「広辞苑」新村猛さんとヒロシマ
国語辞典の「広辞苑」が10年ぶりに改訂され、第6版として来年1月に発売になる。
編者は山口市出身の言語学者の新村出(しんむら いずる)氏だ。
中国新聞25日の天風録によると「オックスフォード英語辞典」に衝撃を受けた新村氏は
昭和初期から言葉の収集を始めた。前身の「辞苑」は‘35年(S10年)にできたが、全面改訂を目指して集めた15万語の原稿や組版が戦災で灰になる苦難を経て、’55(S30年)に「広辞苑」初版出版にこぎ着けた。
「広辞苑」と聞くと思い出深い人がある。
辞書は新村さんが亡くなった後も名古屋大学でフランス文学の教鞭を執っていた出氏の二男で仏文・言語学者の猛氏らが改訂に取り組んできた。
その猛氏は広島に縁が深い。私が知己を得たのは東京支社に勤務していた‘74(S49年)
?頃。分裂している原水禁運動の統一に全く表に出ない所で汗をかいている人がいると知ってその人の宿舎を訪ねた。
六本木の東洋英和近くに、嘗て前田候の江戸屋敷跡にある国際会館が定宿だった。
穏やかな初老の学者はにこやかに迎えて、よもやまな話に花を咲かせ、第二次世界大戦中の「フランスの人民戦線」や「ヒロシマの心」について熱く語った。
主義主張を超えて“原水爆の廃絶”を唯一の柱にした「フランス人民戦線」を理想とする革新勢力の大同団結に自らの勢力を傾ける気迫を感じた。
しかし、会話の声は消えんばかりに細く、私は以後、最初の印象である“名古屋の御公家さん”と秘かにニックネームをつけていた。
名古屋市に革新市政が誕生したのは‘72(S34年)。猛氏はその前年の愛知県知事選に出馬して善戦し、名大教授で後輩の山本さんの名古屋革新市政誕生の先駆けになった人で、その道では知られた人だ。’35年(S10年)同志とファッシズムに抵抗する「世界文化」を創刊し、治安維持法違反で逮捕された「戦前の筋金入りの闘志」だった。
学者・研究者としても著名でロマン・ローランなどフランス文学の訳書も多く人権問題にも熱心で「山宣」の流れをくむ初代の部落問題研究所の所長も務めた。
原水禁運動の統一に向けては、当時の総評の市川議長や社会党の飛鳥田委員長、共産党の宮本議長、原水協・原水禁など関係者を訪ねて根気よく “運動統一”の実現を目指して、個人の立場からすべて手弁当で働きかけされた。
彼を動かしたものは‘63年(S37年)の原水禁世界大会で愛知代表として参加し「いかなる」問題をめぐって原水協が分裂した際、議長団にいた。
‘30年にドイツの社共が分裂してヒトラーの独裁を許したとき、フランスは人民戦線で民主主義を守った歴史を大きな教訓にして生きてきたことにあった。
東京の国際会館の一室には「広辞苑」の編集室を置き、名古屋の自宅と行き来しながら月10日くらいをここでを過ごし、全国に足を伸ばしながら広島にも年1~2度ふらりと姿を見せられた。
JCJ(日本ジャーナリスト会議)の活動や東欧との国際交流にも熱心で、当時発足させた広島ルーマニア協会の設立や私がJNN(TBS系ネットワーク)でブルガリアに長期取材の出かける契機とルート造りにもお力添えを頂いた
若い記者や学者との交歓が好きで広島でもワインやビールを傾けながら時折会話の中から拾った若者言葉や流行語などには敏感にメモを取られた。
晩年はもっぱら「広辞苑」の編纂に力を入れ、亡くなる1~2年前から広島への足は遠のいたが手紙や電話で消息を尋ねて来られ「ヒロシマ」への関心は強かった。
小さな体で声もか細いが何事もゆったりと構えた心の広さと反面、時折見せる老人らしくない眼力の鋭さは今も私の脳裏に強く残っている。
その新村猛氏が亡くなって今月末で15年になる。合掌。
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