カープ昔話・裏話③
戦後のプロ野球はホームゲーム制が確立していなかった。
連盟に20万円払って興業(試合)を行い、興行収入を7対3の割合でチーム配分した。
勝率3割を割る弱小カープの収入は上がらず、オープン戦などの日銭稼ぎに走った。
戦後のプロ野球界には広島縁の人が多かった。
石本監督を筆頭に南海の山本一人監督(鶴岡)、阪急の浜崎真二監督、大坂タイガースの若林監督に加えて藤村兄弟をはじめ柚木進など多くの一流選手がいた。これらの選手が育った広島は戦前からの野球王国だった。
敗戦後、GHQ(連合国総司令部)は日本の野球熱に目を付けて日本の戦後処理と民主化と日米交流の推進役には野球が最適と考えた。24年にはオドール監督が率いるサンフランシスコ・シールズを送り込んだ。3Aのチームだったが「戦争には負けたが勝負に負ける訳にいかない」と初めて組織した全日本選抜を始め巨人に6大学選抜はことごとく全敗した。
アメリカ野球との実力の差を見せつけられると同時に「アメリカ野球に追いつき追い越せ…レベルアップを…」と日本のプロ野球が新しい時代を迎えることになる。
日本プロ野球連盟は昭和24年に2リーグ制の導入を決め、野球王国広島にプロ球団の誕生に向けた風が吹きカープ誕生に繋がった。カープ誕生の裏には間接的ではあるが“GHQの占領政策”が働いていた…戦後史の一面を見逃せない。
所で、26年「私に任せて…」と訴えて球団の解散や合併を食い止めた石本監督は当時のプロ球団では考えられない「後援会」創りに奔走する。長谷部選手の出身地・矢野地区で行った「金は要らない、選手に食べさせるだけでいい」と行った紅白戦の経験がヒントになった。
ギャラや入場料が無い代わりに寄付金や食料品がたくさん寄せられた。フアンは喜び球団には支えになった。しかし、長く維持できるだけの資金では無い。
そんな時期、県警の有志400人が1万6000円近い寄付金を贈った新聞記事で、カープの窮状を知ったフアン達が動き出し、試合の日には球場前に四斗樽が置かれる様になった…。
渡辺さんの昔話・裏話は機関銃のように発射され、長谷部さんの体験は熱を帯びて語られ、中沢さんを加えた3人は「新球場に石本さんの銅像がいる」と声を揃えた。
こんな話が満載の「広島カープ 昔話&裏話~じゃけえカープが好きなんよ~」<西本恵著・有限会社トーク出版・082-249-0461・1500円>を会場で見つけた。カープフアンが球団の歴史を辿りカープを再認識するには格好の資料で優れた読み物で面白い。<完>
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