追悼・佐伯亨さん
突然に、RCCの夕方ワイドニュースの初代キャスター佐伯亨さんの訃報に愕然とした。
あの人か…とご記憶の方も多いと思う。
今では当たり前のニュースのワイド化は昭和30年代後半から始まった。
言論機関としてのテレビのスタートを担ったのは新聞や通信社のベテラン記者だった。
TBS系(JNN―ジャパン・ニュ‐ス・ネットワーク)が共同通信の田英夫記者をキャスタ―に迎えて、昭和37年10月1日にスタートさせた「JNN・ニュースコープ」(月~金18時30~19時、後に朝日新聞の入江徳郎、毎日新聞の古谷綱雅氏も参加))への登場が皮切りだった。
RCCが夕方18時~30分の「RCCニュース6」をスタートさせたのは昭和51年3月29日だった。それまでのローカル・ニュースは朝、昼、夜の全国ネット・ニュースの末尾の2~3分と夕方の5分枠(実質3分45秒?前後)が定版だった。
民放がテレビの放送開始したのが昭和33年。「ニュースコープ」が安定・定着し、ローカル局の役割が問われ始めた時期にあった。
青森放送が昭和46年に全国の民放のトップを切って夕方ローカル・ワイドニュースをスタートさせたが、その後の後続がなく推移していた。
RCC夕方ワイドニュースの初代キャスターをアナウンサーでなく取材記者を据えて発足したのは全国で初めての試みだった。
その初代キャスターが佐伯亨さんだった。
RCCのテレビが開局した34年に入社し、警察いわゆる“察まわり”や裁判所を担当する司法記者をへた筋金入りの社会部記者で、多くの特ダネをものにしたつわものだった。
三度目の最高裁判決で無罪を勝ち取った「八海事件」で当時としては異例の2時間特番を全国ネットするなど『裁判制度についての報道』で民放祭の連盟会長賞を受賞した。
当初、署まわりだった私にとっては“記者職に留まらず万事、師匠”で多くの薫陶を得た。
刑事宅などの夜討ちを終えて深夜に帰社すると、『その日の内に纏めよう』が口癖の佐伯さんが待っていた。
その後、東京支社時代の国会まわりや東京での地元ネタ探しなど思い出は尽きない。
酒は消して強くはなかったがデカ達との付き合いで腕をあげ、よく付き合った。
若い時からパイプでの喫煙が趣味で、特にキャスターになってからはストレス解消のために離せないパイプが似合うスモーカーかった。
得意な英語活かして外人と直に対話・インタビューし、国連特別総会時には自ら取材に出かけ、特番を組むなどローカルながら筑紫哲也に引けを取らない活躍で一時代を築いた。
性格は温厚で後輩の面倒見は良く、配慮に気遣いすると「後輩に…」とたしなめられた。
地味を活かした洋服やシャツにネクタイなどにもおしゃれ感覚が身について溢れ、いい男振りで結構若い女性社員を始め夜の街でも人気が高かった。
キャスターとして11年余。その後、局長や役員を経て多くの功績を積み上げられたが、放送局の表看板を張った当時のストレスが病の尾をひたのだろうか。
語りつくせぬ思い出が沢山ある佐伯さんから『喉頭癌』告白されたのは6年前?
東洋医学専門の医師を紹介したりして徐々に改善されている…と聞いていた。
同病になって入院中の大学病院で追跡検診などの佐伯さんに時折出会っていた。
1年前にお会いして以来、久しくご無沙汰している内に「東京の病院で治療中」との情報を聞いていたが、夏に帰広し大学病医院で入院中の今週初めに亡くなった…ようだ。
発病以来、旧友や知人との交流も敢えて避けてこられたが、最後のお別れをすることも出来なかったのは残念だった。
72歳。駆け出し記者時代以来、人生の師匠でもあった。
あまりにも若い死に自分を重ねてみた。ありがとう。
尽くせぬ思いを込めて、ご冥福を祈るばかりだ。合掌。
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