平和公園はいま連日修学旅行生で賑わっている。子どもたちは公園内の数ある慰霊碑の前で萌黄色のジャンパーのボランティアガイドさんの説明に耳を傾けている。この時期は小学生が中心で、中高校生のシーズンは秋である。
もう20年も前になるが、東京葛飾区の上平井中学で長年教鞭をとった江口保さんが定年まで3年を残して退職し、第二の人生の場を広島に移してこられた。
「ヒロシマ・ナガサキの修学旅行を手伝う会」を名乗って広島に来る修学旅行の事前学習から本番のヒロシマ案内までを手助けをする為だった。
江口さんは長崎の旧制中学で教練の助手として勤務中に被爆し大けがをしたが急死に一生を得た。その後、師範学校を卒業し東京の大学へ通いながら中学の教師になった。
昭和50年(‘75)に新幹線が博多まで開通し、東京の中学生の修学旅行の範囲が広がったのに着目した江口さんは教育委員会や教師仲間を説得し、翌年初めて上平井中学の「ヒロシマ修学旅行」を実現した。
江口さんの「ヒロシマ修学旅行」は物見遊山的な修学旅行を平和教育の場にしようと担当教師の事前の下見を行い、生徒には半年間の事前学習を盛り込んだ。広島では中学生や女学校生だった子供を失った父兄を中心にした被爆者の体験を聞くことに時間をかけ、生徒たちの手で独自の慰霊祭を行った。
証言に立った被爆者たちは亡くなったわが子と同じ年齢の子供たちを前にわが子や自らが被った惨状を克明に語り心の痛みを聞かせた。学校に帰った子供たちは証言をしてもらった被爆者に手紙を送り、数々の交流が生まれた。
乱暴者だったり学習嫌いで「原爆なんか興味ない」と言っていた多くの子が涙を流し、心を揺さぶられ感動を呼び起こされて変わっていった。
江口さんが指導したこの修学旅行は“上平井方式”と言われるようになり、全国からやってくるヒロシマ修学旅行のモデルとして広く高い評価を得るようになった。
上平井中学の広島修学旅行が10年経過した年、江口さんは配転となったのを機に退職し
一人広島で第二の人生をスタートした。そして、また10年間「ヒロシマ・ナガサキの修学旅行を手伝う会」でヒロシマ修学旅行を目指す全国の小中高校に出向き手助けに励んだ。
この間お世話された学校は千校二十万人を数え、ピークで年間60万人近くの修学旅行生がやってきた。
広島市に対しては生徒たちが雨天でも証言が聞ける会場や昼食を摂たり雨宿りができる場所を確保ほしいと署名を添えて再三陳情された。しかし、当時の市当局は極めて冷たく、修学旅行生に対する施策は全く対応されないと江口さんは嘆いておられた。
上平井中学の修学旅行がスタートして20年、江口さんが広島で第二の人生をスタートされて10年が経ったころ、体調を崩され「骨髄性白血病」のため急逝された。早いもので6月19日に10回忌を迎える。
当時、江口さんが大変気にされていたことの一つに広島修学旅行のための「事前学習教材があまりに少ない」ということだった。
それにしても、いま広島市が修学旅行の担当課を設けて誘致に熱心な状況や秋葉市長自ら地元の学校だけでなく全国の大学に「ヒロシマ・ナガサキ講座」を出前する様を江口さんはどんな気持ちで見つめておられることだろうか。
加えてVTR「ヒロシマの記憶」~広島を歩く人のために~が発売された。
これは中国放送が原爆投下の2月後に日本映画社が撮影したフィルムをベースに現在の場所を対比して、60年前のヒロシマと現在、戦争と平和、あるいは当時の記憶を蘇らせる3分半の番組シリーズ(52本)の中の8本を選んで纏めた30分の作品。ヒロシマ修学旅行の事前学習に打って付けの素材だ。
秋葉市長は「このビデオは広島の記憶を辿ることができます。“ヒロシマの記憶”は明日を創るための記憶です。このビデオを見た後は是非広島にきてご自身で広島の昨日と今日を確かめてください」と推薦しています。
奇しくも、江口さんの10回忌を前にして報告できる修学旅行をめぐる話題である。
<問合せ先>
VTR 被爆60周年「ヒロシマの記憶」 ~広島を歩く人のために~
発売元=株式会社 汐文社
製作著作=中国放送
日本映画新社東京都港区新橋6-20-1
03-5404-7870 http://www.n-eigashinsha.jp/
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