広島ブログランキング

  • 広島ブログ
無料ブログはココログ

« 2008年10月 | トップページ | 2008年12月 »

2008年11月

2008年11月30日 (日)

生き残り…63年目、初めての被爆証言

 今年8月6日の広島原爆忌に、母校(広島大学附属高等学校)の同窓会の要請で、被爆体験の話をしました。これまで私は、一度もヒロシマを語ったことはありませんでした。でも、明治時代に建てられた古い校舎の最後の日に居合わせた者として、その模様を語ってほしいと頼まれました。
 これまで私が語らなかったのは、2つの理由からです。1つは「思い出したくない」からです。もう1つは「語る資格がない」と思っていたからです。
 たしかに私は、母校が旧制中学校であった時、4年生として校舎の中で原爆に遭いました。しかし、命が助かるとすぐに郊外へ逃れることができました。広島には係累がほとんどいなかったからです。
 ところが地元生え抜きの市民は、自分が助かった後も、行方不明の肉親を求めて、市街地の焼け跡を何日も歩き回りました。その苦労を体験した人こそ、ヒロシマを語るべきである、自分にはその資格がない、と考えていました。
 ただ、原爆をめぐって、伝えたいことがないわけではありません。それは、人間の煩悩ということでした。それは、いかなる煩悩なのか。
 広島県立広島第一高等女学校(広島県女、現在の広島皆実高等学校)の1年生は、ほかの中学校や女学校の1年生ともども、家屋疎開作業に動員されて被爆、多数の犠牲者を出しました。しかし、当日欠席して、死をまぬがれた生徒もありました。娘を失った親たちは、生き残った生徒がいたことに、割り切れぬ思いを抱きました。
 助かった生徒は生徒で、まわりから「生き残り」と呼ばれ、つらい気持ちで戦後を過ごしてきました。私の妻もその1人でした。
 助かった生徒が級友を死なせたわけではないのに、親たちはなんとなく認めがたいものを感じたのでしょう。生き残った側も、親たちと交流するのがはばかられます。人間の煩悩というほかはありません。
 母校で営まれる慰霊祭でも、三十三回忌の頃までは、互いの対話がないままに過ぎました。しかし14年前の五十回忌になると、90代を迎えた親たちに変化が起こりました。親たちの方から生存者に向かい「あなた方は、亡くなった娘の分まで生きて、幸せになって下さい」という言葉が出たのです。その言葉が出るまでに、50年が必要だったということになります。
 さて、私たちの母校のことに移ります。当時私たちは、校内に特設された「科学学級」で学んでいました。大部分の同級生は戦時中の勤労動員で校外にいましたから、学校に残っていたのは、科学学級の26人だけです。
 閃光とともに、古い木造校舎はひとたまりもなく崩れました。二階の教室にいた私たちは、材木の間から次々に這い出しました。ところがただ1人、加藤君という級友が梁の下敷きになって即死したのです。級友たちは加藤君を掘り出し、遺体を防空壕に安置してから逃れました。やがて火の手が迫り、校舎は焼失しました。
 26人いて、25人まで助かり、ただ1人即死した加藤君。遺族としては、たまらない思いだったことでしょう。ところが加藤君のお父さんは、一言も恨みごとを言いませんでした。「原爆の犠牲者で、行方も知れない人が多いのに、うちの息子は級友の皆さんによって掘り出していただいた。有り難いことだ」と、むしろ感謝の言葉を述べられたそうです。そして戦後、私たちが授業を再開する時には、その資金として多額の寄付をして下さったと聞きました。
 そのことを私は、同窓会の席で感謝をこめて話しました。
 私の拙い話は、DVDに収められていました。そのDVDを見たいという人がありました。知人の、早稲田大学教授一家です。高校生の娘、中学生の息子と4人で見たと言い、その感想が夫人から送られてきました。同封のコピーはそのお便りの1枚目です。お許しを得て、1枚目だけをお目にかけることにしました。
 語る資格のない私が語ったヒロシマにも、なにがしかの意義があったとすれば、有り難いことだと存じます。

*お願い
この文章の下にある《広島Blog》というバナー(画像)を クリックしてください。

2008年11月29日 (土)

映画「12人の怒れる男」

 ‘57年制作で59年(昭和34)に日本でも公開されたヘンリー・ホンダ主演の「12人の怒れる男」があった。
 社会正義を謳いあげた12人の陪審員にゆだねられた<法廷ドラマの原点>として米国の映画史に残る作品と今も評価が高い。
 その後、何度か映画,舞台劇、テレビ化にされたが今、また同名のロシア映画が上映中だ。

 一日に朝10時から1回だけの上映だが結構な入場者だ。08年のアカデミー賞にノミネートされ、来年5月から日本でもスタートする裁判員制度に関心のある向きに前評判が高いようだ。上映時間は2時間40分と少し長いが、退屈さや長さは感じない。

 ヘンリー・ホンダ主演の作品は父親殺し容疑の18歳の少年を12人の陪審員が裁く米国作品が新作の舞台は現代のロシアに置き換えてリメークされている。
 被告は長年ロシアに抑圧されて来たチェチェンの少年で、ロシアの将校だった養父を殺害した疑いで殺人罪に問われている。有罪になれば一生、刑務所で暮らす運命だ。
 審理が終わって、市民から選ばれた12人の陪審員の評決が下されることになる。
 当初は証言や証拠品で短時間に有罪評決が出ると思われた。
 しかし、11人が有罪を表明するが一人だけが有罪の同意が出来ないと言いだす。

 全員一致が原則の表決は振り出しに戻って審理が繰り返される。
 再度無記名で投票の結果、無実票が2票に増える。無実を投じた陪審員はユダヤ人特有の思慮深さで考え直し、弁護士にやる気がなく疑問がわいたと語る。
 これを契機に各陪審員たちは事件を吟味し、自分の過去や経験を語りだし、次々に無罪へ傾いて行き、遂には11人が無罪を投じる。
 最後の一人は反対の理由を無罪になった少年を刑務所から掘り出せば市民にリンチされる危険が大きく「路上より刑務所の方が長生きできる」と主張する。しかし遂には「少年を無罪にして我々で守ろう」と賛成に回る…。

 決して面白い映画とは言えないが、まるで法廷に居るような気分で引きこまれ、いやが上にも人を裁く難しさと民主主義や正義が何かを考える…大人の映画だ。
 敢えて言えば未だ民主主義が板についていないロシアの現実を皮肉った作品とも思えた。
 来年5月下旬から日本でも裁判員制度がスタートする。だれがいつ裁判員に指名されるかは分からない。60人に一人は指名される可能性があると言う。
 ぜひ、鑑賞の機会を作りたい映画だった。
会員募集中:シネマクラブひろしま(広島映画センター内:082-293-1274=担当:勝田豊稔)

*お願い
この文章の下にある《広島Blog》というバナー(画像)を クリックしてください。

2008年11月28日 (金)

ライブカフェ・ジャイブ Live Café JIVE

先日、久しぶりにジャズのライブを聴いた。
ライブカフェ・ジャイブは、広島の歓楽街、流川のほぼ真ん中にある。
当日、演奏が始まったのはPM8:30からだ。
開店はPM8:00からだったが、スケジュールは日によって違う。
演奏者も毎日変わる。
食事が終わっていくにはちょうどいい時間だ
土曜日のせいかスーツを着た客は一人もいなかった。
お客の殆どの若者だ。
今時の若者が、こんなにジャズが好きだとは知らなかった。

0

客席は50席程度と、まあまあの大きさだ。
黒く塗られた天井には、黒く塗られた配管がむき出しになっている
床、壁は木造だ。
ちょっと荒んだ感じがジャズの雰囲気にぴったり合っている。

その日は、フルート、サックス、ギター、ドラム、ベースのカルテットの演奏だった。
ドラムの丸山さんは普段は三次に住んでいるといっていた。

CDで聞く洗練されたジャズとは違い、すぐ近くで、生で聞くジャズは迫力がある。
ビールを飲みながら聞くのもいい。
私の好きなフルートのボサノバも演奏された。
最高の夜だった。

女性といくにも良し、一人でいくも良しだ。
こんなシャレた店が広島にはある。

*お願い
この文章の下にある《広島Blog》というバナー(画像)を クリックしてください。

2008年11月27日 (木)

休日の家

大田川の上流、川に面して、おしゃれな建物が8棟並んで建っている。
何年かに渡って作られたのだろう。
少しずつトーンが違うが、どれも木造の小さな建物だ。

建物の前の道路はかなりせまい。
走る車はすくない。
通りすがりによる店ではない。
道を隔てた向こう側には太田川が流れている。
後ろは山。
集落からポツンと離れて建っている。

レンガの階段を上がって、の低い入口を潜ると、小さな部屋に入る。
その入口はちょっと背の高い人は頭をぶつけてしまいそうな高さだ。
天井は低く、テーブルも低い。
椅子は小さく、低い。小学校の椅子みたいな大きさだ。
全体に、茶室のような小さめの寸法で纏められている。
しかし柱にしても梁にしても、意外と太く逞しい。
この寸法のせいだろう、隣に座った人とも極自然にお喋りが始まる。
先日会った方は、写真が趣味だといっていた。
テーブルの脇には、その方の撮った写真が置かれていた。

太田川を望むテラスではサックスの演奏をしている。
こんなところでジャズが聴けるなんて思っていなかった。
お喋りもちょっと高級に感じられるからおかしい。
オーナー兼設計者だった今中敏幸氏は大変にジャズが好きだったという。

ベランダの手すりや木造のサッシが白いペンキが塗られている。
これがなかなかいい雰囲気を作り出している。
和風建築では、ペンキをつかうということはまずしない。
広島独特の茶色の瓦屋根の家もある。
蔵造りのような建物が高い柱の上にたっている。
河原からもってきたのだろう丸石が、スイスでよく見かけるような柱状につみあげられ、その積み上げられた石の中に木の柱がブスッという感じで埋め込まれている。
これも日本の建築ではあまりやらない方式だが、洪水等の際建物が流されないようにとの配慮からされたのだろうと思う。
その高床式のピロティーに置かれた椅子に座ると、なかなか気持ちがいい。
和洋の色々な方式が、今中風のデザインとして上手く纏められている。

スタバーやドトールのような都会の中のカフェとは、まったく異質の空間がここにはある。

1

建物の設計者の中敏幸氏は、5~6年近く前に、90歳で亡くなったという。
今中氏は元々仕立て屋だったそうで、いわゆる正規の建築教育は受けていなかったようだ。
設計図はなく、現場で大工に指示して作ったという。
それが却って、建築を勉強したものには作り出せない魅力的な世界を作り出している。

いい建築だ。
改めて建築の楽しさを教えられた。

*お願い
この文章の下にある《広島Blog》というバナー(画像)を クリックしてください。

2008年11月26日 (水)

ミオ バール Mio BAR motomachi

広島パセーラ前のサンクガーデンの一角に、ちょっとシャレた小さなカフェがある。
Mio BARと書いてミオ バールと読み、私のお店という意味だという。
こんなお店が、イタリアの街角にはあちこちにあるようだ。
広場の床の模様もちょっとイタリアぽい?

カウンターに面して座れるハイチェアーが7~8席、お店の外の大きな傘の下にテーブルが2つと椅子が8席の小さなお店だ。
カフェという感じでもないし、かといってレストランでもない。BARと書いてあるが、いわゆるバーでもない。
カフェとスタンドバーとレストランを合わせて、それを3で割って、ちょっとオシャレにした感じとでもいうのだろうか。
待ち合わせとか、時間つぶしとかちょっとした時に寄るにはちょうどいい。
ちょっと気分を変えてくれるニッチな空間だ。
アストラムライン県庁前駅を降り、パセーラ、グリーンアリーナに行く途中に位置する。
立地も、雰囲気もいい。

1

昼間はピツァorパスタにエスプレッソ、夜はやっぱりキャンティorカンパリがいい?

ランチタイムにはワンプレートランチがお勧めだ。
スープ、厚めのハムを挟んだ小さなフランスパン、ポテトのクリーム煮、レタスのサラダがきれいな白いお皿に載っている。
それにコーヒーが付いて850円だ。
夜は「カンパリをトニックで割って、ライムをちょっとたらして、それをシャンペングラスで飲んだらいかがですか」と、お店の女の子に勧められた。
カンパリのピンクの色が小さなグラスに映えてきれいだ。

カウンターに座り、外を通る人を眺めていると退屈しない。
お店の人と、ちょっとお喋りするのもまた楽しい。

ミオ バール Mio BAR motomachi
こんなシャレたスポットが広島にはある。

*お願い
この文章の下にある《広島Blog》というバナー(画像)を クリックしてください。

2008年11月25日 (火)

筑紫哲也さん、逝く

 最近、肺がんの闘病中ですっかりTVの画面や朝日新聞やTBSのHPの執筆からも遠のいている筑紫さんの健康状態が気懸り家族と話題にしたばかりだった。
 そんな矢先の訃報報道に驚いた。

 筑紫さんに初めてお会いしたのは‘73年(昭和48年)の8・6前のワシントンだった。
田中・ニクソンの日米首脳会談の随行記者の一人として訪米し、首脳会談後の記者会見だった。当時、筑紫さんは朝日新聞のワシントン特派員だった。
 面識はなかったが私が随行していた理由のひとつに広島・長崎のABCC(原爆傷害調査委員会)の問題があった。被爆者の治療は全くせず、データーの収集と放射能の人体に及ぼす医学的研究をして、米国の基地と同様な治外法権下にあって日本の参加問題が課題になっていた。
 
 会見の最後に私が大平外務大臣に質問した「ABCCの今後」について全く予測していなかった大手各社はほとんど無関心のようだったが、会見後私の部屋に築地さんから電話があった。「ABCC問題について少し、聞かせてほしい」との要望でお会いし食事を頂いた。

 そのことが記事に反映したかどうかの記憶はないが、それから20年後、数々の実績を残し‘89年秋TBSの「ニュース23」のメイン・キャスタ―として登場された。

 JNNニュースの会議の席でお会いすると「あの時はありがとう」と声をかけて頂いた。
まさか、ご記憶ではあるまいと思っていた私は仰天し、いろいろ話しあった記憶は鮮明だ。
 彼が活字の世界から電波の世界に移っても大きな功績を残したが、TVのメイン・キャスターと言う存在であると同時に「TBS ニュース23 編集長」と言う肩書はあまり知られていない。いかなる外圧にも屈せず自らの考えを番組の中に一本筋を通す…と言う覚悟と権限をあえて主張し取り組んだ。

 そのことは’95年オウム真理教事件でTBSのワイドショーのスタッフがオウムの幹部に坂本弁護士のインタビュー映像を視聴させ坂本弁護士一家殺害事件のきっかけになったと非難の嵐が吹いた時、筑紫さんは「23」の中で「TBSは死んだに等しい」と発言して、賛否両論を巻き起こした…。正義は揺るぎなく発言する…筑紫さんの真骨頂が発揮された。

 筑紫さんはクラシックからロックまでの音楽や美術、スポーツと幅広い知識と関心を集め高かった。特にプロ野球では西鉄が無くなった後は一貫してカープフアンを通し、オフには奥様同伴でよく市民球場に足を運ばれた。
 番組の中で来期のチーム予想をする時は、少しニヤニヤしながら「贔屓目に見てAクラス」の論陣を度々張っていた姿が忘れられない。
 来期は新球場が出来るのをきっと楽しみにされていたに違いない。

‘93年(平成5年)、中沢啓治さん原作「かっ飛ばせ!ドリーマーズ~カープ誕生物語」のアニメの映画化を前に、映画センターの牛尾社長と一緒に市民球場で観戦中の築地さんを訪ね映画に寄せるコメントの協力をお願いした。大変喜んでメッセージを寄せてくださった事もおもいだす。牛尾社長は今も大切に原稿を残している。(写真参照)

1_2

 文中にこんなくだりがある「原爆も野球もアメリカがもたらしたものである。前者は語るも忌わしい悲劇をもたらし、その焦土の中で人々が立ち上がる中で希望と夢を―特に少年達にもたれしたのが後者だった。進駐軍としてやってきたかつての敵兵たちと被占領者との間を繋いだのも野球(ベースボール)と言う共通言語であった。『かっ飛ばせ!ドリーマーズ』の物語の背景にはそういうことがあった…」熱いメッセージだ。

 そんな筑紫さんが昨年5月、番組の中で突然「ガン告白宣言」をされた。
 私は胃がんの摘出をしてちょうど1年が経過した頃で、TBSの友人を通じてお見舞いの気持ちを伝えてもらったが、今度は私が肺への転移で闘病中だけにショックを受けた。

 同じTVキャスターの鳥越俊太郎さんが「筑紫さんは日本ジャーナリズムの座標軸で、目標だった」と惜別の情を語っていた。
 73歳はまだ若い、深い付き合いがあった訳ではないが、同業の先輩として尊敬し、時に多少の関わりを頂いていただけに寂しい思いが深い。
 本当に惜しい人を失った。ご冥福を祈るばかりだ。合掌。

*お願い
この文章の下にある《広島Blog》というバナー(画像)を クリックしてください。

2008年11月24日 (月)

米国・オバマ新大統領への期待

 米国初の黒人大統領が誕生した。当確後の第一声は「民主主義を疑っている人がいるなら、今夜がその答えだ」「変革の時が来た」と勝利宣言をした。

 かつて米国大統領選挙で「核廃絶」を掲げる候補者は一人もいなかった。
 イラク戦争が長引き金融危機が高まる中で核を巡る米国内の環境に変化があった。
 昨年と今年の正月に嘗てアメリカの核戦略を構築し推進したキッシンジャー元国務長官ら政府要人らが「核抑止力を疑問視し、核廃絶を示唆する」論文を発表して、国民の支持を得る環境が生まれていた。
 米国民はオバマなら現状を変えられる…と期待した。根拠は「米国は間違った方向に進んでいる」と言う人が80%を占めていたからだ。

 オバマ氏は選挙戦を通じて「核のない世界を目指す」と公約してきた。
ブッシュ政権が拒否してきた包括的核実験禁止条約(STBT)核拡散防止条約(NPT)の批准に向けた努力をし、ブッシュ政権が意欲的だった小型核兵器の開発など新しい核兵器の開発を認めないなど核兵器廃絶の政策に掲げた。

 アメリカ国内で核廃絶の世論がどれだけ盛り上がっているのか定かではないが、昨年から米国50州とワシントンなど102ヵ所で広島市が開催中の「原爆展」には多くの理解と同情の声が寄せられ、従来のヒロシマと言えば「リメンバー・パールハーバー」の声でなくオバマ氏が言う「変革」しつつあるようだ。

 それにしてもオバマ氏の核軍縮の熱意について問われた麻生総理は「米国がいくら言ったってそんなに簡単にできる話ではない」と残念ながら冷ややかな見方をしたようだ。
「米国の核政策が好転する機会になる」と「早い時期の広島訪問」に期待を寄せる秋葉市長とは対照的だ。
 オバマ氏自身の発言の中に「この勝利だけでは変革を起こすチャンスにすぎない」と指摘し「この先の道は長くて険しい上り坂だから1年や1期の任期ではたどり着けないかもしれない」と国民に忍耐と協力を呼びかけている。まして核廃絶は容易ではない。

 世襲議員の首相が続く日本と全くの無名から登り詰めたオバマ氏。米国民は「変革」を選択したが日本では「選択の機会(選挙)」も失い閉塞感に包まれつつあるのは残念だが日本政府は核に依存しない安全保障政策を米国にどう提示するか…日本の世論が大切になって来る。その為にも“世界市長会議が提案する2020ビジョンに向かって”期待を込めて広島の声を一層強く政府と米国に届けねば…なるまい。オバマ氏へのヒロシマの期待は大きい。

*お願い
この文章の下にある《広島Blog》というバナー(画像)を クリックしてください。

2008年11月23日 (日)

危し!!自衛官の暴走

 日本の植民地化や侵略行為を正当化し旧軍隊を美化する論文で更迭された自衛隊航空幕僚長いが「政府見解に一言の反論もできないとなると北朝鮮と同じだ」と反論し辞職した。
 戦争も知らない時代に育った自衛官が、何故このような戦争賛美など歪んだ考えの持ち主になり、自衛隊のトップにいるのだろうか。驚きあきれ!震撼!!させられる事件だ。 
どうしてこんな論理を身につけるのか、闇の中の教育が改めて問われる。

 論文はホテルやマンション経営のアパグループの懸賞論文に応募し、賞金300万円の最優秀賞を受賞し、11月5日発売の同グループが発行する月刊誌に掲載の予定だった。

 当の執筆者は航空自衛隊トップの田母神俊雄航空幕僚長(60)で公表前に知った政府が31日に更迭人事を発表して明るみになった。

 「日本は侵略国家であったのか」と題した論文は『我が国は蔣介石により日中戦争に引きずり込まれた被害者』『日本はルーズベルトの仕掛けた罠にはまり、真珠湾攻撃をした』『我が国が侵略国家だったと言うのは濡れ衣だ』などと被害者論を主張している。

 この論文は過去の植民地支配や侵略に「深い反省」を表明した’95年の村山首相談話に反発する内容で、従来右翼や右派言論人が主張してきた身勝手な主張と同根のようだ。
現職幕僚長が国の見解と違う意見を外部に勝手に発表する感覚や審査員が何故最優秀作に選んだか等“出来レースではないか?”など疑問が残る。

 昭和23年生まれで朝鮮戦争による景気で反映した時期に、戦争の苦しみや悲しみを全く知らない世代が防衛大学校を経て‘71年に航空自衛隊に入った。その人間が政府見解や一般国民とかけ離れた歴史観を構築していくにはそれなりの背景と理由があろう…?

 江田島の海上自衛隊「特別警備隊」が転属する隊員に“異動のハナムケ“と称して15人が対戦する格闘技で死亡させた事件があった。脱落者対する見せしめの疑いが濃く、時津風部屋の若手力士の”可愛がり“リンチ殺人事件並みの陰湿なイジメが濃厚だ。

 自分でセットした記者会見で田母神前幕僚長は「戦後教育による『侵略国家』と言う呪縛が国民の自信を喪失させ、自衛隊の士気を低下させている」とし、現職自衛官に対しても「自分のことより国家国民の事を優先した行動をとって欲しい」と語っている。

 空幕長は航空自衛隊のトップとして陸・海幕僚長と共に制服組を統括し防衛相を補佐する立場にあり、専門能力に高い人格見識にバランスのとれた判断力が求められる。

 彼の言動は突然発生したものではあるまい。彼の言動を放置してトップに上り詰めさせや関係者の責任は大きい。

 今回は端無くも自衛官幹部の思想の一端が表面化したのであって、同様な考えや思想を持った制服組が少なくないのではなかろうか。

 知り合いに防衛大を出て既に1尉に昇進しながら「私の居場所では無い」と辞職をして、目下自分探しをしている青年がいる。彼の身に何があったかは知らないが隊内を取り巻く環境が少なからず一般では考えられない環境やイジメがあるのではなかろうか。

 自衛隊では旧日本軍の暴走の歴史がどのように教育されているのか、疑問な人は多いと思う。自衛隊が誇ってきた「文民統制」は危機状態にあるのではないか…?
 改めて、国会へ参考人招致して防衛庁の責任や政府見解を否定する責任を徹底追及し、同時に防衛大や幹部養成課程での教育課程と内容を国民にオープン出来る形で見直す必要があろう…と思う。

*お願い
この文章の下にある《広島Blog》というバナー(画像)を クリックしてください。

2008年11月22日 (土)

金剛山歌劇団

 朝鮮総連の歌劇団“今剛山”の公演を見た。
金剛山歌劇団は‘55年(昭和30年に)日本で生まれた北朝鮮が国外で認知した唯一の在日朝鮮人芸術パフォーマンス集団である。
 
 公演のテーマは「一滴の雫がせせらぎとなり山河をとうとうと流れる大河となる 輝く未来に向かう流れを もう誰も止められない 我が民族 今心をひとつに」…。
祖国の正当性と在日のより一層の団結強化を呼びかける意図が見えるが歌に舞踊や太鼓の演奏でそれらしい発言やアピールは見当たらない。

 朝鮮総連はいまだに日本と国交がない北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)の大使館?として在日朝鮮人と北の政府や団体の交流窓口として存在してきた。
 歌劇団は在日同胞を鼓舞する役割に加えて日本政府や国民へのプロパガンダ(国家方針の宣伝)戦略を帯びていたと言えよう。
 かつては日朝間の政治的問題にも言及していた時代もあった…と思うが最近は全くない。
外野で問題を起こさないと言うそれなりの配慮か?北を支持する朝鮮総連系の人たちが自国の正当性についてもあまり多くを言わないのもその表れとも思える。

 近年の日朝間は日本人拉致問題で極めて良くない関係が継続している。’02年と’04年の二度にわたる小泉首相の訪朝で日朝平壌宣言で拉致問題と日本の過去の植民地支配問題の清算で国交の正常化が盛り込まれた。
 しかし、核を巡る米国を中心にした6カ国協議の頭打ちや、拉致問題の行き違いで日本の経済制裁が強まり、一歩も前進しない膠着状態が続いている。

 横田めぐみさんを始めとする拉致被害者の救出交渉は一刻も早く進めなくてはならないが何はさて置き先ず国交正常化交渉こそが急がれるべき順序だろう。

 米朝間は’50年~’53年の朝鮮戦争の休戦状態が継続中だ。
 日朝間は1915年の日朝合併以来の植民地政策に於ける大量の強制連行(事実上の拉致)を始めとする数々の問題が’53年の南北休戦以来も、全く手付かずである。
 米国は自国の都合を優先し日本の事情は置いてきぼりにされているのが実情で、何より大切なことは小泉・金正日会談に基づく日朝国交正常化を優先しながら拉致問題も並行させる…事が重要である事は誰の目にも分かっているはずだ…が。

 胸に青いバッジをつけた麻生総理以下民主党国会議員の中にも多く、私には拉致家族に対する意識的パフォーマンスやお為ごかしで、事の本質が理解できていない人に見えるのは間違いだろうか。
 
 この歌劇団の公演に全国各地で公営会場を貸すなとか自治体に後援等を止めるようにと言う圧力が掛っていると言うが広島公演は広島市と教育委員会中国新聞・RCCが後援していた事にエールを送る。最終的には制裁より友好交流の方が大切だから…。

 歌劇団の公演を見ながら日本の圧政で言葉や文字に氏名まで奪われ民族の誇りや生きる権利や生活のすべてを奪われた人達の事を考えた。

 今なお国外で税金を納めながら参政権や基本的人権すら保障されない苦しみや悲しみを抱えている民族がどれだけいるだろうか。

 更迭されたとは言え、日本の植民地化や侵略行為を正当化し旧軍隊を美化する、現職の航空幕僚長がいるこの国の防衛感覚が徹底的に追及され問われる時ではなかろうか。
 改めて在日朝鮮人や日韓、日朝の問題解決のため日本国民の緊急な政治課題として、次の総選挙の争点として位置づけられるべきとの思いを強くした。
                   

12

*お願い
この文章の下にある《広島Blog》というバナー(画像)を クリックしてください。

2008年11月21日 (金)

安芸の柿―広島ブランド

11月に入って、湯来町を走ると、あちこちの庭先に柿の木を見かける。
黄色くなった柿が、一杯についている。
綺麗な景色だ。
その殆どが西条柿だ。
西条柿は渋柿で、干し柿にするか、渋を抜かなければ食べられない。
皮をむいて干し柿にするのは面倒なのか、ほとんどの家では、そのまま放置し、熟して、落ちるに任せているという。
柿を生ったまんまにしておくと、熊が食べに来ることもあるので、本当は危険なのだという。
私の友人のS氏は「西條の実家にも屋敷内に樹齢50年以上の大きな西条柿の木が数本あって、秋には熟した柿が落ちていました。その木も幹がひと抱えにもなった頃、誰も食べず、干し柿にする手間もなくやむなく30年前に伐採してしまいました。」といっていた。
もったいない。

1_2

通常お店で甘柿と称して売っている柿は、渋柿を炭酸ガスやアルコールを使って渋を抜いているのだという。
そうすると、渋の成分であるタンニンは不溶性になり、渋みがなくなるのだという。
昔は、一晩お風呂のお湯につけて、渋を抜いたそうだが、なかなか上手くいかず、半分近くが渋いまま・・ということもあったという。
今では、ドライアイスでいとも簡単にできるそうだ。
それでか、甘柿といっても、そんなに美味くはない。

本当の甘柿は、やっぱり木で熟して、トロッとなった頃食べるのが美味い。

子供頃育った家の庭には、柿の木、グミの木と八重桜の木があった。
我が家にあったのは甘柿だった。
木に生っている状態で熟した柿は本当に美味かった。
凄く大きかった。
種類は甲州百目だったのだろうか。
秋になって、毎日一つずつ取って食べるのが楽しみだった。

この甘柿は渋柿の突然変異でできたもので、日本にしかない品種なのだという。
だからか、甘いだろうと思って、かじってみると渋かったりする。
甘さに安定性がない。
そんなことでか、トロッと熟した甘柿は、お店には売っていない。
熟す前に取って、人工的に渋を抜いているようで、あんまり美味いとはいえない。
その所為もあってか、どうも柿の人気はいま一つさえない。
ほんとうの柿の美味さが、どうもきちんと伝わる仕組みになっていないようだ。

柿の旬は数週間と極めて短い。
それならいっそ、その短い旬を、逆に「売り」にする仕掛けを考えたらどうだろうか。

ケーキだって、弁当だって本日中にお召し上がりくださいと書いてある。
「柿も明後日中にお召し上がりください」と書いて売るようにしたっていい。
「湯来町に行けば、美味い柿が食べられる。行かなければ食べられない」なんて宣伝の方法もありそうだ。

干し柿だって、私は好きだ。
でも家族の中で干し柿を食べるのは私だけだ。

本当は干し柿もカチンカチンになるまで干したものより、ちょっとトロッとした感じの方が美味い。
西条柿を買ってきて、皮をむいて、4~5日たって渋が抜けてから食べても、結構美味い。

「柿の本当の美味さ」をきちんと知ってもらうことがまず必要だ。

柿の栄養価についても、もっと宣伝したらいい。
バナナがダイエットにいいということがTVで放送されたら、バナナが売り切れたという。
「柿はビタミンOの含有量が、ミカンの倍もある。
柿の渋みの成分、タンニンは血圧を下げる効果もあるという。
またアルコールデヒロゲナーゼは2日酔いにも効果的だという。

広島市には農業振興センターもある。
甲州百目とかの甘柿を品種改良して、新種広島特産の甘柿をつくったらどうだろうか。
安芸の甘柿を作るのだ。
それを、農家の庭先に植え、「広島ブランド」として売るようにしたらいい。
湯来町にいかなければ、熟した甘柿は食べられないというようにしたっていい。
秋になって湯来町にいけば、どこの農家にも柿があるのは景観的にも美しい。

広島の温暖な気候は柿に合っているように思う。
虫もそれほど付かないし、手入れも難しくない。
桃栗3年、柿8年という。
そんなに時間はかからなくとも大きくなる。
渋柿の木に甘柿の木を接ぎ木すれば、数年で実がなるようになるだろう。

リンゴ畑とか梨畑、みかん畑はあるのに、柿畑というのはあまり聞かない。
例えば湯来町に大きな甘柿の山があるということにでもなれば、それはちょっとした名所になるだろう。

地産地消、自産自消にもなる。
広島市の食料の自給率を上げるためにも、柿を各戸の庭に植えたらいい。

*お願い
この文章の下にある《広島Blog》というバナー(画像)を クリックしてください。

2008年11月20日 (木)

大相撲 広島場所

10月24日、グリーンアリーナで大相撲広島場所があった。
客席は1万人近くの観客で埋まり、ほぼ満席だった。

1

私の行ったお昼近くには、序の口、新人の取り組みがされていた。
将来を夢見るスター候補生だ。
お昼休みには、初切=相撲の48手が、面白おかしく紹介された。
初切は、勝負の緊張した雰囲気をフッと切り替えてくれる。
相撲甚句、お客様に来てくれたお礼の言葉をアカぺラで歌う。
お相撲さんは、皆というわけではないだろうが、歌が上手い。
北桜も、渋いいい声だ。
続いて、触れ太鼓についての紹介、会場内に様々の叩き方による太鼓の音が響く。
十両の力士の取り組み、地元出身力士の北桜、豊桜へは大きな拍手がある。
それが終わると、横綱の土俵入り。
そして中入り、幕内力士の取り組みが始まる。
いつもTVでみている高見盛とかの、人気力士にはやはり拍手が大きい。
本番でもない。
皆、怪我をしないように最後は力を抜いている。
横綱の取り組みを最後に終了した。
弓取りは、帰るお客で、出口が込まないようにという仕掛けだ。
それぞれの場面を切り替えるのは、とても木の音とは思えない、きれいに澄んだ拍子木が打たれる。

砂被りの席は座布団に座って見る。
その座布団に力士のサインをもらっている人もいる。
いい記念になるだろう。

地方巡業には地方巡業の趣がある。

こうした内容、構成は、長い歴史の中で組み立てられてきた。
良くできている。
勝負の取り組みだけが大相撲ではない。
一つ一つがきちんと計算され、美しい芸術にまでなっている。
数百年の歴史を感じる。

大相撲は八百長があるといわれたり、暴力事件があったりと、ちょっと評判を落としているが、日本が世界に誇るイベントであることは確かだ。
そのうち大相撲ではなく「OZUMO」となり、「HIGASHI- HAKUHOU-、NISHI-・・・・」といわれる時代がくる?

大切に守り、育てていきたい。

*お願い
この文章の下にある《広島Blog》というバナー(画像)を クリックしてください。

2008年11月19日 (水)

楽々園の大名松

 最近、60肩?(嘗ての50肩は今の実態は60~70にも現れる症状)に悩む家内に付き合って楽々園で開業しているゴールドハンドS氏の鍼灸治療院に通っている。
 S氏は国内外のオリンピックやプロスポーツのトレーナーとして世界を股にする鍼灸師でもある。東京と大阪にも分院があって週の三分の一は出張治療だ。
 先の北京オリンピックのメダリストたちもお世話になっているようだ。

さて、話が余談になってしまったが、その治療院は広島市佐伯区五日市の楽々園の旧道、嘗て西国街道と呼ばれた住宅街のJRと広電の間を並行している旧山陽道沿いにある。
 その治療院を挟んで東西2~300メートルの間隔で道路沿いに二抱えはある歴史を感じさせる大きな黒松が目につく。

 私が育ったのは東広島市西條町寺家(ジケ)の塚の垰(つがのたお)と言う旧山陽街道が八本松から西條に通じる旧国道2号線に繋がる地域の集落で育った。街道には江戸時代の参勤交代を機に17世紀に植えられたと言う大人の二抱えも三抱えもある大名松が数百メートル置きにあった。(当ブログ2月18日付「ふるさと“寺家の人口増”と開発」参照)

 その大名松は昭和30年代後半の自動車の増加や大気汚染が始まった公害のせいか枯れはじめ平成になった頃にはほとんど姿を消してしまった。歴史を物語る貴重な存在は今では旧山陽道沿いには安芸郡海田町に残る“藩主、出迎えの松”くらいしか無い。JR山陽本線や国道2号線からも見られる姿は雄々しく逞しいとは言えないが現存する貴重な大名松だ。
                                           
 恋人ではないが昔の懐かしい人に会ったような感じがする大名松との出会いは、区役所に電話で聞いて確認できた。消して十分に生きてはいないが間違いなく200年以上生きてきた大名松だ。江戸と地方を結び巡視制度をきっかけに全国の街道沿いに生まれた大名松が今県内にどれほど生き延びているのだろうか…。
 改めて、物言わない大名松の故事来歴を調べてみたい気がしている。

123

*お願い
この文章の下にある《広島Blog》というバナー(画像)を クリックしてください。

2008年11月18日 (火)

フードフェスティバル・ひろしま

10月25日(土),26日(日)の両日、広島城、広島中央公園を中心して、フードフェスティバルが開かれた。
2日間で78万人の人出だった。
私が行ったのは2日目の雨だったが、それでもかなりの人出があった。

1

お城に近いテントでは、菊の花が展示されていた。
広島県内の23市町が参加したというテントでは、それぞれにその町の特産品を売っていた。
牡蠣があり、お酒があり、牛の大きなモモ肉をその場で焼いてもいた。
安芸高田市のテントでは、祇園柿を売っていた。
浅野の殿様がその昔、京都の祇園から持ってきたのだという。
種なしの柿だが、どうやって増やしていったのだろうかちょっと不思議に感じた。
米粉によるパンや、うどんも売っていた。
米粉パンを買った。
なんとなくお餅みたいな感じがする。
醤油をつけて食べてみたが、どうも美味くない。
やっぱりバターとハムで食べた方が美味い。
やっぱりパンということなのだろう。

中央公園の太田川に近い西のゾーンに各国のテントが張られていた。
タイ式焼き鳥だという。
どこがタイ式なの?と聞くが、日本語が上手く通じない。
こんな国際色豊かなフェスティバルができるのも広島だからだろう。

2

こうしたイベントに関連して使うお金は、交通費等も入れて、一人当たり大体8,000円だという。
このフードフェスティバルについてみれば、8,000円×78万人=62.4億円にもなる。
イベントの経済効果の高さに改めて驚く。
イベントが、街の賑わいづくりに、重要な要素であることがわかる。

フードフェスティバルは、元々は秋の収穫祭という意味から始まったのだろうが、近年はそれに加えて、広島県の自給率を高めようと「地産地消、自産自消」というテーマも加わった。
広島県の自給率は24%、広島市の自給率は3%だ。
「環境」もテーマに加わった。

フードフェスティバルもただ模擬店が沢山でていて、賑やかだということだけはなく、長続きするには、こうした「テーマ」を持つことも極めて重要なことだ。

フードフェスティバルが、年々盛んになることを願っている。

*お願い
この文章の下にある《広島Blog》というバナー(画像)を クリックしてください。

2008年11月17日 (月)

シネマクラブ・毎月ワンコイン上映会へ

 シネマクラブ・ひろしまが発足して半年がたった。
年4回の定期上映に年8回のワンコイン上映会を計画して取り組んでいる。

 第一回定例上映会を5月にドイツ映画「善き人のためのソナタ」を、二回目は8月に「東京原発」を2日にわたって上映した。
 
 この会は広島映画センターのご協力を得て“劇場上映される映画に限らず幅広い社会性のある話題の映画を上映して見て頂く機会を作り、映画好きな会員相互の親睦を深めつつ広島映画・映像文化の向上を支えよう“と言う目的で発足させた。
 幸いに、映画センターにある豊富なライブラリーを会員の為に試写する機会を得られるのは他のこうした同好のクラブでは真似の出来ない特典である。

 7月に開いた第一回のワンコイン上映会では新藤兼人監督の「原爆の子」を8月の特別上映会では中沢啓治さんを迎えて中沢さん原作の「かっ飛ばせドリーマーズ~カープ誕生物語~」を、そして10月は終戦後の広島の戦災孤児収容所で子供たちが逆境にも負けず人間として一番大切な優しさや思いやりを体得する「青葉学園物語」を上映した。
 上映後の交流会はワンコイン500円玉でワンドリンクにおつまみで今日の映画から当時を思い出し、いま時点での評価など幅広い話題の交流が深まり“皆で見て語る楽しさ”を徐々に実現している風景は嬉しい限りだ。

 11月22日(10時~上映)にはアステールプラザ中ホールで米国前副大統領が企画いた環境の現状を問う「不都合な真実」の特別上映()を決めた。
 12月11日(木:18時半~)と12日(金:13時半~)は横川の西区民文化センターで第三回定例上映会を落語家の立川志の輔さん原作の新作落語から生まれた「歓喜の歌」の上映も決めた

 このほど開いた幹事会で改めて今後の活動として映画センターのライブラリーから会員対象のワンコイン上映会を毎月開く事を決めた。来年4月以降は毎月第二水曜日に堺町の映画センターで19時からの上映を定例化させる。
 因みに上映候補作品を紹介しておく。
邦画:若者たち(’67年・森川時久)ひとりっこ(‘69年家城巳代治)故郷('72年・山田洋次)息子('91年・山田洋次)ふるさと('82年・神山征二郎)奴隷工場('68年・武田敦)謀略・松川事件('81年・熊井啓)松川事件(’61年・山本薩夫)八月の狂想曲(’91年・黒沢明)子どものころ戦争があった(’81年・斎藤貞郎)愛と死の記録(’66年・蔵原推繕)広島('53年・関川秀夫)第五福竜丸('59年・新藤兼人)ヒロシマの証人('68年・斎村和彦)にっぽん泥棒物語('65年・山本薩夫)
洋画:野獣たちのバラード(’65年・ミハイル、ロンム)抵抗のプラハ('71年・ウラジミール・チエフ)大いなる幻影('37年・ジャン・ルノワール)自転車泥棒('48年・ビットリオ・デ・シーカ)道(ジェルソミーナ・’54年・フェデリコ・フェリーネ)

 この他アニメーションや中短編アニメ、記録映画が数百本ある。
上記候補作品の中から12本を選定する。
会員以外でもこれを観たいと思われる方はご一報・メールをください。
上映や入会に関しては下記のところへご連絡ください。よろしく。

問い合わせ先:シネマ・クラブひろしま(広島映画センター内:担当=勝谷豊稔)
     Tel:082-293-1274  fax:082-293-2229
     http://cc-hiroshima.ciao.jp
e-mail:hiroshima@gmail.com
     sasaki.:e –mail=sasakitenmei@ybb.ne.jp

*お願い
この文章の下にある《広島Blog》というバナー(画像)を クリックしてください。

2008年11月16日 (日)

若者・自分の道探し

 この1年余り市民平和交流やシネマクラブ・ひろしまの活動や交流を通じて20代30代の若者と知己を得た。何れも大学を卒業して就職しながら、一端立ち止まって新しい自分の道を探しながら派遣社員やフリターとして働いている。

 その若者の一人でグループのリーダーを務めるH君は外務省の外郭の国際機関で国際貢献事業に携わりアジア・アフリカなどを中心に活動してきた。この2年ばかり、自分の仕事はこれでいいのだろうか…と考え悩んでいた時、広島から世界に平和活動を発信する広島文化センターの仕事に強くひかれて再就職を確保した。約10年間勤めた国際機関をやめる勇気は大胆なほど見事な決断だ。

 その彼が牽引役の環境問題を中心に考え活動する会に参加しているH君は同様に大学を卒業後広島市内で就職していたが、昨年の統一地方選挙で一番問題を抱えた候補者が無投票に成りそうな選挙区に突如出馬を決意した。“こんな無投票は許されない“と若い正義感が押し出した…ようだ。友人5~6人の応援部隊で闘い抜き千票確保できれば良いと思っていた得票は7千票を越して県内各地で大きな反響を招いた。
 今は再就職して2年半先の統一地方選挙にどう対応するか思案中と言う。

 防衛大学を卒業し呉の海上自衛隊で一尉として勤務していたO君は“自分の居場所では無い”と考えるようになって退職し、今は派遣社員として昼夜交代の仕事について本当の自分が目指すべき道を探しをいている。

 今年初めまで幼稚園の保育士をしていたO君もこども好きと言いながらも自分が将来にわたって身を置ける場所では無いと考えて退職し、数カ月間インドを中心に東南アジアを旅して考え至ったのは将来農業を目指したい…と目下県北部の農家で研修を目指している。 

 3人はそれぞれ安定していた職を投げ出す決断をして自ら厳しい環境に見えをさらしながら真っ向勝負の『本当の自分の道』探しに掛けている。
 “今時の若い者は…”とたやすく批判しがちだったが、大胆な一方気真面目でその生き方は私には真似のできない紳士な態度と決意が漲っている。

 この若者の気持ちを今混乱の極みを迎えている政治に向けることが出来れば良い…と思い、お節介ながら若い世代の政治家?達を紹介している。きっと何か自分に最も向いた道を発見して掴むに違いない。
 大いに情熱をぶっつけて自分の道探しに取り組んでほしいとエールを送りたい。

*お願い
この文章の下にある《広島Blog》というバナー(画像)を クリックしてください。

2008年11月15日 (土)

空口ママのみるく工房

K氏に、もう1軒、湯来町のユニークなお店を紹介してもらった。

空口さんという女性のミルクジャムを製造販売しているお店だ。
空口さんが北海道にいるときミルクジャムを作っているところがあると聞き、押しかけていって教えてもらったのだという。
牛乳にグラニュウ糖、てんさい糖を煮詰めて作っているという。
まさに手作りだ。
湯来町周辺の農家で飼っている乳牛から絞った牛乳を使っているから、もちろん安全性も保証できる。

3

お店の一押しのミルクジャムは140g、680円だ。
美味い。
子どもころ大好きだったキャラメルの味がする。
私も、近頃あまり酒を飲まなくなったからか甘党になってきたようだ。
パンに塗って食べてもいい。
ミルクジャムが売りだが、その他にも色々作っている。

市内のお店にも卸しているという。

お店の半分のスペースが製造部門、残り半分のスペースにショーケースが置かれている。

建物といっても、素人が自分で、手作りで建てたような造りだ。
それがまた女性のお店らしい優しい雰囲気を作り出している。
お店を作る、会社を興すなんておおげさに構えていないのもいい。
それでも、お店は地産地消の立派なモデル店だ。

お店の前にテントでもいいから、オープンカフェのようにして、コーヒーを飲めるスペースを設けたらいいのにというと、
いずれ作るという。

湯来町には、こんな楽しいお店が次々とできていっている。

湯来町には、こんな素敵なお店があると、みんなに教えてあげたい。

*お願い
この文章の下にある《広島Blog》というバナー(画像)を クリックしてください。

2008年11月14日 (金)

みんなの元気な店

湯来町を走る国道433号に面して「みんなの元気な店」がある。
この店の謂れを知らなければ「なんかぼろちぃバラックが建っているなー」で通り過ぎてしまうだろう。
この店が、どんなお店かK氏に教えてもらった。

「この店は地域の農産物品を売っているというだけでなく、地域のお年寄りがふれあいながら仲間をつくり、生きがいを持って余生を楽しく過ごしていこうという思いで13年前、朝市の野菜の販売から始まりました。
開店時間は、毎週水、土、日曜日です。
みんなの元気な店は、平均年齢77歳(最高齢者88歳)の゛おばあちゃん゛たちが運営する店です。
畑で採れた新鮮野菜や手作りの加工食品、つる細工のお土産品などを地域のふれあいを添えて販売しています。ります。」
という。

2

といわれてみると、このバラックのような建物が、妙に味わいのある建物に見えてくる。
おかしい。
お年寄りが自分たちで材料を持ち寄り、手作りで建てたのだろう。
建設費は殆どかかっていないはずだ。
テンポラリーな感じもいい。

何か子供のころ、部屋の片隅に作った段ボールの箱にもぐりこんだ頃を思い出す。
あの頃の子供のように、お年寄りが夢中で作ったのだろう。

お客さんが来れば、誰にでもお茶をだしているのも可笑しい。
お年寄りの誰かが近くの松林から取ってきたのだろう、7,000円と値札のついた松茸も売っていた。

お年寄りが茶飲み話をする場をつくり、その費用をねん出する仕掛けを作ったというコンセプトもいい。
なんとも楽しいお店だ。

平均年齢が77歳?
こんなことができるなら、私も早く後期高齢者になりたいとすら思う。

このお店のありかたは、これからの時代の高齢者のあり方を示している。

*お願い
この文章の下にある《広島Blog》というバナー(画像)を クリックしてください。

2008年11月13日 (木)

もみじー古民家のレストラン

湯来町、国道433号からちょっと入ったところに、古民家のレストランがある。
看板がなければ、全く普通の農家と思って通り過ぎてしまうだろう。
建物は、築100年を超えるという。
奥には囲炉裏があり、土間もある。
レストランにするからといっても、改装は殆どされていない。
農家の住いだった懐かしさが、そのまんま残っている。
隣にはオーナーの家族が住むのだろうか、白いコンクリートの現代建築の住宅が建っている。

玄関を入って、すぐ脇の庭に面した畳の部屋で食事をする。
10畳と8畳程度の部屋に、障子が取り払われ、座卓が6つほど置かれている。
食器はこの家で昔から使っていたのだろう、歴史を感じさせる食器だ。
壁には戦前に頂いたというような表彰状が飾られていた。
お米と野菜の殆どは、無農薬の自家栽培だという。
ちょっとした拘りもある。

こうしたところで食事をすると、何かこの家にお呼ばれして、食事しているような感覚になる。
日本の家は狭いということもあるが、大体自宅で、お客をもてなすために買い出しをしたり、調理するなんて、面倒なことはほとんどしなくなっている。
自宅で客をもてなすような、貴重な雰囲気を醸し出している。

1

湯来町には、他にもこんなレストランが何軒かあるようだ。
それもここ数年の間にできたお店だという。

新聞、TVに取り上げられたこともあってか、結構市内からもお客は来ているようだ。
ショッピングセンターのレストラン、ホテルのレストランとは全く違った味わいがある。

湯来町の魅力を改めて感じる。
そんな魅力を感じてか、私の友人のM氏は、もう何年前から湯来町に移り住んでいる。
私もいつか移ろうかななんて考える時もある??

こうして改めてこの街を見ていると、近年、人々の生活の仕方も、大きく変わってきていることを感じる。
湯来町に残っているこうした昔ながらの農家が、そのまんまの姿で、レストランや物産店に変化していけば、湯来町は、全く新しい概念の街になるかもしれない。
楽しみだ。

限界集落となって集落が消えるから、なにか手を打たなければいけないなどというが、そんな大げさなことをしなくとも、ここではごく自然な形でUターンが進んでいる。
後はこうした流れを後押しする仕掛けがあればいいようだ。

*お願い
この文章の下にある《広島Blog》というバナー(画像)を クリックしてください。

2008年11月12日 (水)

私の北海道感想記(4)

 自分の人生
自分の脳と向き合う。
私の人生を自分で作る。

 この2つのテーマをやり遂げたくて仕事から引退しました。

 仕事は今までの人生の中で一番重要な生きがいでもあり、これを中心に生きてきました。それから離れることはとても不安でした。また会社で毎日過ごした時間をどうすごせばいいのか?仕事の楽しみ以外に楽しみは見つかるのか?などなど。
 この不安と向き合うことこそが次なる人生の出発点なのです。人は永遠に生きられるわけではありません。いつかは死にます。この死に向かって生きてることを理解しなければなりません。これを理解するのはとても難しいことです。
 60歳を過ぎて周りを見ると、友人や自分より年下の人の死を見てきています。でも自分には関係ないと考えています。脳は自分に不都合なことには目を向けません。解っていても死と向き合うことを拒みます。
 それで私はこの自分の脳と戦うことにチャレンジしようと考えて仕事から引退しました。
 競馬で大当たりした人や、パチンコで大もうけした人たちがなかなかそのうまくいった体験から抜けきれず、最後にはすってンってンになる人たちを沢山見てきました。
 私も会社を経営していて会社がうまく行っていましたから、この成功体験が脳に焼き付いていました。
 この成功体験の脳を一旦消さなければ自分の成長はないと考えました。
 そのためにわざわざ誰も知り合いのいない北海道に移り住むことにしたのです。
 こちらに来てからは毎日がまったく新しい体験で脳は休まることなく働き続けました。
 今までの人生の価値観を変えるのにはとてもよかったと思っています。
 仕事とは、家族とは、友人とは、生きがいとは、死とは、こんな重要なことがだんだんと冷静に考えられるようになりました。

 自分の脳と正面から向き合うことが私の人生の幸せ探しであると気がつきました。
 自分の脳を自分でコントロールする。これはとても難しいことですがこれができれば自分自身を成長させることができると確信しました。
 脳はとても自分を可愛がり保守的です。自分に都合のいいように解釈します。
 都合の悪いことには目を向けませんし、楽をしようとします。
 ですからこれと反対のことを私の脳に要求するのです。

 これが少しずつですができ始めてきました。世界は日々変化しているとの認識も脳は理解しません。これを認識させる事でかなり楽になりました
 今までとはまったく違う人生観ができるようになりました。

 仕事を引退して最初のころはなんだか罪悪感みたいなものがありました。今まで毎日決められた時間に働きに行っていたのに、それが毎日自分の好きなことに時間を使うことだけでいいのだろうかと。でも死に向かって生きているのだから、毎日毎日を充実して生きていくことが今からの自分の目標だと考えるようになり落ち着きました。充実したこれからの人生のため健康がどうしても必要だと考えて、毎日15キロ歩くようにしました。
 公園を毎日歩いていると自然の移り変わりがよく分かります。

 これがまた楽しくなってきました。今までの人生とまったく違うものを感じられるようになって来ました。そうしていくうちに自分の仕事中心の幸せ探しから少しずつ違う幸せ探しが見えてきました。ここまでくれば時間の使い方も会社のときとまったく違うようになってきて、本当に自分のための時間ができるようになりました。勇気を持って今までの殻を捨て去れば楽しい生活ができると思います。

 北海道に来て1年2ヶ月、私の脳はこの北海道がとても気に入りはじめ、此処で暮らせば楽しいなと考えるようになって来ました。それで私は脳と反対に北海道を離れて、また今までとはまったく違う誰も知らない沖縄に行ってまた脳を保守的にならずに働かせようと考えて北海道を離れることにしました。
 また私の脳と戦う旅が始まります。
 沖縄に行ってどんな風に変わるか楽しみです。
 これが私の仕事を引退して過ごした一年の総括です。      <完>

<吉本 尊則>


*お願い
この文章の下にある《広島Blog》というバナー(画像)を クリックしてください。

2008年11月11日 (火)

私の北海道感想記(3)

 東京などに比べるとかなり高齢化が進んでいるように思えます。
 これからの北海道はどうなるのか?
 高齢化が進み、この広い土地で過疎化していけば医療はどうなるのか?
 国からの援助はますます少なくなることが予想される今、夕張のような地域が北海道全体に広がってゆくのではないでしょうか?
 そんななか現在の北海道人は私から見た感じでは政府からの援助をかなり当てにしているように見えます。生き方の中にもそれがとても感じられます。
 自分たちで何かを作ろうとするよりも、何かが来てくれるのではないか、それ待ちのような感じです。
 これでは北海道の未来はないと思います。
 あの困難な開拓事業をやり遂げた先人たちのDNAを引き継いで、新たな北海道の開拓を目指して若い人たちが育つことしかないと思います。
 そのために今は若い人たちの育成に力を注ぐべきです。
 開拓当時若い人たちをアメリカ、ヨーロッパに派遣して学んだ力が北海道の開拓と農業、畜産の発展のために大きく寄与しています。
 開拓団の成功もよく調べてみると指導者の優れたところはうまくいっています。
 こんな貴重な経験から学び若い人たちの育成こそが新しい北海道を作るのではないでしょうか。相馬暁(北海道で今話題の自然野菜つくりを教え若い人を育てている)さんのような人たちが沢山でることしかないと思います。
 すばらしい自然の北海道。どこに行ってもすばらしい風景、特に美瑛、富良野、の美しさには圧倒されます。春の一斉に咲く花々の感動。秋の紅葉のすばらしさ。どれをとっても世界に誇れるすばらしさです。農作物、海産物などの食べ物の美味しさ。
 豊富な温泉。
 楽しい1年2ヶ月でした。私の人生のなかでの本当に充実した時間を過ごせたことに感謝しています。(続く)
<吉本 尊則>

*お願い
この文章の下にある《広島Blog》というバナー(画像)を クリックしてください。

2008年11月10日 (月)

私の北海道感想記(2)

 北海道開拓記念館に行ってとても感動しました。
 一番ビックリしたのは奥のほうにあるとても粗末な小屋でした。
 隙間だらけであれではとても寒かったのではないでしょうか?
 明治の時代には今よりももっと寒かったはずです。

 そんななかで寒さと開拓の厳しさに耐えながら過ごした人たちのことにとても興味を引かれました。それから図書館に通いながら北海道の開拓の歴史を調べ始めました。
 北海道の開拓の歴史は本当に厳しい想像を超えるものでした。
 開拓にあたってまず原生林の開墾作業、いまならブルトウザーなどの機械があり簡単ですが、当時は人力しかありません。まだ馬のないところからはじめています。
 開拓しても冷害、害虫、水害などで絶望の連続のようでした。ほとんど粟、ひえなどで暮らしていたようです。またあまりにも過酷な労働のため病気でなくなる人や、希望をなくして開拓をあきらめて内地に帰る人もかなり多かったようです。
 内地から来る人も北海道の入植地が何処かによってかなり違いが出ています。
 伊達など割合暖かいところに比べて士別や釧路、十勝などでは条件にかなり差が出ています。最初に入植した土地で挫折し、そのあと北海道の別の土地に移動した人も沢山いたようです。

 それにしてもたった100年くらいの間に北海道の原生林を切り開いた日本人のすごさには感動します。多分世界の中でこんなすばらしい農地を作り出した民族はいないのではないでしょうか? アメリカやオーストラリアなども開拓の歴史ですがもっと時間をかけています。日本いや世界の農地はすべて1000年以上の年数をかけて作られています。寒さや病気などの過酷な条件の中でそれをやり遂げた北海道人に本当に感動しました。世界遺産に登録したいくらいです。
 空知に広がる延々と続く田園、十勝、士幌の360度に広がる畑、美瑛、富良野のすばらしい曲線の牧場。これをみんな作ったのですから本当に感動します。
 でもこれが今の若い人たちにはあまり伝わっていません。

 北海道の開拓にはもう1つ別な部分があります。それは日本政府からの援助で進んだ部分です。古くは屯田兵、道路、鉄道建設のための沢山の監獄を作りそこでの囚人たちの過酷な労働力の活用。朝鮮、中国からの強制連行労働力。
 またお金もかなり北海道開発に政府は援助しています。北海道開発局、わざわざ拓殖銀行まで作り膨大な資金を援助しました。北海道を車で走ればすばらしき道路にビックリします。こんな道路は日本でここだけです(援助の多さの証明)。この道路の維持のためにかかる費用(車を走らせれば工事だらけ)たるやビックリです。

 また自衛隊がかなり全国比で多いのではないでしょうか?
 日本人の世界にも誇れるようなすばらしき力と国からの援助が結びついて今の北海道があるように思います。
 一方で北海道はとても不運な場所のような気もします。日本人の食糧のため農地を作れと奨励されてすばらしき農業ができたときにはもう農産物はあまる時代です。日本の農業の生産量がナンバー1になったときには第1次産業は斜陽の時代になり、また石炭も沢山取れて北海道に活況の時代が来たと思ったらそれも短く、すぐに石油にとって変わられて斜陽になり、やってきたことがすべて時代と逆行していて踏んだりけったりの感じです。なんだか悲しくなります。そして開拓した個人の農家も高齢化とともに廃業に追いこまれ廃墟になった家が北海道のいたるところにあります。それを吸収してドンドン大きくなった大規模農園もアメリカからの支配の農業が進んで、機械化と飼料代で高騰による借金で苦しんでいます。(続く)

<吉本 尊則>

*お願い
この文章の下にある《広島Blog》というバナー(画像)を クリックしてください。

2008年11月 9日 (日)

私の北海道感想記(1)

<私的、北海道文化論>

 東京神田で長年出版社を経営し「はだしのゲン」やヒロシマ関連などのヒット作品を多く送り出し、昨年還暦を機に引退して北海道で1年2か月を過ごし、年内に沖縄に移り暮らして見ると言う友人が送ってきた「北海道暮らしの感想文」が「私的、北海道文化論」として面白かった。
 タウンNEWSへの掲載を打診したら快く了解してくれた。ご覧ください。<グランパ>

私の北海道感想記(1)                       <吉本尊則>

 「リトルアメリカ」といわれている北海道に来て1年2ヶ月が過ぎました。
 九州生まれの私が、ほとんど知り合いのいないところに来て冬がどうなるのかとても心配でした。-10度の生活はどう暮らせばいいのか?雪のときの運転は大丈夫だろうか?
 寒さ対策の衣類はどうすればいいのか?冬今までとはまったく違う時間の過ごし方はどうすればいいのか?
 戸惑うばかりでした。

 想像していた北海道と住んでみての北海道はずいぶん違ったものでした。
 東京に居たときに考えた北海道の人は、大陸的で心広くおおらかな人たちだと想像していました。特に女性に対しては強く思っていました。
 でも現実はかなり違っていました。女性はとても強く喫煙する人がとても多く、軽自動車に子ども3人くらい乗せてタバコをすぱすぱ吸いながら、すごいスペードで走るのを何度も目撃してビックリしました。喫煙率日本NO1,離婚率NO1
 女性の強さが日本の3本指に入ると聞いてなるほどと思いました。群馬、香川、北海道です。群馬、香川の女性は強いのですが、離婚率はそんなに高くありません。
 なぜ北海道が高いのかを調べてみました。

 それにはこんな説がありました。北海道は過去には圧倒的に女性が少なかったようです。若き女性1人に対して3人の男性くらいの割合だったようです。炭鉱労働者、開拓のための内地からの若き労働者。女性は男性を選ぶのに優位な立場にあったようです。
 また開拓初期には女性の力なしには開拓事業は進まなかったようです。
 女性の就労率はとても高いようです。北海道の女性がとてもよく働くことは離婚と関係あるのかもしれません。こんなことから離婚率が高いのだという説があります。
 また男性は意外と優しい人が多いと思われます。北海道はもしかして女性の力で開拓事業が進められてきたのかもしれません(笑)とにかく北海道女性は独特の雰囲気があります。
 大陸的です。男性は文章で読んだのですが、会議があって遅れてきたのに内容はともかく「まあいいしょ」ととにかくその場を過ごしてしまうようないい加減なところがある。
 なんだか分かるような気がします。

 不思議なことの1つに車の運転があります。札幌市内を走っているととてもスピードを出して走る車が多いことです。特に札幌を外れると確かに車は少なく道は広くスピードが出やすくなります。でも出しすぎです。こんなことから交通事故死が高くなっているのではないでしょうか?
 私が見た感じではとても見栄っ張りで人のことにあまり気を使わずに「わが道をいく」タイプのような人が多いような気がします。もう少し考えれば分かるようなことでもやってしまうようなことがかなり多く見られます。もう少し周りの事を考えて皆で協力しながら社会を作っていく意識がほしいです。(続く)

*お願い
この文章の下にある《広島Blog》というバナー(画像)を クリックしてください。

2008年11月 8日 (土)

松茸異変とその効用?

 季節の食べ物は何と言っても“旬<しゅん>”の食材が良い。中でも、秋の味覚の王様は松茸だ。今年は夏の暑さで不作が伝わっていたがシーズンに入って意外にも豊作のようだ。

 松茸と言えば私が子どもの頃は西條の実家裏山ではつくしが生えたように、無造作に歩くと松茸を踏みつぶすくらい大量に生えた。すき焼きと言えば肉よりはるかに多い松茸を分けて肉を探したもので今や隔世の感が大きい。その山は手入れが全くされなくなってここ数十年隣の孟宗竹が根を張ってすっかり竹林になってしまった。

 私が生まれた昭和10年代は1万3千トンあった全国の松茸生産量は昭和30年代には3千5百トン40年代は千六百トンに減り、5~60年代は五百トン平成になってからは二百五十トン前後に、近年は六十から七十トンで低迷して減少している。
 地域別では広島の五十トンをトップに長野、岡山、京都、岩手なども産地だ。

 松茸が生えなくなったのは昭和30年代になって農村も生活様式に変化が生じた。
 それまでアカマツの葉や小枝を家庭の燃料としていたのが石油やプロパンガスの化学燃料の普及で全く不要になってしまって結果的に山の手入れがされなくなった。加えてアカマツがパルプ材として伐採された。更に40年代になると松くい虫の被害やゴルフ場の開発でアカマツ林が姿を消したのも大きな要因と言える。

 日本人は「香り松茸、味しめじ」と“日本書紀”の時代から天皇への献上品として秋の代表的な味として重宝してきた。しかし、生産量の減少と共に国産松茸の値段は高騰し続け今年は一キロ4~5万円で流通しているようだ。

 国産品の高騰で韓国や中国を中心に外国産の松茸が幅を利かせキロ5千円から1万円で流通し、今や北朝鮮、アメリカ、カナダ、メキシコ、モロッコ、トルコ、ブータンに今年はスエ―デンなど北欧からも輸入されていると言う。
 また、松茸が高値を維持するには養殖栽培が出来ないことも大きな要因に挙げられる。
面白い事に外国人の場合は日本人がお宝のように思っている松茸の匂いをひどい悪臭扱いするのが日本へ輸出される理由でもあるらしく、度々訪れた中国の四川省の少数民族村には松茸御殿が沢山あるのを見た。

 我が家でも韓国、中国、カナダと今年も専ら外国産に依存していたが以外にも国産ものがキロ5~6千円で出回っている。市内の八百屋の店先で少し状態は良くないものも含まれているが隠れた豊作がもたらした…と言う。香りは間違いなく自然のものだ。
 焼き松茸に松茸ご飯、松茸のお吸い物と頂く機会に恵まれた。
 
 松茸は体に良いと言われているがβ-ガルカンと言う食物繊維が多く含まれている。このβ‐カルガンは人の免疫機能を高める働きがある為抗ガン物質として注目されていると言う。腫瘍阻止率が高いと言う研究報告もある…ようだ。同時に血圧やコレステロールや血糖値を下げる作用もあると言う。

 少しマニアックな情報のように思えないでもないが、ガンの療養のために食した訳では無いが、昨日は同じ東洋医学の治療を受けているお仲間から松茸の差し入れを頂いた。
 ご主人が単身赴任中の滋賀県で沢山入手できたようだ。彼女も癌に効果があると聞いてのお裾分けだった。
 今年の松茸は今まで食べた松茸とは一味も二味も違う味と香りに“人の気”が詰まった暖かな松茸だった。

*お願い
この文章の下にある《広島Blog》というバナー(画像)を クリックしてください。

2008年11月 7日 (金)

八百長相撲の怪・今こそ抜本改革を!!

 数年ぶりに大相撲の広島場所が開かれた。
 日本相撲協会は平和公園の原爆慰霊碑前で原爆犠牲者の為に“慰霊の土俵入り”を希望していたようだが、市民感情を考えて結果的には実現できなかった。
 今の相撲界を考えるとやむを得ない結果だろう。
 学校から集団で初めて相撲観戦した孫の大地は流石に初めて生で見る力士に驚き感激したようだ。
 子どもたちの間では朝青龍が一番人気のようだが残念ながら怪我の治療で帰国中のため姿が見られなかったのを残念がっていたが「八百長事件」など全く知らないようだった。

 所が最近のテレビも新聞も相撲の八百長を巡る記事が目立っている。週刊現代の八百長記事を日本相撲協会が名誉棄損などで訴え、北の湖前理事長が証言台に立った。
 
 「八百長も無気力相撲もない」と全面否定したすぐ後に17年前に出羽の海理事(元横綱佐田の山)が「故意に無気力相撲が一部の不心得者によって行われることは許されない」と発言したテープがTVのワイド番組で流され、疑惑を裏付けるような存在が明らかになった。

 故双子山親方(元大関貴ノ花)の元妻・藤田憲子さんが‘75年春場所の千秋楽の横綱北の湖との優勝決定戦や’92年初場所千秋楽で横綱貴花田の史上最年少初優勝の取り組みも八百長だった…との記事が踊った。

 TVを見ていると相撲界には江戸時代から八百長は存在していたような話題が放送され、流石に驚いた関係者が次々に発言している。
 古くは2代目谷風が病気の母親を抱えた相手にわざと負けて懸賞金を与えると言う“八百長のような”相撲をしたが、江戸っ子の喝さいを浴びたと言う「人情相撲」を伺わせる講談話がある…ようだ。
 
 そもそも“八百長”と言う言葉は相撲から生まれたと言う。明治の初めころ八百屋の長兵衛が相撲界の年寄りの伊勢の海と碁を打つ際に商売上の打算からお客である伊勢の海に何時も手加減して負けてご機嫌をとった…事に起因していると言われてきた。

 今でも相撲界では真剣勝負を「ガチンコ」と言い、八百長を意味する「注射」と言う隠語が生きていると言う。大麻事件で解雇されたロシア人力士元若の鵬がこれも週刊現代の記事に「琴欧州や千代大海らと八百長相撲を取った」と言い「注射する力士たちが巡業先でカチンコ力士をつかまえて“かわいがり”することもある。殺されるかもしれないと言う恐怖心から注射を受けなくてはいけない様に仕向けて行く…」と証言している。

 真実は闇の中で判らないが外国人力士が「注射」などと言うこと自体に疑惑を感じる要素は十分にある…と考える人は多いいと思う。
 協会は長い間、税法上の優遇を受けてきた財団法人を剥奪される事を恐れて真実を覆い隠そうとしていると伝えられている。

 残念ながら日本のプロの世界では野球の黒い霧事件をはじめ競輪・競艇・競馬などで八百長があった歴史は消せない。
 相撲界が『国技や法人資格、伝統』に拘っているとすれば、今後の改革は望むべくもなく衰退を覚悟すべきだろう。
 しかし、一般社会に通用するプロ集団・日本相撲協会を守り維持していこうとするならば外部の人脈を大胆に導入して横綱審議会など得体のしれない組織を含めて抜本的な体質の改革に乗り出すしかない。

 相撲界の体質は日本の政治や経済の体質とも重なって“まあまあ…やほどほど…”に通じる曖昧さが生み育んできた産物と言えよう。この際監督官庁の文部科学省が強い指導力を発揮する事を考えても良いのではないか?

 何はともあれこの際を逃さず『相撲界の八百長』は徹底的な究明と追放が求められて良かろうと思う。

*お願い
この文章の下にある《広島Blog》というバナー(画像)を クリックしてください。

2008年11月 6日 (木)

映画「青葉学園物語」

 『シネマ・クラブひろしま』のワンコイン上映会で「青葉学園物語」を上映した。会員を対象のミニ上映会で、上映後500円でドリンク付きの交流会を重ねている。8月に上映した新藤兼人監督の「原爆の子」に続く2作品目で、広島映画センターの企画製作作品だ。

 製作は1981年(昭和56年)だが舞台は原爆投下直後の広島の養護施設「広島戦災孤児育成所」(五日市吉見園:のちの童心園)で原作者の吉本直志郎氏が11歳から18歳まで過ごした体験を基に書いた児童文学書がベストセラーになったのを契機に映画化された。
 同じ被爆者で那須正幹氏の超ベストセラー「ずっこけ三人組」と同じ色合いの広島児童文学作品だ。カラーの100分、色はあせないでフイルムの保存状態は大変良い。

 監督は憲法の誕生を追った映画「日本の青空」の大澤豊の2作目の作品で、音楽を森田公一が担当し出演は市毛良枝をはじめ鈴木瑞穂や小山内美那子、阿藤快、太宰久雄、笑福亭仁鶴、加藤嘉ら新劇のメンバーを中心に固め子役は地元のオーディション選抜している。

 お話は戦争で身寄りを失った60人の子供たちが暮らす「青葉学園」のガキ大将を中心にした5人グループが懸命に活きた生活記録だ。空腹を満たすため毎日川で魚取りに懸命だ。
 みんなで飼育する豚を売って欲しいものを買う…。自分たちの思いが通じないグループは「会社」を作って鉄屑ひらいで稼いで念願の野球道具の購入を目指す…。
 病気の父と自分を置いて家出した母が迎えに来ても恨みに思って会おうとしない少年に白血病で療養中の母の話をする少女…。
 町に出かけて入ったバラックのうどん屋で息子や孫たちを原爆で奪われた老夫婦に会う。
 「世の中で何が悲しいかと言えば、親より早く死ぬる息子を送ること…」と嘆く老人に同情した彼らはせっかく貯めた金を残らず置いてくる。「よかった良かった…」と喜ぶ…。
 
 敗戦後の貧しい境遇にもめげず優しさや思いやりを持った人間として一番大切なことを体得して行く子供たちが描かれているが、今の子供たちに見せてどこまで通用するか…。
 
 この映画を通して、戦争で何もかも失った子供たちが家庭とは何なのか、親子とか兄弟とは…。学校とは、先生とは何なんか。友達や社会とは…。生活とは…。お金とは…。
 人間にとって大切なものは何か?を考えさせるには、いい映画だ。

 映画を見た子供たちが今の自分の暮らしと比較して、自分なりの願いや希望を育てるきっかけになる、今も共通する問題を提起している親子や学校でみるには良い映画だ。
 上映の問い合わせ先:広島映画センター(広島市中区堺町1-2-9 貴志ビル) 082-293-1119

*お願い
この文章の下にある《広島Blog》というバナー(画像)を クリックしてください。

2008年11月 5日 (水)

97歳!!! ますます元気な日野原先生

 今年4月に広島女学院大学で講演されて丁度半年、先週満97歳をお元気で迎えられた日野原重明先生が広島商工会議所の女性部創設50周年記念の講演をされた。
 
 海外へはよく出かけられが、先月は日系移民百周年のブラジルに招かれて出かけられた。
 日露戦争後、食料さえ無く渡航すれば楽に暮らせると、時の政府に唆されて移民した。
 石川達三の体験小説「蒼茫」等で当時のブラジル移民の窮状は知ることが出来る。
 現地には畑も田圃もなく山と言うよりジャングルばかり。10年後には金を貯えて帰国する…予定だった移民達と二世達は、祖国に捨てられた棄民となって開墾に農作に苦労した。
 
 そのブラジルは今、日本人移民が築いた農業が国の大きな力となり外国からの輸入に依存しないで自給できる世界唯一の国になった。そして日本人はブラジルに百万人の日系人社会を築き経済や教育から医学、政治の世界まで着実な発展をして貢献している。
 その実感を肌身に刻んで帰国されたばかりだ。
 元気を絵に描いたように今日の一時間に及ぶ講演も立ちっぱなしの熱弁だった。

 講演は「命と平和を もっと育てよう 女性の手で」…商工会議所の女性会創立記念を意識したテーマは広島が第二の故郷の日野原先生らしい配慮だろう。

 まずは、日本は世界一子供を産まない国になった。東京の女性の出産率は一人(日本は1,29)だがフランスでは3人に近い。育児費や教育費を国が負担しており安心して子供が産める。しかし、日本では赤字財政を理由に子供と老人が切り捨てられている。近年女性の社会進出が結婚を遅らし出産を減少させている。これは欧米と比べて日本の社会には今だに女性差別が大きいと指摘し、政治の責任が大きいと厳しい。
 日本の女性は男性より8歳長生きになっている。子供を育てる使命を負った母に力や役割を神が考えられたのではなかろうか…とクリスチャンらしい推論だが、何と言っても“命を生み育み、命の大切を伝え教える”重大な役割を挙げられる。

 広島は原爆の被害を乗り越え、厳しく辛い体験を恨みでなく許しを持って平和を引き寄せることを伝える使命がある。嘗て哲学者のカントは「私を平和の道具にしてください」と言っている。小澤征二さんと3年前に取り組んだ「世界へ平和のメッセージ」はその思いの現れであった。広島の母と女性が二度とヒロシマを繰り返させない為に果たす役割は大きく…国民投票法で憲法が改悪される恐れを食い止める役割も極めて重要だ。
 97歳の声は張りがあって会場に響き渡る元気さで、 広島の女性が“命と平和を守る闘いの先頭に立ってほしい”…との熱い思いを強く発信された。

*お願い
この文章の下にある《広島Blog》というバナー(画像)を クリックしてください。

2008年11月 4日 (火)

自産自消―広島市民農園

先日友人のKさんと、彼が借りている市民菜園にいってきた。
市内から車で40分くらいの所にある。
深川の広島市農業振興センターに隣接している。
「2M×5Mの約3坪で、年間3,000円です。
最初は月に4日くらい来ましたけれど、今は月1回程度です。
今は来春に出来る空豆を作ろうと計画しています。
今は何もしていませんが、そろそろやります」なんていっていた。
彼らしい。
畑に残っていたシシトーを「焼いて食べると美味しいですよ」といわれ3個もらった。

1

市民菜園はまずは市民に農業に親しんでもらおうということで進められているが、広島市が進める市民農園はかなり本格的だ。
例えば三田の市民農園は、15坪で賃借料は年間39,000円だ。
15坪もあればやり方によっては、1家の野菜1年分程度の食べ物ができる。
市民農園には農機具やトイレ、調理場も用意されている。
近所の農家の人が耕作の仕方も教えてくれる。
大豆から味噌の作り方、麦からうどんの作り方も教えてくれるという。
農家との交流の機会にもなっている。

JA等が広島市民は広島産の野菜、お米を食べましょうと地産地消といっているが、食糧を自給するということではその究極の姿は「自分で食べるものは、自分で作る」ということだ。
それを「自産自消」というようだ。
なかなか上手い造語だ。

「餃子、粉ミルク、冷凍インゲン」と、次から次と食の安全が脅かされる事態が起こっている。
これだけおかしくなってくると、自分で食べるのは自分で作るのが一番信用できるということになる。
いざという時、食を確保するには最も確実な手段だということでもある。
CO2削減にもなる。

積水ハウスでは菜園ガーデンと称し、自宅の庭、マンションのテラスで野菜を作る「菜園ガーデン」のキットも売り出している。

広島市ではいま市民農園を6,000カ所にふやした。
秋葉市長の公約は1万か所だ。
1万か所なんていわず、10万か所くらい作れば、専業の農家の農作物と合わせれば、それこそ広島市民は自産自消、地産地消できるかもしれない。
そうなれば広島市は、自産自消、地産地消のできる都市として、世界で最先端をいっているモデル都市になる?

*お願い
この文章の下にある《広島Blog》というバナー(画像)を クリックしてください。

2008年11月 3日 (月)

家族

上の男の子が小学生の頃、父兄参観日に「お宅のお父さんは、病気ですか」といわれ、
女房は「はあ? いえ、病気じゃありませんけど・・」答えたそうだ。
教室の後ろの壁には「私のお父さんの好きな食べ物・おかゆ」と書いた作文が飾られていたという。
そのころの私は、毎晩飲んだくれて、帰るのは午前様だった。
自宅では食欲がまったくなく、「おかゆ」しか食べられなかったのだ。

以前女房に「俺も、子供たちとよく遊んだよね」といったら、
「お父さんは、自分のやりたいことに、子供たちを付き合わせただけでしょ。
スキーだって、ドライブだって、オー行くぞ、とサッサと先に行っちゃうんだから。
あと追いかけていくのは、私と子供たちよ」
と言われてしまった。

まあ言われてみれば、そうだった。

お陰で?子どもたちは妙に自立している。
下の女の子は、大学時代の友人とサッサと結婚してしまった。
上の男の子は、たまにあった時「どうだ?」と聞くと、「こうだ」で話は終わる。

広島に来るときも「行くぞ」とだけいって出てきた。
「普通は子供が大きくなると、子供が家を出て行くのに、内はお父さんとお母さんが家を出ていってしまった」といわれた。
広島に来てもう6年になる。
しかし一緒に来たはずの女房は、いつの間にか子どもたちの東京にいることの方が多くなっている。

お陰で、広島では沢山の友達ができた。
私も妙に自立している?

それが女房の作戦?
ニャロメ!
敵もやるなー。

*お願い
この文章の下にある《広島Blog》というバナー(画像)を クリックしてください。

2008年11月 2日 (日)

エスニックタウン

基町の市営住宅の中心に、平屋のちょっとしたショッピングセンターがある。
この集合住宅ができたころはかなり賑ったのだろうが、いまではいわゆるシャッター街になりつつある。
市営住宅、そして隣接する県営住宅の住民も少子高齢化が進み、買い物客も少なくなってしまったからだろうと思う。
ショッピングセンターを歩いている人は、ほとんどが老人だ。

お好み焼きのお店、惣菜店、喫茶店、食料品店とそれなりに種類は揃っている。
100店舗くらいはある。
かなりの規模のショッピングセンターだ。
建築の設計は大高正人氏。
古くはあるが、味わいのある建物である。
街には人間臭さも残っている。
韓国料理の焼肉店、キムチ等を売るお店、ラーメン店等、多国籍化も進んでいる。
ちょっとした異国情緒もある。
いまではちょっとエスニックな街となっている。

1

2

広島には韓国、中国、ブラジル、フィリッピンの外国人居住者が2007年の統計では4.1万人も住むという。
留学生も多い。
この基町ショッピングセンターにブラジル人のレストラン、中国の品物を売るお店、インドネシアの洋服を売る店等、できるだけ沢山の外国人の経営するお店を集め、エスニックタウンとしたらどうだろう。
韓国語、ポルトガル語、中国語、インドネシア語の語学学校もやったらいい。

賃料も月坪数千円ときわめて安い。
ここは紙屋町の交差点から歩いて、中央公園を抜ければ、10分ぐらいの距離である。
アストラムラインの城北駅から数分である。
駐車場はないが、まあそこそこの立地だ。
脱車社会は時代の流れでもある。
ドイツのフライブルグ市の新しい住宅地では、駐車スペースを設けることを禁止したともいう。
駐車場がないことが、これからは却って売りになるかもしれない。
食べ物、品物が安くて美味いと評判になれば、あちこちから人が集まってくるだろう。

エスニックとは、民族特有の、民族的な、異国の、風変わりな、という意味の形容詞だ。
「エスニック料理」は、韓国、ベトナム、アラブ、メキシコ、インド、タイのスパイシーな料理を指す場合があるともいう。
ここでは広い意味でエスニックという言葉を理解し、異国情緒のある街と定義したらいい

横浜には中国人の経営するレストラン等が集まって中華街を作っている。
その横浜中華街よりもっと多様な国のお店の集まった街=エスニックな街を目指したらいい。
お好み焼き村もお好み焼きのお店を沢山集まったことで魅力が増している。
基町ショッピングセンターの店舗の募集も、エスニックなお店が好ましいと絞ったらいい。
広島に住む各国からの留学生が仕掛け人になる手もある。

「エスニックタウン・ひろしま」
国際都市広島に相応しいコンセプトの街ではないだろうか。

*お願い
この文章の下にある《広島Blog》というバナー(画像)を クリックしてください。

2008年11月 1日 (土)

自転車の盗難

 ここ5年余り私の足として使ってきた黄色のミニ自転車が我がマンションの自転車置き場から消えた。いつもは、数字合わせのチェーンロックを掛けるのに、この日はひどく体調が良くなく医者に行っての帰り、つい横着をしてしまった。

 街中のマンションで自由に出入りできる駐輪場だからこれまでも度々持ち去られ、己斐や幟町に放置されていると警察から連絡を受けて引き取った。
 体調が優れない時だけに“踏んだり蹴ったり”の思いが強く少し落ち込んでしまった。

 この自転車は孫の大直(だいち)が本通りのさるお店の歳末売出しの抽選で引き当てた景品で中国製ながら小回りのきく軽やかな黄色のミニで特に病後の足や腰痛などを抱える私の足代わりと言うか分身として重宝してきただけに、自らの不注意が残念でたまらない。

 自転車で移動するのに30分も走れば大抵に所に行きつく広島が自転車都市として中心部に公営の駐輪場の整備が年々進んでいる。市民2人に1台と言うから市内の自転車は55万台もある計算で、次々に駐禁帯に溢れる自転車は取り締まりといたちごっこだ。
 駐車場は確保している中心部のデパートや大型商業施設も駐輪場を確保している施設は極めて少ない。公営に頼らず自前の駐輪場をもっと積極的に確保がされるべきだ。

 さて、足を無くしては外出のチャンスを失いかねない。景品だった為か防犯登録などしていなかっただけに、万一どこかで見つかったとしてもこれまでのように警察から連絡をいただくことはあり得ない。従って新しく購入するしかない。

 数か所の自転車売り場を見て、写真のような赤い車体に白いリームカバーのミニ自転車を購入した。ライトはタイヤに摩擦回転する従来のものでなく暗くなれば自動的に発電発光する新型だ。赤い新車で散歩や買い物に出かけるのが楽しみだ。

 自転車盗難と言う“災い”を転じて心身ともに“福”になるきっかけにしたいものだ。

12

*お願い
この文章の下にある《広島Blog》というバナー(画像)を クリックしてください。

« 2008年10月 | トップページ | 2008年12月 »

関連書籍

  • サイフもココロもハッピーに!ちょびリッチ
2018年9月
            1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30