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2008年9月

2008年9月30日 (火)

「マジ切れ総理」と記者の役割

 総理の突然の辞任会見で飛び出した一言は 数日間新聞紙面を賑わわせた後、今は“ザ・ニュースペーパー”の時事漫談などで連日のようにTV画面でお笑いネタで膨張中だ。
 一国の総理とはいえ厳しい意見や批判に曝されるのは当然とは言え、過去にこのように揶揄されてお笑いのネタにされた総理がいただろうか。
 
 「総理の会見は国民には『他人事』のように聞こえる。この辞任会見も」と言う質問に「『他人事のように』と貴方はおっしゃったけどね、私は自分自身のことは客観的に見ることが出来るんです。あなたとは違うんです!!!」と記者を見下したように、気色ばんだ。
 
 この答えを引き出した中国新聞東京支社の道面雅量記者は3日付の紙面に生意気な質問という指摘を受けるかも知れないが、あえて聞いておきたかった…と書いている。
 昨秋、米国民主党のオバマ上院議員が「米国は核兵器のない世界を追求する」と発言したのを受けて、“ぶら下がり会見”で聞いた時の返事が気懸りだったからだと言う。
 「そりゃ、そうゆう世界が実現すれば、それに越した事はないと思います。…核保有競争する世界ではあまり良くないと思いますけどね…」。唯一の被爆国の総理の発言として、この軽薄さだ。道面記者は会見を聞きながら、前記の発言などが蘇り、どうしても聞かずには居られなかったと書いている。記者が“権力の本音・本質”を引き出す役割は極めて大きい。発言後、道面記者は一斉に他社の取材を受け報道される羽目に成り驚いたようだ。

 昭和50年前後の5年間、官邸記者クラブ国会等で取材した経験から以下のような推測が出来る。つまり、道面記者を逆取材した大手各社の現場は、常に総理の顔色を見ながら「総理の感情を刺激しないで、目をつけられないように」権力との対峙を避け、おもねている。
 比較として適当では無いかもしれないが、次のような事例を経験した。

 昭和50年夏、天皇の初訪米前の宮内庁記者会見での「原爆投下はやむを得なかった…」発言がある。この時は日本記者クラブのメンバーだったRCCのA記者が質問に立ち、道面記者以上の逆取材にさらされた。記者クラブ幹事との事前の打ち合わせを十分に重ねながらの質問だったが、週刊誌から雑誌、新聞社に放送局まで逆取材報道は凄まじかった。

 地方マスコミの顔が売れていない記者が驚愕の答弁を引き出せば、記者仲間と言うより“ライバルや妬みの対象”として扱う。大手マスコミの身勝手でお座成り体質が今も残っていると言えよう。そこに、本質を暴く姿勢や気概は微塵もなく、情けない現実だ。
 それにしても折角引き出した「総理のマジ切れ、本音発言」だ。お笑いネタで終わらせないで、近々に予測される総選挙で政権交代が実現する結果を冷静に厳選したいものだ。

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2008年9月29日 (月)

映画「ラストゲーム」の感動

 太平洋戦争の末期、戦地に赴く学生達に最後の厳しい反対を乗り越えて試合を実現した史実に基づく映画「ラストゲーム~最後の早慶戦~」を野球好きな孫と見た。

 「ハチ公物語」「大河の一滴」「草の乱」の神山征二郎監督が長年温めてきた最後の早慶戦を通じて戦争の“虚しさ・悲しさ・恐ろしさと不条理”を見事に描いた秀作で、戦中派にはこの上もなく静かに感情を揺さぶる作品で、特に中高大学生ら若者達に勧めたい。

 舞台は太平洋戦争の戦況が悪化の一途を辿る昭和18年4月(1943年)。文部省は「野球は敵国アメリカの国技だ」と東京六大学野球連盟の解散を命じる。9月には、法文科の学生に適用していた徴兵猶予の全面停止を決める。これを契機に学業優先の特権が無くなり、野球に情熱を傾けてきた彼らはバットを捨てて銃を取らねばならない時代を迎えていた。
 いわゆる学徒出陣で堰を切って一斉に学生が戦地に送り出された。

 出征して戦地に赴けば二度と帰れないであろう若者達に、せめて生きた証を残してやりたいと慶応義塾の小泉信三塾長(石坂浩二)は早稲田大学野球部顧問の飛田穂州(柄本明)に「早慶戦」を申し入れる。飛田は小泉の希望を受け入れるが早稲田大学総長(藤田まこと)は頑として受け入れない。しかし、飛田の強行突破に総長も折れて10月16日、ついに最後の早慶戦は実現する。

 柄本が演じる飛田は自分の責任で試合を決めた時、総長に対して「軍部に睨まれた苦境にある多くの教授たちは早稲田の名誉を掛けて説を曲げていない」と言いきって中央突破を計る。流石の総長も飛田の命がけの覚悟の前にすべての責任を買って出る。
 野球に夢を追った若者が強制的に出陣しなければならなかった事実。死を覚悟でわが子を戦場に送り出す親の苦悩。自由が奪われ重苦しい戦時下にあって、少しでも人間らしく生きようとした気骨のある男達の熱い思いが胸を揺さぶって、流れる涙を止めようがない。
 
 終了後、孫と2人で食事をしながら「どうだった?」と感想を聞いてみた。
“難しかった”とは言え10歳の少年の胸にも感動はそれなりに響いた様だ。
 本当にあったことよね。戦争ほど悪いものはない…と思う。僕たちは幸せなのかな…?
 このあと一緒に遊ぶ仲良しの友達に「いい映画だった」と見るように言いたい。
 母さんやお兄ちゃんにも話してあげたい…と言う。
 結構、理解できていることに安心したり、喜んだり嬉しくなった。
 史実として伝える上でも是非若い人に見てほしい作品だ。
サロンシネマ1(広島市中区大手町・082‐241‐1781)で19日まで上映中。

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2008年9月28日 (日)

広島厚生年金会館の取得、存続

広島市は2008年7月7日、厚生年金会館を取得すると表明した。
厚生年金会館を所有している独立行政法人年金健康保険福祉施設整理機構が2010年までに一般競争入札での売却の方針を打ち出したことで、地元市民としてはどうなることかとかなりヤキモキしていた。
郵便貯金会館は県が取得したが、その際、厚生年金会館は市がなんとかするという約束になっていた。
財政難の広島市が取得するのは困難ではないか、どうするのかと心配していたが、その取得費用についてもなんとかなるという目途がついたということだろう。
まずはこれで一安心ということになりそうだ。

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広島市は取得額が高くなる可能性のある一般競争入札を避けるため、土地収用法を適用し、随意契約に持ち込みたい考えだという。
広島市民としては、広島交響楽団とその会場としての厚生年金会館が残ればいいわけだから、その手法に文句はない。
厚生年金会館は宿泊、レストラン、結婚式場等もついたホテル部門もある。
取得後の経営は大丈夫かという心配はあるが、今では民間にその経営をまかせるという指定管理者制度もある。
経営は指定管理者制度を適用し、民間に任せることになるのだろう。
これまでも、建物の取得による金利償却等の負担を除けばなんとかなっていたと聞く。
市の補助金をそれほど当てにしなくとも、やり方によっては充分やっていけるだろうと思う。
条件にもよるだろうが、広島市内にあるホテルは、指定管理者になることに興味を示すだろうと思う。

厚生年金会館はが、丹下健三氏の作品であるということを知らない人が多い。
丹下健三の作品としては、珍しく優しい、商業的な作品になっていることにもよるのだろう。
しかし、その分使いやすい建物になっている。
指定管理者となった企業は、厚生年金会館は丹下健三の作品だということをもっとPRしたらいい。
そうすれば利用者も増えるだろう。

平和公園の間近に、丹下健三氏設計の厚生年金会館の建物があることの価値は高い。
それがそのままの姿で残ることになった。
広島市の努力を評価したい。

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2008年9月27日 (土)

平和大橋の歩道増設

平和大橋北側に歩道が増設される。
その橋のデザインをどうするかについては、デザインコンペで選ばれることになった。
現在の平和大橋はイサムノグチの設計である。
作られたときには、そのあまりの斬新なデザインが顰蹙をかったが、いまでは平和公園の一部として、ヒロシマを象徴する橋になっている。
あだおろそかに手がつけられない程の価値のある橋にすらなっている。
しかし現実は、歩道は1.8Mと幅が狭く、朝晩のラッシュアワーでなくとも、自転車とぶつからないかと恐怖感すら覚える。
欄干も低い。
実は橋の欄干の高さは1.1Mという基準がある。
この平和大橋はその基準を満たしていない。
フラワーフェスティバル等ちょっとしたイベントがあるときには、人が落ちないようにと、現在の欄干の上に鉄パイプが取り付けられる。
当然あまり格好よくはない。
壊すわけにもいかず、そうした応急処置をして、凌いでいるのが現状だ。

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いつの頃からか、橋、擁璧、護岸等土木構造物はどれも醜いものになってしまった。
土木技術者も、美しいものをつくるということに無関心となってしまっていたようだ。
「機能的なものは美しい」という妙な機能主義のデザイン論に蝕まれていたともいえる。
高架の自動車道は巨大な橋だといえるが、それが美しいとは誰も思わないだろう。
そんな醜い高架の道路が街の中にドーンと居座っているのが、都市の現状だ。

それが今回、東大土木の景観研究室の内藤廣教授を審査委員長にして、平和大橋は残し、増設する歩道部分のデザインを、コンペで募集し、その中から選んで決めるという。
素晴らしいことだ。
対象となる橋は小さいが、その意味するところは大きい。
広島から新しい文化を発信する試みの一つと評価したい。

本年度末までにデザイン案を決め、2011年着工、14年完成を目指すという。

街を美しくするのは、都市のインフラである土木的工作物を美しく造ることが、まずもって必要だ。
デザインコンペ、こうした試みの対象をさらに広げてほしい。

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2008年9月26日 (金)

アキバプロジェクト

―慰霊碑の前で手を繋ぐ

2008年9月2日、広島で開催されたG8下院議長サミットも無事終わった。
今回の議長国である、河野衆議院議長の発案でテーマは「平和と軍縮」とした。
それならその会議をするのに最も相応しい場所は広島だということで、広島で開かれることになったという。
アメリカ、ロシア、ドイツ、フランス、EU等の下院議長という世界的にもそれなりの影響力のある人たちが、広島に来て、平和資料館を見、被爆者の話を聞き、平和公園の慰霊碑に参拝した意味は大きい。

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今回の広島での会議の本当の趣旨は、何かを具体的に議論することより「広島に来て、見ればわかる」ということだったと思う。
そうしてみると、それは今の秋葉市長がまだアメリカの大学教授だった時代、1977年に始められたアキバプロジェクトにその原点があるといえる。
アキバプロジェクトは、原爆の投下は正しかったと思っているアメリカ人に、「そうではない。原爆がいかに恐ろしいものかは、広島に来て、見てみればわかる」とアメリカのジャーナリストを広島に連れてくる活動だった。
そのアキバプロジェクトが、とうとうアメリカ、ロシア等G8の下院議長を広島に連れてくるということにまで発展したともいえる。
その原爆を投下したアメリカからは、今回ロペシ下院議長が来た。
ロペシ下院議長も広島に来て、見て、聞いて、そして広島の空気にふれ、心の中に大きな変化が起こったようだ。
ペロシ下院議長は、広島で開かれたことに対して、河野議長に感謝の意を表したという。

秋葉市長のいう「2020年までに核廃絶をする」ということも、これで1歩前に進んだ感がある。

慰霊碑の前で、誰が声をかけたのかわからないが、各国の議長が、まったく自然に、手を繋いだ姿は感動的ですらある。
G8議長サミットを広島で開いた価値は、この姿に象徴されている。
こうして世界の国々のトップが手を繋ぐことができれば、テロとか戦争とかがなくなるだろうにとすら思えてくる。
“各国の大統領、首相が広島に来て、慰霊碑の前で手をつないで欲しい”と願わずにはいられない。

「2020年、核廃絶を記念して、各国首脳がこちらを向いて、手をつないで立つ」?

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2008年9月25日 (木)

カープ昔話・裏話③

 戦後のプロ野球はホームゲーム制が確立していなかった。
 連盟に20万円払って興業(試合)を行い、興行収入を7対3の割合でチーム配分した。
 勝率3割を割る弱小カープの収入は上がらず、オープン戦などの日銭稼ぎに走った。
 
 戦後のプロ野球界には広島縁の人が多かった。
 石本監督を筆頭に南海の山本一人監督(鶴岡)、阪急の浜崎真二監督、大坂タイガースの若林監督に加えて藤村兄弟をはじめ柚木進など多くの一流選手がいた。これらの選手が育った広島は戦前からの野球王国だった。

 敗戦後、GHQ(連合国総司令部)は日本の野球熱に目を付けて日本の戦後処理と民主化と日米交流の推進役には野球が最適と考えた。24年にはオドール監督が率いるサンフランシスコ・シールズを送り込んだ。3Aのチームだったが「戦争には負けたが勝負に負ける訳にいかない」と初めて組織した全日本選抜を始め巨人に6大学選抜はことごとく全敗した。
 アメリカ野球との実力の差を見せつけられると同時に「アメリカ野球に追いつき追い越せ…レベルアップを…」と日本のプロ野球が新しい時代を迎えることになる。
 日本プロ野球連盟は昭和24年に2リーグ制の導入を決め、野球王国広島にプロ球団の誕生に向けた風が吹きカープ誕生に繋がった。カープ誕生の裏には間接的ではあるが“GHQの占領政策”が働いていた…戦後史の一面を見逃せない。

 所で、26年「私に任せて…」と訴えて球団の解散や合併を食い止めた石本監督は当時のプロ球団では考えられない「後援会」創りに奔走する。長谷部選手の出身地・矢野地区で行った「金は要らない、選手に食べさせるだけでいい」と行った紅白戦の経験がヒントになった。
 ギャラや入場料が無い代わりに寄付金や食料品がたくさん寄せられた。フアンは喜び球団には支えになった。しかし、長く維持できるだけの資金では無い。
 そんな時期、県警の有志400人が1万6000円近い寄付金を贈った新聞記事で、カープの窮状を知ったフアン達が動き出し、試合の日には球場前に四斗樽が置かれる様になった…。

 渡辺さんの昔話・裏話は機関銃のように発射され、長谷部さんの体験は熱を帯びて語られ、中沢さんを加えた3人は「新球場に石本さんの銅像がいる」と声を揃えた。

 こんな話が満載の「広島カープ 昔話&裏話~じゃけえカープが好きなんよ~」<西本恵著・有限会社トーク出版・082-249-0461・1500円>を会場で見つけた。カープフアンが球団の歴史を辿りカープを再認識するには格好の資料で優れた読み物で面白い。<完>

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2008年9月24日 (水)

カープ昔話・裏話②

 渡辺英之さんがカープに入団したのは創設3年目の昭和27年だった。かねてより親しかった石本監督に「手伝ってくれ」の一言で入団した。たった4人の女子職員と球団の運営や管理、選手マネージから試合では球場アナウンサーに、オフシーズンはキャンプにフアンとの集い町内会単位の後援会への挨拶回りと出来る限りの裏舞台を支えた。
 
“広島にプロ野球を!…”という夢を抱いていた渡辺さんは後先を考えず“燃え盛る火の車カープ”に飛び込んだ。今は「歴史をたどってもっとカープを好きになって!!」と長谷部さんとのコンビを組んで『カープと市民球場の語り部』活動を広めている。

 カープは「株式会社広島野球倶楽部」として昭和25年9月二設立。資本金の2500万円を公募した。財界や個人も株主になったが、県が500万円や広島市200万円と自治体も議会で議決して税金を出資した。他チームの様に親会社を持たないで県市民・官民一体で“復興の起爆剤”と位置付けた事が、いまだに“市民球団”と言われる所以だ。しかし、自治体の予算執行は翌シーズンの途中からで、目の前の金が欲しいカープにとってこの資金繰りは予想外の大きな障壁になって尾を引くことになる。

 それでも資金のやり繰りに喘ぎながらも初シーズンを終了したが、41勝96敗勝率2割9分9厘の再開でトップの松竹との差は59ゲーム。この結果、弱小カープは1年目にして600万円の累積赤字を抱え込んだ。
 当時、大洋ホエールズは6000万円の資金で立ち上げ、大毎オリオンズは若林や別当選手を200万円で確保に乗り出す時代に、魅力的とは言え長谷部選手は月給5000円の内千円しか手に出来ない、カープ独自の台所事情が自治体の出資にあった。

 赤字を抱えたカープの運営はますます苦しくなる。2年目の26年、連盟に払う300万円を滞納したため連盟から試合数を減される“乾され”にあった。お荷物球団は「チーム合併か解散」しか無く、大洋の吸収合併が具体的な課題となった。

 26年3月14日、NHKな「カープの解散役員会の開催」ニュースを伝えると会場の天城旅館前に2000人ものフアンが押し寄せて「カープの存続」の声を上げた。
 石本監督は「広島復興のために創った球団」を“私に任せてほしい…”と役員会に申し入れ、後援会創りに乗り出した。

 当時、段原小学校の3年生だった迫谷少年が30銭、50銭と貯めていた200円の寄付を申し入れた事が大きな話題となって『たる募金』に繋がって行った。     <続く>

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2008年9月23日 (火)

カープの昔話・裏話①

 8月最後の日曜日,二葉公民館で開かれた「中沢啓治さん(69)が語るカープ物語」の会に出かけた。この日の会は中沢さん原作のアニメ映画「かっ飛ばせドリーマーズ~カープ誕生物語~」を観て、中沢さんとカープの生き字引と言われるカープ職員OBの渡辺英之さん(78)さん、カープOB会会長の長谷部稔さん(77)が語る「カープの昔話・裏話」を聞く集いだ。

 中沢さんは「はだしのゲン」の原作者で「カープ誕生物語」や「野球バカ」などカープをテーマにした作品がある球団創立時からの熱烈なカープフアン。
 長谷部さんはカープ発足時、最初のテスト入団し長年、エース長谷川良平投手の女房役を務めた生え抜きのキャッチャーで、長谷川さんの後を受けてOB会の会長を務めている。
 渡辺さんはカープの創設時から石本監督に請われて球団の事務から選手マネージャー、試合中は球場アナウンサーを務めるなど貧乏時代のカープを縁の下で支えてきた陰の功労者で、球団史を語れる「カープ語り部プロジェクト」の講師を務めている。

 3人はそれぞれの被爆体験からカープ誕生と創設期に関る、とって置きの裏話を披露した。中沢さんの話は9月5日に『はだしのゲンとカープと若者達』で掲載済みなので割愛する。

 長谷部さんは昭和25年12月,カープが初めて行った新人テストを皆実高校(旧県工)3年生の時に受けた。百人を超える人がテストを受けた。皆実の野球部から数名が受け翌年1月の発表で5人の第一期生として採用され、翌日から練習に参加した。
 三菱の徴用工達の寮だった合宿所で、よく判らないまま契約の署名を強く求められた。
 「署名しないと帰らせない」と言う監督の勢いに押され、家族と相談する間もなくサインをした。神様のように思っていた石本監督のヤンヤの催促だった。 契約後は卒業試験を除いてカープの合宿で野球漬けの毎日で、遂には卒業式も欠席し、そのままプロ野球の世界に突進していった。今では考えられない新人確保の契約状況だった。
 監督が契約を急いだのは連盟に届出が必要な50人がなかなか集められず焦っていた。
他球団で一度は引退したり首寸前の選手を中心に寄せ集めたがそれでも足りない数人を新人テストで間に合わした…という事情があった。
 しかし、待遇は魅力的だった。
 当時、県庁や市役所の初任給は1700円、貧乏球団とは言え月給5千円は流石プロの世界の待遇だった。所が、長谷部さんが手にした初月給は千円だった。
 残り四千円はある時払い…と言う貧乏球団でプロ野球選手のスタートを切った。 
                     <続く>

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2008年9月22日 (月)

山手線駅階段の降り口

山手線池袋駅の階段の降り口、エスカレーターに接した部分のコンクリートの壁が2Mほど削られ、ホームがその分50CM位の幅で拡がっていた。
ちょっとしたことだが、これは上手い手だ。
これで大分混雑は大分解消され、危険性も減少するだろうと思われる。

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電車が止まると降りる人は一斉に階段に向かうので、下りエスカレーターの前には人が集中し、流れも悪くなる。
ラッシュアワーにはエスカレーターの降り口は人があふれ、発車した電車に触れないかと心配になる。
そうした危険性を少しでも減らそうということで考え出されたのが、この工事だろう。
さらに鉄パイプの手すりを1Mほど伸ばし、エスカレーターに乗るまでの間にユトリをもたせている。
また鉄パイプの間からは、下りエスカレーターがどこから始まるかを見えるようにしている。
これも安全性を高めるには効果的だ。
少しでも安全性を高めようと、いくつもの手を打っている。
それぞれはちょっとしたことだが、安全性を高めるということについては大きな効果がある。

JR東日本も憎いことをやる。

かっての国鉄時代であれば、利用者のほうが、自分で安全については配慮しろという感じであった。
電車に乗せてあげているのだから、有難く思えというわけである。
そんな思想が全ての面にあった。
まあ物不足の時代にあっては仕方のない思想だった。
しかし今は乗客の安全性とか好みとか、利用者の立場にたって、全てのものが捉えられなければならなくなった。
価値観が大きく変化したのだ。
JR東日本も、ようやくそうした思考に変化したようだ。

いいことだ。

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2008年9月21日 (日)

軍隊のない国

世界には軍隊のない国が27もあるという。
コスタリカ、サンマリノ、アイスランド、リヒテンシュタイン・・・
前田朗氏が自らそれらの国々を訪ね歩き、「軍隊のない国家―27の国々と人々」という本を著わした。

それらの国は、まずお金がないから軍事力を持つ力がないということが一番の理由のようだが、しかしお金がないだけでは必ずしもないようだ。
軍事力を持つ代わりに、したたかの外交力を備えているという。
そのためには軍隊を持たずともやっていくという強い意志と能力が必要だと書いている。

ちょっと注意してみてみると、軍隊のない国は、どの国も皆小さい。
国といっても、人口は都市程の規模だ。

アメリカ、ロシア、中国のようにでかい国は、軍隊を持ち、核を持つことを当然のこととしている。
日本だって、防衛予算は金額的には世界第2位だという。
軍隊を維持するために凄いお金を使っている。

国家というのは恐竜のようにでかい。
恐竜はでかくなり、凶暴になったが故に、互いに傷付けあい、地球環境の変化にも対応できず、絶滅したといわれている。
国家もでかくなり、軍隊を持ち、核をもち、戦争することで、絶滅するかもしれない?
アメリカもでかいが故にその力を過信し、戦い、体力を消耗していき、その結果滅びようとしているのだろうか??
国はなくなってもいいが、人類が絶滅するようでは困る。

軍隊がなくとも、国家も人類も充分生きていけるということを、この軍隊のない国、27つの国は教えてくれている。
核をなくす、軍隊をなくすために最短の道は、“国家を都市の規模にする”ことのようだ。
前田朗氏のこの本は、そんなヒントを与えてくれているように思える。

秋葉市長は今年の平和宣言で、『日本国憲法は都市間関係をモデルとして世界を考える「パラダイムの転換」の出発点です』といっていた。
秋葉市長は「都市のネットワークで世界を創ろう。そうすれば世界は平和になる」といっているように思う。
それを「パラダイムの転換」といっているのだろう。

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2008年9月20日 (土)

サンフレッチェの試合数と観客数

日本のサッカー、Jリーグは18チームで構成され、ホーム&アウェイで計36試合行われている。
つまり広島で行われるホームゲームは18回ということになる。
その他天皇杯等の試合を含めて、サンフレッチェが広島での試合数は年間で22試合程度のようだ。
ということは、サンフレッチェの試合の行われているビッグアーチは、年間365日のうち343日、つまり1年のうち、殆どは人気のない状態にあるということになる。

観客数は、合計で約23万人だというから、プロ野球のカープの観客数100万人に比べたら、大分少ない。

市民球場跡地にサッカー専用スタジアムを作れば、確かにアクセスはよくなるが、それでも球場跡地の集客力として期待されている150万人には到底とどかない。

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イタリアセリエAも同じ18チーム、36試合だ。
サッカーのような消耗の激しいスポーツでは、野球のように続けて翌日も試合をするというわけにはいかない故に、今のような少ない試合数になっているようだ。

アメリカンフットボールはレギュラーシーズンで16試合しかない。
ポストシーズンに進出でき、優勝決定戦に出場すればさらに4試合することになる。
1番試合数の多いチームでも20試合ということになる。
サッカーの半分だ。
それでも1試合で10万人を超える観客を集める力があり、放映権料他の収入も多いから経営が成り立っている。
いずれ日本のサッカーもそうなることが期待されるが、当面はとても無理だろう。

因みに広島カープの年間試合数は、年により変わるが、
今年はリーグ内で110試合(5チーム×22試合)と交流戦で36試合(6チーム×6試合)の合計146試合ある。
野球の方が、サッカーより100回以上も多い。
ホームゲームを松山でやったり、岡山でやったりしているが、それでも広島市民球場での試合数は70回近くにはなる。
ということは、市民球場は年のうち300日近くは殆ど人がいないという状態にあるということになる。

サンフレッチェは広島市民にとって貴重な財産であり、そのサンフレッチェを盛り上げるためにサッカー専用スタジアムが欲しいというのもよくわかるが、それを市民球場跡地にというのは、“中心市街地に賑わいを創り出す”という面からは、ちょっと?といわざるを得ない。
サッカー専用スタジアムを作る際には、このサンフレッチェの集客力、試合数をきちんと理解して、検討する必要があるようだ。

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2008年9月19日 (金)

新市民球場へ行くぞ!

 30年以上も前になるだろうか。私は広島市民球場の外野席にいた。誰が打ったか憶えていないがホームランボールが私めがけて飛んできた。一瞬手を伸ばして身を乗り出していた。その日は、TV中継があり、カメラはボールの行方を追っていた。カメラの先に私がいたらしい。「TVに写っとたよ」 翌日、先輩社員から冷やかされた。

 あれ以来だろうか、「カープの試合が観たい」という小3の孫にせがまれて、8月中旬
ヤクルト戦を観戦した。一塁内野自由席、ほぼ満席だ。我々の前の席に外人のカップルが居た。カープのチャンスごとに、立ち上がっては奇声・嬌声を発する。そのうち体が触れて、言葉を交わすことになった。広島在住の熱心なカープファンと思いきや「イタリア・ミラノから来た観光客で、一度日本のベースボールを見たかった」という。ビールのグラスを何度も重ねた。孫も、周囲の熱気にあおられて、メガフォンを手に大声を張り上げていた。
 試合結果は4:3で惜敗したが、ともあれ、ビールも弁当もうまかった。

 8月も末、東京へ帰る孫に同行して新幹線に乗った。右手の車窓に建設中の球場が見えた。
6月に植えられたという天然芝が、ほぼグランドを覆い尽くし緑が鮮やかだった。
「ほら、ごらん!あれが新しい球場だよ。来年の夏はあそこに行こうね。」
「ウン、約束だよ」孫は小指を差し出した。

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2008年9月18日 (木)

視覚障害者向けカメラ

目が見えなくても、見事な写真が撮れて、それを感じることができて、ネットで共有までできてしまう。そんな夢の新世界を切り開くデバイスが研究されています。この新デバイスはTouch Sightと呼ばれ、韓国のトップ企業であるサムスンの中国研究所で、研究されている視覚障害者用技術=タッチテクノロジーを使った製品の一つです。

Touch Sightでの撮影は、目で見て行うわけではないので、額に当てて行います。一般的に視覚障害者は音に敏感で鋭い聴覚を持っています。その音を頼りに被写体を決め、シャッターを切ります。撮影されたものは、点字シート上で再現され、音も一緒に記録されます。

そして、そのデータは個人の記録とするだけでなく、インターネットでアップロードし、共有することもできます。

サムソンではTouch Sightを「実用化を視野に入れて研究開発を支援している」ということなので、近い将来、新しい世界を拡げてくれそうです。

ITは健常者に対しても視野を拡げてくれるものですが、こうした障害を持つ人にとって、それは更に大きな貢献をしていくのではないかと思います。そして皆の心が豊かになることが、社会を豊かにし、個人の幸せに還元されていくのだと思います。

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2008年9月17日 (水)

国会議員の資格

 民主党の3参議院議員が無所属の2人と新党「改革クラブ」の結成をした。
 参議院での新党結成は民主党の代表選を無投票で乗り切ろうとしている小沢代表に冷や水をかける造反劇だ。国会運営への影響は少ないと言うものの議員の資質を改めて質す必要がある…と強く感じた。

 渡辺英央、大江康弘議員は道路整備財源特例法の参議院本会議採決で造反し、党員資格の停止処分中。姫井議員は岡山選挙区で自民党の片山虎之助参議院党幹事長を破って初当選し「姫の虎退治」と注目され、週刊誌の不倫報道や自伝の出版などで話題になるなど“議員としての品格”も問われてきた前歴がある。

 姫井氏を支えてきた連合岡山は「姫井氏は衆参ねじれ国会のつなぎ役になりたい」と話したと言うが「連合岡山10万人の信頼を裏切る行為で怒り心頭」とコメントしている。
 また、大江氏の地元和歌山の有権者は「大江氏が当選できたのは有権者に政権交代への期待が有ったからで、議員を辞めずに離党するのは筋が通らない」と反発が強い。
 民主党は「離党するなら議員辞職すべき」として離党届は受理しない方針だったが29日の「新党発足記者会見」に姿を現さなかった姫井氏は『軽率だった…として、民主・残留』で新党参加を辞めた。
 
 今回の新党結成は自民党が裏で仕掛けてきたもので、参議院の与野党逆転をひっくり返そうともくろんできた工作だ。しかし、当然、「改革クラブ」は4人となった為に“政党要件”を満たせないので政党交付金は受けられず、当面の活動の狙いが見事に失敗した。
 それにしても会見に現れない姫井氏の捜索願を出すなど、とんだ“ドタバタ茶番劇”を国民の目の前で演じた「新党・改革クラブ」の政治センスを疑わざるを得ない。

 特に、比例区で当選した大江、姫井氏の2人は個人票でなく政党票を得ての当選で「離党なら議員辞職すべき」と言う民主党の主張が当然で、こんな理屈もわからない国会議員が居ることが恥ずかしい限りで,正しく政治家の資質が問われる所以だ。国民・有権者に向かい合った行為でないことは誰の目にも明らかであり、情けない様と言わざるを得ない。
 正に政治家の品性・資格を欠く見勝手な行為と言わざるを得ない。
 こうした場合の対応には罰則・リスクを伴う法制化が必要なのかも知れない。

 民主党の更なる厳しい対応とこれら選挙区の有権者、特に推薦した連合などが『辞任要求訴訟』でも提訴するくらいの主張と行動があっても良いのではなかろうか。
 それを、期待したい。

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2008年9月16日 (火)

真の国際貢献?

 若い日本人のNGOボランティアがアフガニスタンで誘拐殺人と言う最悪の事件に巻き込まれた。改めて“国際貢献“のあり方を考えさせられた。

 被害に遭ったのは静岡県掛川市出身の伊藤和也さん31歳だ。伊藤さんは医師で医療や農業支援活動をする中村哲医師がパキスタンで創設し、80年代からアフガンでも活動し、この国に根をおろしてきた「ペシャワール会」のメンバーだった。

 農業高校から農業短期大学へ進んだ彼が何故、アフガンを目指したのか?“現地で働く動機”を会のHPで見た。
 「アフガンを知ったのは9・11テロに対するアメリカの報復攻撃によってです。…アフガン復興に関して農業支援と言う言葉でした。…私の力量を判断すると語学はダメです。農業に関しても経験知識とも不足、だが私は現地の人と一緒に成長したいと考えている。  アフガニスタンを本来あるべき緑豊かな国に戻すことをお手伝いしたいと言うことです。子供たちが将来食料のことで困ることが無い環境に少しでも近づけることが出来るように、力になればと考えている。…甘いかもしれないが、現地に行かなければ何も始まらない…」

 5年前に現地に入り、サツマイモや米の栽培、灌漑施設造りに50度近い炎天下で取り組んできた。伊藤さんは現地語を習い地元の人と同じ衣装を身に着け現地に溶け込んでいた。 
 紛争地での活動は常に危険と隣り合わせで、それだけに住民との間の信頼関係を築く事が身の安全に繋がる大切な要件だったようだ。

 15年前にカンボジアで選挙監視の国連ボランティアだった 中田厚仁さんが襲われて命を失ったり、10年前にタジキスタンで国連の仕事に携わっていた学者が凶弾に倒れた例もある。こうした人達に共通するのは紛争に苦しむ人達を助け、支援したいと言う人道主義の熱い思いと志だ。

 農業を通じてアフガンの国造りに貢献したい…と言う考え方は、おそらく彼が育った家庭や学校など彼を取り巻く環境から生まれて来たに違いないが。今時、意外にも若者の中にこうした発想のできる人たちが多いいのも嬉しく「頭が下がる思い」だ。

 「現地に行かなければ何も始まらない…」と志を持って乗り込んだ伊藤さん。彼の捜索に加わった現地の人が数百人から千人に達したことは『現地で慕われ頼りにされ信頼されていた』証しであり本物の国際貢献に身を投じた人と言えよう。

 中村代表は「戦争をしない国日本の人間と言うことで安全を守られてきたが、自衛隊が米国支援で自衛隊を派遣して以来怪しくなった」と発言している。
 
 それにしても、政府の対応はまずい。伊藤さんの意思に応えるために、テロとの戦をあげて、来年1月に期限切れになるインド洋での給油活動の重要性を強調した官房長官の発言は無神経で呆れる。こうした犠牲を政府のプロパガンダや隠れ蓑に使うことは決して許されない。

 政府はこうした目に見えない日の丸を背負って活動する人達やNGOに対して今何が出来るか、何をしなければならないのか“真の国際貢献”の在り方を改めて検討する必要に迫られている…と言えよう。

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2008年9月15日 (月)

カラオケ上手な釜山の崔さん

 釜山の夏も、ひょっとすると日本以上の暑さだ。79歳の崔さんは、今夏も元気で北島三郎のヒット曲を歌ってくれた。8月中旬、囲碁を愛する子どもたち(小中高生)をつれて韓国との囲碁交流でテグ市と釜山市を訪ねた。釜山市では歓迎夕食会が終わると、主役の子どもたちはそっちのけで、二次会に誘われた。釜山韓日協会の李会長と崔顧問は、大のカラオケ好き。日曜日のカラオケバーは、貸しきり状態だった。
 李会長は75歳で釜山市内の大病院の院長。崔顧問は広島の西条生まれ、79歳。ともに日本語は完璧だ。私もカラオケは嫌いではない。崔さんはかつて北島三郎からもらったという腕時計が自慢で、彼のヒットナンバーを愛唱する。79歳という歳を感じさせない張りのある声で日本人はだしの節回しを披露する。興が乗った挙句の氷川きよし「箱根八里の半次郎」にはびっくりした。「なぜこの歌を?」80歳にならんとする外国人の老人の顔をしげしげと眺めた。
 
 歌い疲れて、戦時中の昔話になった。
 崔さん「私は、自分でいうのも何だが優秀な子供だった。あれは中学に入った頃だった町内の有力者の子どもがある日、悪い振る舞いをしたのでそれを注意したら、先生が飛んできて、チョウセンジンのお前が何をするかといって、激しく殴られた。こんな理不尽なことがあるかと体が震えた。65年前のことだが忘れない」
 
 いまも日本語を駆使し、最新の日本のヒット曲を気持ちよく歌いながら、その一方で暗い過去に目を伏せる崔さんの心情にすこしでも迫ることができればと考えたが、言葉が出なかった。しばらくして「崔さん、一度広島へ来てください。こんどは広島で歌いましょう!」陳腐だとおもいながら、精一杯語りかけた。崔さんはうなずいてくれた。
 8月15日を目前にした11日の夜のことであった。

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2008年9月14日 (日)

学問は最高の遊びである?

「学問は最高の遊びである」は、今年の広島大学のキャッチフレーズである。
随分と凝った表現だ。

1

ひと昔前「大学はレジャーランドではない」といって、受験戦争から解放され、大学に入学してからは、全く勉強しなきなった学生を怒った教授がいた。

その大学の代表ともいうべき広島大学が、今度は「学問は最高の遊びだ」という。

北京オリンピックで優勝した内柴選手が「柔道は仕事ですから」といった。
「柔道は遊びではない。頑張るのは当然だ」というわけだ。

一般的に日本人は、遊びと仕事を区別し、対局にあるものして捉えている。
もっともどこまでが遊びでどこから仕事かはっきりしないことが多いし、逆のそのはっきりしないことの方が好ましいとすら思っている節もある。

オランダの歴史家ホイジンガ(ハイツィンハ)は著書『ホモ・ルーデンス』で、「人は遊ぶ存在である」と定義している。
遊びには、極めて厳格なルールがあり、極めて高度な能力を要求されるといい、子どもの遊びだけでなく、企業活動、議論、戦争、人の活動のあらゆる人間のすべての行為は遊びに収斂するといっている。
つまり「遊び」とはそれほど崇高な行為というわけである。

確かに学問、研究は面白い。
面白いから夢中になれる。
やってる時はわからないが、結果として大きく社会に貢献したりもする。
世の中をひっくり返すほどの成果があったりする。
産官学がいわれ、大学が注目されるようになると、その可能性はますます大きくなる。
研究に夢中になっている教授、学生の姿は、あたかも子供が遊んでいるようですらある。
そんな姿を指してホイジンガは「人は遊ぶ存在である」といっているのだろう。

しかし、「学問は最高の遊びだ」という言葉は、ちょっと誤解されやすい。
解説が必要のようだ。
やっぱり「大学は知の拠点である」、「大学で一生懸命勉強して、世のため、人のために尽くせ」といってくれたほうが解りやすい。

大学の学資を出している親は、大変な苦労をして学資を捻出している。
大学ではさぞかし一生懸命勉強し、いずれ世の中のためになる立派な人になるだろうという思いがあるから、そんな苦労にも耐えられる。
森進一の歌にもある。
「おふくろさんよ おふくろさん
空を見上げりゃ 空にある
雨の降る日は 傘になり
お前もいつかは 世の中の
傘になれよと 教えてくれた・・・・・・・」
こんな歌を聞くと、なんとなく自分はこんなことをしていて、いんだろうかと思ったりしたもんだ。

「遊び」の師には、「仰げば尊とし わが師の恩・・・」とは言いにくい?

大学生の頃は毎日大学まではいっていたが、殆ど講義に出たことはなかった。
大学周辺のカフェで、いつも友達と議論をしていた。
議論するために、本も沢山読んだ。
最高の遊びをしていた??

講義、研究が「遊び」だと知っていれば、もっと真面目に講義にでていた???
そりゃ ないな!

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2008年9月13日 (土)

くらしきーチボリ公園跡地の開発

2008年8月6日、倉敷チボリ公園は事業の廃止と会社の解散を決めた。
今年末で閉鎖されるという。
この土地をどうするかは土地所有者のクラボウに任せられることになった。
いまある施設をどうするのか、従業員をどうするのかいろいろ決めなければいけない問題はたくさん残されている。
市民、県民として、それなりに思い入れのある施設であった。
残念としかいいようがない。

結果としては、倉敷チボリ公園は、バブルの典型的な事業となってしまった。
遊園地事業は、見かけが華やかであるが、そうであればあるほど、現実は厳しいというということを改めて感じる。
あのディズニーランドだって、決してそうそう楽ではないという。

2

事業廃止、解散するからといって、この倉敷チボリ公園の施設をすべて取り壊し、更地にして、地主のクラボウに返還すればよいというわけでもないだろう。
いずれにしろこれだけの施設をきれいさっぱりなくしてしまうというのはいかにももったいない。

倉敷チボリ公園がお手本とするコペンハーゲンにある本家のチボリ公園は、当時流行の最先端をいっていたパリの街をイメージして、王室の恩賜公園として作られた。
そのチボリ公園の中にはシャレたレストランがいくつもあり、園内のあちこちのコーナーではコンサートが開かれている。
気の利いた遊具も置かれている。
平日でも夕方になれば市民が集まってきて、音楽を聴き、食事をし、デートをする場になっている。
街の広場になっている。
ヨーロッパNO1の遊園地として、ディズニーランドとは一味ちがった公園的な雰囲気の遊園地となっている。
ウオルト・ディズニーがこのチボリ公園に感激してディズニーランドを作ったという話もある。
そんな遊園地を日本にも作りたいということで岡山県が誘致した。
結果として夕張の観光事業と同じになってしまったが、その思いは評価したい。

倉敷チボリ公園がオープンした1997年にはすでにバブルは崩壊していた。
しかしそれでも開業した97年には296万人もの来場客があった。
驚異的な数字だ。
07年には75万人に減ったとはいえ、まだ75万人の利用客がある。
地方にある遊園地としては、立派な数字だ。
まだまだ極めて大きな価値のある施設だといえる。

集客施設では、こうした開業後の急激な利用客の減少は当たり前のことだ。
本来、それを織り込み、利用客100万人を維持するにはどうしたらいいかということで事業計画を立てるべきだったろう。
もっともそんなことが、できていれば生き残れることもできただろうが。

初期投資だけで、500億円からのお金がかかっている。
倉敷市は100億円の建設補助金を出し、県はすでに建設費等を含めて300億円からの支援をしている。
凄い金額だ。
それだけに施設は立派だ。
立地もいい。
駅に隣接し、倉敷の街の中心部にある。

現在の倉敷チボリ公園は、クラボウから土地を年間5.98億円で借り、そのうち県が4.75億円負担している。
この土地代を、岡山県はもう負担しないということが、そもそもの今回の問題の出発点のようだ。
岡山県も3年後には財政再建団体に転落する怖れがあるということで、なりふり構っていられなかったということのようだ。
累損は138億円というが、資本金は160.8億円であるから、まだ債務超過にはなっていない。

利用客の減少に歯止めがかからないこと、赤字の垂れ流し状態になっており、回復の見込みもない、そろそろ見切り時と考えたようだ。
コペンハーゲンの本家チボリ公園から、名称の使用を止められたことも、経営悪化に拍車をかけた。

資本金は160億円と大きいが、岡山県と倉敷市の出資は合わせて21%で、残りは民間からだ。
県、市の出資比率が低いこともあってか、県も市もどうして責任をとなければいけないのかという思いがあるようだ。
失敗したとき、誰が責任をとるのかについて曖昧であったのは、バブル時代作られた3セクプロジェクトの特徴だ。
そうしたことがさらに傷を深くしたともいえる。

チボリ公園の決算書が公表されていないから、詳しいことはわからないが、キャッシュフローは20億円以上あるという。
これも立派な数字だ。決して悪い数字ではない。

コンセプトは森の中にある公園だというが、いまでは樹木も大きくなり、なかなか風格のある遊園地になっている。
園内には22のアトラクション、14の店、14のレストランがある。
中に作られたレストランも綺麗だし、美味しい。従業員も一生懸命やっている。
遊園地としては、素晴らしい遊園地だ。

これだけの内容と立地にある施設を、解体、廃棄してしまうのは、いかにももったいない。
なんとかチボリ公園の雰囲気を残してほしい。

一部の敷地を店舗や、マンションにするが、出来るだけ現状に近いチボリ公園というイメージを残せれば、ある程度の雇用を継続することも可能だろう。
5.98億円の地代の負担をすることは、遊園地事業単独では難しいが、しかしそれだって地主のクラボウが所有することになれば、負担はなくなる。

出来た頃はまだまだ車全盛の時代であった。
専用の駐車場がないことも経営の足を引っ張ったが、いまでは鉄道の価値が見直されている。
倉敷駅に接した立地にあるkとも、今見直されて来ている。
今は専用の駐車場は全くないが、それは当然、必要な駐車場を作ったっていい。
周辺や敷地内にこれから作るマンション、ホテル、店舗が加われば遊園地の利用客も増えることが期待される。
充分収益のあがる遊園地になることが期待される。
マンション、ホテル、店舗もこんな素晴らしい遊園地に隣接するのだ。
その価値は相対的に高くな、それなりの収益も期待できるだろう。
500億円からのお金をかけて作った施設が隣接している。
これから作ろうったって不可能なことだ。
その遺産を生かして、商店、マンションと遊園地とが一体となることで、相乗効果の上がる再開発を考えて欲しい。
「遊園地+公園+ホテル+店舗+マンションが一体になった新しいコンセプトの街=くらしき」を創り出すことを考えて欲しい。
それができれば、世界にも前例のない素晴らしい街ができるだろうと思う。

バブルの遺産はすべて悪というのでは、あまりに能がない。
残された遺産の価値を、それはそれとして認め、そこに新しい価値を加えることで、新たな街を創り出していって欲しい。

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2008年9月12日 (金)

限界商店街

地方都市の中心市街地では、どんどん老舗が消え、ナショナルブランドのお店に変わっていっているという。

本通り商店街でもスターバックス、ドトール、シダックス、ダイソー、セブンイレブン、リーガル、アディダス、3COINS,BEAMSといったナショナルブランドのお店に変わっていっている。
賃料が高くなって、古くからあるお店はやっていけなくなったということもあるが、貸しビルにしたほうが儲かるということもあるようだ。
ビルに立て替えられると、古くからあつたお店は大体2階以上の階に移っている。
1階は誰でもが知っている東京資本のお店になっている。
こうした現象を農村の限界集落にならって「限界繁華街」というようだ。

それでも本通り商店街にはアンデルセン、テング、下村時計店、広文堂、赤松薬局、ひつじや等幾つもの老舗は残っている。
しかしもっとよく見れば、地元の人の経営する新しいお店は本通りの裏の通りに面していくつも生まれている。
それが今では「うらぶくろ」と称して、独自の魅力を創り出してさえいる。
ナショナルブランドのお店、広島の老舗の残っている「本通り」と、地元の人の経営する小さなお店の「うらぶくろ」とが一体になって、中心市街地の魅力が創り出されているといっていい。

1

よく言われる限界集落とは、65歳以上の老人が人口の50%を越えた集落を指していうが、若者が集落をはなれ、子供がいなくなり、集落としての再生能力がなくなり、いずれその集落は消えてなくなるというのを限界集落と称するが、それに倣って「限界繁華街とは、ナショナルブランドが増えていき、片や地元商店がなくなっていく現象である」と定義している。
そうした言い方すれば、本通り商店街は限界繁華街といえるが、だからといって、お店が消え、シャッター街になっていいくというわけではない。

岡山の代表的商店街の表町通り商店街にはナショナルブランドのお店は殆どない。
ナショナルブランドのお店にとって進出するメリットはないということだ。
シャッター街になる恐れさえある。
それを防ごうと表町商店街の中心となっている天満屋は店舗の誘致に懸命になっている。
ナショナルブランドのお店があることは、却ってその商店街の活性化にとって好ましいこととさえいえる。
限界繁華街とはシャッター街になるかならないかを指して言った方が言葉の意味する内容に相応しい。
また繁華街という使い方も、流川のような飲食店街と一緒にするのはどうもしっくりこない。
ということでは、「限界商店街」としたほうがよさそうだ。
「限界商店街とは、シャッター街になっていないが、その一歩手前、ナショナルブランドのお店が殆どない商店街を指す」としたほうがよさそうだ。
そう定義すれば、岡山の表町商店街はその限界商店街に近いといえる。
岡山ではナショナルブランドのお店は岡山駅前の地下街にある。

本通り商店街は、どんどんナショナルブランドのお店が進出してくるのであるから、“本通り商店街は発展のメカニズムを内包している”と捉えた方がよさそうだ。
本通り商店街からはアンデルセン、クマヒラ、ダイソー等のナショナルブランドのお店さえ育っている。
老舗が消えていくことは淋しいことではあるが、「本通り商店街の路面店はナショナルブランドのお店が増え、2階以上に老舗が移り、裏通りに新しい地元商店街ができていく」ということは、却って広島市の発展にとっては好ましいことと捉えたほうがいい。

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2008年9月11日 (木)

新藤兼人「日本教育への遺言状」

 96歳、日本いや世界で最長老の現役映画監督・新藤兼人の最新作を観た。
昨年公開の「陸に上がって軍艦」と同様に自身の体験がストーリーの軸になった作品で「石内尋常高等小学校・花は散れども」は“先生と生徒の絆“と言う時代を超えた教育がテーマで、殺伐とした日本の教育に『新藤兼人・渾身の遺言』でもあろう…。

 映画は監督自身の人生に影響を与えた小学校の教師がモデルの人間ドラマだ。恩師には『人間はみな出世して偉くなる訳ではない。正しく生きるのが一番だ』と教えられ、平凡だが素晴らしい人生を過ごした先生の生き方に強い影響を受けた…。

 先生と生徒の絆をテーマにした代表的な作品に坪井栄の「二十四の瞳」がある。太平洋前後の小豆島を舞台に、女先生と生徒の絆が描かれているが、この「花は散れども」は大正時代末期の広島から山一つ奥まった旧佐伯郡石内村(現・広島市佐伯区石内)の新藤監督の母校『石内尋常高等小学校』。
当時は小学校6年までが義務教育で、卒業すると大部分が社会に出て“丁稚奉公”などで働いた。旧制中学に進学する者は数%で、優秀でも経済的理由で進学できない者は2年間尋常高等小学校で勉学できた。中学受験を志していた新藤少年は父の倒産で進学をあきらめて石内尋常高等小学校で学んだ。

 映画では、恩師の定年退職を機に30年ぶりに再会した同級生たちが恩師の生き方を教え子たちの目でとらえ直す。すでに半分は死亡し、参加者一人一人が自分の30年を語る。夫を戦争に奪われ弟に嫁ぐが2度目の夫も戦死した人やピカドンで顔に大やけどを受け苦しんできた人達のそれぞれの30年の思いは重く苦しい。

 意外な展開は子供の頃から思いを寄せ続け、今は料亭の女将に納まっている人の告白だ。
 彼女は大阪で別居中の夫がいるが、主人公の彼は思い続けた彼女の期待にこたえた。その結果、5年後に再会して5歳の娘のいることを知る。「新藤先生、音羽さんはご存知ですか…」「週刊誌は大丈夫?」と下世話に口を衝いて出そうな気がする“サプライズ”だ。
 しかし、ここが新藤流の男女の機微に触れる人間ドラマの真骨頂。監督自身が題材だけに、決断力に欠ける若き新藤と肝が座って決断力ある女将の対比は見事な味付けで面白い娯楽映画に仕上がっている。

 「陸に上がった軍艦」の山本保博監督が助監督を務め孫の映画監督・風さんが“監督健康管理担当”を務め出演は先生役を柄本明、“監督役は背が高く二枚目“と注文の豊川悦治、女将が大竹しのぶ、六平直正、大杉連、吉村実子、原田大二郎、川上麻衣子と蒼々たるキャストだ。子役のほとんどを地元で選んだのは「彼らの顔立ちや表情が都会の子供と違うからで、純朴な雰囲気は彼らにしか出せない」からだ。
 
 百歳に手が届きそうな監督の引き出しにはアニメで原爆の炸裂時をあらゆる角度と関わった人間を描く「ピカドン」をはじめまだいくつものシナリオがあると言う。

「僕は 映画監督と言う病気に掛っているんです これは一生治らないかもしれません」「生きている限り 生き抜きたい これはいつの間にか 僕の言葉になったね」いずれも、最近の監督の心情を綴った言葉だ。
 
 監督にとってはモンスターピアレンツが横行し教師が汚職に走り凄惨な犯罪が多発する現在の教育環境は到底理解しがたい問題であろう。
 70年を超える映画人生の締めくくり近くで取り組まれた作品が教育だったことは荒廃した教育の原点がなんであるか“昔も今も共通した根っこ”を示唆した作品「花は散れども」は『新藤作品・渾身の遺言状』と言える。
 
9月27日(土)~シネツイン・新天地-新天地レジャービル5F-(082‐246-7787)で
(10時・12時20分・14時40分・17時)上映。

このほか、新藤監督に関するイベントが重なった。
 *後援会「広島は私の街―新藤兼人監督と広島」 8月23日(土)13時~14時半
      平和祈念資料館東館B1 無料   主催:広島市・市文化財団
      問合せ:082‐243-2583
 *特別展「広島は私の街 –新藤兼人と広島」  8月21日~10月31日
    広島市公文書館 中区大手町4丁目1-1大手町平和ビル7~8階 平日会館
    問合せ:082‐243-2583
 *企画展「新藤家ねとの仕事―-家族・故郷・仲間たち―」 8月21日~9月23日
      広島市立中央図書館2階展示ホール
      問合せ:082-222-5542
 *名作映画鑑賞会 「新藤兼人―家族・故郷・仲間たち-」 9月5日~11月下旬
      広島市映像文化ライブラリー 大人:500円 子供:250円
     問合わせ:082‐223-3525

 問合せ先:シネマクラブ・ひろしま(映画センター内)
      TEL:082-293-1274(担当:勝田)
 HP:http://cc-hiroshima.ciao.jp

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2008年9月10日 (水)

ジャマイカ旋風

 北京オリンピックも大詰めを迎えて開会前の心配ごとも大きくならないで順調な展開をする中で“ジャマイカ旋風”が起き、TVを通じたオリンピック熱は盛り上がった。

 20日の男子百メートル決勝でジャマイカのボルトが19秒30をマークして百メートルに続く世界新記録で優勝した。2種目とも世界新記録での2冠は史上初。米国のスプリンター3人が短距離界の誇りを掛けて挑戦したが勢いに乗るボルトの前では相手に成らなかった。
 トラックに横たわって喜びを表現したボルトに九万人を超えるスタンドの観衆は総立ちで拍手を送り、地鳴りのような歓声が北京オリンピック場を包み興奮が最高潮に達した…感がTV画面に溢れた。
 
 17日には女子百メートルでジャマイカ選手がメダルを独占する快挙を打ち立てている。
長年世界の短距離王国として君臨してきた米国から、完全にその座を奪う勢いだ。

 ウイニングランではレゲエのリズムに乗る様に国旗を体に巻いて踊り、選手の一人は「強さの秘密はレゲエパワーだ。神懸かりかね?」とおどけて見せた。天真爛漫な明るい国民性が特徴のようだ。

 ジャマイカと言えば“レゲエの本場”くらいしか知らない。
 ジャマイカは15世紀末にコロンブスが発見し後にスペイン領となり今はイギリス領の国だ。キューバの南に位置しブルーマウンテン山があるカリブ海に浮かぶ島国だ。
 日本の秋田県ほどの広さに270万人と広島県より10万人余少ない小国だ。
 一人あたりの国民総所得が約5000ドル(約55万円)と豊ではない。そんな国でも金を掛けずに出来る陸上競技は国技と言えるほどの人気があると言われている。
 
 小学校から授業に陸上競技が取り入れられ、100年前から始まった低年齢世代の大会で好成績をあげると、専門的なコーチに指導が受けられるシスティムがある。
 発掘された優秀な選手が欧米の大学に進むのが一般的で外国籍を取得して五輪の舞台で活躍した選手は多い。しかし、最近では「MVP陸上クラブ」が出来、地元の大学で競技に打ち込む選手が増えているようだ。外国遺移籍の成功例に比べると失敗例も多く、地元に留まる理由の一つのようだがその背景にある真相や詳細は定かではない。
 しかし、日本をはじめ経済先進各国は学ぶべきことが沢山ある様に思えてならない。
 
 何はともあれ、大地震にテロ大気汚染に食糧偽装、何よりも心配された国民のマナーにスポーツ観戦マナーもどうやらオリンピックを通じて国際的に成長しつつあるようだ。
40年前、公害・薬害の真っただ中の東京五輪時代の日本に比べてみればそれなりの理解は進むと言うものだろう。
 
 北京オリンピックの何よりの収穫は四川大地震を経て多少のトラブルはあったものの報道の速報性が保証されたことが第一に挙げられよう。今後、報道の自由が格段に進むには一党独裁体制が瓦解し民主国家が実現できるかどうかに掛ってくる。

 当分先のことと考えられるが、表面的にはまずは北京オリンピック大成功!!
小国ジャマイカ旋風の貢献度は極めて高い。

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2008年9月 9日 (火)

批判

本来批判することは客観的に物事をみることであり、極めて前向きな姿勢がそこには秘められているはずだ。
ウィキペディアには「批判的思考(ひはんてきしこう、英:Critical thinking)とは、特に欧米諸国で主流となっている物事や情報を批判的に解釈する思考パターンのこと。単にクリティカル・シンキングと呼ばれる事も多い。対象物を見聞きしたままに受け取るのではなく、客観的尚且つ分析的に理解される必要がある。」と書かれている。
批判の意味を高く評価している。
しかし得てして、もっともらいしいことをいっているが、ただ単純に相手を誹謗中傷するだけのことが多い。
そうした類の批判には3つのパターンがあるようだ。
私なりに整理してみると、
(1)コウモリ的批判・・・コウモリに怒られるかな。ここでは円高になれば輸出産業が困るといい、円安になれば原油価格が値上がりして困るという類の批判をする。
いっていることはどちらも正しい。あちらを立てれば、こちらが立たずだ。
政策としてどちらかを選択すれば、どちらかが困ることになる。どちらも困らないようには務めるが、パーフェクトにどちらも困らないようにするのは不可能だ。
メディアは常に選択されなかった側に立って発言する。そしてそれがあたかも正義の味方であるかのように振る舞う。意外と両者の状況を説明しない。
困ったもんだ。
(2)永遠の真理を振りかざす・・・市民の意見をよく聞いていない、生活者の目線を大切にしていなといって文句をいうだからどうしろとは決していわないという類の批判。
こちらとしては、生活者の目線は大切にしているからこの結論になっているのだといいたいが、反論しても、それ以降は批判するほうに真理があるように見えてしまう。
これまた困ったもんだ。
(3)ラベルを貼り付けて批判する。・・・誰でもがなんとなくそうだろうなと思うようなラベルを、一方的に、短絡的に貼りつけ、だからあいつは駄目なんだと決めつけてかかってくる。
偉くなりたいから、あんなの行動をするんだというような類の批判がそうだ。誰だって偉くなりたいと思っているはずだから、そういわれるとそう見えてしまう。
しかし現実は、偉くなることは、行動の結果としてのことだ。
もっといえば、その人が偉くなることで、世の中が幸せになれば、それはそれでいいではないかといいたい。

何事に対しても批判的に発言していると、理知的に見えるのも問題だ。
失敗した後になって、「なー、だから言っただろう」ともっともらしくいわれると、頭に来る。
そんな、したり顔をした輩が多すぎる。

大体批判しているだけで、何もしなければ失敗することはない。
何も対案を出さず、批判をするだけなら、こんな簡単なことはない。
それではことは、問題は何も解決しないのだ。

「嫉妬は、正義の仮面を被ってやってくる」と竹内久美子さんの書いた有名な本がある。
もっともらしく聞こえる批判も、その殆どは嫉妬心から発しているという。
一皮めくれば、汚らしい嫉妬心が見えてくるというわけだ。
よくいう下種の勘繰りというのもその類だ。

批判しているだけの輩は、本当はアイディアもなければ、行動する勇気もないのだ。
批判的発言は注意して聞く必要がある。

批判しているだけで、何もしない輩は、早く天国にいって、下界のことを遠くから見ていればいい。

下界でウロウロしているほうが、面白い。
と私は思っているから、当分天国にはいけそうにない?

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2008年9月 8日 (月)

新球場と周辺計画

―ボールパークタウン

広島市の新球場の建設工事が着々と進んでいる。
竣工は来年春だという。

新球場そのものも随所にかなり革新的な試みがされ、興味深い点がいくつもあるが、新球場の周辺計画もなかなか面白い。
新球場を中心にして、その周辺にラウンドワン、コナミスポーツ等のスポーツ関連施設が作られ、広島駅から球場までの沿道にショップ、ホテル等が作られ、球場を望んでマンションが作られる。
多種多様な施設がつくられる。
かなり複合的であり、かつ巨大だ。
総額160億円にもなるとという。

特筆すべき点は、それら全ての施設が球場と一体的に計画されていることだ。
脇を通るJRからも球場が見えるように作られている。
鉄道とも一体になっている。
カープのキャッチフレーズ「ALL IN ONE」が球場と周辺計画にもあてはまる。

2

こうした開発手法を複合開発というが、複合開発が、これからの時代のプロジェクトの成功の条件だともいわれている。複合開発とは一つの敷地内に3以上の機能の異なった建物を作ることだというが、今回の計画は、球場を中心にして、その極めて高度な複合開発となっている。

野球場を中心にしての複合開発はそれほど前例があるわけではない。
福岡のヤフードームも、ショッピングセンター、Jホテルが一つに敷地に作られ、今回と似たコンセプトになっているが、
それぞれの施設はかなり独立しており、今回ほどの一体性はない。

アメリカにはボールパークと称する野球場があるが、今回のように新球場とそれを囲む周辺施設が一体となって街を構成するような巨大な施設ではない。
今回の計画は、まさにボールパークタウンだ。

これだけ大規模な複合開発プロジェクトが完成すれば、世界的にも評価されるプロジェクトになる。
三井不動産の力量に期待したい。

完成が楽しみだ。

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2008年9月 7日 (日)

広島産日本酒

韓国では日本酒ブームだという。
ここ数年間毎年50%程度増えつづけ、いまでは総額5億円程度になっているという。
片や日本では、日本酒を飲む人は減り続け、メイカーも減る一方だ。

日本では、辛口の酒のほうが上等だという変なお思い込みがある。
灘の硬水で作られた酒は辛口だ。
広島の酒は軟水で作られているため甘い。
そうしたこともあって、広島の酒は伸び悩んだ。
灘の戦略にやられたといえる。

逆にこの甘口ということが、海外のマーケットにはいいかもしれない。
ウイスキーにしても、ラム酒にしても、年代物になるほどトロッとして甘くなる。
つまり甘いほうが上等なのだ。
日本酒も甘口のほうが上等だということをPRする必要がある。

日本酒も昔は殆ど清酒だけだった。
それが今では吟醸、大吟醸、それに純米吟醸、純米大吟醸もつくられるようになった。
お米も山田錦がいいとかいうようになった。
日本人らしい拘りの産物だ。
しかしその分値段もかなり高い。
ビンも昔のように1升ビンだけでなく、いろいろなサイズ、形のビンも作られるようになった。
お酒としての洗練度は極めて高い。

ワインはゆられたり、温度変化には弱い。
そうした酒は、著しく味を落とす。
日本酒は少々のことでは大丈夫だ。
輸出には適している。

古いのを尊ぶワイン等欧米系のお酒に対し、日本酒は新しいことを尊ぶ。
ワインとは、全く逆の価値観だ。
欧米人にとっては不思議なことだろう。
しかし反面それは彼らにとって、新しい価値観の存在を知ることでもある。

しかしお酒だって新酒だけではない。
賀茂鶴では「8年秘蔵酒」も作っている。
年代物の日本酒だ。
2008年ロンドンで行われた「IWC(インターナショナルワインチャレンジ)2008」のSAKE部門では、賀茂鶴の古酒の部で最高位を受賞したという。
定価2,100円と意外と安い。
日本人の職人的な拘りの凄さを改めて感じる。

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中国、インド等で、「広島産」日本酒ブームが起これば面白い。
日本酒のネットの販売の可能性は極めて高い。
凄いことになる?
そうなれば愉快だ。

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2008年9月 6日 (土)

「栗原貞子文庫」が示唆するもの?

 この夏、被爆者で反核平和を訴え続けた原爆詩人・栗原貞子さんの肉筆原稿や大量の文学資料が広島女学院大学に寄贈され「栗原貞子記念平和文庫」が開設された。
 友人が資料の整理に取り組んでいる文庫に陣中見舞いに出かけてみた。

 栗原貞子さんは被爆直後の地下室で新しい生命が生まれる瞬間をうたった「生ましめんかな」でよく知られ、反核・反戦平和を一貫してテーマにうたってきた原爆詩人で、‘05年に92歳で亡くなり3千点もの資料が残された。
 長女で秘書役を務めてきた栗原真理子さん(73)は「資料を通して母が願った世界平和を感じてほしい」と託し、大学側は9月末までに整理して市民にも広く開放する。

 資料は代表作の「生ましめんかな」など肉筆原稿百二点、創作ノートやメモ95冊の他、戦後間もなく占領軍の検閲下(プレスコード時代)で被爆の悲惨さを告発した雑誌「中国文化」全18巻、書籍千四百余冊、雑誌千冊余、原稿・草稿・書簡などで、未発表の詩も含まれているとみられている。生で時代の迫力を感じる資料ばかりで貴重な財産だ。

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 広島は江戸時代の頼山陽の頃から日本文学に大きな影響を与えた作家を生みだして来た。
児童文学の鈴木三重吉や新劇運動の先駆者・小山内薫がいる。とりわけ原爆被災によって原民喜、峠三吉、太田洋子、正田篠枝、栗原貞子など原爆文学を創出し、世界の人達に大きな影響を与え、日本文学や世界文学に大きな足跡を残している。

 広島大学に梶山季之をはじめ原爆に関する記録・新聞記事・記述などの保存が進んでいると言う。前記のいわゆる原爆文学に関して“広島に文学館を!”進める市民の会の運動があるが広島市との呼吸が合わず進んでいない。本来民間が行うより行政や大学・研究機関が取り組むのが望ましいが、今のところ触手を動かす機関はみあたらない。
 栗原文庫は一つのヒントだ“今なら、まだ間に合う”…と思う。広島市を中心に広島市立大学や付属の平和研究所の役割が大きいと思う。貴重な資料が散逸しない内に、総合的な『原爆文学・関連資料保存』対策を考える時が来ているように思われる。

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2008年9月 5日 (金)

“はだしのゲン”とカープと若者達

 お盆の前に、シネマクラブ・広島が長編漫画「はだしのゲン」の作者中沢啓治さん原作のアニメ映画「かっ飛ばせドリーマーズ」を観て中沢さんと語る会を開いた。
 30人余の会だったが中沢さんの“カープ誕生の頃の広島“の話は戦後の復興期の生活困窮を超えた実にユーモラスで戦後を生き抜いたバイタリティーに溢れた実話だった。

 映画は原爆の焦土の中から誕生した市民球団“広島カープ”に夢を託し、原爆症の弟を抱えた少年・進を中心にした草野球チームの奮戦物語…。副題は~カープ誕生物語~、広島カープ誕生(昭和25年)前後、昭和20年代後半の広島市民の生活をベースにした広島復興物語でもある。
 声の出演に風見しんごや相原勇など広島出身のカープフアンのタレントに石本監督役にカープの小さな大投手長谷川良平さんや審判役で衣笠祥雄さんそれに実況放送にRCCの往年の名物アナウンサー山中善和さんらも応援出演している。

 中沢作品100本?の中に野球をテーマにした作品はこの他に「野球バカ」がある。戦後、少年達が焦土の中で手作りボールにグローブ、棒きれを削ったバットで日が暮れるのも忘れて熱中した野球に三角ベースは正しく生きる希望であり唯一の楽しみだった。

 観音の県営球場がホームグラウンドだった初期の試合に鉄条網の破れから潜り込んだりトイレの汲み取りぐちから侵入して観戦した…「はだしのゲン」の一コマは事実だった。
 カープは広島城の別名が鯉城であることから付けられた経緯は知られているが、鯉は単複同一であるのに当初は「広島カープス」と発表し暫くの間は「カープス」と名乗っていた。中沢さんはこの日カープが歴史的なミス?をしていたことはあまり知られていない事実を披露し、会場の笑いを誘った。中沢さん自身は負けても、負けても球場に足を運んだ、根っからの元祖カープフアンで、後に彼の作品創りの原点として脈々と活きてきた。
 戦後を生きてきた広島の少年たちにとって「広島カープ」は生きる励みであり癒しでもあった。私もその一人で、登校前に来る新聞が楽しみで短い時間を楽しむのが日課だった。
 今も、結果は分かっていても朝刊で確かめる習慣は中沢さんも私も変わっていない。
 インターネットで見つけ東京からわざわざ駆け付けた青年や広大,市立大の学生からは「何故なぜ「ゲン」は上京の場面で終わっているのか等の質問が飛び出した。
 長年の疑問だった…という。

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2008年9月 4日 (木)

今夏、ヒロシマにこだわった孫

 東京っ子の孫が、この夏、異常に「ヒロシマ」に関心をもった。小3の宿題にしては「自由研究」という難題が課せられて広島にやってきた。彼は、「ヒロシマ」をテーマにしたいという。6日の朝、愛用のデジカメを手に、」平和公園に向かった。
 彼は、資料館の「リトルボーイ」の模型に見入り、「原爆の子の像」の前では、しばしたたずんだ。
 彼は、広島で知りえた原爆に関する知識を記述し、自ら撮影した写真にキャプションをつけて、作品集を作った。タイトルは「8月6日のヒロシマ」 公園の前景、慰霊碑、ドーム資料館の「リトルボーイ」、被爆アオギリ、被爆電車など10数枚の写真を画用紙に貼り、想いをつづった。「あやまちはくりかえしませぬから」碑文も正確だった。被爆電車は、偶然、そごうデパート前でキャッチしたらしい。「現在4台残っていて、1台は交通博物館に、3台はいまも走っている」と書いていた。
 驚いたのは、秋葉市長の平和宣言を切り抜き、彼にとって難解な言葉の意味を繰り返し訊ねて理解しようとしたことだ。「なぜそんなに興味があるの?」と聞くと、彼は平然と答えた。「僕は将来、広島市長になりたいから……」
 
 ここまで書くとさすがにジジバカの域だが、ヒロシマを「青山~せいざん~」と定めた自らにかさね合わせながら、孫のスケールの大きさに目を細めた。

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2008年9月 3日 (水)

日韓の子どもたち、囲碁交流

 アニメ「ヒカルの碁」のヒットで、10~20代の若者たちの間で囲碁が盛んになっています。
 2005年の日韓友情年を記念して始まった、広島と韓国の子供たちの囲碁交流が、ことしも行われました。
 「竹島=韓国名 独島=」問題でゆれる両国関係ですが、この夏、テグ市とプサン市の子供たちは、広島の子供たちを温かく迎えてくれました。選手団は、小学校1年生から高校2年生までの23人、役員保護者16人の39人が下関から海路訪韓し、8月8日から5日間の日程で、親善交流を深めました。対局は、テグで18勝28敗、プサンでも17賞28敗1引き分けと残念ながら負けましたが、勝敗はさておき、趣味を同じくする囲碁をとおして友情を深めました。
 囲碁は別名「手談」ともいわれ、言葉の不要なコミュニケーション手段とされています。
 ひとつの対局は1時間前後、その間お互いに考えていることが分かり合えるめずらしいゲームです。したがって競りあい・駆け引き・譲り合いなどの状況を、言葉を必要としないまま時間を共有できるのです。
 
 派遣団の半数以上は、韓国訪問が初めてだったようです。山ほどのご馳走、儒教の思想が暮らしの中にしみこんでいるライフスタイル…さまざまな文化の違いに感動して帰国しました。交流の目的は、相手国をよく知り、好感を抱き、友人をつくることです。
 来年は、テグとプサンの子供たちを迎えて交流します。

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2008年9月 2日 (火)

「影絵展」の役割と夢

 “生きる“をテーマにした今年の『小さな祈りの影絵展』は多くの市民を引き付け、好評の内に終わって、すでに巡回展が始まった。8月22日までは中国新聞ロビー、同日からフレイザー幼稚園で展示される。
 
 今年、特筆されるのはNHK広島が6日AM零時過ぎから2時まで全国放送したスペシャル「被爆者からの手紙」の中で、5回?もこの影絵をナレーションバックの映像に使った。予告がなかったにも関わらず多くの人が視聴していたのに驚いた。

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 この影絵展は会の代表を務める映画美術監督で広島出身の部谷京子さんとヒロシマの記録映像の編集整理ディレクターで影絵作家の浜崎ゆう子さんが被爆60周年に発案してスタートした。影絵を通して「広島・ひろしま・ヒロシマ」を表現し原爆で亡くなった方々への慰霊と深い傷を背負って生きてきた人達にささやかな癒しと世界平和への祈りを込めた企画で、部谷さんの同級生を中心に運営を支えてきた。

 毎回、多くの賛同の声と今後の継続を期待する声が寄せられ励まされてきた製作費や取材費は代表と作家が負担してきたが、個人の努力を多としながら今後の制作展示と巡回展を考えて、運営を支えてきた仲間や知人を通じて募金をお願いする事に踏み切った。

 文科省は今年はじめて「ヒロシマの被害」を学習指導要領の解説書への記入を認めた。戦後63年にして初めて“平和教育にお墨付き“を出した。しかし、ヒロシマを小中高校生に伝える「広島学習の手引き」や「広島学習映像」は纏まった適切な学習材料はなく、全国的にヒロシマ修学旅行を目指す学校は”平和教育教材“に苦労している現実がある。

 こうした学校や生徒児童たちの教材として影絵の製本化やアニメーション映像化、さらには普及のためのDVD化を要望する声も寄せられている。
 
 こうした現実を踏まえて、今後の長期的な活動を継続するために特定非営利活動法人(NPO)の設立を視野に準備を始めることになった。
 幼稚園児が取り組む“平和”の心は次の発達段階に大きな影響を育むようだ。
影絵が醸し出すメッセージは大切な平和教材だと現場の教師、指導者たちは確信している。

 作品の評判はよく幻想的な灯りが写し出す影絵を前に「祖父母が孫に、父母が我が子」に“広島・ひろしま・ヒロシマ”を伝える姿は感動的だ。

 新しい目標と夢に向かって踏み出す『小さな祈りの影絵展』をご支援ください。

 <影絵プラネット http://kageepla.net =今年の展示も掲載済み、ご覧ください>

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2008年9月 1日 (月)

平和宣言の重み

 被爆から63年目の原爆の日は暑さに変わりはないが、嘗てないくらい涼しさを感じた一日だった。気象的な条件が良かったかどうか判らないが夕方から陣取った元安橋東詰めの「小さな祈りの影絵展」会場周辺では凪もなく灯篭流しの川面を吹く風が途絶えることなく吹いて清々しさを感じることが多かった…のは何故だろうか?

 朝の平和公園で行われた平和祈念式会場で団扇や扇子が揺れる数はTVを通して見る限り少なく、10時から行われた女学院の慰霊祭でも意外にそよ風を感じて?凌ぎよかった。
 
 秋葉市長が発した今年の平和宣言もこれまでとは一味違った内容が盛り込まれた。過去何度か米国や核保有国に対して名指しで注文や要求を突きつけてはきたが残念ながら空しい結果に終わってきた。
今年の宣言には『…(核兵器廃絶を求める)人類の生存を最優先する多数派の声に耳を傾ける米国新大統領が誕生する事を期待します』と米国の大統領選挙の行方にあからさま踏みこんで強い関心を示し米国民の(核廃絶)多数派選挙に期待を寄せた。

 それには、これまでと違う米国内の社会的政治的背景が大きく変化しつつあることが挙げられる。民主党の大統領候補者オバマ氏が「核兵器全廃と言う目標を核政策の中心に据える」と発言し、共和党マケイン候補も「レーガン大統領は『地球上から核兵器が無くなる日が我々の夢だ』と語った。私の夢でもある」と2人が「核のない世界」を語っている。
 
 これだけで、楽観できるものでは無いが、昨年の1月と今年もキッシンジャー、シュルツ両元米国務長官ら米国の核戦略を推進した元高官4人が核廃絶を呼びかけ米国内で核軍縮論が活発化し始め、英国をはじめNATO諸国に波及し、核廃絶を求める声は世界の多数派…という状況が着実に生まれつつある。

 加えて2020年の核兵器廃絶を目標にした「世界市長会議」には世界の2400近い都市が結集して、世界の都市の多数派は日々着実に拡大している。
 全米50州の各州2か所とワシントンなど102か所で巡回中の「原爆展」は入場者数が徐々に増え“ヒロシマと被爆者“への理解者が増え、「原爆投下は戦争の早期決着のため正しかった」とか「戦争死者100万人を食い止めた」など大多数の米国人が持つ戦争観に対し「原爆投下は間違いだった?のではないか」との声も出ている…と伝えられている。

 こうした、米国を中心に起きつつある核を巡る状況は実現可能なところに来ている。
 9月、日本で初めて開かれるG8下院議長サミット広島開催も、今後の『核兵器廃絶・多数派』の推進に大きな役割が期待できる。

 一方最近、佐世保や横須賀などで相次いで米国の原子力潜水艦や原子力空母からの放射線漏れ事故が発生したが日本政府、外務省はのんびり受けの構えだ。直接、非核三原則に抵触するものではないが広島・長崎が被爆63年目に世界に発信する「平和宣言」をないがしろにしかねない要素を孕んでいると思えてならない。

 式典に参列した福田首相は「…非核三原則を堅持し、核兵器の廃絶と恒久平和の実現に向けて、国際社会の先頭に立って行く…」約束した。

 しかし、現在世界では“核廃絶多数派“拡大の反面、核拡散の危険も現実のものとなり核兵器の使用さえ危ぶまれる状況にある。
 このため、広島市は非核三原則を更に推進し、核兵器廃絶を進めるために、核兵器を『作らせず、持たせず、使わせない』という“新・非核三原則”も提唱している。

 今年の「平和宣言」がより重く着実に前進する事を期待したい…。
 1歩前進の可能性は大きい。

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