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2007年8月

2007年8月31日 (金)

逆学歴詐称

以前大阪市役所職員の学歴詐称が問題になったことがある。受験資格が高卒となっているのに、大学or短大卒を高卒と偽って合格したというのだ。これを逆学歴詐称というようだ。その対象者となる965人に対し、大阪市役所は1ヶ月の停職処分としたという。なにかおかしい。
さらにおかしいと思うのは、YAHOOのクリックリサーチによれば、この大阪市役所の1ヶ月停職処分に対して、甘いと答えた人が44,473人中、32,999人だという。実に75%の人が甘いと答えているという。

高卒以上なのに、実は高卒ですと偽っていたこと自体が駄目だというのはわかる。しかし大卒ということは、高校は卒業しているということだ。高卒程度のレベルの仕事を、大卒の職員がやって、なんで駄目というのだろうか。高卒者の仕事を奪うからというのであろうか。

アメリカでは、ちょっと会社がおかしくなると、すぐリストラする。博士号を持っていても、首になってしまうことがよくある。次の就職先が決まるまでの間、タクシーの運転手をしているということはざらにある。
こうしたことと、今回のことは同じではないだろうか。博士が運転手になっては駄目というなら、それこそ逆差別ということになる。日本は意外とこうした逆差別が多い国のようだ。

高卒でなければ駄目だということになると、就職に不利だからと、大学にいくのはやめようということになりかねない。結果として、それは日本の社会全体としては、大きな損失をしているということではないだろうか。
先日の新聞に、大学進学理由として、半分以上の人が、学歴取得のためとしていた。別にそれだっていいではないか。それはそれで必ずなんらかの意味があるのだというくらいの大らかさが必要だろうと思う。通常皆が皆、そんなに明確な目的を持って、大学に進んでいるわけではないだろうと思う。4年間遊んでいたとしても、しばらくして、そうしたチャンスを与えられたことに対して感謝し、少しは社会のためになれればいいと思ってくるのではないだろうか。

広島市では、今回のような逆学歴詐称については全く問題にならなかった。その理由は極めて簡単だ。広島市では、保育士や看護士等を別にして、全ての職種について学歴不問としているのだ。いつの頃からそうなったかは知らないが、こんなところにも、広島市の先見性と見識の高さが窺える。不思議な都市だ。

今、日本ではなまじ博士号をもっている故に、就職先がないポストドクターが社会問題化しつつある。東大の博士課程に進学する日本人学生はへり、今や東大は外国人留学生に占拠されようとしているとも聞く。
逆学歴詐称を問題にするより、こうしたことのほうが問題だろう。いま日本に必要なことは、いかに社会全体の教育水準を高めていくかを考えるべきだと思う。

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2007年8月30日 (木)

公立の星:佐賀北高校

 昨日の甲子園は天地が逆転したような優勝戦だった。‘94年に次ぐ2回目の出場で逆転、二度の延長・再試合をものにしてきた佐賀北の優勝はドラマチックなミラクルだった。
広陵は残念だったが良く闘った。野村君をはじめナインはいつも明るくにこやかで爽やかだった。

 テレビの前で2人の孫と一緒に見ながら0-4の佐賀北に「ガンバレ」のエールを贈る祖母に「おばあちゃんはどっちの味方?広陵は広島よ!」とクレームをつける孫。祖母が「負けてる方も頑張れば面白くなるでしょう」と言うが地元意識を丸出しの応援を続ける孫達。佐賀北の逆転を悔しがり、敗戦を「勝つていたのに!」と残念がった。この子たちはこうした場面を通じて徐々に郷土意識を育むのだろうと眺めた。

 さて、今朝のテレビで<みのもんた>はあの鮮やかな逆転満塁ホームランを映しながら佐賀北高を盛んに“公立の星”と讃えていた。ナインは試合後、宿舎で静かに自発的に受験勉強をしながらの毎日だったと言う。毎年、100人前後が国公立の大学に進学すると伝えていたのに驚いて“佐賀北高校HP”を開いて見た。

 旧制佐賀中学の流れをくんで戦後発足した佐賀高校が60クラス、3千人と国内で最大のマンモス校になったのを機に‘63に北、西、東の3校に分離発足した。

 1学年普通科・被服科8クラス320人、全校約千人の中規模校。特徴は普通科に音楽・美術・書道の芸術コースがある。部活が盛んで体育会は野球・陸上・硬・軟テニス・サッカー・新体操・空手・柔・・弓剣道など17部。文化部も17部ある。
男子バスケ、女子バレー、サッカーは全国レベル。剣道や陸上でインターハイや国体で優勝した経歴は豊富。

校風は自主・自立を重んじ、知性を高め人格の完成を目指すとある。校訓に「挑戦・雄心・創造」を掲げ、校歌のほかに北高賛歌や逍遥歌がある。毎年秋に開かれる北高祭(前夜祭、文化祭、体育祭)は準備や練習を通して先輩と後輩が交流を深める機会となっており、前夜祭のファイヤーストームは女子禁制で行われている伝統があるようだ。

 女優の中越典子は‘98、プロサッカー・アルビレックス新潟の中野洋司は’02の卒業生。現在巨人の打撃コーチで横浜ベースターズの主砲だった岸川勝也は‘84卒。
 
 優秀な一人が大学数校・数学科を受験して70余名分の合格を果たして売り物にする学校がある時代、公立とはいえこのHPに進学に関する記述や実績らしきものは全く見当たらない。
  今朝のテレビ放送が事実かどうか県教委などで敢えて確認しなかった。
 
しかし、昨年は県予選の1回戦で敗退した佐賀北を培ったのは、たゆまぬ努力を土台に徹底した基礎練習。1日3時間の練習時間は2時間が基礎訓練。実践練習は1時間。練習時間は短いがハンディではないと言いきる選手には自信が漲っていた。

グランド横の野球部の部室前に「ピンチの裏側」と言う一文が掲げてある。
「神様は決してピンチだけを与えない ピンチの裏には必ずチャンスがある・・・」
精神的な鍛錬ができた上出来の子供たちだ。

日頃の練習を1試合ごとに積み上げて、1試合ごとに強さを磨き、V達成したのが佐賀北の野球だった。特待生ゼロの<普通の高校>は高校野球の理想形だ。
 
優勝後、「可能性を信じる」ことを指導してきた監督は「この子たちがこんなに上手だったか」と呟いた。
県内では聞けない。まさしく文武両道を地で行く佐賀北高校は“公立の星”と言える。

敵ながらあっぱれ!!佐賀北高校!!!

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2007年8月29日 (水)

夕凪の街

 今、市内の映画館で広島を舞台にした話題の映画「夕凪の街 桜の国」が上映中だ。

午後2時過ぎからの上映に100人前後の観客がいた。炎天下を避けて涼みがてらの鑑賞にしては多いい客だ。

 「夕凪」は気象的には昼間は海から陸に吹く風が夜になって陸から海に変わる谷間の夕刻、ぴたりと止まる現象を言う。
 瀬戸内海沿岸の特徴的な風土とも言え、特に夏場の夕凪は広島の名物?と言われてきた。

 この映画のタイトルは「夕凪の街=広島」であり「ヒロシマ」である。

 原作は広島出身の河野史代さんの同名マンガ「夕凪の街 桜の国」。監督は下関出身で「チルソクの夏」や「半落ち」の佐々部清。出演は田中麗奈、麻生久美子、堺正章、藤村志保、
中越典子などそうそうたるメンバーだ。

 映画は戦後13年経過した広島の街。被爆の傷や後遺症に苦しみ心の深い傷に負けまいと健気に生きる皆実<夕凪の町>
 そして現代の東京。家族に内緒で広島に向かう皆実の弟が故人となった姉が生きた周辺の人たちを訪ねてヒロシマを手繰る。父の行動を不審に思った娘が後をつけてヒロシマに辿り家族のルーツを知る。<桜の国>

 二つの時代を生きる二人の女性を通して平和の尊さと生きる喜びを歌い上げた心にしみる秀作だ。

かつては子供でも知っていた“夕凪”は今や死語同然になっている。
我が家の孫達も同然で、全く承知してない。広島名物?だった“夕凪”を教えてみたが「クーラーがあるから良かった」と言う。
 
 まさしくクーラーによって夕凪の苦しみから解放されたが、この炎天でも夕凪前の1~2時間、ベランダに打水をしで海側から来る風を待つとそれなりにホットさせられる自然を感じる事ができる。

 「夕凪=夕凪の街=広島=ヒロシマ」が単なる昔話や死語にならないように、忘れない為にも改めてこの映画の鑑賞を推奨したい。

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2007年8月28日 (火)

ハナミズキの並木・森

戦前の1912年、当時の東京市からアメリカ・ワシントン市に友好親善の記念としてサクラが贈られ、その返礼として、1915年ワシントン市から東京市にハナミズキが贈られた。こうした活動が、日本とアメリカという国と国でなく、東京市とワシントン市という都市の間で行われたということは、興味深いことだ。日本は戦争中、アメリカから送られたハナミズキを敵国の木として全て切ってしまったが、アメリカに贈られたサクラは切られず、有名なポトマック川のサクラ並木として今も残っている。しかし日本にも、その時何故か切られずに、たった1本が東大の小石川植物園に残っているという。

ハナミズキは、4月から5月にかけて白、赤、ピンクの小さな花を咲かせる。その姿は可憐で美しい。
ハナミズキは樹形のきれいであることと、それほど大きくならないことで、近頃各地の並木や、庭に植えられている。

P3

秋葉市長は、こうした歴史的経緯のあるハナミズキを、平和のシンボルとして広島の街に植えようと呼びかけている。「ハナミズキの道を造る=平和の道を創る」というわけである。

日本の高校生が修学旅行でワシントンいった際に、その記念にと、ポトマック河畔にサクラを植樹しているそうだ。参加した学生にとってはいい思い出になっていることと思う。日本では、世界各地から、広島を訪れた人々に、広島市内の川岸や道路に、ハナミズキを植えてもらうようにしたらどうだろうか。
平和式典の際、世界の人と共に、平和を祈り、一緒に植樹するということも考えられる。

広島には被爆樹木が160本からある。悲惨な被爆した状態から、元気よく立ち上がった被爆樹木に沢山の市民が元気付けられたということで、被爆樹木は平和を祈念するシンボルの樹となっている。

市民球場跡地は、友好親善のシンボルとしてのハナミズキと、世界の平和を祈念するシンボルとしてアオギリに代表される被爆樹木2世を植え、「平和の森・ヒロシマ」を創るのはいかがであろうか。

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2007年8月27日 (月)

京橋川のオープンカフェ

先日、久しぶりに京橋川のオープンカフェで食事した。5時を過ぎるとさすがに日差しも弱くなり、友人達と喧々諤々とお喋りしながらのバーベキューは楽しい。
オープンカフェが、川辺に設けられているのもいいが、仮設的な造りであり、レストランの真ん中に大きな木があるのもいい。イベント的な感じが、より雰囲気を高めているようだ。


P1

P2
広島市HPから転載

このあたりは、オープンカフェができるまでは、人通りは殆どなかったようだが、このオープンカフェができたことで、人通りが7倍にも増えたという。そしてまた、紙屋町、八丁堀ゾーンと広島駅ゾーンが繋がったともいえる。
オープンカフェは、食事をしている人々の姿が外から良く見えることもあって、実際に食事している人の数以上に賑わいを創りだしているようだ。
広島市の賑わいづくりということでは、大きな役割を果たしていることがわかる。

この京橋川のオープンカフェは、川岸の公共空間を民間に開放した日本で初の試みとして、都市計画学的にも極めて高く評価されている。そんな大変な施設だとは殆どの市民は知らない。
治山治水のということでは、1級河川の堰堤の上を、民間に開放する、オープンカフェをつくるなどということは、これまでの常識では考えられないことであった。
広島市は、そのために、法的問題だけでなく、様々の問題をクリアするために大変な努力をしてきたことが窺える。
また特定の民間企業が、公共空間を使って利益をあげ、それをいかに公共の利益に還元するかということについても、このオープンカフェでは、広島市はなかなか上手い仕組みをつくっている。

広島市は、いくつもの川があり、目の前には瀬戸内海があり、大変美しい自然条件にも恵まれている。また年間を通して雨の日も少なく、風も弱く、外で食事をするには素晴らしい条件にめぐまれている。
しかしこれだけの条件が整っているからといって、それだけでは人は来てくれない。京橋川の川辺を散歩はなんとも風情があるが、だからといってそこを歩いてくれるわけではなかった。街の賑わいという視点からみれば、川によって街の賑わいは分断されているとすらいえる。
こうしたレストランがあり、トイレがあるといった仕掛けがされていないと人は来てくれないのだ。
美しい自然環境は、いわば料理の材料のようなもので、いくら上等の材料だからといっても、人が楽しめるように料理されていないと、人は楽しむことができないのと同じだ。「オープンカフェ」という手法は、川を楽しむための素晴らしい調理法だといえる。

この京橋川のオープンカフェも、今現在は4店だが、もう少し数が増えれば、知名度もアップし、その拠点性もアップするだろう。さらに市内のあちこちにこうしたオープンカフェできれば、オープンカフェ=広島市というイメージができていくことも期待される。

こうした視点で見ると、広島市内には、まだまだオープンカフェができそうな場所はいくつもありそうだ。
海を見ながら、ということでは宇品港のあたりも素晴らしい環境だと思うし、また都心のエアポケットになっている袋町公園にオープンカフェを作れば、うらぶくろの魅力を高めるのに大きな役割を果たすことと思う。
「オープンカフェ」は、こらからのまちづくりを考える上で面白い手法だと思う。

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2007年8月26日 (日)

ひろしま街づくりデザイン賞の新設2部門

―サスティナブルシティー・広島市(6)

広島市は「ひろしま街つくりデザイン賞」を設け、それに相応しい作品を毎年表彰している。その中に、今年度から「環境にやさしい街つくり」と「建材の再利用」に関する2つの部門が加えられた。その発想の素晴らしさと、斬新さにちょっと度肝を抜かれた。
デザイン賞というからには、もともとはその造形的な美しさに対して与えられると思うのだが、今回加えられた2つの賞は、その造形のコンセプトも加味して評価しようということのようである。

なんでもそうだが、なかなか「価値を認める」というのは難しいものだ。
特にある分野の人たちは、なにか貶していると、さも知的であるかのように、そして正しいことをしているかのように思っているふしすら窺える。
人の悪口は簡単にいえる。また悪口をいっていると、それが快感にすらなってくることがある。
それが嵩じると「いじめ」ということになるのだろう。
その対極にあるのが、こうした表彰制度といえる。
そうしたことでは、今回の2つの表彰制度を設けた広島市をまず評価したい。

また「持続可能な都市=サスティナブルシティー・広島市」を創ることを目指している広島市としては、今回の「環境にやさしいということで、環境問題を取り上げる」、「建材の再利用ということで、資源の自立を促す」の2つの表彰部門を設けたことは、極めて大きな意味のあることだとも思う。

この2部門の表彰制度とも最初の試みであり、何件応募があるか、気になるところだが、是非沢山の人に応募して欲しいと願っている。

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2007年8月25日 (土)

“文明開化の商店街”は優しい街

 孫のお伴で10年ぶりに鎌倉を訪ねた。炎天下の「鎌倉歴史散歩」に付き合った。
その帰り、横浜も6年ぶりに訪ねて元町を散策した。

 ここは日本が鎖国を解いて開港した頃、文明開化の時期にいち早く開かれた日本最古の商店街だ。パンフによると当初は日本人より外国人相手の商売が自然発生的に多かった。
花屋・洋服屋・婦人帽子屋・西洋家具屋・パン屋・カフェなどが並ぶエキゾチックなストリートだった。

 大正12年9月の関東大震災や太平洋戦争の横浜大空襲で焦土となった。しかし、戦後は進駐軍が大挙して横浜に上陸・駐留したことから奇しくも開港当時の状況が再現する形で復興を遂げ、海外の都市やブランドとの提携を積極的に進め先進ファッションの街にした。

 1キロに及ぶショッピングストリートの元町は電線が地中化され両サイドの歩道は拡幅されてゆったりし、車道は早朝深夜の商店に必要な時だけ通行できる一車線を確保。
 何よりも2百メートル間隔で洒落たベンチが置かれ、ショッピングに疲れた男たちや老人たちがのんびり憩っている。土曜午後の通りはハワイアンの演奏とフラダンスにカントリー、FI車の展示と多彩だ。最近多い愛犬用の洒落た水飲み場は流石ヨコハマと感心した。

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 長い歴史を積み重ねた街らしく落ち着きがあって炎天下であるのに爽やかで、長時間の滞留が出来る。気楽に店内を覗いたりウインドウショッピングが楽しめる街だ。

 銀座などに比べると気取った店がなく、日本最古の商店街の洗練さも日本一だ。今回この街が障害者や体の痛い人にも大変優しく、改めてまた訪ねたい街と感じた。

 街づくりの志を高くして、広島市の担当者や広島本通り商店街の関係者は是非ともこの街造りを学んでほしいものだ。

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2007年8月24日 (金)

終戦の詔勅と久間発言

 今日は62回目の終戦記念日。終戦時は国民学校1年生だった。
余談であるが、この日は自宅で当時としては大きめのラジオ“ダイナミック・スーパー6球”の前に近所の人を含めて十数人が集まって聞いた。
 “ダイナミック・・・”と敵性語である英語で言っていたかどうか定かでないが不思議といまだに私の頭から消えていない。

 最近、友人から届いた手紙の中に「終戦の詔勅」のコピーが入っていた。久しく目にしなかった文章を読んで見た。改めて、久間発言を云々する気はないが詔勅の中に気になる以下の表記がある。

 「・・・敵ハ新ニ残虐ナル爆弾ヲ使用シテ頻ニ無辜ヲ殺傷シ惨害ノ及フ所真ニ測ルヘカラサルニ至ル而モ交ヲ継続セムカ終ニ我カ民族ノ滅亡ヲ招来スルノミナラス延テ人類ノ文明ヲモ破却スヘシ斯ノ如クムハ朕何ヲ以テカ億兆ノ赤子を保シ皇祖皇宗ノ神霊ニ謝セルやレ朕是カ帝国政府ヲシテ共同宣言ニ応セシムルニ至レル所以ナリ・・・」

 久間元防衛大臣は「しょうがない」理由に「原爆で戦争が終わった」からと言った。
米国には「原爆で終戦になり、多くの米兵の命が救われた」と言う公式見解がある。これに対して、日本にも「原爆で戦争が終わった」と言う“神話?”があると聞いた事がある。
 この説の源になっているのが“新型爆弾”(原爆)をポツダム宣言受諾の理由にした「終戦の詔勅」であると考えられる。
 神であった天皇の言葉だから“神話”と言われる所以であろう。

 原爆や核兵器の使用はどのような理由であっても過去も現在も未来も許されない。
核兵器は人間らしく死ぬることも許さない狂気の兵器であり、一度使用すれば「人類を絶滅させる兵器」であることをどれだけ認識しているかが重要である。
 
 ‘45年7月26日、日本の無条件降伏を迫った「ポツダム宣言」に「終戦の詔勅」は政府と軍部が「国体の護持」を考えながらもたもたする間に広島原爆投下、ソ連の対日宣戦布告、長崎原爆投下と続く中で決断した。

 米国政府の原爆投下正当論と日本政府の<国家が遂行した戦争がもたらした原爆被害に対する保証はしない>と言う「受忍論」が日米両国の「原爆終戦」の根拠になって“しょうがない”を引き出している。久間発言もその一例で、今だに終戦の亡者?が<詔勅を悪用>していると言える。

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2007年8月23日 (木)

広島市を都市州に

近頃、広島市が州都になれるか否かについての議論が喧しい。「州都になれなければ、広島市は駄目になってしまう。広島市は何をしているのか」と騒いでいる。
「州都になるためには、西飛行場を使って州都便を飛ばせ。そのための赤字負担は市、県or州がすべきだ」という議論もされている。それはもう何かに取り付かれたかのようですらある。
州都になることはそんなにいいことだろうか。ちょっと冷静に考えてみる必要があるようだ。

広島県には、かって77市町村があったが、平成の大合併といわれた市町村合併で、今では24市町になっている。広島県から村はなくなってしまったという。合併した市町村、それを進めた県にとっては、大きな経費節減になったことは確かだろう。しかしそこには市民は本当に合併を欲していたかどうかという視点からの合併議論はなかったように思う。
合併を進めるにあたって、いわれていたことは「合併をしないと、市民の負担が大きくなる、合併すれば、合併特例債で○○施設ができる」といった話はあった。しかしそうしたことが、一般の市民の望んでいたこととは到底思えない。

国の経済財政諮問会議は、国の出先機関を地方に移管すれば、職員の3分の1、約10万人が削減できるといっている。国の出先機関の受け皿として、国は道州制を考えていることが窺える。
それならそれで、これをなんとか、本来の地方自治の本旨「身近なことは、自分達で決める」という状態にすることを考える必要があるのではないだろうか。

「企業では、経営が悪くなったら、合併して、縮小する。収益が拡大し、企業が大きくなったら、子会社を作り、分裂させていく」ということは暗黙のルールとしてある。
2つの会社が合併するときは、成長、拡大の契機とすると公式には発表するが、本音は不要となる部分を削除することで、経費削減して、収益を上げようということだ。
単純にマーケットが大きくなっているなら、今まで通り2つの会社がそのまま大きくなっていけばいいのだが、そうはいかないから、仕方なく合併するのだ。

中国5県が小さくなって、1つの中国州という名前に代わっただけでは、広島市、広島市民にとっては、今まで通り、依然頭の上に県という名前が州に変更されただけの、市、州、国の3層構造が残ることになっては、何もいいことはないということでは困る。

広島市の6月議会で、秋葉市長は大変上手い解決策を提案している。「広島市を、州と同格の“都市州”にしよう」というのだ。他に例がないわけではないという。中国の上海、北京、重慶、韓国のソウル、デグもそうだという。
「県+県・・・+国の出先機関=州」に対して、「政令指定都市+国の出先機関=都市州」にしたらどうかというわけだ。当然都市州は、州と同格になるわけだから、州の権限とその財源をもつのだ。これなら都市州と国の間に何もないから、直接市民の意見を、市政に反映させ易くなる。

広島市は、闇雲に州都になろうとするのでなく、州と同格の「都市州」となることを目指したほうがよさそうである。
国の出先機関の権限と財源をもつことになるなら「広島市都市州」は悪くない!
州都問題も一気に解決してしまう。

全国の政令指定都市は、全て都市州になればよい。政令指定都市が協力して、都市州を推進することも検討すべきだ。
岡山市も都市州になることを目指せばいい。両市が都市州になれば、なにも州都は広島市か岡山市かだなんてけちな議論を繰り返す必要がなくなる。広島市も岡山市も、それぞれ都市州いい街となるよう頑張ればいいのだ。
中国州の州都は例えば松江市ということだっていいだろう。
だからといって、中国州の州都が広島市に残ることになってもそれを、拒む必要は全くないということはいうまでもない。

そして広島市が都市州となれば、広島市から、中国州議会に議員は出さないというのは当然のことだ。今だって、本当に政令指定都市が県と同格の権限と財源をもつというなら、広島市から県会議員が選出されていること自体がおかしい。
それこそ、都市州の市長も加えた道州制の長が、国政に参加するようにすることも考えるべきだろう。参議院議員としてなら、比例代表の枠を振り替えればいいというになる。

「広島市都市州」という案は、様々の可能性を感じさせてくれる。どんどん議論がされることを期待したい。

道州制について、秋葉市長がメルマガの中で大変丁寧に説明している。
http://www.city.hiroshima.jp/www/contents/0000000000000/1186723143252/index.html
一読されることをお勧めしたい。

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2007年8月22日 (水)

木材自給率を高める!

―サスティナブルシティー・広島(5)

日本は木材の殆どを海外から輸入している。現在、国産材の自給率は20%だという。
広島市の木材自給率は、限りなくゼロに近いだろうと思われる。
輸入される80%の内訳は、木材製品・原木・合板が40%、パルプチップが36%、そのほかが4%という。
木材を海外から、大量に安価で輸入されるようになってから、日本の山は荒れるにまかされ、それまで街のあちこちにあった材木商もその殆どが消えてしまった。反面、海外の森林の荒廃が著しいといわれている。
こうしたことは、地球環境的にも好ましいことではないことは明らかだ。

しかしただ単純に、木材を国産材に転換しようとすると、かってのように日本の山を杉、檜の山にするだけの結果になりかねない。
現在では、治山治水やという観点や風景の再生、さらには効率的な林業経営の観点から、戦後相当無理をして植林した針葉樹林を複合林に戻すことや、花粉症の原因となっている杉の成木を花粉の少な新品種に植え替えることも進められている。
こうした森創りをより推進するためには、もっと総合的に国産材の自給率を高める方策を考える必要がある。

その方策の一つとして、現在、広島市、広島工大を中心に進められている木造住宅の精密解体による建築資材のリユースという考え方を取り入れることで、木材の自給率を高めるということについて提案したい。

日本の木造住宅の建て替え年数はおおむね30年程度といわれている。
戦後郊外のあちこちで作られてきた分譲団地の住宅は、今そのときを迎えている。
子供たちは育って都心のマンションに移り住み、その戸建て住宅には中高年の夫婦が残され、残された老人は、SCには車でなければ買い物にも行けないということもあり、今郊外の戸建住宅をどうするかは大きな社会問題になりつつある。
今住んでいる住宅を壊して、2世帯住宅に建て替えるのか、あるいは売却して、都心に移り住むのかという問題が目の前に迫っているわけである。
しかし日本では、いままでそうした古くなった住宅は一銭の価値がないものとして、重機で壊され、産業廃棄物として処理されてきた。
木造住宅をそのように解体処理すると、広島地区では、8,000円代/m2程度かかると聞いている。
各種条件にもよるが、100m2の住宅を解体処理した場合約80万円となる。
今それを瓦1枚から、丁寧に職人が手で解体し、解体された資材はそっくりそのまま再利用しようという研究が、いま広島工大を中心に進められている。
このように作ったときの逆の手順で解体していく作業を、精密解体と称している。
しかし、そんな面倒なことをすれば、その数倍の費用がかかるだろうと一般には思われ、いままでそんなことをする人はいなかった。
ところが、昨年段原の区画整理地区の移転対象となった住宅で、その精密解体の実験をおこなったところ、その解体費用は重機を使ってグチャグチャに解体するのと、ほとんど変わらないということが明らかになった。
ブルでグチャグチャに解体した場合には、建築資材リサイクル法によって、そのあと廃棄をする前に、木材、コンクリート等にそれぞれに分別して、処理しなければいけないということが厳しく義務つけられているので、解体する際に、そのつど分別していく精密解体と、結局はトータルとしての費用は変わらなくなってしまったというわけである。
分別を後にするか、先にするかだけの違いだというわけであるが、その結果は大違いだ。
先にすれば、その資材はそのまま再利用が可能になるということで、最終処分場に捨てられる量が減るだけでなく、輸入木材の量を減らし、日本の自給率を高めること貢献することになるというわけである。

例えば、新しく建てられる10軒の建物うち1軒が、精密解体によるリユース材で建てられたとすると、建築用に使われる輸入の木材製品・原木・合板が40%、国産の木材製品・原木・合板は13%いうことであるから、(40+13)%×0.1=5.3%ということになり、5%を超える木材の輸入を減らすことができることになる。それは、結果として、木材の自給率を高めたというということになる。
リユース材による建築の割合が増えれば増えるほど、輸入木材の量、率は下がるわけであるから、日本の木材の自給率を高める上で、精密解体という手法を育てていく意味は大きいといえる。

精密解体、その資材のリユースということでは、古民家の再生という分野では、すでに充分な実績がある。
そうした活動を一般住宅にも広げようというわけである。
広島市で、もしこうしたことができれば、それだけで、広島市の木材自給率は5%を越えることになるということでもある。
それはまたそこに、新たな流通機構を創ることになるだろうし、新たな雇用も生み出すことになるだろうと思われる。
大変素晴らしい研究だといえる。

この広島工大を中心にして進めている建築資材のリユースの研究は、日本の環境政策にとって大きな意味があるだけでなく、世界の森林行政にとっても大きな意味があることだと思う。

そして、この精密解体に関する研究を、広島市、大学、企業そして市民が一体となって進めることで、広島市の誇る、新しいビジネスを育てていって欲しい。

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2007年8月21日 (火)

3代で鑑賞「はだしのゲン」

 老夫婦と娘、その長男の三代で、二夜にわたり「はだしのゲン」を鑑賞した。
著作の中沢啓治さんは同年である。「ゲン」と自分が重なった。ドラマに登場する「ゲン」は、60余年前の私の少年期をよみがえらせた。
私は原爆投下のころ、東京にいてあの「空襲」を経験した。5歳の記憶はあまり定かではないが、父母と乳母車の妹と4人で、逃げまどったことをうっすら憶えている。空からくさい銀紙が舞い落ちてきたこと、乳母車の妹の毛布に油のしみができていたこと、大人たちが高射砲でとどかぬ攻撃を繰り返していたこと、あちこちで火の手が上がっていたこと……

その3月の空襲後、時を経ず父親は応召され関東軍へ入隊。戦地から病をえて帰国したが、3年後に疎開先で40歳の生涯を閉じた。

小学2年生の孫は、食い入るように画面に見入った。主人公と同じ年代だから、幼いながらもストーリーをわが身に置き換えていたのだろう。
 母親である娘は、少女時代繰り返し読んだストーリーが、40歳を目前にしてもなお記憶に新しく、台詞を聴くだけで展開が読めるのだろう。しきりに目をぬぐい、時折席を外した。

いま手元に1984年汐文社発行「はだしのゲン」9巻がある。テレビのあと、小学2年の孫は「結婚して子供ができたら、その子に読ませるんだ」と話してくれた。孫の頭を抱きながら、あらためて原爆をのろい戦争を憎む気持ちがふつふつと胸に湧き上がった。

 注 「はだしのゲン」を発行した汐文社の吉元尊則氏は古くから知己を得ていたが、この夏、氏から社長の職を辞する挨拶が届いた。

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2007年8月20日 (月)

影絵の魅力と「小さな影絵展」の役割

 3年目を迎えた「小さな祈りの影絵展」が今年も5日6日の2日間、元安橋の東詰めで開かれ、多くの人の足を釘ずけにした。

 今年のテーマは「暮らしの中の遊び」。戦前の子供たちが日が暮れるのも忘れて遊んだ“遊び・遊び道具・遊び方”だった。

 浜崎ゆう子さんが心血を注いで2ケ月かけて制作した作品は黒枠をベースに色とりどりのペーパーと電灯が織りなす鮮やかさで時代を蘇らせた。

 初めて参加したこの影絵展を見守りながら、20年前の「中国の影絵展(灯会)」を思い出した。

 交流を深めていた中国四川省の対外文化協会の許川会長(四川大学教授・四川省共産党広報部長)から私を指名した招待状が届いた。広州で開く「影絵展覧会」を見てほしいと言う要請だった。一人で出かけた先は広州市一の公園いっぱいに展開した四川省自貢市に伝わる伝統的な影絵の博覧会だった。

 影絵のルーツ説はいろいろあるようだが、関係者は四川省こそルーツだと言う。生活習慣から先祖の供養に関するものなどを影絵で表現したお祭りが今も(当時)省内各地に沢山伝わっている。

 提灯に貼った小さな魚や昆虫から色とりどりの民族影絵。スクリーンに映し出される民話の影絵による劇場。影絵を元にコンピューターで動かす巨大な龍や水鳥などが公園や丘や池、小川など自然をフルに活かした大影絵博覧会だった。

 直接見たことはないが青森のねぶたや秋田の万灯などを遙かに凌ぐと思われるスケールだった。テーマ性やストーリーのあるもなから繊細なものからダイナミックの迫力で迫る妖怪や龍などディズニーランドに負けない程のエンターテイメントである。
一晩で、外国からの観光客を含めて数万人が見物する。会場には饅頭や焼き鳥などの屋台が並びまるで日本のお祭りの夜店が所狭しと軒を連ねる。

 なぜ、四川省の影絵が広州で開かれるかは省政府の外商と同時に海外へのセールスを狙ったデモンストレーションでもあった。
 小型VTRで取材し、帰国後、県の四川交流担当や県幹部と誘致を検討したことがある。
残念ながら果たせなかったが、その後香港をはじめアメリカにも進出した経緯から考えると今でもこの四川灯会・影絵展は日本へ誘致すれば多くの観客を引き付けられるイベントに違いないと思う。

 影絵が持つ表現力は幻想的で宗教性すら秘めている。その手段を活かして原爆被爆犠牲者の慰霊と核廃絶を祈念する作品は被爆の悲惨や惨たらしさでなく、生活・暮らし・日常の中で捕らえようと言う発想も素晴らしい。

 親が子に祖父母が孫に何が描かれ訴えているのかを話す姿に感動を覚えた。
大切な、証言継承の一端を担った「小さな祈りの影絵展」は上記の中国の影絵展に匹敵する世界で最も小さいが持つ意味が大きなエンターテナーである。
 今後の継続が大切になる。

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2007年8月19日 (日)

「原爆展で米国新聞に意見広告」の支援募金

 広島平和文化センターは広島市と協力して今年度から向こう2年間に全米の101都市(首都と各州2都市)で原爆展の開催を計画している。
 
 この春、文化センターの理事長に就任したリーパーさんはこれまで平和市長会議のスタッフとして関わってきたが「核廃絶に向けた国際的な運動の経費は広島市や市民だけが負担すべきでない。世界の国々から募金するのが良い」と言う持論を展開していた。
こうした提案に呼応してノルウエー?などでは広島へ贈る平和市長会議の活動資金の募集が始まるなど国際的な広がりを見せ始めている。

 平和市長会議(会長:秋葉広島市長)が進める2020ビジョンは被爆75年の2020年までに核兵器の廃絶を目指すには、世界の核政策の動向を握る米国の市民に、核廃絶に対する理解を深めてもらうことが第一歩と位置付けている。

 アメリカでは2008年11月に大統領選挙が行われ、国民の政策に対する関心は高まる絶好の機会だ。この時期に米国の101都市で写真や被爆資料・証言による被爆の実相を伝える原爆展の開催は正に時機を得た企画だ。

 原爆展の開催地では地元新聞や大学新聞に原爆展開催のPRや核廃絶を訴える意見広告を掲載し、核問題への関心を高めたり来場を呼び掛ける。これに必要な600万円の費用を広く国内から募集する。

 募金受付期間は今月から来年の8月末まで、募金方法は県内外の銀行や文化センター、市役所、区役所にある振込用紙で、また募金箱は資料館、追悼記念館、国際会議場、市役所区役所に備えてある。

 核廃絶という世界規模の運動に広島市民の税金を出来るだけ使わないで世界各国から集めようと言う試みはこの意見広告と共通した発想の企画だ。リパー理事長のアイディアを成功させるために是非とも協力の輪を広げたい。私は早速募金をし、友人たちにも協力を求めたいと思う。

 詳細の問い合わせ先  財団法人 広島平和文化センター・平和記念資料館啓発担当
〒730-0811 広島市中区中島町1-2 (082-242-7828)

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2007年8月18日 (土)

戦争文化から平和文化へ

広島平和文化センター理事長のリーパーさんが、
「都市と都市の関係は、国と国との関係より、現実的で平和的です。
中でも広島と長崎はその原点です。
ゲルニカや重慶もそうです。
戦争でダメージを受けた都市は、戦争のない平和な世界を作ろうと発信しています。
戦争文化から平和文化へ切り替えていかないと、人類の明日はありません。
そのためにも、秋葉市長が会長を勤める“世界平和市長会議”を拡充、強化していく必要があります。」
といっている。

国と国との関係→都市と都市との関係 にすることが、
=戦争文化→平和文化 に転換することだといっている。
そして、この → の推進力になるのが、“世界平和市長会議” というわけだ。
大変解りやすく、綺麗な指摘だ。

いまここで改めて、広島市と秋葉市長の果たす役割りの大きさを再認識する必要があるようだ。

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2007年8月17日 (金)

「6ケ国協議・広島開催」の条件

 秋葉市長8・6に国へ出した要望書に「北朝鮮の核開発を止めるための6ケ国協議を、広島市での開催」を盛り込んだと言う元安川さんの記事、興味深く読みました。

 4日、国際会議場で開かれたシンポ「再び核廃絶のうねりを~ヒロシマから世界へ~」を聴講した。東大の姜 尚中(カン サンジュン)教授は「6者協議を広島で開くべきだった。今からでもおそくない・・・」としなら、核に手を染めた北朝鮮は休戦協定を平和協定にして戦争状態の終結を主張している(対米?)。日本の外交は拉致問題て世論とのせめぎ合いの中で迷走している。拉致は許されない国際犯罪であるが、核問題が解決出来ないと、人道上の問題も解決出来ないと言いきった。

 全く同感である。当初、各マスコミは日朝間の平和条約締結を強く支持していたが今ではまるで無視したかのような扱いになっている。マスコミも外交と同じく拉致問題で世論に迎合した形になっている。

 しかし、「6ケ国協議の広島開催」の為には「二次大戦の後始末として平和条約の締結」が必要条件になる。その後に、間髪をいれず拉致問題を解決することが同時に核問題の解決に繋がるという筋書きがなくして広島であろうとも根本的な解決にはつながるまい。

 62年前まで朝鮮半島から日本の軍需工場や炭鉱、ダムの建設現場へ数えきれない朝鮮人を拉致してきた日本の行為を捨ておいて、今ある北朝選の拉致行為の解決を優先しようと言う日本の外交方針で果たして解決が望める展望があるのだろうか。

 韓国に行ってきた経済支援・協力と同等の条件を出来るだけ早く提示して日朝の平和条約を実現すべきではないだろうか。小泉首相はその積りで乗り込んだが拉致の返しと詰めが甘かったため、一気に拉致問題に走ったのが安倍さんでした。

 素人が考えてもわかる理屈を無視して、安倍さんは世論とマスコミを背に拉致問題に集中した。その結果が一歩も前が見えないこう着状態を生んでいる。ここにきて、米朝が核問題を日本抜きでクリアーしようものなら日本は孤立して拉致の解決は更に遠のく恐れさえある。

 それにしても、姜教授ら識者が“日朝・平和条約締結が6ケ国協議の優先課題”と位置づけないのか不思議である。
横田さんら拉致被害者家族への同情は禁じえないが歴史の流れを踏まえた冷静な外交が、いまこそ大切な時期ではなかろうか。むしろ、そのほうが拉致問題も着実な解決を生むのではないだろうか。

 6ケ国協議の広島開催の為に必要な筋書きを整えれば無冠蹄翁氏が言う在日の朝鮮人被爆者組織などの要請行動が北朝選に大いに活きてくると考えられる。北が広島開催を逆指名することも考えられる。

 核問題を協議する場に広島が最適なことは誰にも判っている。
世界の核状況と世論は抑止から廃絶に変わりつつある。
核保有国の責任者たちが広島を訪れ、集うことが廃絶の道に繋がる。
 
当面、6ケ国協議の広島開催の道筋を国が自覚することが必要条件になるが、
秋葉市長の国に対する要望は一気に実現可能になって来るのではなかろうか。

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2007年8月16日 (木)

6ヶ国協議をヒロシマで

秋葉市長は、8月6日、国宛の要望書を提出する際「北朝鮮の核開発を止めされるための6ヶ国協議を、広島市で開くよう働きかけて欲しい。ヒロシマの場を生かすよう考えて欲しい。」と提案したという。
素晴らしい提案だ。

以前から秋葉市長は、核開発を進める北朝鮮の金正日首相に、8・6式典への参加を呼びかけてきた。
そこには「広島にきて、被爆の現実を見て欲しい。そうすれば核開発を進めることなどできなくなくなるはずだ」という思いがあったのだと思う。

現在開かれている6ヶ国協議の開催の場は中国・北京である。
しかし、核を持っている国が「核は恐ろしいから、核開発を止めろ」というのは、どこかおかしい。
「核開発を止めよう」という話し合いをするなら、それは広島市が1番相応しい場であるというのは、至極当たり前のことであろう。
その当たり前のことができないのは、その背景に、あまりに沢山の政治的な思惑があるからだろう。
しかし、そうであればあるほど、この広島市で、この6ヶ国協議を開くことの価値が出てくるのだと思う。

広島市では、これまで様々の国際会議が開かれてきた。
広島市には、同時通訳施設の完備した国際会議場もある。VIPの接遇にも慣れている。警察の警護も完全であろう。
この6ヶ国協議を受け入れる体制は、充分に整っている。
広島市には、他の政令指定都市にはない環境が整えられているのだ。

“北朝鮮の核開発を止めされるための6ヶ国協議は、ヒロシマで開くべきだ。”

中国新聞等、各メディアも、この秋葉市長の提案を強く推進して欲しい。

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2007年8月15日 (水)

頼りない男 ?!

そして、先日TVを見ていたら、評論家の勝谷さんが、今回の選挙結果は、
「信用できない男=自民党。
頼りない男=民主党」
ということを、国民がどう評価したかということだったといっていた。

そういえば、昔、クラブのホステスが、
「いい男は、いないかしら。
色男は金をもってないし、
金を持っている男は傲慢だし、
優しい男は頼りないし、
いい男はいないわねー。」
といっていた。

しかし勝谷さんは、
「頼りない男は、鍛えればなんとかなるかもしれないという期待はある」といっていた。

でもある人は、「頼りない男は、鍛えたって駄目よ。駄目なモノは、いつまで経っても駄目よ」といっていた。
それ誰のこと?!

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2007年8月14日 (火)

地方分権―国・県から市町へ

この5月に、国の経済財政諮問会議は「国の出先機関を地方に移管することで、国家公務員を現在の33万人から10万人削減することが可能である」と答申したという。
これはこれで、実現したら、凄いことだ。
経済諮問会議の答申の背景には「国家公務員の約70%は、出先機関にいる。国家公務員を削減し、地方分権を進めるには、この出先機関の業務と職員をできるだけ地方に移管すべきだ」ということがあるようだ。
ここでいう地方とは、県だけを指すのでなく、基礎自治体といわれる市町村も含めていると理解したい。

地方分権とは、より市民に近いところで、政策決定がされ、市民とってより住みやすい街をつくっていこうとすることにあるはずであり、こうした地方分権の流れは、地方自治の本旨からして好ましいことであり、ある意味で当然のことだといえる。
が、しかし現実は、どうもちょっとそんな都合のいいようにはいっていないようだ。
分権という掛け声のもと、政策とは無関係な事務、例えば簡易な許認可事務、施設の維持管理等を市町村に押し付けをしているだけのようだ。
それも特に、県から市町への移管のケースに顕著にみられるようだ。
これでは、市民生活の向上につながるとはとてもいえない。
こうしたこともあって、市町は人員増になるだけであり、予算不足であることを理由に受け取りを拒否しているのが実態だという。
地方分権を進めるにあたっては、国と地方の役割分担を明確にすると共に、「財源と権限をセットで」、「原則基礎自治体(市町村)に」移転すべきなのだ。

しかし公務員削減という名のもとに、そのしわ寄せが、単純に市町村にされるようでは、それは本来の正しい意味での経費削減とはいえない。

話しはちょっと飛躍するが、秋葉市長が自身のメルマガで、大変興味ある州都論を展開している。
http://www.city.hiroshima.jp/www/contents/0000000000000/1182762788840/index.html
是非一読をお勧めしたい。

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2007年8月13日 (月)

ミネアポリスの橋の崩落事故

―サスティナブルシティー・広島(4)

8月1日、アメリカミネアポリスの郊外と都心を繋ぐ橋が崩壊し、帰りのラッシュアワーと重なったこともあって、12人が死亡、行方不明になったという事故があった。
ピーターズ運輸長官は2日、同様の設計で建設された全米約750の橋をただちに点検するよう、各州に要請し、ブッシュ大統領も3日、現場を視察したという。
橋は1967年完成というから、まだ出来て40年しか経っていない。
しかしそれでも2001年にミネソタ州交通当局が実施した調査では、部分的な老朽化が指摘されていたという。

こうした老朽化に原因する事故は、近頃いくつも起こっている。
先日はニューヨークの蒸気の地下埋設配管が爆発した事故があった。
広島県でも、昨年呉に通ずる水道管が破損し、数日間の給水ができなくなったという事故があった。
トンネル、橋といった土木的施設にも寿命はあるのだ。

建築にも寿命はあるが、建築的施設の場合は、市民球場の建て替えのように、新たな球場を別の場所に作って、その新球場が完成したらそちらに移ればいい。
それまでの間は、いままでの施設を使っていればいいわけだが、土木的施設は、そうは簡単にいかない。

例えば橋の架け替えをしようとすると、その工事期間中、代わりの橋をつくらなければいけないのは当然だが、その代わりの橋への取り付け道路を作らなければいけなくなる。
その用地を取得するだけで、数年かかることが予想される。それだけでなく、場所によっては殆ど用地の取得は不可能ということもあるだろう。
代わりの橋を作る以上に厄介なことがあるのだ。
土木的な施設は、寿命がきたときは大変厄介だ。

日本人は、こうしたことをいままで殆ど経験していない。

日本では少子高齢化社会を迎え、産科の病院は激減し、年金、介護の問題に移った。
実は同様のことが、建築的、土木的の施設にあっても、介護の時代になったのだ。
市民も、いままでのように、あれも作って欲しい、これも造って欲しいということは、そろそろ止めるべき時に来たようだ。
新しい施設をつくるのはほどほどにし、すでにある施設を、どう維持管理していくのかに関心を移し、予算の使い方も変更しなければいけなくなった時代になったのだ。
介護と同様、楽しい話ではない。しかし、避けて通れない話であることは確かだ。

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2007年8月12日 (日)

果たして再び「山が動いた」のか

 自民党が惨敗した結果に、快哉を叫んだ人、溜飲を下げた人は少なくなかろう。
だが、もし「年金問題」「閣僚の不当発言」がなかったら、このような結果になっただろうか。首をかしげていたとき、興味ある論評に出会った。
 在日韓国人や日韓問題にかかわる人たちを対象に発行されている新聞がある。
「統一日報」。その8月1日号の社説だ。以下、要約をご紹介しよう。

 『日本の有権者は「懐勘定」に敏感だ。政治を選択する姿勢としては、世界でも希少かもしれない。政治に夢を託すことなど、とうに諦めた人々の姿がそこにある。~中略~集団的自衛権、憲法、教育問題などでは、民主党は自民党に太刀打ちできず、多分有権者もほとんど関心を示さなかったであろう。自衛隊が戦後始めて武装し海外に出るという「イラク特措法」にすら、有権者の多くは関心を向けることはなかった。~中略~85年の参議院選、土井委員長(社会)は、「山が動いた」といった。この時も、有権者は消費税導入に敏感に反応したのだ。…』

 今回の選挙は、自民から民主に大量に票が移動した。共産、社民は増えていないし、リベラル、無所属革新も増えていない。大半の民意は、「自民けしからん」「安倍なっとらん」として、民主へ流れたに過ぎないのではないかと危惧している。つまり、自民という山の表層の雪が、民社という谷に流れて民社の谷に小山ができたということだろう。

 「統一日報」がいう「懐勘定」は、ちょっと露骨な言い回しであり、図星をさされた感もあっていい気分ではないが、指摘のとおり「憲法」「核廃絶」「教育基本法改悪」「労働格差問題」という政治課題が真っ向争点になっていたら、この結果になったかどうか、自信はない。民社が、仮に民意を反映させる政治を実現できなかった時、また自民に票が移動するのだろう。こうした2大政党のシーソーゲームの中で、日本の重要な課題と未来が埋没していくことを、もっとも懸念している。

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2007年8月11日 (土)

「ミリキタニの猫」は反核・反戦映画だ!

 ‘06~’07の世界の映画祭で賞を総なめして話題のドキュメンタリィー映画「ミリキタニの猫」を先行試写会で見た。

 映画は2001年9月11日、同時多発テロで世界貿易センターがする崩壊するニューヨークの路上で始まった。騒然とした周囲をよそに絵筆を動かす老人がいる。ジミー・ミリキタニ80歳だ。日系人のストリート・アーチィストである。
彼の絵を買ったのが縁で、時折彼を撮影していたこの映画の監督リンダ・ハッテンドーフはこの日から路上生活のジミーを自分のアパートに招いて二人の奇妙な共同生活が始まる。そして、ジミーの過去を辿る旅が始まる。

 ジミー・ミリキタニ(日本名:三力谷)は1920年米国サクラメント生まれの日系二世。3歳で母国日本で教育を受けるため父の故郷広島の郊外(五日市)に帰国し、少年時代を過ごした。18歳になったジミーは日中戦争の勃発で軍国主義が強まる日本を逃れて絵描きになる夢を抱いて自由の国・米国に戻った。

 しかし、1941年日本の真珠湾攻撃で第二次世界大戦に突入。‘42年大統領令で強制収容所に収容され、忠誠テストで“敵性”と見なされた為、抵抗の証として米国市民権を自ら放棄して反骨の人生が始まった。
戦争が終わっても市民権は回復されず公的な権利は奪われたままで人種差別を受けながら戦後を生きる。‘59年に市民権は回復するが、働き場を得られず各地を放浪し続けるジミーにその知らせは届かない。

 リンダのアパートで猫とじゃれたり得意な猫の絵を描き、歌を歌いながらTVに映るアメリカの報復攻撃に「NO War!」とつぶやく。収容所での生活や原爆ドーム、やがて9・11を重ねながら怒りと恨みを込めた絵を書き続ける。

 やがて、周囲の人たちの努力で47年前に回復されていた市民権を受け入れ老人ホームへ入居する。閉ざされていたジミーの心は収容所跡を訪れ、少しずつ解かれ、深い怒りは祈りへ変わる。 彼はやはり日本人だった。報復から和解の道を自ら選んでアメリカを受け入れる。被爆者が辿った同じ道を選んだ。
「もう怒っていない。通り過ぎるだけだ。思い出は優しかった」と語るジミー。

 決して声高に「反戦・反核」を口にしないが、米国への反骨と彼の絵画に表現される作品は「ノーモア・ヒロシマ」「ノーモア・戦争」を一貫して訴えている。

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2007年8月10日 (金)

広島市交通科学館

―拘りが価値を創る(2)

アストラムラインの長楽寺駅を降りて、歩いて5分程のところに、広島市交通科学館がある。いま開かれているスパーカーの展示は、凄い人気をよび、開業以来の来場客数となっているという。なるほど休日は、駐車場は満杯で、駐車スペースを探すのが難しいほどの混雑となっている。東京のTVにも取り上げられたこともあってか、わざわざ東京から見に来る人もいるという。

しかし、実は、この交通科学館には、知る人ぞ知る大変価値のあるものが展示されているのだ。その価値の高さについて知る人は少ない。ちょっと残念なことである。

この交通科学館には、航空機・船舶・鉄道・自動車の模型合計2496点が展示されている。模型だからといって、子供だましのプラモデルのようなものだと思ってはいけない。
これらの模型は、部品の細部に至るまで全て、本物に近づけるべく、正確な縮尺に基づいて作られているのだという。その拘りは呆れるばかりだ。
「交通科学館は、将来の乗り物のあり方、そして航空機・船舶・鉄道・自動車それぞれの分野における乗り物の技術発達を伝える正規の博物館として作られた」というプライドを、学芸員の人たちは強く持っている。故に、いい加減なものは造らない、模型であってもきちんとした根拠のある物にしたいというと思いで作られているのだという。
それぞれ模型1品1品が全て手作りであるため、制作費が1台あたり数百万円もかかっているものもあるという。
既製品を買ってきて展示しているわけではないようだ。当然全ての模型は、ここにしかないものとなっている。

例えばフランスの古典飛行機の模型アントワネットは、フランスから図面を取り寄せ、縮尺は24分の1、プロのモデラーに頼んで、半年間かけて作ったのだという。籐椅子といえども本物そっくりに編んで作られている。

Kotu

                  交通科学館のHPから転載

宍戸SSDというバイクの模型は、設計図は残っていなかったので、写真を参考に、当時そのバイクの整備をしていた人から、逐次話を聞きながら作ったのだという。この模型の制作費は、それこそ普通に走っている本物より高かったようだ。手が込んで作られている。しかしバイク宍戸SSDは惚れ惚れするほど美しい。この宍戸というバイクメーカーは、昭和初期に広島にあったのだという。
広電の電車は87分の1のサイズで作られている。全ての車両の模型が揃っているという。広電にもないだろうという。
全ての模型一つ一つに、こうした逸話があるようだ。模型の作られた経緯を聞くだけでも面白い。

倉庫には、日本の未来の高速船として造られたTSLという船の模型もあるようだが、それは結局就航しなかったからと、展示されていない。
現実に走っていた乗り物しか展示しないのだという。

こうした学芸員の生真面目な拘りには呆れる。

しかし交通科学館の模型は、今流行りのお宝鑑定団に取り上げられる模型とは、ちょっと違う価値観の世界にあるようだ。というのは、あのTVで取り上げられるお宝の価格は需要と供給の関係で決まるが、ここにある模型は必ずしもそうしたビジネスに乗るものではないので、いくらになるかわからいのだという。
しかしこうした拘りが、いずれ価値を作っていくのだということは、確かなことだろう。

交通科学館の模型は、広島市の誇るべき財産の一つになっているということを、もっと知って欲しい。

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2007年8月 9日 (木)

外国の“国歌”を知っていますか?

 海外との交流が多い会社の会長と会食した際の話です。
参議院選挙の翌日で、この方は自民党を支持してきたが今回から民主党を支持し始めたと言う。理由は二大政党化を進めるべきだと考えて民主党が政権を取るまで支持し、その後はその都度考えたいとの理由からである。

 たまたま話が国歌に及び外国の国歌は軍歌に近いものが多いという。歌詞を紹介した綴りを見せてもらった。その歌詞の一部を紹介する。

<米 国> 「・・・弾丸ふる/いくさの庭に/頭上高くひるがえる/堂々たる星条旗よ/おお/
われらが旗あるところ/自由と勇気ともにあり」
<イギリス> 「神の救い/われらが女王にあれ/栄えたまえ/わが女王/主よ起たれよ/敵をしり
ぞけ給え/よこしまなるその攻略/打ち払いて/救い給え」
<フランス> 「・・・正義はわれらに/旗はひるがえる/聞かずや野に山に/敵の叫ぶを/ 悪
魔のごとく/敵は血にうえたり/立て・・・国民あだなす敵をほおむらん」
<イタリア>  「・・・剣をとれ/命捧げん/命捧げん国のため/剣をとれ命捧げん国のため」
<スイス>  「祖国の山/自由の歌/歌えよ/国のため/スイスのために/血を/命を/捧げなん/峰
に生いし/この自由の古木よ/嵐吹けども/ゆるぎなく/年とともに栄えゆく
<中 国>  「起て/奴隷となるな/血と肉もて築かん/よき国/われら危機迫りきぬ/今こそ戦
うとき/起て起て/心あわせて敵にあたらん/進め進め/進めよや」

たしかに軍歌と思しき「弾丸」「敵打ち破り」「敵をしりぞけ」「敵は血にうえ」「あだなす敵」「国のため剣をとれ」という文言が連なっている。

 国歌はその国の成り立ちや時代を背景に民族の自決と独立を歌いこんだものが多い。
問題は国歌を通じてどのような国民教育がされているかである。中国、韓国では今でも「原爆投下は戦争の早期終結に役立った」と反日教育がされている。

 日本は法制化されたとはいえ「君が代は/千代に八千代に/さざれ石の/巌となりて/苔の産すまで」を“国歌”として学校で歌うか否かで、いまだに国論が二分三分している。

 上記の国々が今でも戦争があることが当たり前とした“国歌”教育がされているかどおか分からない。これらが憲法改正に悪用される恐れが無いとも言えない。国の外交にお任せだけでなく、今一度、これらの国の国歌の成り立ちやその背後にあった歴史を学び、いかに上手に付き合っていくか考えてみる必要があるのではなかろうか。

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2007年8月 8日 (水)

爽やか美代子さん、ハツラツ“み組”

 河野先生、少しは疲れが和らぎましたか。3ケ月余を一気呵成に駆け抜けた体力、精神力、周囲への気遣いから来る疲労は極に達し、平常に戻るには相当の時間が必要と思います。
 貴女のことですから、早速仕事に走りだされる中で普段に戻られるのでしょう。

 それにしても、参議院選は自民党の歴史的大敗で終わった。
安倍政権、安倍総理“NO”にも関わらず中川幹事長、青木参議院会長が相次いで辞意を表明するのに対し安倍総理は早々と続投宣言をした。流石に野党は言うまでもないが自民党内部からもブーイングが起こり始めた。「人心一新が国民の声」と内閣改造を示唆し赤城農水大臣を更迭しただけで自分は居座り宣言である。

 民主党はむしろこのまま安倍政権を継続させて、早い時期の解散総選挙を有利に展開しようと目論んでいる。今回の選挙は「憲法は争点にならない」と争点回避をした民主党は早い時期に改憲から護憲まで幅広い考えの人を抱える党内の「憲法」論議を整理して、国民の中に落とさないと次の選挙で大けがをし、元の黙阿弥になりかねない。

 今回の選挙で河野美代子さんが果たした役割は極めて大きい。敢えて無所属と言う組織や政党団体にしがらみや縛りのない立場で「いのちと憲法」を守る公約を掲げて闘った。
それだけに候補者が背負う経済的負担は大きすぎる。

 年金や格差問題など生活を取り巻く課題が大切であることに変わりはない。しかし、民社党の戦術であったとしても、そのすべてのベースになる憲法問題を後回しにして良かったのだろうか。

 河野さんは「何もしないで自民・民社の指定席を二人に広島の代表として議席を提供することはしたくなかった。二人が党の方針として憲法を変える方向に従うと表明して、有権者の判断を仰いだのであれば、まだ許せる。でも、曖昧なまま広島の代表になられるのは我慢できない」と出馬の動機を語っている。結果は敗れはしたが「この国にとって、いま何が一番大切なことか」を多くの有権者に強く深く考えさせた。
 
 登録したボランティア650人が期間中おそらく延べ数千人が1万ケ所近いポスター張りからチラシ造り、選挙カーの運行、毎日の遊説を正しく素人集団が見事にこなし、20万人を引きつけた。

 「選挙運動が楽しかった」「一つの事をやり遂げたという満足感がある」という美代子さんは爽やかです。
ブログを通じて多くの人が「手伝えて良かった」「肉体的にはきつかったが精神的にはとても楽しかった」「心が一つにまとまり気持ちの良い日々だった」という声に「やっぱり通りたかった」とい本音を垣間見て安心した。

 権力に抗い、正義を守るジャーナリストのはしくれとして生きてきてなお、無所属で国政選挙に臨む厳しさを前提に「玉砕するのか」と一度は反対したことを改めて反省するとともに自戒を込めて、敬意を表します。

 それにしても、結束した女性のパワーの強さは素晴らしかった。溌溂とした“み組“の皆さんにも敬意を表します。

 貴女が若き医学生時代に培った医学が持つべき本来の精神は脈々と生き続け「ゲバルト・ローザ」は健在だった。
 
貴女が残した実績は次の国政選挙で「ヒロシマといのちと憲法」の大切さを多くの有権者の胸に刻み、きっと活かされます。活かされるように皆で考えようではありませんか。

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2007年8月 7日 (火)

小田 実さんを偲ぶ

 もう、50年近くも前のことだ。60年安保闘争の年、私は大学祭の実行委員長として、講演会の企画の打ち合わせをしていた。相手は小田 実氏。小田氏は当時、29歳だった。私が「先生」というと、彼は突然怒り出した。「僕は君の先生ではない。君を教えたことはない」
 お茶とお菓子が出た。お菓子は和菓子で、生クリームにフルーツが乗っていた。フォークがついていたが、氏はその和菓子を、むんずと手でつかむと口に押し込んだ。そして、クリームのついた手をなめた。
 唐突さにたじろいだゆえか、どんな話をしたかさだかではない。だがその時私が一種の反発を覚えたことをかすかに記憶している。既存の知識人の枠を常識的に逸脱していたからだ。

 その後、彼の著作は、大半読破した。共感、というより肌の違う人種として関心を捨て去ることができなかったからだ。明らかにマルクスを信奉していながら、同じようにマルクスを支持した多くの学者・知識人とは異質な発言と行動が目立ち、ベトナム戦争下の時代の寵児として存在感を示した。

「生きつづけるということ」(筑摩書房)。70年安保直後の作品のひとつで、奔放な論説は、今再読しても目新しく感じる。その中で、「三島由紀夫論」を述べている。彼を「敵対視」しながら十分に彼を意識しているところが読み取れて、それは右と左の違いはあれ、極を限りなく追求して生きたもの共感なのだなと思いながら読んだ記憶がある。
 その文章の中に、小田氏が「私は畳の上で死にたい」と書いている。それは演出の死をとげた三島氏への反論である。「畳の上で死ぬことは、いろいろ大切な意味があるのですよ」と彼は書いている。

 彼は「市民」という言葉が好きだった。「戦争で殺すのも、殺されるのもふつうのひとや」市民派に徹した。早口であの独特な関西弁が、耳に残る。
 若き折お会いした姿を偲び、冥福を祈った。

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2007年8月 6日 (月)

農家の多品種生産、販売

―サスティナブルシティー・広島市(3)

大分県の山の中の小さな町、大山町では、農家が多くの種類の農作物をつくり、それを町の中心部にある市場で販売しているという。「新鮮で、安くて、美味い」ということが評判になり、今では九州各地から買いに来るようになり、街はかなりの人出で賑わっているという。福岡市内にも生活領事館と称する直営の販売店を持っているという。
ここで注目すべきは、販売額の80%が農家の取り分となっていることで、それが農家の大きな励みになっているということだ。通常農協を通して販売すると、農家の取り分は20%程度だそうだから、4倍の収益ということになる。
年収1,000万円以上の農家はざらにあるという。
もう一つ興味を引かれるのは、この多品種生産、直接販売ということを始めたこの町は、あの大分県の1村1品運動の魁となった町だというのだ。
その当時の町長さんは「梅、栗をつくってハワイにいこう」という掛け声で、大成功をしたそうだが、それにヒントをえて、あの大分県平松知事の大分県1村一品運動になったのだという。
1村1品方式は、生産対象を絞り、効率性を高め、生産原価を安くし、販売価格を安くし、ブランド化するという極めてノーマルな経済原則の則った戦略といえるが、それとは全く逆の、いわば家庭菜園の延長線上にあるようなことをやって、成功しているというのがなんとも面白い。
そしてこの1村1品運動の逆をいくともいえる方式に、どういう経緯で、1村1品方式から転換したのかが、また興味を惹かれるところである。

というようなことを友人M氏に話したら、彼が貴重なアドバイスをいただいた。
「大山町は,地域おこし業界では昔から有名な町です。梅栗植えて・・・は,一世を風靡しました。
他品種になっているのは知りませんでしたが,なるほど,という感はあります。一村一品は、もうかなり手垢がついたこともあるのでしょう。ビジネスのサスティナビリティーという点からも,「一品」は問題ですね。
生活領事館,というのもおもしろいですね。大山町らしい。
他品種,というよりも,できたものを持ち寄って共同で売るという,いわゆる青空市(産直市ともいうようです)は,ここ10数年来全国で活発に行われているようです。「新鮮」「安い」「うまい」が売りです。
既存の流通は,この逆だったのですね。
産直市は農協ルートをはずす行為なのですが,場所によっては農協も積極的に取り組んでいる場合もあります。広島は,積極的なほうではないでしょうか。五日市などでやっている「食彩館」は,立派な施設をつくって農協が主催しているものです。
反対に長崎でかなり敵対的に(どちらかというと喧嘩腰で)大規模にやっているのを見たことがあります。

おっしゃるように,農家にとって大きなビジネスになっているケースもあります。手数料は,15~20%が一般的ではないでしょうか。
愛媛県の松野町の道の駅では,専用スペースがあって(たぶん町が主催して)やっていますが,年間売上が1億円を超えていると言っていました。三次のワイナリーでも専用施設をつくってやっていますが(集荷範囲はけっこう広いようです),ここもそのくらい行っているのではないでしょうか。
県内でさがすと,小さいのも含めればおそらく数百カ所はあると思います。

多くの産直市では,規模の小さなものでも(例えば,三良坂のほうには農家6軒のおばあちゃんが共同で運営しているのがありました),ブローカー業者が買いにくるのが安定経営に結びついています。逆にそれで買い占められて,一般の顧客に回らない,というグチをよく聞きます。

湯来町では,すでにかなり有名な産直市がふたつあります。湯の山温泉の「きんさい湯の山」と国道433号沿いの「みんなの元気な店」です。
前者は町が旗を振って開設したもので,クアハウスの駐車場に土日に開店しています。会員が交替で店番。だいたい午後の早いうちに売り切れているようです。
後者は,地元のおばあちゃんたちが発憤して「交流サロン」のような形でオープンしたもの。けっこう売上もあるらしい。壊れた民家をよってたかって改修して囲炉裏をつけたり畳の部屋をつくったり。こちらはいろいろとマスコミにとりあげられたり,市から表彰されたりしています。

町内では,あと2カ所ほど,「産直市をやろうか」という程度の企画があるようです。」

こう指摘されてみると、平和大通りで毎週日曜日に開かれている朝市もその一つだといえる。朝市にはちょっと遅い時間にいくと殆ど売り切れてしまって何もないことが多い。本通りには農家の直販店の「ひろしま夢プラザ」もある。また最近、本通りをちょっと入った通りに愛媛県産の農産物を売る店もオープンした。こうした類の人気は高まっているようだ。
この「農家が農産物を多品種生産し、そして自ら販売に関わる」という方式には、いま流行のネットビジネスとか、トヨタのカンバン方式とかいわれるような何か特別なノウハウが、そこにあるわけではないようだ。それはあたかも家庭菜園の延長線上にあるかのように見える。しかしそれで「農業は儲かる」というのだから、その価値、意味は大きい。
こうした方式がどんどん増えることによって、都市住民の農業への転換を促され、農村人口が増え、休耕田がなくなれば、それ結果として、広島市の食料の自給率を高めることになり、持続可能都市=サスティナブルシティー広島市を創ることにもなる。素晴らしいことだ。
広島市は、こうした活動を進めるには規模的にも調度いい規模のように思う。

湯来町湯の山温泉の活動を支援したい。

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2007年8月 4日 (土)

まもなく8月6日

 朝日新聞の投書欄で、堀川さんという72歳の婦人の主張に触発されました。
「原爆を許さない夫の遺志を継ぐ」という見出し。筆者は、京都大学教授堀川哲男氏の未亡人で、「原爆投下は多くの命を救った」という原爆擁護論への反論です。堀川教授は、原爆投下を「米の戦後をにらんだ世界戦略の一環であり、日本人を対象に~実験~、それもわずか3日間の時間差で2種類の原爆を試した」と書いています。

 「終戦を早めるため」「これ以上の被害者をださないため」というアメリカ側からのプロパガンダがいまをもってはばをきかせていますが、真相は、「勝者のとどめ」だったと、私は考えています。
「原爆を完成させたその成果を試したかった…」「ロシアの侵攻を抑制するための先制」など、原爆投下の真意は、さまざまな学説(俗説?)がありますが、堀川教授は、歴史学者として「実験」だったことを強調したかったのだと思います。

 被爆者の血を吐く思いが、繰り返し繰りかえし叫ばれて60年余、いまだ核廃絶への展望が見出しにくい現実がつづきます。被爆者は、いまも「命ある限り」にノーモア原爆を訴え、秋葉市長は2020年までに核兵器の廃絶をと精力的な活動を展開しています。
 私たち市民も、ひたすら愚直にしたたかに訴えるしかないのかなと考えています。
ヒロシマはまもなく62回目の8月6日を迎えます。

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「公正」に律儀な選挙番組

「この数字は何?捨てていいの?」 家内が、「9」とか「20」とか書かれた
メモ用紙を手にしている。「なんだこれ!」一瞬戸惑った末に思い出した。

はや旧聞に属するが、参議院選挙公示日、NHKで放送された「各党首に聞く」という番組についてのメモだった。
 自民が20分、民主12分、公明9分、共産6分、社民5分、国民新党4分
新党日本3分という放送時間の配分を示した数字で、丹念に時計ではかって記したことを思い出した。多少の秒数の誤差はあったにしても各政党の勢力から割り出した数字の「公正」さには、恐れ入った。

 番組の印象は、持ち時間からして安部総理の「独り舞台」というもので、
しかも事前に質問項目を提出してあるはずだから、周到に準備された優等生の「答え」をたっぷり聞かされたという感じで、最後の新党日本の田中党首にいたってはつけたしの3分、気の毒でさえあった。

 さらに疑問に思ったのは、重要な焦点のひとつである「憲法問題」について、共・社は、自主的に触れたが、進行のアナウンサーがどの党に対してもひとことも質問を発しなかったことだ。
この番組を制作するに当たっては、相当のブレインとスタッフが内容を練りに練ったはず、その結果「憲法問題」をさけたのなら、その意味を知りたい。

「公正な時間配分」と「体裁」に終始した番組は、見栄えだけに気を配った
味も素っ気もない料理を食わされたような不快感だけが残った。

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2007年8月 3日 (金)

安倍の、8・6式典への出席拒否

 ここ近年、憶えたことがない怒りに胃の腑が上下しました。2日付、朝日新聞の
「首相、被爆者会合欠席へ」という記事です。02年の小泉以来、6年続いて
欠席。「女は子を産む機械」発言の柳沢厚労相が代理出席するということです。
 秋葉市長は、「生き証人に言葉も交わさないのか」と失望し、坪井被団協理事長も「逃げるのか」と怒っています。

 安倍は、式典には出席すると言っています。その会場近くで行われる「被爆者の声を聞く会」に、なぜ出られないのでしょうか?1時間半か2時間程度のことがなぜできないのでしょうか。つまり、はなから出る気はないのす。
 ことがあれば国を相手取り、裁判沙汰して手をやかせる輩にあったところで
しょうがないという程度の認識しかないのでしょう。

 被爆者は、この世にあるまじき経験を余儀なくされました。以後60年余健康におびえながら生きてきました。そして、心と体に鞭打ち「ノーモアヒロシマ」を訴え続けてきました。老いて時間のない、その被爆者にたった1時間の誠意を割くことをも考えられないのでしょうか。「2020年までに、核廃絶のため共に手を携えましょう。それまでお元気で」といえないのでしょうか。

 自民党大敗の原因は、「国民の声に耳を傾けなかったから」ではなかったでしょうか。大敗から学ぼうとすることを見出せないとすれば、安倍は、歴史に残る愚相と断じざるを得ません。大敗の今、彼と自民党がなすべきことは、「生活」や「教育」や「未来」や「平和」や「清潔な政治」について、総力を挙げて点検し、国民の意思をくみ取ろうとする努力でしょう。そうすれば、おのずと「被爆者」に会おうとなる筈ではありませんか。

 いま、多くの被爆者の仲間の顔が浮かびます。とりわけ、この酷暑の中語り部をしている老韓国人婦人の顔を思い浮べる時、説明のできない申し訳なさと腹立たしさが体を突き上げます。

式典に、神妙な顔をして官僚が書いた挨拶を読むために訪れるなら、「来るな」
といいたい。もし「被爆者」の声を聞くことを拒否するなら、心ある市民が集まって「帰れ!」のシュプレヒコールでデモ行進しませんか。

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2007年8月 2日 (木)

小さな祈りの影絵展

 3回目を迎える原爆犠牲者の鎮魂のための「小さな祈りの影絵展」の準備が整った。
本通りから平和公園に通じる元安橋東詰めで8月5日(日)と6日(月)の夕刻から夜半にかけて展示される。

 この企画は広島出身の映画の美術監督・部谷京子さんが被爆60周年に企画された「日野原重明、小澤征爾 世界へおくる平和のメッセージ」にボランティア参加した経験を通じて、自分の出来る事を通じて故郷に関わりを深めたいと言う思いから企画した。

 友人の影絵作家・浜崎ゆう子さんが制作をし、部谷さんの女学院時代の同級生が支えてきた。昨年は被爆歌人の大平数子さんの「慟哭」をテーマに取り組み、2日間で多くの親子の足を止め引きつけた。作品はこの1年間に市内の幼稚園・小学校、大学、公民館や会館など12ケ所で展示され、影絵制作のワークショップも開き、着実に定着しつつある。

 今年のテーマは戦前の「暮らしの中の遊び」。部谷、浜谷コンビは4~5月にかけて、何度か広島に足を運び「戦前の遊び」を取材した。

 CGに慣れ親しんでいる現代の子供たちも、電球に照らし出される暖かな色合いの幻想的な影絵に引き込まれる。作品は優しく可愛いが逆にその分だけ悲しみや寂しさや切なさが伝わって、観る人の胸を打つようだ。

 影絵による「戦前の子供の遊び」を通して伝わる「ヒロシマ」を宵闇につつまれた元安川のほとりで体験して頂きたい。作品の一部をピックアップして紹介する。


「日月ボール」

海軍の軍歌の替え歌に合わせて
日月ボールで遊びました。

あさはよじにおき ざんぱんひろいー
それがすんだーらー ごはんのしたくー
きょうのごはんはー みみずのうどんー
るんぺんせいかつ なかなかつらいー
日月火水木金金♪

*日月ボール・・・・けん玉のもととなるもので、
赤い玉は太陽、皿は三日月のようなので
そう名づけられたそうです。

*日月火水木金金・・・土日も休みなく働くという意味。
 もともと戦時中海軍の猛訓練ぶりのことをそう言っていました。

「なわとび」
妹はとても優秀でした。原爆で亡くなった時
母は惜しいと言って泣きました。
幼い頃、よく二人でなわとびをして遊びました。

「ゴム飛び」
女子はよくゴム飛びをして遊びました。
輪ゴムをつなぎ合わせ、上手な子はゴムを高くして飛びました。

「かもめかもめ」
とっても懐かしい遊びです。小さな子たちが手をつなぎ
くり返し歌いました。

「ビワの木」
よくビワの木に登りました。男子はそこを基地にして手作りの
紙玉鉄砲やゴム銃で遊びました。

「お人形遊び」
女の子は人形遊びに夢中でした。
布の端切れや色紙を服にしました。
時々友達と服の交換もしました。

「ケンパ」
道路に円を描きよく遊びました。
ケンパ、ケンパ、ケンケンパ
あちらこちらで子どもたちの声がひびいていました。

「川遊び」
夏になると川は子どもたちでいっぱいでした。
飛び込み台ができ、旗がたちました。
男の子たちはこぞって飛び込みました。

「帰り道」
親に内緒で時々遠くの大きな川まで泳ぎに
行きました。帰りは服を棒にひっかけ、
乾かしながら裸で帰りました。

「たすけ」
敵チームにつかまると手をつないでいき、
味方チームが助けにくるのを待つ、という遊びを
“たすけ”と呼んでいました。
小さな子や女の子も参加できる遊びでした。
時には道をふさぐほど手をつないだ子どもたちの
列が長くなりました。

「缶けり」
缶けりもよくやりました。
毎日日が暮れるまで友達と遊び、
“ご飯よー”という母親の声でうちに帰りました。

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2007年8月 1日 (水)

地方都市の再生に賭ける心意気「萩・維新塾」

 萩に住む古い友人から、久しぶりの電話が入った。
彼は大分放送の役員を引いたあと公募で萩の博物館長に迎えられ、次々にアイディアを出して「まちじゅう博物館」として話題を提供している。
 
 その「萩・まちじゅう博物館」が萩市と市教育委員会と共催で、この夏の企画で「萩・維新塾」~近代日本はここから始まった~を開く。
 
今年は松下村塾が開塾して150年になるのを記念した企画だ。「近代日本は萩から始まった」というメッセージと今の日本人を元気にする「松下村塾の教えや精神は今も生きてる萩」を全国に発信しようとしている。

 期間は8月25日(土)~31日(金)の6泊7日。会場は山口福祉大学。
参加資格は18歳以上30歳未満の男女。参加費は3万円。宿泊と朝・昼・夜19食と受講料 
http://hagiishin.com/entry/index.htm <萩・維新塾HP>

 講座は1日4時限。午前中に2時限、午後と夜に各1時限(70分)をセット。
講演のテーマは「維新の精神と合理」「一筋の蛍―吉田松陰 人と言葉」「志の教育」「松陰の教育」「萩焼の世界」「日本近代史における萩の光と影」「長州男児の肝っ玉」「幕末の科学技術」「ますらをたちの旅」などで講師陣も幕末の萩と現代を結ぶ多彩な研究者や編集者がそろっている。

 座学から製作体験、古地図を手に維新ゆかりの地を辿るオリエンテーリングに史跡散策。川面からの城下町探訪と多彩なプログラムが用意されている。
ウエルカムパーティーから交流会や討論会もあって、さよならパーティーと充実した1週間だ。
わが町の歴史を身近に引き寄せて活性化と再生に賭ける心意気を感じる企画だ。

 広島ではなかなか経験できない講座だ。申込みの締め切りは月末になっているがまだ定員迄に余裕があると言う。今のところ、広島からの参加者が無く、主催者は広島の学生諸君や若者に参加してほしいと呼びかけている。知己の大学教授にも協力を求めている。

 このブログをご覧の方で興味のある人はぜひ上記のアドレスで確認して参加なり、紹介なりのご協力をお願いします。

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