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2007年5月

2007年5月31日 (木)

外野スタンドは真っ赤に燃えた。だが内野席は・・・

 20日の日曜日、孫にひかれて今年初めてのカープ観戦をした。昨年のWBCですっかり野球フアンになり、カープの熱烈フアンになった小学4年の孫は既に4回目の観戦だ。
 
 「僕は自分で自信が持てるものを一つだけ持っておきたい」今はそれが野球だという。
 
 昨年、学区のソフトボールチームに参加してプレーの基本を叩き込まれた。残念ながら
舞い上がる土埃を吸うため夜になって持病のぜんそくに悩まされ、やむなく一時休部をしている。やむなく、週に2~3日は近くの公園で5~6人の同級生と、また時には高校のグランドの端を拝借して一人コツコツと練習している。変化球も覚えたピッチング、内野のフィルディング、バッティングの腕も上げた。

 この日の試合は黒田が先発のヤクルト戦。序盤にカープが得点し、スタンドは一気に盛り上がった。外野スタンドは全国各地のカープ応援団が結集し真っ赤に埋め尽くされて数十本の応援旗が五月の風にはためいた。

 “フアンのために残留を決意した”黒田はこの日、フアンに「完投勝利」をプレゼントして、市民球場は熱く燃えた。
宝物のカープ選手の寄せ書きのサイン入り帽子とユニホームをまとって応援に声を合わせていた孫が突然「内野は高いから入らないの」と聞く。説明したが納得した様子でない。
 
 この日2万人で膨れた市民球場の内野スタンドはいつものようにガラガラ状態。
多くの観客は孫と同じように首を捻っているだろう。「なぜ、内野はいつもガラガラなの?」

 これにはそれだけの訳がある。空席は年間契約の席が大部分を占めている。カープ球団の経営は入場収入とTVの放映権、球場の広告、売店の売り上げである。年間契約席の確保は安定経営に欠かせない条件で、県内の企業はカープ支援の意味も込めて契約する。

 企業によってはシーズン・スケジュールを社員に割り振りして計画的な観戦をするところもある。カープ観戦接待が盛んだった時代もあったが、今は大半が企業内で眠っていると考えられる。
 これはいかにも勿体ない。カープは口出ししにくいが“球場を観客で一杯にすることは選手の元気を引き出す力”とばかり、有効活用に知恵を絞ってみては如何だろう?
 カープは残り席を一つでも多く売りたいだろうが、空席を埋めることも大事なこと。

 年間契約席の空き試合の活用は企業に協力を得て施設や母子・父子家庭の児童などを対象に「空き席3日前預金」とでもいうプール制にした観客動員があってもよい。

 この対策なしでは新球場が完成しても空席は減らない。
年間契約をしている企業や団体の責任者の皆さん!カープ球団の皆さん!!
契約している座席はあなたの責任で埋めてください。
さもなくば、カープ球団に預けて「空席預金」「広島元気の素席」を作ってプールし、満席にできるようの知恵を出してください。きっとできます!!!

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2007年5月30日 (水)

ヒロシマ発信の国際貢献

 国連児童基金(ユニセフ)の事務局次長を5月末で退官される広島市出身の丹羽敏之さん(67)の講演を聞いた。丹羽さんは6歳の誕生日翌日に江波の自宅で被爆された。幸いご本人やご家族に大きなけがなどはなかったが、翌日爆心地近くを通って二次放射能を大量に浴びた被爆者です。
けがをした多くの被爆者が行き交う惨状や死者を山積みした火葬と臭気は今も脳裏から離れない被爆体験がある。

 丹羽さんは早稲田を卒業後日本の商社や石油会社に勤務後、アメリカの大学院で法律・外交を学んで国連職員となった。

 国連開発計画(UNDP)のガイアナ勤務を皮きりにイエメン、ネパール、タイ、カンボジアなど発展途上国で活動した。国連人口基金(UNFPA)や世界食糧計画(WFP)、国連国境救済活動(UNBRO)など6つの国連機関で現地とニューヨークの国連本部を交互に経験し‘04からユニセフ(unicef)事務局次長・国連事務総長補佐を務め5月末で36年間の国際公務員生活にピリオドを打つ。

 講演では私見としながら、日本が19.5%の国連予算を負担しながら安全保障理事会の理事国入りができない点について、第二次世界大戦の戦勝国の5大国が既得権を持つ仕組みにある。日本がどこの国と組むか先が見えて来ない為今後の展開は悲観的であるとの見方を示した。

 ユニセフは世界157の国と地域で「子どもの権利条約」に掲げられた幼い子供の生存と発達、基礎教育、HIVマラリア、暴力・搾取・虐待からの保護などの活動を展開している。黒柳徹子さんはユネスコ親善大使としてまたアグネ・スチャンさんは日本ユネスコ協会の親善大使を務めていることはよく知られている。

 日本とユネスコとの関わりは第二次世界大戦後間もない‘94、われわれ世代が最初にお世話になった粉ミルクで始まり60年になる。そのユニセフで働く日本人は9千人職員のうちわずか80人にすぎない(国連全体:670人=2,6%)。
 
 丹羽さんは「40の国際機関で構成される国連でもっと日本人が参加すべき」と声を大にした。参加していた高校生や大学生・若者から「どうすれば参加できるか」「今、何を学べばよいか」「広島から何ができるか」などの質問が飛び出し、関心の大きさを感じた。

 秋葉市長と会見した丹羽さんは、広島が取り組んでいる「世界市長会議」が2020年を目標に核廃絶を目指した運動は国の枠を超え自治体が結束してできる「広島だからできる国際貢献」と位置付け高く評価した。
 瓦礫の中から立ち上がった広島の経験は重く、世界の平和に大きく貢献している素晴らしい取り組みで国連・国際機関を目指す日本や世界の若者が広島から学ぶことは多いと力説した。

 丹羽さんは一旦ニューヨークの本部に帰任し6月から第二の人生をスタートされる。
「微力ながら広島のために役立ちたい」と言う丹羽さん。
 
 被爆者で国際経験が豊富な人が「広島から発信できる国際貢献」の重みや意義を踏まえて自ら新しい役割“ヒロシマ国際大使”を果たされることを期待したい。
広島市も広島が生んだ人材として積極的に協力をお願いしてみてはどうだろうか。

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2007年5月29日 (火)

広島市景観100選

「アストラムラインの車窓からの景観は素晴らしい」とこのブログに書いたところ、「広島市の景観100選を、市民の投票で選んだらどうですか」という書き込みをいただいた。
「広島市は駄目だ、駄目だ」という人が多い。
それに対して「広島市には、こんなにいいとこがあるよ」という発見の仕掛けをすることは、意外と大きな意味のあることのように思える。
そこで、取りあえず私なりに、「広島景観100選」として、まず10件挙げてみた。
(1)原爆ドーム
(2)縮景園
(3)平和公園、平和大通りの紅葉
(4)クルージング船から望む瀬戸内海に沈む夕日
(5)広島プリンスホテルから望む瀬戸内海
(6)夜の明かりに浮かび上がる本通り裏のお店街
(7)186号線沿いの新緑
(8)リーガロイヤルホテルからの望む広島市街地
(9)アストラムラインから望む雪景色
(10)雁木タクシーから見る桜
これを契機に、このブログの読者の方々が、広島にはこんないいとこがあるよと、この「広島景観100選」に、どんどん書き込みをしていっていただけると、面白いのではないだろうか。
そして、その際写真を添付していただけると、もっとわかりやすいかもしれない。

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2007年5月28日 (月)

もうすぐ彼女の七回忌が・・・

         「もうすぐ彼女の七回忌が・・・」

 もうすぐ、彼女の七回忌がやってくる。突然の死であった。

7~8人が座ると満席になる小さなスナック、そこが、彼女の職場だった。
昭和26年生まれ。長崎県出身の「ケイコママ」は「・・・バイ」と九州弁丸出しの接客で、客の方も「セカラシカ・・・」と九州弁で応じていた。
 ビールが大好きで、客によくねだった。一晩に10本は空けた。客のほうも心得たもので、ママのおねだりは勘定のうちに入れていた。

 その「ケイコママ」が6年前の初秋の夕方、出勤途上のバス停で、突っ込んできた無謀運転の乗用車はねられ重体となり、数日後には帰らぬ人となった。

 彼女には、「ノブクン」という17~8歳になる重度心身障害の子どもがいた。
寝たきりで、いっさいの自己表現が不能だ。
 ある日、客たちが「ノブクン」を温泉に連れて行こうということになった。
ボランティアには、マツダの社員もいた。税理士も、放送局のディレクターも、
海田町の職員もいた。ボランティアたちは、「ノブクン」を風呂に入れようとかつぎだし、酔った勢いもあって、身の自由がきかぬ「ノブクン」を浴槽に放り込んだ。その瞬間「ノブクン」の顔に表情が浮かんだように見えた。

 小さな店に生まれたコミュニケーションが、日常に疲れた人々に安らぎの
ひとときをもたらした。

 その賑わいが広島の景気のバロメーターといわれる流川、「すすき野、中州、流川」と、東阪をのぞく地方の、三大歓楽地として名をはせた名所である。
 人々の疲れを癒し、情が行き交い、安らぎが得られる憩いの場としての健全な発展を願って、七回忌の墓前に香をたむけたい。

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2007年5月27日 (日)

自転車のモデル都市・広島

―平和大通りの駐車場を、自転車の駐輪場に転換

広島市内の中心部では、至る所で、自転車の不法駐輪に困っている。誰もが指摘するように、歩行者に対して危険であるだけでなく、街の景観を著しく損なっている。
そのために対策として、広島市では路上や地下に幾つもの公的な駐輪場を設置し、不法駐輪をしないようにとの指導を行っている。しかし、それでも依然として不法駐輪はなくならない。自転車は街の厄介者となっている。
こうした不法駐輪が多い第一の理由は、ともかく駐輪するスペースが絶対的に不足していることによるというべきだろう。

By1

最近、流川の繁華街に近い平和大通りの一部が、富士見路上駐輪場として整備されているのをみかけた。曜日に関係なく、常時ほぼ満杯状態である。
自転車が駐まっている姿はあまり格好いいものではないが、ここの駐輪場は植栽に囲まれ、なかなかきれいである。

By2

そこで一つ提案である。平和大通りの駐車スペースを、全て自転車の駐輪場に転換してはどうだろうか。
現在既に市内中心部には、約7,000台の駐車場が確保されているという。駐車場の建設が充分ビジネスになるということで、今でも駐車場ビルの建設は進んでいる。駐車場に関しては、ほぼその対策の目処は付いたようだ。市が公共的施設として駐車場整備をする時代は終わったといえる。
しかし駐輪場に関しては、その収益性が殆ど期待できないことから、民間で作られることは少なく、駐輪スペースが絶対的に不足している。駐輪場の設置こそ、公共でやるべき事業のように思う。かといって、その適切な用地は見当たらない。
そこで平和大通りの駐車場を、駐輪場に転換してはどうかというわけである。ここは市の中心部にあり、利用客数にしてもかなりの利用を見込めそうである。現状でも樹木の生育によくないからとの理由であろうが、駐輪を制限しているにも関わらず、放置されている自転車、オートバイを数多く見かける。
市内での不法駐輪は約1,000台といわれているが、それら収容する駐輪場を作るとすると、この富士見路上駐車場では乗用車1台当たりの面積に自転車10台くらいが停められているようだから、現在の駐車場に換算して100台分あればよいということになる。平和大通りの駐車場スペースはそれを賄って余るくらいの規模はありそうである。平和大通りの駐車場の1部を駐輪場に転換すれば、算術上は、不法駐輪はなくなる計算になる。
しかし、自転車を使う人は、お店のまん前で、自転車を降りて駐輪するという習癖がある。駐輪スペースが充分確保されたからといって、すぐに違法駐輪が無くなるとは思えない。しかし、なにはともあれ、ともかく充分な駐輪スペースを確保することが、まず先決だろう。
これからも、是非、この平和大通りの駐車場を駐輪場に転換することを更に積極的に進めていただきたい。

そして、これだけの駐輪スペースが確保されれば、自転車は街の厄介者ではなくなるだけでなく、自転車での中心市街地へのアクセスを容易にすることになり、中心市街地の利用客を増やすことにもなるだろうと思われる。つまり自転車はまちつくりを進める上での、新たなキィワード、要素として浮上することになるだろう。

また、アストラムラインの自転車のパーク&ライドシステムは、鉄道と自転車のあり方について先駆的試みとしてもっと高く評価されてしかるべきだと思うが、このようにして広島市の街の中心部から放置自転車が一掃されることになれば、広島市は、これからの都市のあり方を示す「自転車のモデル都市・広島」として評価されることになることだろう。

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2007年5月26日 (土)

「軍艦マーチ」考

 街中に住んでいるといろんな音が聞こえてくる。歓迎したい音は少ない。昨日も軍艦マーチが響いてきて、ふと昨年秋の出来事を思い出した。
 小学3年生の孫のお相手で週に2~3回、近くの高校のグランドの端をお借りしてキャッチボールをする。

 たまたま2人で、ウイークデーの午後早い時間に出かけようとしていたら、 突然グラウンドから「軍艦マーチ」の音が聞こえてきた。おかしいな、右翼でも来たのか?と思いながら校門をくぐった。

 右翼らしき者の姿や街宣カーは見当たらない。そこでは当校の在校男子300人前後が隊列行進の訓練をしていた。指導の体育教師?らしき人のほか男女各一名の先生が一緒に指導している。なんだか、キツネにつままれたような気分でしばらく見学していた。

 「軍艦マーチ」と言えばパチンコ屋のBGMとして知られている。しかし、私たち戦中派にとってこの曲は戦時中ラジオから流れる臨時ニュース「大本営発表」のテーマ音楽であり戦意高揚の為に使われてきた不幸な歴史を背負っている。
 一方、この曲は日本人の作詞作曲の名曲として「世界三大マーチ」と評価され、戦後も諸外国での演奏をはじめ海上自衛隊のテーマ曲など国内でも幅広く使われているようだ。

 何となくしっくりしない私はこの高校へ電話した。対応に出られた教頭は私の「なぜ軍艦マーチ」を使うのか?の質問に、暫らくのちに「全く意識なく、リズムが良く、マーチ集の中から無作為に選んだ」と返事をしてきた。50歳過ぎというこの教頭は歴史的経緯など全く知らず、「以後注意させます」と言って電話を切った。以後、「軍艦マーチ」を聞くことなく2週間後に運動会を迎えていた。

 この経験を何人かの教育関係者に話したが、「それはいかん」とか「許されん」などの声を聞くことなく、「新聞に投書」でもしてみようかと考えつつもそのままにして経過した。

 学校における実態がどのようになっているかは分らない。いいと思って使ったBGMが一本の電話で消えた事実。音楽の背負った歴史を踏まえて使用することなく禁止したのか、議論はあったのか。
 憲法改正が一層具体性をもってスケジュールに上り18歳が国民投票権を持つ時代を迎えようとする今だからこそ「小さな一石」として考えてみる意味があると思う。

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2007年5月25日 (金)

映画「日本の青空」の薦め

 日本憲法の誕生の真相を描いた映画「日本の青空」の一般上映が6月1日から広島市内ではじまる。この機会に、ぜひ親子家族ずれで鑑賞していただきたい。

 この程2回目の試写会が行われ「憲法はGHQの押し付けではないことが良く判った」などの、日本国憲法が制定された過程について高い評価の声が寄せられた。

 映画は若い雑誌記者が「日本国憲法誕生の原点を問う」特集企画の中で、名も知らない憲法学者・鈴木安蔵の取材に走り回る。
戦後間もなく、鈴木を中心にした民間人による「憲法研究会」が明治の自由民権運動の流れをくむ「主権在民」を原則に掲げる憲法草案をまとめた。これが連合国軍総司令部(GHQ)の目にとまり、GHQの憲法草案の下敷き・お手本になった・・・という事実。
ドラマは鈴木が歩んだ苦難の道と夫婦愛を通して日本国憲法誕生をめぐる真実を明らかにする。鑑賞した人たちから寄せられた感想は熱い。

*「憲法改正しても・・・」という多くの友人に見てもらうチャンスを作りたい。それがわたしの彼らに対する友情の発露だと思う。(30代男性)
*「GHQの押し付け憲法」という人にしっかりと反論していけそうです。今の情勢に向かっていく力にしたいと思います。(OL)
*憲法が生まれる課程が良く判った。押しつけられた憲法という宣伝の欺瞞性もよく判った。戦争をする国への回帰の思想は当時からあり今日の動きに繋がっていることも分かった。何としても改憲は阻止したい思いを深めた。(60代男性)
*思っていた以上に分かりやすく、映画の中の記者と一緒に憲法を学んだような気がします。友人を誘ってまたみます。(大学生)
*映画を通じて「憲法」について、日本の歴史について更に関心を持つことができました。これから社会科の学習に生かしていきたいと思います。(中学2年生)

 広島上映は◆1日PM6時半:東区民文化S◆2日AM10時半、PM1時半:南区文化S◆2日PM6時半:安佐南区民文化S◆9日AM10時半、PM1時半:佐伯区民文化S
◆16日AM10時半、PM1時半:安芸区民文化S◆22日PM6時半:中区アステールプラザ◆23日PM6時半:西区民文化S  上映支援の会主催:293-1264

 改憲論の中に根強くあるのは「押しつけられた憲法だから」という意見や主張がある。
国民投票法が成立したいま、中高校生をはじめ若い人に判断材料のひとつにぜひ見てほしい。参議院選に向けて県内上映の拡大を取り組む。ご支援ください。

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2007年5月24日 (木)

国際交流の結集

 5月中旬、市内のホテルで、「国際交流春の激励会」という小パーティが開かれた。平和、国際、二国間交流にかかわる官民スタッフの顔合わせで、今年10回目を数える。こうした関係者を一同に集めるという発想は、民間の国際交流の古参の活動家から提案された。スタッフが入れ替わる4月の人事を待って会し、相互の熱意とアイデアなどを相乗させようというねらいで、「ひろしま国際センター」が事務局を担当している。会合には、県市の国際交流担当はもとより、官民のさまざまな顔ぶれが集い、そこかしこで名刺交換の場が見られた。

 はじめに、新米の平和文化センター理事長、スティーブン・リーパー氏が指名された。
 「ここにお集まりのみなさんは、私の強力な仲間です。私は、広島の平和の
メッセージを発する立場で仕事に就いた。私は皆さんを指導する力はない、むしろ皆さんが私を利用してほしい。広島からメッセージを発することは、急がなくてはならない」と流暢な日本語で挨拶して、乾杯の音頭を取った。

 民間の平和国際交流団体と自治体の国際交流部門が、相互に力を出し合い、ベクトルを定めて行動するパターンは、ヒロシマならではといえよう。
 だが、問題がないでもない。
「平和」と「国際交流」が別立てで行われたり、役所お得意の縦割り行政が
互いの組織の連携を妨げることを、幾度か眼にした。
 民間組織も、まず「仲良く」が先立って、平和へ認識やその共通行動が伴いにくい。
 もってまわった言い方はやめよう。そう、「ヒロシマ」は、県でも市でも民間
でもない。「ヒロシマ」なのだ。グラスを片手に熱意がゆきかう場で、強くそのことを思った。うちうちに過ぎない「枠」をとっぱらって、大きな力が相乗することを…。
 次の機会に、そのための夢の話をしたい。

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2007年5月23日 (水)

アメリカ人とのカラオケ

先日、アメリカ人の友人を含めて数人とカラオケにいった。
彼はプレスリー、カントリーウエスタンを歌い、私たち日本人は演歌、フォークソング、ポップスを歌った。
彼に対して妙な親近感も感じたが、画面にでてくる映像を見ていてなんとも不思議な感覚に陥った。
雨の京都、全共闘世代の髪の長い男とスカート丈の短い女性等、あの青春時代にタイムスリップした懐かしさもあるが、それ以上に、「日本には色々な文化、歴史があるようなー」ということを改めて強く感じたことである。
海外に留学すると、そこで日本のことを聞かれ、「自分が日本について、いかに無知であるかを自覚した。日本に帰ってきてから茶道、空手を始めた」ということをよく効く。
それと同様の感覚かもしれない。
外国人と一緒に歌うだけでどうしてこんなに妙な感覚に陥るのか不思議でさえある。
広島には沢山の外国人がくる。
彼らと一緒に是非カラオケにいくことをお勧めする。
国際交流を進めることになるだけでなく、そこに不思議な感覚の世界が生まれることを経験されると思う。

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2007年5月22日 (火)

絶対正義―平和

今議会で藤田議長が再選された。
歓迎したい。藤田議員は筋を通す人だといわれている。またその辣腕振りは、前回の会期末に議員定数を60人から55人に削減したことにも窺える。
市長と議会の関係も、これで正常な関係になることが期待される。
広島市の市議会議員は、個々にみると、ちょっといかがなものかと思わざるを得ない人もいるが、こうした肝心なことになると、それなりの判断をしているようだ。
私は広島市と関わって、そろそろ20年近くになるが、広島市は不思議な街だと常々感じている。
どうも、それは被爆体験からくる「平和」への希求が、桁外れに強いということからくるのではないかと、近頃感じている。
「平和」はある意味絶対的な正義であり、価値観だ。
そうした価値観を、思考の中に持たざるを得ない広島市民は、何かの判断をするとき、いつもそこに戻って決めているようだ。そう考えると、頷ける事がいくつもある。
例えば、それは広島市民が秋葉氏を市長に選んだことも、その一つだといえる。
またまちづくりにしても、他の都市と比べて、抜きん出ていることがいくつもあるが、それもそうした価値観がもたらすものと思える。
地球環境問題への取り組みそうだし、些細なことだが、平和大通りもオープンカフェの設置もその一つといえる。
挙げていったら、切がないほど沢山ある。
これからも、こうした姿勢でのまちづくりを進めることで、広島市が「世界をリードするモデル都市」になることを期待したい

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2007年5月21日 (月)

日本非核宣言自治体協議会?

5月14日、長崎市の田上市長が広島市を訪れ、秋葉市長と会談した。
その際、「世界の1631都市が加盟する世界平和市長会議に共同で取り組むことを申し合わせた」と報じられている。
私は、今まで世界平和市長会議には、当然日本の都市も加盟していると思っていたが、実はそうではない。
日本の都市は、日本非核宣言自治体協議会(会長長崎市長)という組織に加盟していて、世界平和市長会議には加盟していないのだ。
世界平和市長会議に、唯一加盟している都市が長崎市で、その長崎市長は世界平和市長会議の副会長になっている。
なんとも解せないことである。
日本非核宣言自治体協議会について、ネットで検索すると、
「日本非核宣言自治体協議会は、1984年に広島県府中町で設立されました。設立の趣旨は「核戦争による人類絶滅の危機から、住民一人ひとりの生命とくらしを守り、現在および将来の国民のために、世界恒久平和の実現に寄与することが自治体に課せられた重大な使命である。宣言自治体が互いに手を結びあい、この地球上から核兵器が姿を消す日まで、核兵器の廃絶と恒久平和の実現を世界の自治体に呼びかけ、その輪を広げるために努力する」というものでした。
現在、当協議会は全国の232自治体(H.19.4.1現在)により組織され、総会や全国大会、研修会のほか、さまざまな平和事業などを通して設立の趣旨の実現に努力しています。」と書かれている。
日本非核宣言自治体協議会という文字を、世界平和市長会議と置き換えてもなんらおかしくない。
目的を同じくする団体が2つできたことの背景には、様々の理由があったことだろうことが推察される。
その理由を、私は知らない。
しかしいま、世界の平和を実現するために都市の役割は益々大きくなっている。
この2つの団体が一つになって活動することを、祈念してやまない。

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2007年5月20日 (日)

故郷への贈り物

 今年も部谷京子(へやきょうこ)さんの広島通いが始まった。
毎年、この時期には8月5~6日に元安橋のたもとで展示する影絵展の打ち合わせにやって来る。
 女学院の同級生仲間が地元での受け入れをボランティアで支え続けている。

部谷京子。映画の世界ではちょっと名の通った売れっ子美術監督である。最近作は周防正行監督作品『それでもボクはやっていない』。電車の中の痴漢行為で逮捕された青年が孤立無援のなかで潔白を証明しようと日本の司法の壁に挑戦する今日的課題を画いた作品。

 彼女が映画美術に入ったきっかけは美大時代のアルバイト。偶然知った世界だった。
「こんな面白い仕事があるのか」と感じて迷うことなく飛び込んだ。最初の作品が周防監督の「シコふんじゃった」。以後、シンガーでユニークな才能を発揮している石井竜也監督の「河童」など30数本の美術監督を務めている。

 ‘95に「RAMPO」(奥山和由監督)で日本アカデミー優秀美術賞を受賞いらい’97「Shall we ダンス?」(周防正行監督)‘98「誘拐」(大河原幸夫監督)’00「金融腐蝕列島“呪縛”」(原田真人監督)‘02「陰陽師」(滝田洋二郎監督)’03「突入せよ!“あさま山荘事件”」(原田真人監督)‘04「陰陽師Ⅱ」(滝田洋二郎監督)’04「壬生義士伝」(滝田洋二郎監督)‘06「北の零年(行定勲監督)と9作品で受賞実績をつむ実力派の美術監督である。

 その彼女が故郷広島に関わったのは‘03の原爆で人生を翻弄された女性の物語「鏡の女たち」だった。映画制作を通じあまりにもヒロシマを知らず「何かしなければ」と急き立てられるような気持になった。

 そんな時、被爆60周年の企画「日野原重明・小澤征爾 世界へおくる平和のメッセージ」に出会った。女学院時代の恩師黒瀬真一郎先生(院長・理事長)の紹介で演出スタッフとしてボランティア参加した。毎週のように東京と広島を行き来して市内に残る被爆樹木150本を撮影し日野原さんの詩の朗読の効果映像を投影し平和を訴えた。

 この経験を通して故郷広島に自分の出来ることで関わりを深めたいという思いを強くした。‘05年8月5~6日、友人の浜崎ゆうこさんと一緒に作った「小さな祈りの影絵」を元安橋のたもとで展示した。素朴な影絵作品は、多くの市民の足をとめ注目を集めた。
昨年は大平数子さんの原爆詩「慟哭」をテーマに取組んだ。CGに慣れ親しんだ子 どもたちも、電球に照らし出される暖かい色合いの幻想的な影絵に長時間座り込んでお母さんの説明に聞き入る姿が見受けられた。
 
受け入れから展示、撤収から市内の巡回展示までを支えるのは部谷さんの女学院時代の同級生が中心になって取組んでいる。幼稚園、公民館、会館ロビー、小中学校などを1年がかりで巡回している。

 今年のテーマは被爆前の市民生活の中にあった「懐かしい広島の遊び」だという。どんな作品が出来上がるのか今から楽しみにしている人達は多い。
また、影絵展3年分の作品を集めた絵本「浜崎ゆうこ作品集」の出版計画が進んでいる。
悲惨さを訴えるのではなく市民の暮らしの中にあった暖かさを通して原爆の恐ろしさを訴えるこれらの作品が子どもたちの平和教育の教材としても蘇る事も喜ばしい。

 部谷さんが映画を通して知ったヒロシマへの鎮魂の思いを職能を活かした形で毎年発展させる心意気は自分が育まれた故郷への恩返しであり、心からの贈り物である。仲間の輪を徐々に広げながら今年も実を結びつつある。
 心から拍手を送り期待したい。

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2007年5月19日 (土)

無機質な地名

 安佐北区に、口田という町名がある。「矢口」「小田」という旧地区の統廃合でおそらく、両方の地名から一文字ずつ採用して「口田」にしたと思われる。両地区の住民の心情をおもんばかって、あとくされがないように決められたのだろう。いかにも机上で考えた安易な決定で、何の意味もないばかりか味も素っ気もない無機質な地名で、住んでいてもさっぱり愛着がわかない。太田川に迫る小高い山々、その狭隘な土地に小さな田んぼがひしめき、「小田」という名が付けられたのだろう。

 広島市の平和公園を南下した地区にある「加古町」もそうだ。むかしは「水主町」と書いた。浅野藩の軍船の水主たちが、勇壮に船出していったさまが眼に浮かぶ。「加古町」ではそのイマジネーションが浮かばない。

 広島市のほとんどは、城下町の名残りをとどめる町名が付けられていた。
今残っているのは、紙屋町・八丁堀・薬研堀・的場…と少数派になった。
金屋町、研屋町、魚屋町、革屋町…などが消えた。
「横川町」は、太田川本流から横にそれた流れのそばにあったから付けられた。
「大手町」は、広島城大手門から南に位置するところから、付いたのだろう。
「紙屋町」は、浅野藩の有名な紙商が、商売していたという。
「的場町」は、的を作っていたのだろう。
「富士見町」はすぐそこが海で、安芸の小富士(似島)が美しく望めたからという。
安佐南区の「高取」は、殿様の鷹狩の鷹をつかまえるところだったそうだ。

 毛利から、福島・浅野と、戦国時代としてはおだやかに続いた城下町の人々の安寧の歴史が、商いの息使いが、数百年を通して地名として残ってきた。
それもいつか、消えていくのだろうか。

無機質で意味不明な名に変えられた地名は、ふるさとを慕う人々の心のひだに愛着をもっていき続けることができるのだろうか‥…

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2007年5月18日 (金)

地域の力

 現役記者時代、多くの仲間から多くのことを学んだ。

そのひとつ
 大分県知事が「一村・一品」と言って「ふるさと産品」作りにとりくんでいるが、子育てでも「一村・一教育」があっていいと思わんか。K教師の話に共感した。
 その後K氏は、S小学校の校長になり、「Sの教育」という副読本を教師・地域の共同作業で発行、ふるさと教育を進めるなど、「地域」に拘っていた。

その二、広島市政担当時代。
 牛田地区の母親たちが「公立中学の英語の授業時間を増やして」という運動を始め署名などに取り組んだ。当時私の息子は私立の中学校に通っていたが、調べて見ると、たしかに公立の英語の授業は少ない。私立の半分ほどだったと記憶している。

 そこで私は、K教師の顔が浮かんだ。広島は国際平和都市というのがタテマエだが、それなら、ヒロシマの一品は「国際人としての教養を育てる」教育ではないか。
 信州には「山びこ学校」という作文教育の伝統があった。
 札幌には、農業青年を育てるクラーク博士の「青年よ大志を抱け」という一品があったではないか。
 ヒロシマは平和憲法の下、「戦争をしない」という人類のメッカでありたい。戦争という殺し合いではなく、国と国、都市と都市、市民と市民が話し合いでことの解決にあたる以外に、人類の未来はない。

 どこの国とも、どんな宗教の信者とも、どんな人びととも、憎しみを捨てて話し合い触れ合う、それの出来る人材を育てる教育は、なんとしてもヒロシマ。でありたい。
 その努力が実れば、「野球留学」どころではない、「国際人留学」はヒロシマ。となる。

「あなた、子どもたちのためにも、やっぱりヒロシマで暮らしましょうよ・・・」
そんな妻たちの声が聞きたいものだ。
 こうなれば、献身的に危険な海外でボランティアに励む若者たちに対して、「自己責任でやってくれ」とか「反日分子」などと、なさけないことを言って平気な政治家は出ないのではないか。

 文部科学省や県教委などの指示にくたびれるのではなく、地域が知恵と情熱と実践で築く「地域の教育力」に夢を託したいものだ。

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2007年5月17日 (木)

こんなことあり?

 統一地方選が告示される少し前の休日、訪いを告げるチャイムが鳴った。
さほど、遠くないところに住む老婦人が立っていた。
 「今度、この地区から、○○さんが市会議員選挙に立候補されることになったので、町内会として応援することになりました。つきましては、後援会に入っていただけませんか」
 一瞬、絶句した。すこし落ち着きを取り戻して、矢継ぎ早に質問した。
「町内会が特定の候補を応援していいんですか?」
「町内会として、といわれますが、役員会で決定したんですか?」
「あなたは、役員としてまわっておられるんですか」・・・・・・・

これに対して彼女は、「私は頼まれてきただけです。難しいことはわかりません。とにかく断られたのはお宅で2軒目です。これをみてください」といって持参のバインダーを開いた。町内住民のリストがずらりと並び、賛同したと見られる人は、マーカーで塗りつぶされていた。ひとつだけ、異なる色でマークされている名前があった。私の前に申し出を断った最初の人らしい。

 これを各戸に見せながら歩いているのだろうか。ふたたび、唖然とした。
「民主主義」「主権在民」「町内自治」さまざまなことが頭を駆け巡り、この人にどう話したら通じるのか戸惑っている私を尻目に「では結構です」といって、彼女は玄関を離れた。

あの、塗りつぶされたバインダーのリストは誰が管理し、これからどう使われるのだろうか。「あそこの家は・・・」とうわさが広がるのだろうか。
未成熟な民主主義がいまだこのような形で残存していることに、心がざらついた。

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2007年5月16日 (水)

アストラムライン車窓からの景観

アストラムラインは、本通り駅を発からしばらくの間、中心市街地部分の数キロは地下鉄となっているが、広島城の西を過ぎ、JR山陽本線をくぐると地上にでる。
そこから先の15キロほどの間は、道路の上に作られた高架の上を走る。
その高架を走る電車の窓から望む四季折々に変化する景観は大変美しい。新緑の木々、雪に覆われた街並、広々とした大田川、そしてその向こうの山並み、こうした景観は、毎日見ていて飽きない。心が癒される。
鳥瞰的でもなく、下から見上げるでもない。ちょうどいい目線の高さだ。
アストラムライン沿線に住むことは、広島ではブランドになりつつあるという。
この景観の素晴らしさを見れば、なるほどと納得できる。
このアストラムラインの車窓からの景観の素晴らしさは、もっと高く評価されてしかるべき広島の価値だ。
しかし、この景観も広島市民には、あまりにも日常的ことになってしまっているので、その素晴らしさを、こと改めて、誇りにすべきほどの価値があるものだと気づいていない。残念なことだ。
札幌、仙台、福岡の地下鉄には、絶対にあり得ない景観なのだ。
P2

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2007年5月15日 (火)

本当!O先生!!・・今からでも遅くない!!!

 統一地方選挙が終わって、県議会にも多くの新旧交代があった。全国の自治体議会最長老のO議員が13期52年の議員生活を終えられた。戦後県政の生き字引だった。

 ところで全国的に今回の統一地方選で引退する議員の身辺を巡って話題になったことがあった。地方自治法の改正に伴う議員年金の支給問題である。4月下旬の任期満了まで勤めると支給額が年間50万円下がるため、3月末で辞職する議員が続出した。

 テレビのインタビューに悪びれることなく「自らの権利を履行するまで」と応える人。カメラに追われて逃げ回る人。これらの議員に対する住民の反応は共通して「自分のことしか考えていない」「身勝手」「けしからん」と厳しいものだった。

 さすがに広島ではこうした報道に巡り会っていないので、今期引退の広島県内の議員さんは皆さん任期満了で終わられたものと思っていた。

 所が、思いも寄らない人が3月末で辞めたと聞いて驚いた。県議会事務局へ電話をして確認した。7人が引退されこの内2人が3月末で辞めていた。間違いなくO先生とKさんだった。しかし、5人は任期満了の4月の辞任である。

 そんな中で何故任期を満了しようと考えられなかったのでしょうか。
 
 「O先生、本当ですか!3月辞任は?」

 それにしても残念なことです。13期52年。議長、全国議長会会長、自民党県連幹事を
長く務めら、加えて全国でも例の無い議員在職50年表彰と数多くの実績を残されました。
 
 広島県議会の良識と言われた先生に3月末辞任をさせた本当の理由は何だったのですか。晩節を汚す行為と言えば失礼になるのでしょうか。
 勿論、違法行為ではありません。従って、とやかく言うべきでは無いのかも知れません。
 政治家のモラルの問題です。

 法的に可能かどうか判りません。しかし、お節介ながら、今からでも遅くは無いのではないか、そんな気持がします。

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2007年5月14日 (月)

瓢箪堂―拘りをもつ人が、街の価値を作りだしている

先日、アストラムライン長楽寺駅の北側住宅地に「瓢箪堂」というちょっとお洒落なギャラリーを見付けた。
建物は、オーナーの女性が自分で設計したといっていたが、外壁は茶色のタイル、室内は白い壁と木の柱、壁からストーブの煙突がでているといった、それなりに思い入れを感じさせる建物である。
敷地は200坪ほどだから、一軒の住宅としてはかなり広い。
右側の部屋では、ほぼ2週間単位で、オーナーの女性経営者が自分の拘りで集めた作品を展示している。
入場料は取らない。
玄関を入ってすぐの左の部屋は、喫茶室となっている。直径2M位の大きな木の丸テーブルが置かれ、庭に面した窓は大きな1枚ガラスとなっている。ここで飲むコーヒーは、なかなか気持ちがいい。
庭はビオトープになっていて、春になれば様々の花が咲いていて、きれいだ。小さな池もあり、細々とした彫刻、置物が置かれている。
別棟の小さな丸太小屋では、オーナーが集めたエスニックな品物を売っている。
以前中国新聞に紹介されていたので、ドライブがてらと行ったのだが、広島市内にはこうしたオーナーの拘りを表現した住宅が、ここだけでなく、実はかなりあるのではないだろうか。
中国新聞もなかなか粋な計らいをする。

広大教授のC氏の山荘もそのひとつといえる。
自分の設計した建物の中に、ミニアカー、陶器、ワインの瓶がごちゃごちゃの置いてある。
それはそれで結構面白い。
骨董品、おもちゃ等のお宝を所有している人、レコードのコレクション&オーディオルームを持っている人、素晴らしい盆栽を持っている人、大量の書籍を持ちちょっとした薀蓄のある人、こうした個人の拘りを一般に開放し、市民が散歩がてら立ち寄ったり、集まったり、一緒に楽しめるような仕組み、ネットワークを創ったらどうだろうか。
英国では、丹精を込めて育てた花を見てもらおうと、自分の住む住宅の庭を、ある一定期間市民に開放しているそうだ。その庭を巡るツアーも催されているという。

かっては芸術、文化といった価値は、武士、村の庄屋,町人等のある一部の金持ち、権力者の所有に偏していたわけだが、今では、誰でもがそうした価値を所有することが可能になった。
それだけでなく、「拘りをもつ人が価値を作りだしている」ともいえる時代になったということも見逃せない点だ。

こうした「拘りをもつ人が、価値を作りだしている」、そしてそのネットワークを創ることが、これからの広島の新しい価値を創り出すことになるのだと思う。
そしてまた、広島市の街の大きさは、こうした試みをするのに調度適当なスケールだといえる。

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2007年5月13日 (日)

不可解な噂

 もはや旧聞に属することかもしれない。しかし、時間がたつにつれ、何も無かったように立ち消えた 「噂」が何だったのか、いまだに気懸かりなことがある。

 「秋葉さんは足元の平和問題に熱心でない」と言う噂を耳にするようになったのは、秋葉さんが市長選へ3選出馬を表明した頃だった。

 選挙戦さなかの事務所には市政に関する多様な質問や注文が舞い込んだが、その中に「岩国基地増強計画に反対する」自治体の動きに関する問題もあった。
 
 友人からもメールで「外国へ出かける国際平和もいいが、是非とも岩国基地増強や騒音問題に熱心になるよう直言してほしい」と注文が来た。

 最初は聞き流していたが「秋葉さんは関係自治体や民主団体で組織する会議や集会に出ない」と具体的に聞くようになり、マスコミもその事を話題にし始めるに至って本人に質した。

 広島のほか廿日市、江田島、三次各市と大野町、合併前の宮島、君田のほか連合などで作る「岩国基地増強反対広島県連絡会議」。その会議や陳情への出欠は、事務局の廿日市市からの打診に対し広島市の担当課・秘書課が調整し、事務局に連絡して決定される。
当然ながら広島市長のスケジュールは多忙で、出席できる日出来ない日を揃えて返答する。この結果、平成17年8月から19年1月まで8回あった会議や陳情集会の内、秋葉市
長が参加できたのは1回だった。勿論、市長欠席の時は助役や局長が代理出席している。

 これに関して新聞は「多忙を理由に参加しなかった」と報道し、山下廿日市市長は「世界的に名前が知られた広島市がもっと積極的に動いてくれたら違った展開になったはず」と広島市長の対応に不満を漏らしている。

 この問題で私がたしか3度目の質問をしたときだった。彼の耳にも噂は入り忸怩たる思いを持っていたようである。

 「仕組まれたのではないか」と正すと、「そうは思いたくない」と漏らしていた。トップの苦悩の一端を垣間見せた。

 古来噂は「根も葉もない」のが相場である。しかし、この噂には「根や葉、毒」を感じ
納得いかない私は、選挙事務所にやってくる若い記者10人余にこの不可解な噂と関係者の対応を聞いてみた。
 
 ほとんどの記者が欠席は市長の意志も伴っていて事務局の事務的選択は止むを得ないと考えていることがわかった。だが、千人余の住民代表だった元村長と116万人を擁する広島市長の日程を横並びにして調整する事務局の対応があったとすれば昔ながらの“お役所仕事”と言わざるをえない。

 関係者の電話取材した。廿日市市も広島市も担当者は「仕組んだ」などとは思いもよらない事だった。当然である。しかし、私の指摘に「配慮に欠けていたかもしれない」と言う。今後、こうした事態が招来されない事を強く希望したい。

 それにしても、選挙後「噂」は全く聞かない。

 誰が何のために流した「噂」だったのか。図らずも「噂」の伝播役を引き受けた人、両市の当事者にも改めて考えていただきたい。

 さもないと、行政のトップが考える施策は全く違った方向に働きかねず、真面目に仕事に取組んだとしても「配慮に欠ける」場合には、知らない間に結果的に「獅子身中の虫」になりかねない。時によっては作為があったと同じ効果をもたらす。
 
 政治家のこうした噂は時として政治生命を奪いかねない。
特に、今後も継続的に関わっていく両市の関係者の「配慮と注意」を喚起したい。

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2007年5月12日 (土)

やぶにらみ球場建設今昔考

 31回目を迎えたひろしまフラワーフェスティバルは今年も好天に恵まれて158万人を集めて、無事終わった。
 GWの全国人出ランキングでは博多ドンタクに次ぐ祭りとしてすっかり定着した。
このFFは昭和50年10月、平和大通りを舞台にカープの初優勝を祝って行われたパレードがヒントになって生れた事は意外に知られていない。

 カープは原爆の惨禍から5年後の昭和25年(1950)県や広島市など自治体も出資して経営母体の無い市民球団としてスタートした。カープは原爆で打ちひしがれた県市民にとって生甲斐であり希望の光だった。
 しかし、経営基盤が弱く選手の給与や強化策どころか遠征費にも事欠くような状態が続き、合併や解散の憂き目を見ながらリーグのお荷物球団になった。

 こうした事情を背景に現在の広島市民球場がオープンしたのは昭和32年。当時、広島財界を引っ張っていた二葉会(11社)が建設費1億6千万円を負担して完成。広島市に寄付し、カープ球団と市民へ待望のプレゼントとなった。

 二葉会は戦後の広島経済復興のけん引役だった。この時の1、6億は現在の数十億になろうが経営者はいずれもオーナー社長であった。後年、二葉会の結束力が強くて東京や大阪の資本が入りにくく他の地方都市に比べて遅れをとったと言う批判もあった。

 新球場の建設が市民的課題になって数年が経った。夢よもう一度とかつてのたる募金や企業の募金も取組まれた。しかし、いずれもスケールが小さい。いまの広島財界はサラリーマン社長がほとんどで二葉会時代のようなオーナー経営者は無く、募金は間々ならない。

 マツダがヨーロッパ進出した8年前、地域経済への影響を懸念した秋葉市長はデトロイトなどへ再三出かけGMを招請し、マツダと下請け企業が培った技術の売り込みに成功した。結果、マツダは前期、過去最高の収益を残し、下請も生き残った。マツダは地域の企業やサンセクに出資していた資金も総引き上げした。だが、どういう訳かカープの株だけは30余%保有し続けている。勝手ながら次のように考えるのは私一人ではないと確信する。

 もともと県民市民の球団を一時マツダが経営主体を務めた。新球場建設費はまだ財政再建の課題を抱える広島市が負担する。時代が変わったとはいえ、カープ創立50年記念にここはマツダがかつての二葉会に習って「マツダ球場」を条件に新球場建設費の8~90%と大きく提供してほしい。県民のマツダ車購買は自然にアップすること間違い無しだ。

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2007年5月11日 (金)

サスティナブルシティ広島

―自給自足都市・広島を創る― 

 日本の食糧は、その殆どを輸入に頼っている。日本の食料自給率は40%~50%である。広島市の食料自給率は3%といわれている。東京都のそれは限りなくゼロに近いと思われる。広島市に限らず、現代の日本の都市は何か事あれば、一瞬にして飢餓状態に陥ってしまうことは、誰にでも簡単に予想できることである。しかし、誰も敢えてそのような状況が起こることを考えようとしない。日本はその食料の殆どは、なんらかの形で海外から輸入されたものなのだ。グローバル経済社会とはそれが当たり前だと理解し、どうしてそれが悪いことなのか全く考えようとしない。これは困ったことだ。

 食糧を輸入しているといえば聞こえはいいが、ちょっと見方を変えれば、日本の経済力を背景に、海外から奪ってきたものだということでもある。1973年に、石油産油国が石油の輸出を制限したことで、オイルショックが起こったことはそれほど古いことではない。食料の世界で、輸出を止められるとか、制限をされるとかのことが起これば、石油ショックどころの騒ぎではないだろうことは想像に難くはない。そして中国の経済発展、人口増に伴う食料の消費の増大、いままで食料として使われていたものがガソリンの代替としての消費等,様々にその必要性が逼迫し始めている。いまや世界を舞台に食料の奪い合いが始まろうとしている。それはもう食料争奪戦争ともいえる状態にある。広島が世界に平和を訴えるなら、自分の食べ物は自分で作るということは、必須の条件だということを認識すべきではないだろうか。

 広島市近郊の農村でも、人口減と老齢化で、農業を続けることが不可能になり、耕作放棄された農地が急速に増え続けている。先祖代々引き継がれてきた、あの美しい棚田も荒れるにまかされているのをあちこちで見かけるようになった。そして集落そのものが消滅の危機にあるとされる限界集落も増え続けている。

 そこでまず就農者を増やすために、幾つかの施策が考えられる。近年、定年後は農業をやりたいという人が増えている。そうした新たな就農者を増やしていくために、広島市では定年就農者育成事業という試みを始めた。
それだけでなく、農家が人手を必要とするときに、ネットを通じて、都市の住民等に、テンポラリーにでも農業の働き手となってくれるよう呼びかけ、より容易に耕作に参加する仕掛けをつくることも必要であろう。またこうした多様な人々を受け入れるためには、より企業として農業をする組織としての農業法人の整備も進めることも必要である。

 また広島市では、市がイニシャティブをとって、家庭菜園、市民農園を作ることも進めている。平成18年現在で、すでに3ヶ所400区画近くを作ってきたが、秋葉市長はマニフェストの中で、こうした農地を取り敢えず1万区画に増やすといっている。その対象となる耕作放棄された農地は、市内の中心部から20~30分走ればいくらでもある。そしてこのような市民農園での農業経験は、本格的な農業参入の契機になることも期待される。自分が作った農作物を自分で消費する、その参加した時間に応じて受け取るというだけでなく、余った農作物を、ネットで販売し、宅配便業者と提携して、市内各戸に届けるようにする仕組みを作ることも必要であろう。

 このように都市住民、耕作放棄された農地、ネット、宅配便という要素を、ネットという最先端の技術で繋げることにより、自分達の食料は自分で作るという、もっとも素朴な生活形態を実現し、広島市の食料自給率を高めることが今求められている。食料を、自分達の住む近くで作ることは、その品質の安全性も保証されることでもある。地元でとれた食材は美味しく、安全であるということで、多少値段が高くても、食材の地産地消には好ましいことであると推奨されるようになってきたこともどんどん推奨する必要がある。

 また広島市西区の草津地区に残る古い民家がそのまま朽ちていこうとしている。そこでそれらの古い民家を使って、広島からはもう消えてしまった伝統産業である味噌、醤油、豆腐といった広島地場産業を育てるということも同時に検討すべきである。農家と都市をダイレクトに結びつけるというだけでなく、味噌、醤油を製造するというような産業も同時に育てることも必要であろう。それは同時に草津地区を伝統産業地区として再生させることにもなり、観光拠点とすることでもある。

 このような究極の地産地消のシステムをつくり、自給自足社会を創ることが、これからの時代の課題だといえる。広島市は、こうしたシステムを実現するために、調度適当な規模であり、立地にあると思われる。
そしてまたこのことは、広島市が、サスティナブルな都市を目指すことになり、そしてこれからの世界の都市の有り方を示すモデル都市になることでもあるといえる。それは、自衛のために武装するという以上に価値のあることではないだろうか。秋葉市長が進める「世界のモデル都市広島を創る」ということは、こうしたことではないだろうか。

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2007年5月10日 (木)

信念の人

 数人の古いジャーナリスト仲間と語らう機会があった。秋葉市長に話が及び一人が「あの人は、頑固だね」と言った。一瞬、首をかしげた。

 夏目漱石が「頑固者」であったことは、つとに知られている。中国では、古くから仙人のように自然に回帰して暮らす人を「石に枕し、流れに漱ぐ(クチススグ)」と称した。Aという男が、友人のBに「最近どうしているか」と尋ねた。Bは「流れに枕し、石に漱ぐ」と応えた。Aが「流れと石が反対ではないかい」とただすと、頑固を自認するBはすかさず「いや流れを枕にして耳を洗い、石で口を磨くのだ」と言い張って譲らなかったという。
 漱石の名の由来は、ここにある。

 信念の人や理にかなうかどうかをものさしにして生きている人が、俗に「頑固」といわれることもある。言語学を学んだ経験で言えば、これは正確ではない。頑固の一般的な定義は、「白を黒といいくるめて認めない」「他の言に耳をかさない」「理非はさておき、己の言動にこだわる」という類だと思っている。
私の知る秋葉さんは、石で口は漱がない。

 つづいて一人が「彼は清濁あわせのむことができる人ではない」と言った。爾来この言葉は、狸のような古参の政治家などに評されることが多く、時に、大物の代名詞のように使われる。が私にはどちらかと言うと、むしろ濁った水を好んで飲む人に多いように見受けられる。
濁った水は、飲まなくて良い。

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2007年5月 9日 (水)

拝啓 ゲバルト・ローザ様

 昔、かれこれ40年近く前のことです。私がまだ駆け出しの頃、全国の大学で大学改革を掲げた学生たちが“暴れ回って”いた。広島でも広大が封鎖され学長と学生が「改革」を巡って団交を繰り返す日々があった。まだ、60年安保を経て間もなく学生気分が抜けきらない記者たちは、当時中国の文化大革命の旗印だった「造反有利」とばかり学生側にシフトした気分で、学内に野宿をしながら取材に走り回る者もいた。

 医学部でも大学本部と同様に青医連が中心になった闘争に警官隊が導入され、対立は長期化していた。そんな学生闘争の内に艶やかな一輪の花があることを当時の取材仲間は広く知っていた。フランス革命のジャンヌダルクよろしく常に闘争の前面に立つ学生を鼓舞する存在だった。
その名は“ゲバルト・ローザ“と呼ばれていた。

 若い医師の卵たちが何を掲げて闘ったか確かな記憶は無い。だが、凡その推測はできる。当時に比べ日本の医科学技術は飛躍的な進歩をしたのだろう。しかし、それを支える医師の志が満たされる状況は決して整ってはいないのだろう。多くの今日的問題が日々提起されている。

 広島の産婦人科医河野美代子さんが35年取組んできた医療現場をベースにした「いのちの教育」は高い評価を得て、彼女は休む暇なく講演と指導のため全国を走り回ってきた。此の間、何度となく選挙のたびに彼女の名前が取りざたされてきた。

 ここ8年は秋葉忠利広島市長を後援するいわゆる勝手連の会長を務め、3期目の選出を果たした直後、仲間内に自らが来る7月の参議院選挙に出馬する意思を表明した。

 自民と民主が指定席を巡って雌雄を決する参議院選挙に割って入る事は「玉砕」を覚悟の闘いになる可能性が強い。優柔不断な県知事がいつまでも居座れる状況に無い今、知事選を前提にして慎重に考えるべきだと主張した。知事を支持してきた連合が知事の引き下ろしに消極的だとしても、任期満了後の2年半先には支持を得られる可能性は高く“敵を味方に出来る”闘いを考えようと提案した。同席のほとんどの人が賛成した。
 
 いま、彼女を強く突き動かしているものは「憲法と命」。自民と民主の二人に期待はできない。止むに止まれない気持で決意したと考える。彼女が医者の卵として闘ったあの大学紛争時代の医学に対する純粋な気持を今も変わらず持ち続け、憲法と規制や法的不備が多い医療環境の改善に自分の経験を活かす時と考え決意されたに違いない。
 
 いま、学校を中心にGHQが纏めた憲法草案の下敷きとなった原案を書いた憲法学者の鈴木安蔵をえがいた映画「日本の青空」の上映協力の要請に出かけている。仏教徒の集会では信楽峻麿元龍谷大学学長の講和を聞き、話す機会があった。四方山な話の中で、信楽さんは本人を直接は知らないが教え子たちの働きかけで河野美代子さんの推薦人を引き受けられたと言われ、大変驚かされた。しかし、講和を聞いて納得した。

 この日の講和は「親鸞に学ぶ。宗教の政治への関わり方」がテーマ。多くの宗派や宗教者は権力になびいた。宗教者は政治に無関心であってはならない。念仏者としての主体性を守り確立するには親鸞のようにいつの時代でも、権力と向かい合い反権力の側に立つことが大切だと、戦争体験や宗派の改革運動を通して説かれた。信念の人だ。 

 ここ数日、友人数名から河野さんを応援したいと言う連絡をもらい会って話を聞いた。

 秋葉選挙で自民党支持者の多くが秋葉さんに投票した事実。選挙事務所に行けないけれど、遠巻きにして河野さんを支援したい人は多いと言う。共通しているのは後援会へ入るのでなく、電話や事務所は無くていい、メールリンクをはって支持の拡大をはかる勝手連創りである。特に中小零細企業の経営者らは将来に不安を抱えた人は多く、自民党に縛られてきた人たちにも支持をしてもらえるチャンスを創りたいと言う。
 
 社民党員の一人は支持を断られたのだから何も出来ないと言う。その姿勢が支持者を減し、党が弱体化してきた原因だと指摘して、勝手連的支持のため話し合いを迫った。

 政治音痴の家内でも自民党の大物が応援に来るほどに現職大臣を引き下ろせるチャンスが増え河野さんの支持は拡大できると考えている。

 連休をこんな話に費やし考え直した。河野さんがひたすら純粋に医師を目指した時代の気持に立ち返って決意された立候補の意志は大事にしなければいけないと思う。ゲバルト・ローザの純粋な闘争心の継続と信念の人として敬意を払いたい。チャンスがあるからではなくチャンスを創るために秋葉みこし連で学んだ経験を活かしたいと思うこの頃です。


2007年5月 8日 (火)

鯉城通りの横断歩道橋について

市の中心部を通る54号線鯉城通りのBOOK OFFの前に、大きな横断歩道橋がある。
いまでは、この橋を渡る人は殆どいない。
すでに無用の橋になっているのは、誰の目にも明らかだ。
しかし無用の長物と化したこの橋が、街の景観をいかに損なっているかを感じ、それを指摘する人がいないというのも不思議なことだ。
確かに、この橋を建設した当時にあっては、横断歩道橋を作ることは、都市計画上重要なことであると考えられていた。
当時は、横断歩道を作ると、車の流れが阻害され、渋滞が起こるということで、都市計画上好ましいことではないとされ、横断橋を渡るか、或いは横断地下道を作ることが勧められた。
そして、比較的建設費の安い横断歩道橋は、広島に限らず、全国いたるところに作られた。
それは車優先社会の計画思想のもたらした結果といえる。
そうした時代に作られたのが、この橋である。
この橋は、その車優先社会の遺物ともいえる。
いまでは、そうして作られた歩道橋の殆どは撤去されて、見かけることも少なくなった。
いまでは「渋滞のない街に、賑わいはない」とさえいわれている。
横断歩道を作ることで渋滞が起こっても、快適に歩く環境を整えることが、街づくりにとって、重要なことだと考えられるようになった。歩いて暮らせる街を創ることが、街づくりのテーマとなってきている。
車中心の生活形態が進んだ愛知県の街からは、街の賑わいは消えたとさえいわれている。
渋滞は、必ずしも街づくりをする上で悪いことではないとさえ、今では考えられるようになってきたわけである。
今なら、このような横断歩道橋を作ろうという人はいないだろう。
しかし、反面どうも、はるか昔から、何十年前からそこにあるものについては、いつのまにか、それが当たり前の風景になってしまい、そこにあることについて、おかしい、変だとおもわなくなってしまうこともあるようだ。
この橋が撤去されれば、さっぱりした、よかったとすら思う人々が多いことは想像するに難くない。
人間の感覚の可笑しさを感じる。
今、この横断歩道橋を撤去しようという運動が起こることを期待したい。

2007年5月 7日 (月)

祭りの中の小さなつぶやき

 ひろしまの初夏の名物、フラワーフェスティバルが終った。マンネリ化が指摘される中、「よさこいパレード」の若者のパワーや「朝鮮通信使400年記念パレード」のアイデアなどが人目を惹いた。

 企業や団体が運営する「ひろば」で注目されたのは、NHK前の緑地帯で展開された「広島・大邱提携10周年~大邱マダン~」だ。マダンは、韓国語で広場を意味する。大邱広域市の観光・物産の展示や韓国食品の販売に加えて、チマチョゴリの試着撮影、ハングル文字への挑戦、韓国伝統の遊びなどが人気を呼んだ。この模様は、大邱市の2つの放送局の取材スタッフにより、韓国全土に伝えられた。広場を運営したのは、広島市と広島平和文化センターの観光・国際交流部門と日韓親善協会など大邱市と交流する各種団体。留学生や学生、主婦など、3日間で延べ150人余のボランティアがイベントを盛り上げた。

 スタッフの責任者の一人に、広島平和文化センターのN君がいた。国際交流担当の中堅職員である。早朝のスタンバイから、夕方のゴミ回収まで献身的に働いた。中日の4日夕方、後片付けの作業をしながら、彼と語らう機会があった。彼は訥々と話した。

 「行政の中では、平和と国際交流は別物とされる傾向もあり、ともすると平和の方を向く人が多いのです。私は、この小さな広場から人々の平和の心が生まれ発展していくのだと思います。国際交流が発展する関係の中では、決して戦争は起こりません。私は市の正規職員ではありません。こうして、黙々と国際交流の仕事を続けていければ、それでいいんです。」

 物静かな口調だが説得力があった。祭りの喧騒で疲れた耳に、彼の言葉が心地よく残った。

 翌、最終日の5日、彼の上司である新任の理事長スティーブン・リーパー氏が、広場に姿を見せた。N君を紹介し夕べの会話を伝えた。リーパー氏は立ち上がり、緊張したN君に名刺を手渡した。N君も、恐る恐る名刺を差し出した。リーパー氏は、彼の手を固く握り、何かを話していたようだったが、私は静かにその場を離れた。

2007年5月 6日 (日)

嬉しい「はだしのゲン」映像化

 「はだしのゲン」は中沢啓治の被爆体験をベースに生まれた漫画だ。私が昭和48年に東京勤務になった頃、発行部数100万部を越える人気漫画週刊誌「少年ジャンプ」に連載され静かなブームを呼んでいた。
 
 砂町にあった彼のアトリエを訪問して取材したのが中沢さんとの付き合いの始まりになった。
 これを何とか単行本にしたいという思いから今は亡き被爆教師の会の会長だった石田明さんら広島の教師たちに、子どもの反響を探ってもらうため「少年ジャンプ」のコピーを送り続けた。一方、知り合いの紹介であちこちに出版を掛け合った。
 子どもや教師の反響は予想以上に大きく、単行本化を希望する出版社が現れた。汐文社の吉本社長との出会いが生まれた。

 あれから34年、中沢さん吉本さんと私を結ぶ関わりは「はだしのゲン」をはじめ、中沢作品を巡って多様に拡大した。ゲンは劇映画を筆頭にアニメ、舞台、オペラ、絵本、児童書、「ゲン」の英語・ロシア語・フランス語版など様々な形で「核の恐ろしさとヒロシマの心」を伝えるため世界中を駆巡った。

 中沢作品の最初の映画化は勿論「はだしのゲン」で、八海事件を題材にした映画「真昼の暗黒」のプロデューサー山田典吾さんが監督を務めた。ゲンの母役は左幸子さんで評判を呼んで好評だった。

 映画が好きな中沢さんは自作「お好み八ちゃん」の監督を務めてヒロシマでロケーションした。また、中沢さん自らが被爆者として「ゲン」と手を取り合ってソ連のチェルノブイリやセミパラチィンスクをはじめアメリカのネバダやスリーマイルなど核実験や原発事故の被曝地に出かけて新しい核被害の実情をレポートするなど番組制作に関わってきた。
 「ゲン」が果たしてきた役割は極めて大きい。
 
 しかし、中沢さんは体調を崩した10年前から仕事を一段落し、1年のうち半分くらいを故郷広島で過ごすようになった。映画を見たり散歩をしたり、夜は行きつけの店で常連と過ごす暮らしを楽しんでいる。私も時々ご一緒する。
 
 4月実施された広島市長選挙では自宅近くの秋葉選挙事務所に顔を出したり、出発式で激をとばし、開票日は事務所で支持者と一緒に当選を喜ぶなど広島の市民生活を味わっている。驚いたことに選挙事務所で偶然、数十年ぶりに同級生と出会った。なんと秋葉市長夫人のご尊父だった。知らないうちに「秋葉さんを支持するようになっていたんだ」と殊更に当選を喜んでいた。

 そんな中沢さんのもとに嬉しい知らせがきた。「はだしのゲン」の映像化である。
被爆の実相やヒロシマの風化が進む中、「はだしのゲン」が三度目の映像化がされることは原作者は言うに及ばずヒロシマにとって大変嬉しいことである。

 製作に関する詳細の発表はしばらく先になるようだが、更に嬉しい事は企画したプロデューサーはまだ30才過ぎの青年だ。スタッフと一緒に2日間、資料館などを見学した彼が「はだしのゲン」に出会ったのは小学校3年生。いつかドラマ・映像化したいという思いを持ち続け、今実現のために大きく踏出した。

 5月の風のように爽やかな話題をもたらしたこの青年プロデューサーの夢を実現する為に出来るだけの協力をし、完成を期待したい。

2007年5月 5日 (土)

海の都・広島市

今日初めて、宮島から平和公園までのクルージング船に乗った。普段目にする景色とも違った素晴らしい景観を楽しむことが出来た。しかし陸が近づくにつれ、クレーンと工場が立ち並んでいる景色に変わり、がっかりさせられた。まったく美しくない景色だ。
また先日は、何年振りかで、広島港からクルージング船、銀河に乗って夕食を楽しんだ。
こうした楽しみ方ができ、景観があることは、広島の誇る財産であるはずだ。
しかし広島市の海岸線は、その殆どがマツダ、三菱重工の工場、それに物流の施設に占拠されていることで、およそ美しい景観とは程遠い状況になっている。
海水浴は日本海までいき、ヨットも牡蠣筏と航路を避けて走っている。
広島市は海に面していながら、実は意外と市民の生活の中に海がないといえる。
しかし、こうした状況は広島市に限ったことではなく、日本全国に見られることであり、それが当たり前のこととして受け入れられている。
厳島神社は神の宿る場として千年の歴史を誇るが、現代に生きる広島市民の生活の中に、海に関わることが殆どないというのは、全く残念なことだ。
海岸線をこうした醜い環境にしてしまったのは、経済発展を、日本の至上命題として考えてきたことによる思われる。
いまここで、海と市民の元に取り戻すにはどうしたらよいのか、市民が海とどのように関わるのか好ましいことなのか、美しい海岸線を取り戻すにはどうしたらよいのかについて、考え直すときに来ているのではないだろうか。

また、広島港に作られたビルは、殆ど空家同然になっている。
空家で放っといていいはずがない。それなのに、メディアで、おかしいではないかと指摘されることもない。
そして広島港が広島市のマスタープランに入っていない。取上げられることもない。
おかしなことではないだろうか。
こうしたことは、どうも広島港の所有、管理が、広島県になっていることにも一因があるようだ。
まったく「もったいない」ことだ。

「広島市は水の都」だといっているが、海に面してあることの方が、はるかに独自性があり、その価値も高いはずだが、全くそれに関して発言する人もいない。
なんとなく水の都と海の都は同じことと思っているようだ。しかし、それは全く違うということがどうも理解されていないように思う。
今「広島市は海の都である」どういうことなのかを確認し、その価値を高めるにはどうしたらよいかについて、考える時に来ているのではないだろうか。
そして、そのヒントは、「厳島神社を現代の都市に置き換えるとしたら、どうなるだろうか」について考えればよいように思う。
いかがだろうか。

2007年5月 4日 (金)

漢字が読める米国人理事長

 広島平和文化センターの理事長が斎藤忠臣氏からスチーブン・リーバー氏に引き継がれ、今週の初め新旧理事長と同席する機会を得た。

 斎藤氏は長い新聞記者生活のうち2度の広島勤務を経験し平和問題を中心に論陣を張った後、4年間の文化センター理事長を務めた。永年妻に頼っていた高齢のご尊父の介護を一緒にするために辞任した。自由な時間はこれまでとは違う立場でヒロシマに関わりを深めたいという。期待したい。

 後任の理事長は秋葉市長が会長を勤める平和市長会議のスタッフとして世界各国の都市やNGOとのパイプ役を務めてきた広島在住22年の平和活動家である。アイルランド系の米国人で今年還暦を迎える。
 
 彼が広島で仕事をはじめた頃、同僚が海外取材の協力を得たことがあった。その時、彼を紹介したのが「漢字が読める米国人」だった。彼は、その後広島をベ-スに原爆資料館の収蔵品の解説文の翻訳や被爆者証言の通訳などを中心にした仕事をしてきた。

 被爆者や広島の平和活動家との交流が深まる中で広島が第二の故郷になり、自らも核廃絶を目指す平和活動家になった。

 彼の言によると祖国米国は今、小さな核を使う危険性が高まっている。戦争をする米国に日本が中心になって“反核の天命”を果さなければならない。その為に反核運動の費用を広島が一人で負担するのではなく、世界に協力を求めるカンパを働きかける。1680都市に拡大した世界市長会議は大きな支えであり、今後も拡大を目指すという。

 今年初めに米国の核世界戦略の推進役だったキッシンジャー、ペリー、シュルツの元国務長官らが呼びかけた「核の無い世界」へアメリカ政府の大きな努力を求めた動きはヒロシマの努力と今後の運動に力を与えた。世界市長会議が掲げる2020年を目標にした核廃絶運動とリンクする為にもリーパー新理事長の役割は大きい。国際派秋葉市長の名人事か。

 隣に座ったエリザベス夫人は明るく日本語は達者で「くわかりません」と言いながら“四字熟語”を割れ箸の紙に「大同小異」「異口同音」など書きながら夫唱婦随ぶりを見せていた。日本語と日本人取分けヒロシマの心が判る米国人理事長の並外れた発想と活動に期待したい。

2007年5月 3日 (木)

裏金作りと無言電話

 古い話で恐縮です。昭和55年から6年にかけてあった本当の嘘のような事実です。

 宮沢県政の末期に広島県庁で「不正経理」が発覚した。今なら子どもでも知っているこの言葉・用語が実を持って使われたのは広島発かもしれない。
 同じ時期に後輩記者が「警察にも不正経理がある」と内部情報を得てきた。当時、県政を担当していた私と県警担当のFと二人で取材を始めた。
 
 その実態を好ましくないと考えている人が意外に多く、取材協力は得られやすかった。
一番簡単で単純な不正経理は旅費・日当の出張手当のごまかしだった。しかし、これは計画的で組織的な不正だった。

 県警には会計課とは別に各課に経理担当がいた。課員全員の印鑑を預かり出張の申請から費用の受け渡し、清算まで一括して代行した。例えば、捜査一課が県内の事件捜査に10人を10日間派遣する場合、規定で旅費・日当・宿泊費が1人7千円?支給されるとすると一人分7万円が10人で、此の間の費用は70万円になる。

 ところが旅費は捜査車を使い宿舎は空き官舎や安宿を活用して、食事代として各人へ一日分2~3千円の摘み金を渡し、残りの4~50万円は経理担当の手元にプールする。ここでは県費の不正請求や支出ではなく、個人が得るべき手当てを組織的に行った単純なピンはね不正である。

 捜査費や架空の旅費請求になると誰にでも手伝わせるわけに行かない。課長や課長補佐にお気に入りで口が堅い人が指名を受けて行う。これは、古くから受け継がれてきた官庁共通の裏金造りの常套手段だった。

 こうした実態を報道するにあたって、これも私たちが使う他社との連携を働きかけ各政党にも協力を持ちかけた。しかし、御難に遭うのを恐れて相手にしてくれなかった。唯一共産党のT県議だけが委員会で取り上げ追求した。

 これらの裏金は大部分が幹部の接待費と警察庁から派遣されてくるキャリアー組のお遊び代や交際費に使われていた。

 この実態を夕方のワイドニュースで報道すりやいなや十数本の電話が一斉に鳴り響き「よくやった」という励ましの声が引きも切らなかった。
 ここまでは一般的なニュース取材とその報道であるが、一味もふた味も変わったリアクションが私の所に降りかかってきた。

 報道直後から日暮れと共に3時間おきに無言電話がかかり始めた。当時、小学校2年生だった息子が「卑怯だろう、名前を言え」と無言電話の主に叫ぶようになった。妻は1ヵ月以上続く無言電話に「息子が誰かに連れて行かれる」という恐怖感を抱き始めて不眠症気味になった。
 深夜しか帰宅しない私は電話のベルを少しでも抑えるため毎夜毛布でぐるぐる巻きされた電話機を見て告発の覚悟を決め県警本部に届け出た。

 生まれて初めて部長と課長が立ち会って調書をまかれた。最後に「犯人は推定できますか」の問いに躊躇無く「県警」と答えた。確信していた裏には、時折電話を取る息子が何度か「無線の音がした」と証言していたからだ。

 晴天の霹靂とばかり驚いた警察官は「待ってください。冗談はよしてくれ」調書をとる手をとめた。予想通りの反応に私は「判りました、法務局と検察庁に行く」と席を立った。
「しばらく待ってください」との返事で、一旦引き下がった。

 それから数日後、無言電話は止まった。
社内でこの問題は内密にしていた。具体的証拠も無いまま放送は見送った。
何も無かったように時は過ぎたが親しくしていた人の何人かは私を避け「しかと」するようになった。反面、よく書きよく耐えたと親しくなり、その後長く付き合った人もあった。

 無謀にも警察権力に歯向かった正義感はその後いろんなケースで役立った。
しかし、その後同質の不正経理や裏金作りは後をたたない。宮城県知事だった浅野氏は捜査費にまで突っ込んで職を去り今裁判を闘っているようだ。

 日本の官僚機構がいまのまま維持される限り、全国の県庁県警各役所で裏金作りと不正経理は大なり小なり生き続けるのだろうか。広島県庁や県警で今、繰り返されていない保証は無い。


2007年5月 2日 (水)

市長選「よもやま昔話」

 16年前の広島市長選挙の投開票日にあった事件の裏話です。既に時効になっている今、こんな卑劣な事件があったことを忘れないように私流に書き留めて置きたいと思う。

 荒木市長の後任を選ぶこの年の市長選は当時の県医師会の杉本会長と当時の中国放送の平岡社長が対決した。杉本氏は自民党がバックアップしたのに対し平岡氏は担ぎ出しに一役買った橋口広銀頭取ら広島の主だった経済人が応援し、熾烈な選挙戦を展開した。選挙期間中にRCCの記者が杉本事務所で嫌味を言われたり嫌がらせを受けるのは当たり前えのように繰り返されていた。

 情勢は平岡有利に展開し、開票日は選挙速報番組を放送するため各テレビ局は両陣営に中継車を張付けてスタンバイした。ところが、杉本事務所に出かけたRCC中継車とカメラを結ぶケーブルが何者かによって鋭利な刃物で切られる事件が発生した。当然、警察は威力業務妨害事件として捜査に乗り出し、新聞テレビは全国ニュースとして「平岡当選」と共に一斉に報道した。ここまではまだ多くの方の記憶に残っていることと思う。

 事件後、数日たって某テレビ局の記者から私に内密に会いたいとの連絡があった。たまたま事件当夜、杉本事務所の薄暗い通路でスタンバイしていた彼の目の前で、テレビ中継車のケーブルを手探りする若者に気づいた。カメラ撮影用のランプを消したままカメラのスイッチをオンにしてフォローした。

 当然、VTRには中継カメラのケーブルをカッターナイフで切る若者が写し出されていた。

 記者はこのVTRの扱いを悩んだ末にことの重大性を考え、上司に相談のうえ私に連絡してくれた。このVTRコピーを借りて密かに彼の身分や所属を探った。若い彼が広島郊外の開業医の息子で数回の医大受験に失敗し、ある団体に勤務していることは意外に早く判った。

 この取材メモにVTRを沿えて警察に提出したことは言うまでも無い。しかし、警察からの連絡は「不問に付し、立検しない」という極めて政治的?な判断だった。
 
 この件について社内では数人しか承知していなかった。事件の後ろで糸を引いている政治家の影が見え隠れする中で凡その推察が出来ていた。平岡市政が船出したばかり、これ以上複雑な状況を生まない方が市政のためにも良いと考えて、警察の判断に従った。
  
 こんな嘘みたいな話がどうして生まれたのか。当時、今日ある広島の政治状況の芽が見えていたら、眼力を持っていたなら・・・見抜けなかったことが極めて残念である。結局、目に見えない長いものに巻かれてしまった。

 政治の世界では当たり前の妥協や談合をジャーナリズムの世界に身を置きながら許したことが大いなる間違いであったといわざるを得ない。

 またこの時、警察当局に厳しく立検を求めていたなら広島の今が少しは変わっていたのではないかと反省しきりである。

 16年前も今も誰の為に何の為に政治があるのかを考えるとき「不正義は許さない」姿勢を貫く勇気が大切のことに変わりは無い。


2007年5月 1日 (火)

県知事の政治感覚

 県議選後の県議会は新議長の選出と知事与党の陣取り合戦が真っ盛りのようだ。

 25日付けの中国新聞によると新議員66人中44人が「知事進退判断の局面」と考えているのに対し藤田雄山知事は「辞職勧告決議は拘束力が無い」と重ねて辞職を否定している。知事与党のなかには選挙中、有権者に「知事の辞職」を訴える候補も出て、いまや辞職論が拡大していると伝えている。

 全国的に見て例のない二度にわたる“知事の辞職勧告”は何故おきたのか?自らが出馬した知事選で自陣営が県議に多額の金をばら撒いたり自民党県支部に莫大な上納金を出したという後援会ぐるみの政治資金の不正事件がある。

 本人はこれらを「全く知らなかった」として疑惑の後援会元事務局長や参議員時代の秘書を通じて真相を解明しようとしている。県会はこれを巡って知事擁護派と反対派に分かれて県民不在の対立を続け、新議長の選出が天王山になる。

 事件は刑事的には既に時効を迎え、真相に近づいたとしても刑事責任を求められる事はない。しかし、政治的道義的責任は免れない。もしかすると知事は「公金に手を付けた訳でも汚職をしたわけでもない」とか「私的財産を使っただけ」などと考えているのではないだろうか。

 かつて政治の世界には「井戸塀(いどへい)政治家」と言われる人たちがいた。自分の財産を投げ打って国民市民のために働き、政治から離れて振り返れば「井戸と塀」しか残っていなかったという政治家像である。

 ご尊父正明氏は財界から政界に転身し「フジタ」はその政治力を背景に地方の土建会社からゼネコンの仲間入りを果した。また一世を風靡した競走馬トーショーボーイ等の馬主として有名を馳せ、自民党参議院幹事長・会長そして大臣から参議院議長まで登りつめた。しかし不幸にも突然の病に倒れ、雄山氏が参議員を世襲し後に知事に転身した。

 雄山氏が知事就任当時「フジタ」は県の公共工事から手を引くなど身内のしがらみを絶つなど清潔感が好感を呼んだ時期もあった。

 これに対し、雄山氏を知事に担ぎ出し、膨大な上納金を引き出したと言われている人物は県会議長として権勢を強め、父が興し兄が継ぐ土建会社に公共事業を拡大させる中で二人の間のねじれと対立は深まっていった。その背景になった原因は巷間伝えられるが
いまだに県民の前に明らかにされていない。                 

 選挙前には県知事が辞める時は相手と“刺し違える”と言う説がもっともらしく流れた。政敵にたいする恨みを公の場を使って晴らそうとする気配はあるように思える。そんな駆け引きに議会が一緒になって関わり続くなら議会も同罪と言わざるを得ない。

 いずれにしても県知事の政治資金疑惑は広島県や県民にとって極めて不名誉な疑惑である。がしかし、いっこうに解明される見通しが立たないまま、ここに来て「辞める理由がない」と開き直る知事には政治的な正義感や道義感はもはや通じないのか?知事の政治感覚を疑わざるを得ない。

 残るのは“知事リコール”しかないのだろうか。
県民を馬鹿にするのも程ほどにしてほしいと言いたい。
ゴールデンウイーク明けの臨時県会で何がおきるのか、傍聴に出かけて注目しよう。


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