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2007年4月

2007年4月30日 (月)

ひととき、爽やかな風が吹いた

 先の統一地方選前半戦の広島県議会選挙で、気になる候補者が2人いた。
一人は、安芸区選挙区の堀クンという28歳の青年。この安芸区は、県議会疑惑の中心人物と見られる例のボス候補の牙城である。

 もう一人は、廿日市選挙区の金井塚さんという26歳のお嬢さん。最年少の候補者であった。父親の務さんは、宮島の猿博士で、環境保護活動をライフワークとしている方だ。20年前にもなろうか、宮島の生態系の取材でお世話になったことから、なおさら関心が高かった。

 選挙後しばらくして、朝日新聞がマイクを持つ二人の顔写真と選挙活動を紹介する特集を報じた。意を強くした。

 堀クンは、ポスターに「広島の洗濯」と書いて、アッピールした。友人8人との手作り選挙であったが、7,000票余りを確得して、あのボス候補へ4,500票差にまで迫ったという。さぞかし、ボスの心胆を寒からしめたことであろう。

 もし、地域でボス支配の政治を断ち切ろうと言う良心やパワーが結集されていたなら、状況は変わっていたかもしれない。堀クンの正義感と勇気に拍手を贈りたい。できれば、彼にアクセスしてそのエネルギーに触れてみたい。

 金井塚さんは、廿日市の細見谷の林道整備による自然破壊に反対して「無駄な公共事業はやめよ」と訴え、1万票あまりを得た。最下位ではあったが、議席を得た候補との差は、2,900票ほどであったという。惜しかった。二人は、ともに自分が予測した得票数の倍以上の支持があったそうだ。澱み、たるみきった県・市の議会も変わらなければならない。この春、ひとときではあったが、瀬戸の岸辺に爽やかな風が吹いた。

 なお、金井塚さんの父、務さんからいただいた年賀状には、自分が訳した「食糧テロリズム」を読んでほしい。21世紀を生き延びる必読の本ですと書かれていた。サブタイトルに~多国籍企業は、いかに第3世界を餓えさせているか~とあった。

2007年4月29日 (日)

昭和20年9月の戦災(4)

 事件後、混乱期とはいえ当然警察が検証をしたはずであるが、私は一度も警察に事情を聞かれた記憶はない。しかし、何故こんな事件が起きたのか?両親や周囲の大人たちが語り、子供同士で話した記憶を辿ってみると以下のような総括が出来る。

 青年学校の訓練銃を焼却したのは原村の陸軍訓練場に連合軍(オーストラリア、・ニュージーランド軍)が進駐して来る前に処分しておく必要があったと推測される。父の話では学校から「総ての銃の引き金を引いて弾が残っていないか確かめた。爆発は複数の銃創に残っていた火薬が一気に爆発したと考えられる」と説明があったようだ。しかし、一人の児童が死亡し一人が重傷を負った以外に事件の顛末や全体像は今のところ、判らない。

 事件後、時折Oさんのお母さんに出会うことがあった。私を見ては「良かったね、元気になって」と涙ぐまれる。田舎の一本道で避けようもなく出会うのがとても辛くて溝の中に姿を隠したり、黙って走り去った暗い記憶が消えていない。

 この事件についてその後同級生と話した記憶が無い。敢えて避けてきた意識も無い。後年は原爆被爆というあまりに大きな戦争被害に接する機会が多くて「9月20日の戦災」という小さな戦争被害を忘れていたような気もする。

 戦災とは無縁だった西条の地でしかも終戦後一月以上たって発生したこの戦災の記録も記憶も消滅する日が近い。この間、日本は「戦争をしない国」「平和憲法を持つ国」として世界に定着してきた。その一方で戦争の被害や加害を意識的に忘却の彼方に捨てようとする勢力が拡大してきた。

 そして今、平和憲法を改めて「戦争が出来る国」にしようと言う大きな波が押し寄せている。改めて身近なところで起きた小さな戦災を掘り起こし語り継ぎ、広島長崎をはじめ戦争被害の継承の重要性を再認識している。
<一旦おわり>


2007年4月28日 (土)

昭和20年9月の戦災(3)

 しばらくして医務室に運ばれ、駆けつけた校医のN先生が次々にけが人を 処置された。
私は履いていた半ズボンを脱がされ傷の応急手当を受けたが、傷が大きく数箇所に及んでいるため、国立病院に入院することになった。 

 この時そばについて見守っていた担任の女性教師KさんとN医師の会話がその後思春期を迎える私を長く悩ませることになった。
「将来、男の子として大丈夫でしょうか」「それは、判らん・・・」というような内容だった。勿論、この会話が気になり始めるのは更に後のことで、ここでは敢えて触れず機会があれば改めて記述したい。

 応急処置を受けた私は自転車の荷台に乗せられて国道を自宅近くの橋のたもとまで運ばれた。枕崎台風で橋脚を流されて通行止めになっていた橋の向こう(広島側)に病院の自動車が待っていた。

 傷は右足の内股と左足の付け根から臀部、そして左股間の付け根と睾丸の一部裂傷であった。手術中は麻酔で眠っていたのか、気がついた時は夜だった。父や母が心配そうに覗き込んでいた。

 静かな松林に囲まれたこの病院は負傷したり結核の軍人が多かった。しかし、この時は多くの自爆者が収容されていた。私は、被爆者たちが入院している16病棟に1月余り入院し、歩行が出来るようになった10月下旬に退院した。

 入院中に見た光景で、被爆者が傷口に沸く蛆虫を箸で摘んで取り除く姿が忘れられない。当時の病院では患者の傷口が化膿して発する何ともいえない悪臭が病室を覆い、今でもその匂いが頭の中に残っている。十分な治療をされないで廊下やベットの間に横たわっていた被爆者たちの数は日々少なくなった。
はるか後になって、当時同じ病棟に「人間を返せ」で知られる原爆詩人の峠三吉が入院していたことを知った。

退院後、日曜日になると入院中に知リ合った被爆者や看護婦さんたちが大勢我家に押し寄せた。農家といっても当時は麦飯が当たり前の時代に祖母と母はまるで集団炊き出しのように銀飯の接待をしていた事も忘れられない記憶である。
 
 元気になって学校に戻った私はあの日、目の前で海老が跳ねたように飛ばされた人が4年生のOさんで即死状態だったことを知った。家族は私を気遣ってか敢えて知らせていなかった。
<つづく>


2007年4月27日 (金)

昭和20年9月の戦災(2)

 戦後、民間に移り、小さな事業をしながら70歳まで現役を務めた後リタイアした。兼業の農業をしながら地元の古刹の総代や地域のお世話をしながら東広島市の被爆者団体のお世話もしていた。

 80歳で結腸癌を、1年後に肝臓ガンに見舞われた時「入市被爆の影響だろうか」と被爆時のことに触れたがあまり多くを語ることはなかった。

 ところで、20年の9月、西日本を大きいな台風が襲った。枕崎台風である。自宅に近い黒瀬川の堤防が決壊し田んぼが氾濫し、国道に掛かる橋の橋脚が流され長い間交通が遮断された。後になって取材などを通じて知ったことだが、広島市内も洪水でバラックが流され2千人を超える死者が出たり、大野町の陸軍病院が鉄砲水に流されて、収容中の被爆者や被爆調査に来訪中の学術調査団の多くが被災した。

 前置きが長くなったが本題に入る。近年、気になりながら放置していた私の「昭和20年9月の戦災」である。学校へ電話したり中国新聞に特別協力をお願いしてみたが、残念ながら「戦災日」の特定に至っていない。

 教頭、校長と10数年勤続中の現校長が残っている資料などを調べて下さったが全く手がかりになる記録は無かった。貴重な資料を原爆ですっかり失った中国新聞にも20年9月20日前後から1か月分が空白で「新聞記事になった」といっていた父母の記憶を確かめることは不可能な状況にある。

 前述したように寺西国民学校で9月のあの日(枕崎台風の数日後であったことは間違いない)の朝。校庭にうずたかく銃の山が出来ていた。盆地の9月は下旬になると朝夕はひんやりする日があって、この日は児童が銃の山を見守る中で火がつけられた。

 どれだけ経ったときか、突然の大音響と同時に向かい側にいた一人が海老のように背中を曲げて宙に浮いた。悲鳴と泣き声を黒煙と砂煙が包み、しばらく経って我に帰った私の足は赤いストッキングを履いたように真っ赤になっていた。履いていた藁草履は血をすって地面に張り付いたように動かなかった。

 さっきまで火を取り囲んでいた子どもたちは蜘蛛の子を散らしたように逃げ惑っていた。
しかし、先ほど飛ばされた少年を抱えた青年学校の校長は大声を発しながら仁王立ちになっていた。
私は不思議に痛みは全く感じなかった。肩を組んで見ていた近所の遊び仲間のA君に異常はなかったが私の怪我に気づいて誰かを呼びに言った。
<つづく>

2007年4月26日 (木)

昭和20年9月の戦災(1)

 私は昭和13年5月生まれ。昭和20年4月に賀茂郡寺西村(現在の東広島市西条町寺家)の寺西国民学校に入学した。一学年が30人前後2クラスで350~6人程度の学校だった。
 戦時下の小学校(国民学校)には現在の中学1~2年生にあたる青年学校(義務教育外)が併設され、配属将校がいて専ら軍事教練をしていた。

 当時は正門からしか登校できず、そこには現人神(あらひとがみ=天皇を神格化した表現)として奉られていた昭和天皇の写真が収められた石造りの御真影(ごしんえい)があって、直立不動で敬礼して校門をくぐった。

 当時、隣村の賀茂郡原村(現在の東広島市八本松町原)にあった陸軍の訓練場に駐屯していた兵隊が農家である私の実家辺りによく出没し、空腹を埋めるためご飯や米の無心にやってきていた。そんなことを除くと戦時中を思わせるものは何も無い農村でした。

 あの8月6日の朝もB29が上空を通貨するのをそうした兵隊たちと一緒に見た記憶がある。落下傘の降下を見た兵隊が、あれは訓練だと言ったとか言わなかったとか・・・大分後になって話した記憶もぼんやりながらある。

 直線で20キロ余り離れたこの地は瀬野辺りの山が遮蔽してピカの直射はなかったが庭にいた私たちは経験したことのない閃光に身を屈めた。

 その日の午後になって同じ村内にあった国立の広島療養所にトラックが次々に多くの負傷者を運び込むのを見た。その夜、広島で大変なことがあったと近所の人達が寄り集まって噂していた。

 公務員だった父はこの朝、広島を経て三次、福山への2泊3日の出張に出かけた。しかし、西条の駅で早くきた福山方面行きの列車に乗ったため奇跡的に難を免れ、翌日帰宅した。たしか8日の早朝、今度は自転車に乗って30キロ近い旧山陽道を下って県庁など広島に出向いた。

 帰宅したのは翌日か翌々日の明け方だった。とにかく、大変なことが起きたと母に報告していたことを微かに記憶している。しかし、なぜか父はその後長年この時の惨状を私たちには話さなかった。
<つづく>

2007年4月25日 (水)

広島市議会の構造改革を

市議会議員数と選出方法は、このままでよいのか?

後半の統一地方選も終わりました。
投票日翌日のTVの街頭アンケートで、「地方議会議員は、なにをやっているのかわからない。だから関心がない。」と答えている人が殆どでした。私にとっても、確かにそうです。だから選挙にはいかないということになるのだろうと思います。普通の市民にとって、市議議員がなにをやっているのかが全く見えてきません。投票しなければいけないという義務感で行く人が殆どだろうと思います。そして誰かの名前を書かなければいけないから、或いはちょっと知り合いだからということで書いているように感じます。
本来はもっと市議会議員の選挙は身近な問題としてあるべきです。その選出方法も人数も今改めて問い直されなければいけないように思います。
各区からえらばれるという市議会議員選出方法にしても、実は極めて狭い範囲の住民を代表する町内会の会長さんを選ぶような感じで選出されているようにも感じます。
広島市議会議員は全員各区から選出され、広島市全域から選ばれる議員はいません。
今の仕組みの中からでは広島市の経済界を代表するような人も選ばれにくくなっています。
インターネット等で市民の意見は直接市の行政に反映する仕組みもどんどん進んでいます。

今回の広島市の市議会議員選挙では、市議会議員60+1人から55人に削減され、かなり厳しい選挙戦となりました。
しかし55人という市議会議員数も、本当に必要なのでしょうか。
人数が多すぎて、本会議で1回も発言することが出来ない議員もいると聞いています。
芦屋市では、市民グループから市議会議員数を、現行の24人から15人にする削減案がだされ、選挙戦が近づくに従って、選挙の争点になったそうです。
市議会議員の現在の制度はその人数にしても選出方法にしても、現在の社会情勢には会っていないように思います。
そこで提案です。
例えばそれぞれの区からの選出の議員と、市全域から選ばれるという2種類の選出方法にするということと、人数を大幅に削減するということで、各区夫々から2人、8×2=16人、それに全市選出議員8人の合わせて計24人とするということはどうでしょうか。
この人数でも、議会の機能は充分果たせるように思います。
減らした分、それだけ議員の負担が増えるということであれば、報酬を2割程度増額することも、同時に検討してもよいと思います。
市役所職員の人数も減らすべきだといわれています。市役所職員は、そのかなりのエネルギーを議会対策に割かれています。議員の数が減れば、自動的に職員の数もへるといっても過言ではないように思います。
職員数の削減を議論する前に、市議会議員の削減を議論すべきだと思います。
市議会議員の政治資金の透明性が今盛んに議論されるようになりました。それと同時に、選出制度そのものについても本来議論されてしかるべきだと思います。

こうした根源的な問題提起を、メディアはもっとすべきだと思いますが、いかがでしょうか。

2007年4月24日 (火)

「日本国憲法」は押し付け憲法ではない!

~映画「日本の青空」をみて~

 統一地方選挙の後半戦が告示された15日(日)、平和公園内のメモリアルホールで映画「日本の青空」(大沢豊監督)の試写会が行われた。日曜日の朝にも関わらず100人余が鑑賞し、日本人の誇りを憲法に託した在野の憲法学者鈴木安蔵(1904~83)の熱い人間ドラマに胸を振るわせた。

 今年は日本国憲法施行60周年だ。これにあわせて政府・自民党公明党は憲法記念日の5月3日を目標に有効投票数の二分の一以上で承認する国民投票法案の成立を目指している。  仮に投票率が50%で白票が10%あるなら、21%の賛成で憲法を改正できる仕組みである。おまけに、新聞やTV・ラジオでの有料広告は、投票前2週間は禁止するが大量の意見広告が可能になり、安部内閣は7月の参議院選挙の争点として憲法改正を掲げている。 

 映画は戦後間もなく、鈴木安蔵を中心にした民間人による「憲法研究会」が作った憲法草案が、実は連合国軍司令部(GHQ)案の下敷きになった事実に基づいて日本国憲法の誕生を巡る安蔵夫婦の熱い人間ドラマとして描いている。

 憲法はGHQによって纏められた案が基になっていることが「押し付け憲法」と言われる所以である。改憲派に根強いのも「憲法は押し付けられたもの」という主張である。しかし、実は新憲法の中に日本人の英知が沢山込められていたこと、その中心的人物が鈴木安蔵であることを改めて確認した。

 この前日に経済同友会の終身幹事で元日本興亜損保の社長・会長だった品川正治氏の講演を聞いた。「戦争をする国・している国アメリカ」と「60年余戦争をしなかった国・戦争をしない国日本」が同じ価値観を持つ国と位置付ける多くの経済人や政治家は間違っている。平和憲法こそが日本の座標軸であり、平和憲法を守りきって、平和憲法をもつ国としての経済を力強く歩んでいくことが21世紀の日本の歩む道だと力説され、奇しくも言下にこの映画を推奨されたように思う。

 教師の必要条件だった「憲法」が対象から除外されて久しく、学校で憲法を学ぶ機会はなくなっている。この日、この映画の上映を支援する会が結成された。選挙が終わってすっかり時間の余裕が出来た私はまず、市内の私立の中高校に、この映画上映を働きかる為一肌脱いで見ようと思っている。  

2007年4月23日 (月)

NHK開票速報の怪

 広島市長選挙の情勢は折り返し地点を境に大きく変わってきた。新聞テレビ各社が行った世論調査がほぼ一致して秋葉対大原+柏村がWスコア近い結果を得たことにあった。
 投票日前日にNHKの中継のレポーターは午後8時過ぎの“当確”を打診してきた。いくら自信があると言っても投票終了と同時刻は有権者に失礼にならないか・・・との意見を示した。NHKをここまで強気にさせている背景には、NHKだけが取組んだ期日前投票の出口調査があったに違いない。5%を超えるこのデータは投票日の出口調査と併せて検討すれば「鬼に金棒」の強力なデーターになることは容易に想像がつく。 
 
 さて、たまたま4月3日の夜、友人と久しぶりに出向いたお店でNHKの元幹部職員に数年ぶりに再会した。現職幹部を含む4人で選挙の四方山話の中で、軽い気持ちで「あきばみこし連・世話人」の名刺を出した。「これはこれは、われわれは大原をやっているので・・・」と自然に出てきた。そういえば、大原氏のHPにはNHK記者OBで高知県知事の橋本氏が応援メッセージを送っていた。かつて、選挙のたびに労使が一体になって保守系と革新系を担ぐ国鉄や郵政などが“一家”呼ばわりされた時代があったことを思いだす。いまのNHKにそんなことが当てはまるのだろうか。

 開票当日、各社は出口調査に取り組み一様に世論調査を裏付ける結果のデーターを得た模様だった。民放各社はRCCの8時2~3分を筆頭に相次いで「当確」を打つとの情報が選挙事務所を包んで盛り上がった。勿論、NHKは最強のデーターで当然これを1分でも30秒でも早い「当確」が出るものと期待をした。

 ところがNHKは当夜になって「当確」は開票が始まる9時20分まで出さないと前日の方針を大きく変更した。その理由は明確でなかった。投票箱が締め切られる午後8時と開票が始まる9時20分の間には全く変わった状況はない。ただし、NHK開票速報番組内では「出口調査の結果が分析され、事実上の秋葉当確」が放送されていた。

 NHKの当確に依拠しようと心に決めていた?秋葉氏も流石に「NHKの当確」を待ちきれず早目に事務所に現れ「勝利の万歳」をしたのは皆さんご承知の通りです。

 この間、東京都知事選は8時過ぎに早々と「石原3選・当確」が出されたことを考え合わせると、NHK広島放送局で何があったのか、何かの力が働いたのか。それが“NHK一家意識”でないことを願いたいが、日を追うごとに気になっている。下衆の勘繰りであってほしいと思うと同時にここも厳しいウオッチが必要な組織なのかとも思わないではない?どう考えますか。

2007年4月21日 (土)

創刊に寄せて

 憲法を考える映画「日本の青い空」試写会を観て、多少の用事を済ませての帰り、相生橋の半ほどにたたずみ、川面を見下ろした。川の水はきれいだった。カープのユニフォームを着た市民たちが、たった今終わったデーゲームの感想を声高に語らいながら、私の背を通り過ぎていく。
  ふと、あることを思い出した。すこし前の広島市長選挙で、秋葉候補の演説に触れる機会を得た。秋葉氏は「阪神が優勝したとき、汚れた道頓堀に飛び込む人が多く大阪市長は心配しているが、私は、広島の川をきれいにする。カープが優勝したら、一緒に飛び込みましょう。」と話していた。
 「オイオイ、ムチャをいうなあ。あなたも年を考えろよ」と私。
 私が、大学をでて東京から広島へ移り住んだのが、昭和の38年であった。
 川はきれいであった。宇品に下宿していた私は、休日には宇品湾に近い川べりに出て、大きなボラを釣り上げては下宿に持ち帰り、おばさんの手作りのアライを楽しんだ。引き潮の浅瀬では、貝掘りの家族連れがおり、学校を終わった子どもたちが、水浴びに興じていた。あれから40年余、いやたった40年後の今、その姿はない。
 秋葉市長が言うように、その40年を取り戻すことができるのだろうか。
 そのために、いかほどの叡智と努力が必要なのか、呆然と川面を見ていた。
  「チリン」と自転車のベルが短く鳴り、「オジサン邪魔よ」と言わんばかりの接近で、われに返った。
  すでに、人生の三分の二を過ごした広島、もう少し広島へ執着しようかと 考えながら、橋を離れた。

ブログの目的・趣意

 広島県政と広島市政を日常的にウオッチし、疑問があれば問いかけ、率直な意見を投げかけ、建設的な提案のすることを通じて、ひろしまを愛する。ヒロシマを伝えること、広島の明日に期すること、ここに拘る市井の人、市民有志が日々の暮らしの中で感じる時評・随想・提起などを、自由につづるブログです。

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