カープ昔話・裏話②
渡辺英之さんがカープに入団したのは創設3年目の昭和27年だった。かねてより親しかった石本監督に「手伝ってくれ」の一言で入団した。たった4人の女子職員と球団の運営や管理、選手マネージから試合では球場アナウンサーに、オフシーズンはキャンプにフアンとの集い町内会単位の後援会への挨拶回りと出来る限りの裏舞台を支えた。
“広島にプロ野球を!…”という夢を抱いていた渡辺さんは後先を考えず“燃え盛る火の車カープ”に飛び込んだ。今は「歴史をたどってもっとカープを好きになって!!」と長谷部さんとのコンビを組んで『カープと市民球場の語り部』活動を広めている。
カープは「株式会社広島野球倶楽部」として昭和25年9月二設立。資本金の2500万円を公募した。財界や個人も株主になったが、県が500万円や広島市200万円と自治体も議会で議決して税金を出資した。他チームの様に親会社を持たないで県市民・官民一体で“復興の起爆剤”と位置付けた事が、いまだに“市民球団”と言われる所以だ。しかし、自治体の予算執行は翌シーズンの途中からで、目の前の金が欲しいカープにとってこの資金繰りは予想外の大きな障壁になって尾を引くことになる。
それでも資金のやり繰りに喘ぎながらも初シーズンを終了したが、41勝96敗勝率2割9分9厘の再開でトップの松竹との差は59ゲーム。この結果、弱小カープは1年目にして600万円の累積赤字を抱え込んだ。
当時、大洋ホエールズは6000万円の資金で立ち上げ、大毎オリオンズは若林や別当選手を200万円で確保に乗り出す時代に、魅力的とは言え長谷部選手は月給5000円の内千円しか手に出来ない、カープ独自の台所事情が自治体の出資にあった。
赤字を抱えたカープの運営はますます苦しくなる。2年目の26年、連盟に払う300万円を滞納したため連盟から試合数を減される“乾され”にあった。お荷物球団は「チーム合併か解散」しか無く、大洋の吸収合併が具体的な課題となった。
26年3月14日、NHKな「カープの解散役員会の開催」ニュースを伝えると会場の天城旅館前に2000人ものフアンが押し寄せて「カープの存続」の声を上げた。
石本監督は「広島復興のために創った球団」を“私に任せてほしい…”と役員会に申し入れ、後援会創りに乗り出した。
当時、段原小学校の3年生だった迫谷少年が30銭、50銭と貯めていた200円の寄付を申し入れた事が大きな話題となって『たる募金』に繋がって行った。 <続く>
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