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2007年4月27日 (金)

昭和20年9月の戦災(2)

 戦後、民間に移り、小さな事業をしながら70歳まで現役を務めた後リタイアした。兼業の農業をしながら地元の古刹の総代や地域のお世話をしながら東広島市の被爆者団体のお世話もしていた。

 80歳で結腸癌を、1年後に肝臓ガンに見舞われた時「入市被爆の影響だろうか」と被爆時のことに触れたがあまり多くを語ることはなかった。

 ところで、20年の9月、西日本を大きいな台風が襲った。枕崎台風である。自宅に近い黒瀬川の堤防が決壊し田んぼが氾濫し、国道に掛かる橋の橋脚が流され長い間交通が遮断された。後になって取材などを通じて知ったことだが、広島市内も洪水でバラックが流され2千人を超える死者が出たり、大野町の陸軍病院が鉄砲水に流されて、収容中の被爆者や被爆調査に来訪中の学術調査団の多くが被災した。

 前置きが長くなったが本題に入る。近年、気になりながら放置していた私の「昭和20年9月の戦災」である。学校へ電話したり中国新聞に特別協力をお願いしてみたが、残念ながら「戦災日」の特定に至っていない。

 教頭、校長と10数年勤続中の現校長が残っている資料などを調べて下さったが全く手がかりになる記録は無かった。貴重な資料を原爆ですっかり失った中国新聞にも20年9月20日前後から1か月分が空白で「新聞記事になった」といっていた父母の記憶を確かめることは不可能な状況にある。

 前述したように寺西国民学校で9月のあの日(枕崎台風の数日後であったことは間違いない)の朝。校庭にうずたかく銃の山が出来ていた。盆地の9月は下旬になると朝夕はひんやりする日があって、この日は児童が銃の山を見守る中で火がつけられた。

 どれだけ経ったときか、突然の大音響と同時に向かい側にいた一人が海老のように背中を曲げて宙に浮いた。悲鳴と泣き声を黒煙と砂煙が包み、しばらく経って我に帰った私の足は赤いストッキングを履いたように真っ赤になっていた。履いていた藁草履は血をすって地面に張り付いたように動かなかった。

 さっきまで火を取り囲んでいた子どもたちは蜘蛛の子を散らしたように逃げ惑っていた。
しかし、先ほど飛ばされた少年を抱えた青年学校の校長は大声を発しながら仁王立ちになっていた。
私は不思議に痛みは全く感じなかった。肩を組んで見ていた近所の遊び仲間のA君に異常はなかったが私の怪我に気づいて誰かを呼びに言った。
<つづく>

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