれば、もうちょっと違った雰囲気になりそうだ。
うらぶくろと呼ばれる地域も、並木通り、袋町通りにもっと積極的にオープンカフェや、イベントを行うようにしたらいい。

こんな仕掛けがどんどんできていけば、広島の中心市街地はもっと楽しい空間になるだろうと思う。

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2009年6月21日 (日)

新宿から建築が消えた!

久しぶりに新宿の街に出た。
なんじゃ、これは?!

建物がないのだ!
あるのは広告だけだ。
建築が消えた?

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新宿駅前のビルの壁面はどこも全て広告看板で埋め尽くされている。
新宿駅から伊勢丹に向かう新宿通りの道路も、お店の名前を書いた看板がせり出していて、向こうの建物が見えない。
建物の形が全く解らなくなっている。

「さくらや」、「ABC―MART」、「ビックカメラ」、「NUOVO」・・・・。
巨大な広告看板だらけだ。

「さ く ら や」の一文字、一文字は人よりはるかに大きい。
2階部分の壁面をすべて埋め尽くしている。

モデルの女性の写真だって、現実の人間の数倍の大きさだ。

看板というのは、普通は建物の一部に取り付けられている。
当然看板の方が建物より小さいのが当たり前だ。
しかしここ新宿では大きさの順番が狂っている。
「広告<建築<都市」という感じだ。

こうなってくると、あの丹下健三のデザインだって吹き飛ばされてしまうだろう。
格調あるデザイン云々なんていう議論はおよそ関係なくなる。
ものすごいエネルギーを感じる。

面白いと言えば言えるし、これが街の賑わいだといってもいいが、これはちょっと行きすぎじゃないのといいたくなる。

でも規制でがんじがらめになって、乙に澄ました街より、この方が元気があって、面白い??
だからいいか???

日本に、1カ所くらいこんなハチャメチャな街があってもいい・・・・
???

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2009年6月20日 (土)

大人には聞こえない音

我が家で唯一効果のあったネコ害対策はネコが嫌がる音を出す高周波発生器でした。しかし我々大人には聞こえない音も、子どもには聞こえ「うるさい」というので、今はスイッチを切ったまま放置しています。

最近になって、若い人にしか聞こえないというモスキート音が注目され、深夜の公園に集まる若者の撃退用として利用されたり、若者にしか聞こえない着信音として利用され、話題になっています。

もともと人間の可聴域は歳を取るほど、高域が狭くなります。これは避けられない老化のようです。

普段は大きな声で話しかけてもなかなか通じない耳の遠い老人が、悪口だけは良く聞こえるということがあります。これも、一生懸命話しかけると殆どの人は声が高くなって、余計聞こえなくなってしまい、逆にヒソヒソ話はトーンが低くなので、老人には聞こえ易くなるためです。

テレビでの検証実験を見ると、個人差があるようで20代前半でも聞こえない人もいました。同居の次男も、もう少しで二十歳です。「うるさい」と言った頃から数年経っています。時々は「まだ聞こえるか」チェックしてみても良いかも知れません。

未だにネコ害には悩まされているので、次男が聞こえなくなった段階で、最強のネコ対策を再び始動しようと思います。

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2009年6月19日 (金)

アニメ原爆映画「太陽をなくした日」

 ヒロシマ・ピースフォーラム講座で原爆アニメ映画「太陽をなくした日」を見た。

 制作者の前田稔さんは’70年生まれ、今年39歳の被爆二世。大阪の専門学校のアニメ科を卒業し、広島でイラストレーターとして活動しながらアニメ映画の自主製作に取り組んできた。’02年に製作され、第九回(‘02年)国際アニメーションフェスティバルの招待作品に選ばれた19分の短編だ。
 
 舞台は広島市の中心部から2キロ足らず北部の横川駅北側の商店街、その周辺。背の低い木造の平屋や二階建てが並ぶ古い町並み。戦争が激しくなり空襲の危険が高まると大火災が起きる心配から、町内会・隣組が協力して防火訓練をした。若い男は兵隊に行っていて地域の主婦でつくった婦人会が中心になった。空襲で火災になった場合の防火帯の為に建物を壊して空地をつくる建物疎開は全国の都市で行われた。8月6日の広島でも中学生、女学生が建物疎開に動員されて作業中に多くが被爆死、命を奪われた。
 高学年(3~6年生)は空襲の危険を避けて集団で地方の学校やお寺などで先生が引率して合宿する学童集団疎開が行われた。集団疎開した学校は兵隊の駐屯地になり、校庭は食糧確保のためのイモ畑になった…。
 そんな環境の下で低学年の学童や就学前の子供達は町内で知恵を絞っていたずらをしながら遊びまわる。作品の90%が被爆前の日常で、言葉やスーパーの字幕もほとんどなく、坦々と展開される。突然、日常のすべてが爆発し街が消える…。
 しかし、被爆後の目を避けたくなるような惨たらしく悲惨な場面は最小限にとどめて描き、ENDマークもがないまま終わる…。

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 前田さんの話では、アニメ制作を目指した時から「言葉を超えて動きで判るアニメで世界に立ちたい」との思いで、10年かけて完成した。制作の動機は子どもの頃から家族や親戚が集まると祖父母や父をはじめ10人以上の被爆者が「あの時、どこで何をしていたか…」互いに語る被爆体験を聞いて育った。逃げる途中で『勉強道具を忘れたと言ったら“もう学校は壊れて無い”と言われ“宿題は無いんじゃ…”と嬉しかった』と言う話に共感した。

 一方、学校の平和教育を受ける中で身近に被爆者を知らない子供達は悲惨な映像に怖がり嫌がって「よそごと」と思っているものが多くいた。そうしたヒロシマを知らない人にアニメでどう伝えるか考えた。子供の日常なら想いを重ねられると気づいた。

 アニメではとかく簡略化される背景に時間をかけて取材をし、被爆当時をひとつひとつ丁寧に再現しているのは、消えた物が何だったのかが判り易くするための努力が見える。
ENDマークに代わってこのアニメをきっかけに“続きを知りたい”と思う人、広島から何が消えたか?“戦争と平和”について考える人が一人でも増える事に思いを寄せ、丁寧にしかも、緻密に表現しているのは他のアニメでは見られない特筆事項だ。
 
 ~主人公達の暮らす町について~と言う時代の用語解説がついている。<防火訓練><建物疎開><学童疎開><金属供出>など当時を理解する為の解説手引きだ。 
私達の年代の年代にとってはほとんど必要ないものだが、若い人や外国人にとっては欠かせないメッセージで、外国人用には多言語化も期待したい。

 “ヒロシマ・アニメ・フェス”の提唱者で原爆アニメのバイブル的作品と言われる木下蓮三さんの「ピカドン」も全くナレーションも字幕もない作品だが、広島で何が起きたのか…を十分に伝える10分だ。
 
 取材に出かけた東欧の小学校で上映したら、人間が溶ける場面で悲鳴を上げた校長が、上映にストップをかけた。「人間が溶ける…」恐ろしさは考えられず、教育上、好ましくない…との抗議だった。
 人が溶けた事実はともかく『溶けるに十分な5千度もの高熱が地表を焼いた事実』に、校長は生徒の前で、再び大声を上げた。『ヒロシマに申し訳なかった…』と最初から再上映をして子供達に改めてその事実を教えた。
 アニメが教える強烈な力を知った瞬間だった。
 
 「太陽をなくした日」は「ピカドン」のような強烈なインパクトはないが、戦争や近代史を知らない子供達、平和教育を受けたことのない子供達にヒロシマを教えるには打って付の教材だ。
 消えた広島を知り、そのあと被爆者に何が起きたのかを知る手だても少しだけあると親切だ。熱線と爆風は描かれている。原爆が他の爆弾と決定的な違いは“放射線被曝”である事の手掛かりを、解説に少しだけ記しておいてほしいと思う。
この作品が、より活かかされる為に、敢えて希望を留め、改めて拍手とエールを送る。

 DVDが発売されている。前田さんのHPから覗き見も出来る。
<前田さんのHP:スタジオみのる>  http://www15.ocn.ne.jp/~stu-mino/

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2009年6月18日 (木)

「墨描・中国人強制連行の図」展

 第二次大戦中に北海道に強制連行され、過酷な労働実態と残酷な仕打ちをされた中国人を書いた「墨描(すみがき)中国人強制連行の図」展が広島市のアステールプラザで開かれた。
 
 墨絵で戦争告発と言えば広島が生んだ丸木位里・俊夫妻の「原爆の図」「南京大虐殺の図」を彷彿とさせる。この墨絵の作者は札幌在住の無名の画家・志村墨念人さん。’23年(大正12年)生まれの86歳。若い頃から絵が好きで今の武蔵野美大で働きながら修業した。
 
 志村さんは1945年、北海道の積丹半島の玉川鉱山で鹿島組(現・鹿島)の収容施設で中国人の労務係を担当した。施設に送りこまれてきた中国人200人の様子や、栄養失調で痩せこけた体で働く労働者、脱走者への拷問などを見た。戦後、この体験を語る事は無かったが、現場が原発の候補地に選ばれるなど「歴史が跡形もなくなるのではないか」と言う思いと、当時何の助けも出来なかった自責の念に押されて15年前から描き始めた19点を展示。縦1,7㍍、横3,6㍍の大作は過酷な労働現場を克明に告発している。

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 広島県内では安芸太田町の安野発電所の建設工事の為、360人の中国人が強制連行され29人が亡くなっており、証言や資料のパネルも展示された。

 志村さんは「僕は彼らを直接殺した訳ではないが、中国人を使った末端に関わった者の一人として、心が痛む。いささかの贖罪になれば…関わった中国人に謝罪出来た時に私の戦後が終わる」と話し、戦争体験と向かい合って全国を歩いて展示継承していく覚悟だ。
 
 開催は5月24日までだったので広島で直接、見ることはできないが全国で巡回展示?がされておりインターネットで情報をとらえてご覧頂きたい。    <5月24日記> 

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2009年6月17日 (水)

大手町通りと自転車専用レーン

大手町通りの舗装が大分改修された。
歩道がきちんと設けられ、車道との間にポールも立てられた。
一方通行の道路には、車道と歩道の間に自転車専用のレーンも設けられた。
茶色に塗られているスペースが自転車専用ということのようだ。
その幅はほぼ1Mほどだ。

自転車専用レーンが両サイドに設けられていることで、自転車はなんとなく左側通行になっていく。
可笑しい。

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自転車専用レーンといっても、幅1Mでは自転車が行きかうには狭い。
中には右側通行の自転車もいて交錯することがある。
そんな時は、歩道にはみだしてくる。
ちょっと危ない。

どうせならそこに「自転車専用」と書き、「↓を」書きこんだら、自転車の左側通行はもっと徹底するだろうと思う。

自転車は本来車だ。
車なら左側通行のはずだが、意外と守られていない。
鯉城通りを歩いていると、自転車が前から来ることもあるし、後ろから来ることもある。
自転車は歩道であろうが、車道を走ろうがともかく左側を走るとすれば、後ろから来るか、前から来るかどっちかになる。
そうなれば、どっちから来るのか心配しなくて済む。
自転車も行きかうこともなくなり、走りやすくなるはずだ。
ともかく自転車の左側通行は徹底した方がいい。

栃木県宇都宮市では自転車は専用レーンを設け、左側通行としたことで、自転車の事故が4割以上減少したという。

この大手町通りを、「自転車専用レーン&自転車左側通行」のモデルケースとして評価したい。

こんな自転車専用レーンが広島市全域に広がっていくことを期待したい。

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2009年6月16日 (火)

ACTUSと駐車場の緑線

宇品港に面してインテリアショップ・ACTUSがある。
元々倉庫として作られていた建物を改装したから、妙な装飾がなく、すっきりしたいい建物だ。
売っている商品も質の高さを感じさせる。
その分値段も高い。
古くなったら、益々味が出るといった感じの品物だ。
日本人の生活感覚もここまできたということだろう。

中2階にあるカフェもなかなかオシャレだ。
カフェに座って望む海の景色はまたなんとも言えずいい。

そんなお店の中を歩くだけでも楽しい。

先日は部屋においても格好いいゴミ箱はないかと探しにいった。
車を停めた際、なにこれと?と気づいた。

通常駐車場のスペースを区切る線は白線だが、ここではコンクリートをちょっと掘って、そこにクローバーや緑の草が植えられている。
建物に接して設けられている歩道はウッドデッキだ。
ヘーッ
なんとも気が効いている。

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道路の横断歩道は車がその上を通るし、人が踏むから、かなり強力な塗料で塗るのはわかる。
でも駐車場の仕切りは、その上を車が通るわけではないし、踏まれることもないから、白い塗料で塗る必要は必ずしもない。
こんな風に、コンクリートをちょっと掘って、草を植えたっていい。
この方が目に優しいし、今盛んにいわれている環境にだって優しい。

こんな駐車場の造り方見たことがない。
「駐車スペースの白線を緑の植物にする」
ほんのちょっとしたとだが、もっと広まって欲しい方式だ。

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2009年6月15日 (月)

違法繋留とかなわ

平和大橋のすぐ脇、元安川にボードデッキが浮かんでいたボードデッキが先日撤去された。
ボードデッキに繋がれていたモーターボートはまだ残っているが、随分とすっきりした。
ビフォァー&アフターではないが、その違いに驚く。

この平和大橋の脇には近々新しい歩道橋が作られることが決まっている。
そうしたことが切っ掛けになって、撤去されたのだろうが、こんなにもすっきりした景観になるとは思わなかった。

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国交省は大田川に浮かぶ違法係留のボートを近年精力的に撤去してきた。
今回の工事もその一環なのだろう。
戦後のどさくさのなかで置かれるようになったこうしたことは既得権化しているボートを撤去するのは大変だったろうと察せられる。

隣にうかぶ牡蠣船の「かなわ」も厳密にいえば違法営業だろうと思う。
船ならきちんとエンジンを備え、船長もいなければいけないはずだが、そんな気配はない。
建築物であれば、そもそも河川には許可されるはずはないし、廊下幅、スプリンクラー等についても、いわゆる建築基準法の許可を得ているとは思えない。

しかしこの牡蠣船はいまではすっかり広島の名所となっている。
それをすげなく撤去するにはちょっと惜しい。
なんとか法的にも適った形にし、残す工夫もすべきだろう。
また、それならそれで世界に誇れるようなきちんとしたデザインの船?を作ったらいい。

元安橋のたもとにオープンカフェができて、周辺に賑わいが生まれた。
ここを基地とするクルージング船のお客も増えたように思う。

この牡蠣船のかなわの陸上部分にもオープンカフェがあってもいいだろうと思う。
牡蠣船とオープンカフェのデザインを歩道橋のデザインのように世界的なコンペにしたらいい。

そのオープンカフェと牡蠣船が一体になってデザインされ、さらにそこに新しく作られる歩道橋が加われば、広島のイメージもまた一新するだろうと思う。

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2009年6月14日 (日)

タイピンになる音楽プレーヤー

私が若い頃、ソニーのウォークマンといえば携帯音楽プレーヤーの代名詞でした。しかし、今はアップル社のiPod(アイポッド)に、その座を奪われています。

その最も小さな機種である、iPod shuffleは既に第三世代になりますが、私はこの音楽プレーヤーをタイピンとしても使っています。そのくらい小さいのです。

昔、アップルのタイピンがありましたが、iPod shuffleはタイピンサイズです。表面には何もないので、裏側のクリップを表にしてアップルのロゴを見せます。

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同じくアップル社の携帯電話であるiPhoneは見知らぬ女子大生など「若い女性」との会話のきっかけになりましたが、残念ながらタイピンにしているiPod shuffleに気づいて、話しかけてくるのは、今のところ年配のオジサンばかりです。

まぁネクタイをするのも年に数える程しかありませんが、便利ではあります。

それほど小さな音楽プレーヤーですが、標準で14ヶ国語をしゃべります。目が見えなくても選曲できる優れものです。

 2009年6月25日記 工場長

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2009年6月13日 (土)

オバマジョリティー!

You have the power. You have the responsibility.
And we are the Obamajority.
Together we can do it. Yes, we can!

国連本部で行われたNPT(核拡散防止条約)の準備委員会で、秋葉広島市長はオバマジョリティ(オバマ大統領+多数派)という造語を使い、オバマ大統領の核廃絶の決意表明を高く評価し、世界の大多数が支持し、世界市長会議が掲げる核兵器廃絶を2020年までに達成するという目標が実現できない理由はないと“2020ビジョン”の実現を訴えました。

各ブログでも随分評価されています。
http://ameblo.jp/katie-the-black-angel/entry-10256116662.html
http://ameblo.jp/johko24/entry-10256074767.html
http://ameblo.jp/siobijin/entry-10256724638.html

広島市のホームページでは
秋葉市長による「NPT再検討会議準備委員会NGOセッション」でのスピーチ(13分)と全文のテキスト(英語・日本語)が掲載されています。

秋葉市長のポッドキャスト
http://www.city.hiroshima.jp/riyou/pod/podcastmayor.html

NPT再検討会議準備委員会等への出席について(帰国報告)
http://www.city.hiroshima.jp/www/contents/1210227898947/files/shiryou1.pdf

更に広島市ではオバマジョリティ・キャンペーンを行うという発表がありました。
http://www.city.hiroshima.jp/www/contents/0000000000000/1244613195105/index.html
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2009年6月12日 (金)

目指せ、脱MSソフト

石川県職員、PCソフト550本違法コピーして業務に使用たというニュースがありました。

日本・中国・韓国で「脱マイクロソフト」を目指し、共同宣言を出してから、既に6年が経とうとしています。しかし、行政からのメールに添付された書類は未だにOpen OfficeでもなければPDFでもなく、MS-WORDの書類ということも少なくありません。

ヨーロッパの政府系機関ではマイクロソフト社製のソフトの使用を禁止しているところもありました。

ある程度の規模の自治体なら、MS-OfficeをOpen Officeに替えるだけで、億単位の経費削減ができるはずです。

 2009年05月24日記 工場長

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2009年6月11日 (木)

テレビに出る専門家達

何か特別な事故や事態になった時、それらのことに対して「専門家」と称する人達がコメンテーターやゲストとしてテレビに出てきます。

中には「へぇ〜、そんな肩書きがあったのだ」とか聞いたこともないような肩書きや、いかにも公的な組織の名前が出てくることもあります。

しかし、記者会見ではなく、ゲストでアチコチのテレビ局に出ている「専門家」は要注意です。

そもそも、ある分野について緊急事態が起きている時に、その分野の専門家がテレビ局を回っているような暇があるでしょうか。

特に最初は、いかにもそれらしい肩書きが付いていたのに、いつの間にか「○○に詳しい専門家」とか、例えば医療分野で「医学博士」という肩書きになった人は疑いましょう。

医学博士という肩書きは単に医師ということですから、特定の分野に詳しいとは言えません。途中で、それらしい肩書きが変わったということは、その肩書きを使うことに問題があったことを示します。

医学博士とか「○○に詳しい専門家」なんて、他に公的な専門家としての肩書きがないという証拠そのものです。

そういう自称「専門家」の言うことには、当然間違った情報が含まれます。

もちろん、まともな専門家であっても、編集で、まるで違う趣旨になってしまうことも日常茶飯事です。
情報が溢れているだけに、正しい判断力を求められる時代です。

 2009年05月23日記 工場長

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2009年6月 9日 (火)

もてるヒロシマの悩み

世界中から何トンものラブレターをもらうという贅沢な悩みです。

この何年か、広島では、ヒロシマに対して世界中から送られてくる何トンもの折り鶴(千羽鶴)の扱いが問題になっています。

これに非常に政治的な思惑も絡みあり、簡単ではないのですが、自分のことを想い編んでくれた手編みのセーターを、気持ちだけ受け取って、セーターはゴミとして処理していいものか、世界中から何トンものラブレターをもらう大もてヒロシマの贅沢な悩みというわけです。

以下、新聞投稿からの引用です。

 旧広島市民球場に折り鶴が展示されているが、それを見た他県の主婦が、その量に感動したという記事を読んだ。それを読んで、改めて広島市民は折り鶴に込められた思いに鈍感になっているのではないかという思いに駆られた。
 私の妻は山間部で育ったために、結婚当初は自宅から海が見えることに感動していた。地元の人は中心部のホテルの高層階から見える夜景に魅力を感じるようだが、東京などの大都市から来た人にとっては広島の中途半端な夜景より、瀬戸内海の見えるホテルに遙かに感動する。
 私の妻も子ども達も折り鶴は話をしながらでも無意識に折れるものだ。それ程身近なものだから、他の国や地方の人が折り鶴に込める気持ちに鈍感になっているのではないだろうか。
 それに年配の方は、以前の雨ざらしになり日焼けした折り鶴を想像していないだろうか。ケースの中に入っただけでも印象は随分違ってきている。
 市民はもう一度、旧市民球場に展示されている折り鶴を見て、素直な気持ちで折り鶴に込められた心を感じてみてはどうだろうか。

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2009年6月 8日 (月)

李さん・傘寿の祝

 朝鮮人被爆者協議会の会長として長年にわたって在日と北朝鮮在住の被爆者の援護救済に取り組む李実根さんの80歳・傘寿を祝う会を古い有人たちが集まって開いた。
 日曜日の夜、李さんの娘夫婦が営むそばの店“しらかわ”に20人が集った。

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 参加した人は被爆者救援や反核平和運動や取材を通じて李さんと知り合い、20年、30年と今も続く学者、宗教家や医師に映画関係、記者OBで「意見は厳しいが、一貫して軸がぶれない…」と言うのが共通の李さん評で、長く続く基だ。 
 李さんは山口県で生まれ朝鮮植民地政策の中で在日二世の軍国少年として育ち、当時では異例の旧制中学に入る。しかし、いじめと差別に会って中退して神戸にコメを運んで売っていた。あの日は神戸からの帰路、灰燼に帰したヒロシマを歩いて通り入市被爆した。
 
 戦後は中国地方を拠点に在日朝鮮人として政治活動に没頭し、朝鮮戦争に反対するビラ播きを理由に逮捕され、様々な罪を被せられた政治犯として獄中生活を余儀なくされ後に、
獄中からの逃亡…など波瀾万丈の半生を歩む。
 
 朝鮮総連を支える商工会の委員長として力を発揮するが、総連から疎んじられる存在として目をつけられ…商工会から身を引いた。“焼肉イムジン” をベースに被爆者問題に没頭する…。イムジンは平和問題に取り組む広島の学者や研究者に平和活動家のたまり場的場所になり、若い取材者たちも多く出入りするようになった。’78年(昭和54年)に在日の朝鮮人被爆者の実情をルポした「白いチョゴリの被爆者」は30人近い記者たちが、自分の仕事の合間に寄ってたかって取り組んだ、お世話にんった李さんへのお返し気持だった。

 李さんが朝鮮人被爆者協議会を結成したのは被爆30周年の’75年(昭和50年)だった。当時の北朝鮮本国は在日の朝鮮総連を通じて「被爆者はいない」と公言し、李さん達の活動を認めようとしなかった…経緯がある。今考えると、北の大使館的な存在でもある総連が李さんを疎んじたのは『国交回復がされず、平和条約の協議もされない段階で“被爆者問題だけを先走りさせられない”…』と言うのが本音だったのではないかと推測できる…。

 李さんの辛い思いの中でも拉致問題は心が痛い。しかし、一貫しているのは日本の政治家や国民に考えて欲しいと言い続けていることがある。朝鮮人が日本と言う異国で、自ら戦争をはじめた訳でもない無いのに、なぜ何万人もが被爆しなければ成らなかったのか。
 日本による朝鮮の植民地支配が無ければ、広島・長崎で多くの朝鮮人が被爆することは無かった。朝鮮人の被爆は日本の朝鮮に対する侵略、植民地支配に起因している…ことを日本人の多くが忘れてる…。

 拉致は万死に値する罪悪だ。しかし、このことを言うのであれば、過去の植民地支配はそれ以上に大きな問題であるから、日本としてはその清算をしなければ成らないのではないか。日本が過去に朝鮮に対して犯した犯罪に蓋をしたまま、拉致だけの解決を強調することは、日朝間の真の問題解決になるだろうか…と、声高ではないが一貫して『日朝平和条約をベースに同時解決』を提起している。

 無理難題を吹っ掛けてくる北朝鮮戦略のように見える北の対日対応も、日朝の歴史を振り返ってみれば、少なくとも責めて“小泉提案・日朝ピョンヤン宣言”まで立ち戻って解決を試みるのが、歴史に逆らわない解決順序と思うのは私だけではない。
 胸に青バッジの代議士たちの歴史認識と拉致家族に対するお為ごかしのポーズ?を打ち砕く必要があるのではないだろうか…。

 この日、李さんは隣に座った奥様を含めて参加者に「友人知人・人に恵まれた半生だった」と感謝した。
 李さんの息子さんの配慮でつくられたお土産の焼酎ボトルのラベルには『価値ある生き方を…』の署名があった。
 李さんが半生を振り返って“李さんの80歳・傘寿を結ぶ”言葉なのだ。

 次は88歳の米寿、90歳の卆寿、99歳の白寿、百歳の百寿(ももじゅ)紀寿、120歳を2度目の還暦で大還暦と言うそうだ。

 李さんは米寿も卆寿も白寿すら大丈夫な気がするお元気さだ。
 李さんの頭脳は老いてますます冴えている。まだまだ未解決問題は多く、ご健康でさらなるご活躍を祈念して、また次のお祝い会を期待する。

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2009年6月 7日 (日)

在韓被爆者・郭貴勲③

 日本の軍人として被爆し、腕や胸、下腹のケロイドに苦しめられて来た郭貴勲さんは「出国と同時に被爆者の権利が失権」の扱いは納得できず、日本人と同じ権利を認めるべきと考えて’98年10月日本政府と大阪府を相手に裁判を起こした。
 韓国人被爆者救済の道としては、被爆者手帳を韓国に居ても使える事が最善と考えた。

 ‘01年6月一審で’02年12月には大阪高裁で「日本にいても海外にいても被爆者は被爆者…」の判決を引き出し、国に上告を断念させて『被爆者はどこにいても被爆者』を確定させた。日本政府は’03年3月から、いったん日本にきた在外被爆者には日本の被爆者と同じ様に援護する事を決めた。これで、韓国をはじめ米国やブラジルなどの海外に在住する被爆者にようやく光が当たるようになった。

 この間、韓国政府は韓日平和条約で被爆者補償問題も包括的に解決したにも関わらず、全く医療や援護も無く見捨てられた存在だった。’91年、日本政府は「人道的見地」から40億円を、拠出した在韓被爆者への支援金で韓国政府も初めて一部診療費を負担するようになったが、数年後には基金が底を突き運営が困難になる事が見えていた。
 日本政府はこれを補償金としていれば決着していたことになる?が、支援金で補償金ではないと言ってきた。従って、基金が無くなれば今後も日本政府に当然要求していく…運びになる。同時に韓国政府に対しても引き続いて支援するように要求を続ける。

 一方、郭さんの勝訴確定で、以後ブラジル、アメリカ、韓国と在外被爆者の「帰国で打ち切られた手当請求や手帳の取得訴訟」は次々に勝訴し続けた。国は’03年に「日本を離れても手当てを打ち切らない」方針を固めた他、’08年から在外被爆者が日本に来なくても被爆者手帳が取得できるようにするなど郭勝訴は在外被爆者援護の前進に大きく貢献した。

 郭さんは裁判を通じて米国の原爆投下自体は人道的に許されることではなく国際法違反を強く訴えてきたが、韓国ではいまだに「原爆投下は戦争終結と韓国の解放を早めた…」と原爆投下を肯定する認識が多くある…と言う。
 また、在外被爆者対策は前進したとは言えまだ日本と同じではなく医療費の助成の上限や認定申請に格差が残されている…課題を指摘した。
 
 郭さんは大きな被害を被った広島で多くの人達の支えでここまで辿ってきた。恩人の多いい広島には足を向けて寝た事はないとヒロシマへの感謝の気持をあらわした。
 来年は日本の植民地化から百年目を迎えるのを機会に、改めて韓国と在外被爆者救援が日本の被爆者と同じ扱いになる事を目指した“課題”に余生をかける構えだ。  <完>

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2009年6月 6日 (土)

在韓被爆者・郭貴勲さん(2)

 8月15日、祖国解放の日が巡ってきて、祖国へ向かって駆け出したい衝動を抑える事が出来ず踊りまわった…そうだ。
 8月25日には大野の陸軍病院分院を退院し原隊へ復帰した。9月2日部隊は解散されたが、米軍が落とした“新型爆弾”が原子爆弾である事は解散直前まで知らなかった。

 郭さんが「大韓独立万歳」に迎えられて祖国に帰ったのは、徴兵から丁度一年目の9月7日だった。

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 帰国後も火傷の後から膿が出続ける状態だった。火傷の跡は2~3年後、ケロイドとなって上半身に
残っている。ケロイドの為に海水浴やプールに行く事は全く無くなった。しかし、ケロイド以外には、
大病に見舞われることもなく教師の道を励んだ。

 この間、’50年から3年間朝鮮戦争が起き、帰国した広島・長崎の被爆者の多く、三分の一は巻き添えで亡くなり、生き残りは7~8000人ではなかったかと私は推測している。
 ‘65年に韓日国交正常化を迎え、原爆にあいながらも幸いに元気で過ごせ、’67年2月に戦後初めて気がかりだった広島へ来た。そこで初めて原爆被害の実態と日本の被爆者運動の様子、原爆医療法で被爆者の無料治療を知り、被爆者や記者に多くの指導を受けた。

 これを契機に帰国後早速「韓国原爆被害者援護協会」を創った。被爆者の把握に奔走したがなかなか掴めなかった。被爆者と知れると色々な被害を受ける恐れがあった上、何の援護も治療などのプラスが無い協会に、容易に名乗ってくれなかった。名乗った被爆者の多くは住む家食べる物もなく、病気治療など出来ないまま多くが亡くなって行った。

 韓国被爆者は日本が朝鮮を侵略した結果で、韓国被爆者はまず日本政府から補償を受けるのが当然だと考え、日本政府に補償を要求し続けた。
 '70年、被爆者の孫振斗さんが在韓被爆者の権利と治療を求めて密航し、被爆者手帳の交付を求めて裁判を起こした。’78年に最高裁でも勝訴して被爆者の権利が認められた。
 日本政府が主張してきた「韓日基本条約で解決済み」が完全に覆され『密航者である外国人でも被爆しておれば治療し手当を支払う』という韓国被爆者の権利が認められた。

 ‘74年7月当時の辛泳洙会長が東京都に手帳申請して交付されたが、郭さんは'98年5月に大阪の病院に入院し手帳に2月の健康管理手当を受けた。しかし、帰国にあたって「手帳も手当ても失権」を通知され、新しい自分の闘いを覚悟する…。  <続く>

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2009年6月 5日 (金)

在韓被爆者・郭貴勲さん(1)

 「被爆者はどこに居ても被爆者」と言う言葉を大阪高裁の判決で引き出した韓国人・被爆者郭貴勲さんの歩んできた歴史・半生を聞く会が開かれた。
 
 ‘67年に韓国原爆被害者協会を設立以来、副会長や会長として在韓被爆者の権利を獲得する為に尽力されてきた郭さんは今年84歳。血色もよく年齢より遥かに若々しく、通訳を介しないで一時間余りにわたって日本語で半生を振り返り、まだ多くの課題があると今後も在韓被爆者の為に働く決意と日本の平和友好団体との連携を強調された。

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 郭さんは小学校に入学した時から日本語を学ばされ、創始改名で「松山忠弘」の日本名にされ皇民化教育で日本人に仕立てられた。全州師範学校に入学したが差別やいじめに遭いながら、’44年4年生で20歳の時、朝鮮人徴兵第一期生として日本軍に徴兵され広島に連行された。’45年3月に幹部候補生となって中国第104部隊に配属され表面的には模範的な立派な日本軍人になった。しかし、心の中はいつも不平で満ち“朝鮮独立の為に何かしなければ”と言う心持ちだった…。

 8月6日の朝、白島の工兵隊から作業に出発する時、上空にB29が現れ、北に方向を転換する瞬間、銀色の機体が朝日にキラリと光るのを見た瞬間、黄燐弾のような巨大な火の玉が天と地の間を覆った。「アツ、熱い」と感じ、同時に「もうだめだ」との思いが走った。
 一方、「死んでたまるか。生き延びねば」と走り続け防空壕へ逃げ込んだ。背中に火傷を負いながら、隊内のあちこちに転がる死体を避けて工兵橋を渡って、黒い大粒の雨の中を歩き回った後、工兵隊に戻った。市内は未だ大火に包まれておらず不気味に静まり返っていた。市民や兵隊が避難して来た。乾パン2袋の配給を受けて双葉山に避難し、農家で失敬した藁を敷いて腹ばいになって休んだ。
 翌7日、東練兵場に呉から海軍の救護班が来ると聞いて行った。そこではこの世のものと思えない悲惨な光景を見た。丸3日間、何千何万人が苦しみ死んで行く人間地獄を見た。
 9日汽車で、佐伯郡大野町の国民学校に設置された陸軍病院分院に収容され、3日間も昏睡状態が続いた。多くの収容者が死んで行った。
 15日玉音放送を聞いたが、何のことか全くわからなかった。しかし、「戦争が終わった」と聞いて胸が熱くなり涙を流し、祖国に向かって駆け出したい衝動に駆られた。<続く>

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2009年6月 4日 (木)

突然の交通規制?お粗末な県警の対応

 5月14日の午後3時過ぎ、NHK周辺の信号が規制され、写真のような状況が生まれた。

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<写真正面は白神神社:14日PM3時20分前後>    前後小一時間の規制だったようだ。
 普段より1時間早い平和公園の散歩中、慰霊碑周辺を取り巻く取材陣の多さに気づいた。たまたま出会った知り合いの記者に教えてもらった。国賓として来日中のシンガポールのナーザン大統領の原爆慰霊碑参拝に伴う規制だった。

 3時過ぎ、平和大通りから平和大橋を渡ってNHK前の交差点を目指していたが、東西の通行が出来る緑信号が変わらず、車は走っているが歩行者信号は赤のままで変わらない。

 紙屋町と鷹野橋を結ぶR54は写真左のようにまるで正月の朝のように、全く車のいない異常な風景となった。3時20分前後にパトカーが先導した大統領御一行の車列10台前後が通過した。しかし、しばらく信号は変わらない。
 誰かが大声で「まだ通れないのか」といっている。制服警官が走り寄って何か説明している。自転車の人があちこちで信号を無視して渡る姿が見受けられた。
 随所に立っている警官が敢えて制止する様子も見えない。
 私が見た、この間30分。「誰が通行するか、なぜ規制をしているか」沿道で待ちつくす通行者に何の説明もないままで経過した。警官に「何故、この規制の理由を広報車で街頭宣伝しないの?」と尋ねたが「すみまえん」としか返事が返らなかった。

 国賓の通行となれば当然の対応で県警の手落ちは無い…と思いたいが、広報車を走らせて沿道通行の人達の理解と協力を求める事は当然されるべきだ。
 中電本社裏通りは20台以上の車が表通りへ出る為数珠つなぎになっていた。
 事前にTVやR、新聞などの予告PRには触れていない。まして広報車も見ていない…。
 「そこのけそこのけ国賓が通る」では国賓に対しても失礼な扱いになるだけでなく、国賓の立場から見れば、迎える広島市民の対応にも疑問を持ちかねない出来事ではないか。
 平日の午後、突然出くわした規制に戸惑った市民の気持ちを考えて、敢えて言う。
県警本部長殿!  手を振って“歓迎”を…とは言わないが、心ある対応を!!<16日記> 

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2009年6月 3日 (水)

アクセス数20万件!

「タウンNEWS平和大通り」を広島ブログに友人数人と一緒に書くようになってほぼ2年が過ぎた。
アクセス件数は、累計で20万件を越えようとしている。
恐ろしい数だ。

この「タウンNEWS平和大通り」の文章は、同時にメルマガ「まぐまぐ」にも載せている。
メルマガの方の読者は、減ることもあるが、少しずつ増え、今では140人を越えた。
毎日送ってくださいと申しこまれた方が140人以上もいるのだ。
それに加えてクリックしてときどき見るというアクセス数はその数倍にはなるはずだ。
そのアクセス数がどのくらいになるのか正確にはわからないが、行政、政治、地域情報・中国というカテゴリーではアクセスランキングのトップ10には常時入っているから、相当な数であることは確かだ。

広島ブログのポイントは70前後と低いが、毎日のアクセス数は大体300~400件になっている。
まぐまぐと広島ブログの両者合わせて、私たちのこのブログを読んでくださる方は、毎日500名以上にはなるとみていいいようだ。
そう考えたら、なにか恐ろしくなってきた。

世の中には1日に数万件のアクセスがあるというブログもある。
私からすればまったく信じられない数字だ。

色々な企業がホームページを作っているが、毎日500件以上のアクセス数があるというのはそうはない。
それと比べたら、凄い数字だというのがわかる。
ブログは毎日なにか新しいことが書かれているということと、内容がかなり個人的な感情が表現されているから、親しみを感じるということもあって、読んでくださるということのようだ。

それはそれで凄いことだが、私たちの数人で書いた自分の思い、考えを、こうして人に伝えることができるようになったということ、そしてそれを毎日500人位の方読んでくださるということには本当に驚く。

印刷物のように、出版するための費用がまったくかかっていないというのも凄いことだ。

ちょっと前までは、普通の人にとっては新聞への投稿とかしか、表現の場がなかった。
それをおもえば、とんでもない時代になったもんだ。

ブログ、メルマガに書けば、いろんな人からの書き込みがある。
好意的なのもあれば、誹謗、中傷としか言いようのないのもある。

しかし即反応があるというのは凄い。

インターネット社会の恐ろしさを改めて感じる。

しかし何はともあれこれまでこのブログを読んでくださっている方に、ここで改めて感謝したい。
どうもありがとうございました。
これからもどうぞよろしくお願いいたします。

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2009年6月 2日 (火)

ホテルJALシティ脇の通路

京橋川の上幟町地区の堰堤の上、栄橋、東柳橋の間は東部河岸緑地として整備されている。
今は新緑が美しい。
ホテルJALシティ等いくつかのの建物の1階は、この堰堤の緑地公園に面してオープンカフェが作られたりしている。
金網のフェンスで仕切られているところもあるが、それに比べてこのオープンカフェの雰囲気はなかなかいい。

こうした試みも広島ならではのことだが、この地域に建っている建物やマンションでは、その建物の中を、或いは脇を通って、川の堰堤から道路に出られるような細い道が設けられている。
ちょっと狭く、暗いが、途中にはトイレが設けられたりしている。
ちょっと解り難く、まあ知る人ぞ知る道だ。

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公開空地の拡大解釈でできたのだろうが、都市計画的には随分と革新的な試みだ。
広島市も凄いことをやる。
実現するまでには相当の苦労があっただろうと察せられる。

川に接したこの地区が、100M以上と長い区画になっているため堰堤から道路に出ようとすると、かなり回り道をしなければいけないということもあって、設けられたようだ。

それだけではなく、堰堤の川と緑の雰囲気を、建物の西側の街にまで広げようという意図もあったように感じられる。

しかし、こんなところにそんな道があるとは、思わないし、普通に通りがかっただけではわからない。
関係者以外通ってはいけないような雰囲気でもある。
勿体ない。

もうちょっと誰にでも解るような出入口になっていれば、自ずと使う人も増えるだろうし、そうなればそれなりの雰囲気も出てくるだろうと思う。

京橋川のオープンカフェと一体になった運用がされれば、もっと京橋川の河岸が楽しくなることも期待される。

市民のみんなにもっと利用して欲しい道であることは確かだ。

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2009年6月 1日 (月)

地方分権と同時速記

先日アステールプラザで東京都副知事猪瀬直樹氏の「地方分権について」というテーマで講演会があった。

分権というが、地方に分ける権力とは何かという話から始まった。
「要するにそれは、税を徴収する権利だ。
現在は税の3割を地方、国が7割徴収している。
しかし使っているのは、逆に国が3割、地方が7割だ。
その差4割のお金の使い方の権限を国がもっているから、地方は国にお願いしてその4割をいただこうとする。
だからどうしても卑屈になってしまう。
その使い道が必ずしも地方にとって好ましいことでなくとも、4割のお金をくれるならもらった方がいいやということでもらう。
その結果、後で、3割の負担が重くのしかかってくることになってしまう。
その最悪のケースが夕張市だ。
広島市はそうした夕張市的状態に陥る危機的状況にあったが、秋葉市長の手腕で何とか乗り切った。

もう一つ国のお金の使い方については縦割り行政による問題がある。
少子高齢化社会になって子供の数が減り、小学校が要らなくなったからと言って、それを老人施設や、働く母親のために、保育園にすることは極めて難しい。
というのは、小学校は文科省の所管であり、老人施設、保育園は厚労省の所管だから、適用される法律も規則も違うので、そう簡単には転用できない。
用途内容変更では予算を付けるというのはきわめて難しい。
そもそも最初から予算の7割を地方に任せておけば、こうしたことにも容易に対応できる。
夕張市のようなことは起こらなかったはずだ。

日本の総理大臣は平均して1年3カ月で替っている。
そんな政権を官僚はなめている。
官僚主権の国になってしまっている。
今の世の中に必要なのは感性だ。
官にはそれがない。
市民に政治を取り戻すためには、地方分権はなんとしても推進しなければいけない。」
というのが話の趣旨だったように思う。

話しの内容はいつものように、同時手話で伝えていたが、驚いたのは、その脇のスクリーンに文字で話の内容が即書かれていったことだ。
1字1字が人の顔くらい大きいから、かなり遠くからでも見える。
老眼でもみえる。
ところどころおかしな言葉、表現のところもあったが、それにしてもこれは便利だ。
耳が聞こえる私でも、ときどき見て、話の内容を確認することがあった。
TVでも画面の下に文字が書かれる番組がよくある。
TVなら、後の編集の過程で文字を書き込むことは容易いことだろうが、原稿なしの講演会では話がどう展開していくかわからないはずだから、話の内容を理解して、それを打ち込むというのはそれなりの技術が必要だろうと思う。
考えてみれば、英語の同時通訳の人、国会の速記者はそうしたことに対応してきたわけだ。

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まあそれにしても、ITの技術の進歩の速さに驚く。
便利な世界になったもんだ。
技術はどんどん進歩するが、地方分権という基本的問題はなかなか進まない。

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