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2007年4月28日 (土)

昭和20年9月の戦災(3)

 しばらくして医務室に運ばれ、駆けつけた校医のN先生が次々にけが人を 処置された。
私は履いていた半ズボンを脱がされ傷の応急手当を受けたが、傷が大きく数箇所に及んでいるため、国立病院に入院することになった。 

 この時そばについて見守っていた担任の女性教師KさんとN医師の会話がその後思春期を迎える私を長く悩ませることになった。
「将来、男の子として大丈夫でしょうか」「それは、判らん・・・」というような内容だった。勿論、この会話が気になり始めるのは更に後のことで、ここでは敢えて触れず機会があれば改めて記述したい。

 応急処置を受けた私は自転車の荷台に乗せられて国道を自宅近くの橋のたもとまで運ばれた。枕崎台風で橋脚を流されて通行止めになっていた橋の向こう(広島側)に病院の自動車が待っていた。

 傷は右足の内股と左足の付け根から臀部、そして左股間の付け根と睾丸の一部裂傷であった。手術中は麻酔で眠っていたのか、気がついた時は夜だった。父や母が心配そうに覗き込んでいた。

 静かな松林に囲まれたこの病院は負傷したり結核の軍人が多かった。しかし、この時は多くの自爆者が収容されていた。私は、被爆者たちが入院している16病棟に1月余り入院し、歩行が出来るようになった10月下旬に退院した。

 入院中に見た光景で、被爆者が傷口に沸く蛆虫を箸で摘んで取り除く姿が忘れられない。当時の病院では患者の傷口が化膿して発する何ともいえない悪臭が病室を覆い、今でもその匂いが頭の中に残っている。十分な治療をされないで廊下やベットの間に横たわっていた被爆者たちの数は日々少なくなった。
はるか後になって、当時同じ病棟に「人間を返せ」で知られる原爆詩人の峠三吉が入院していたことを知った。

退院後、日曜日になると入院中に知リ合った被爆者や看護婦さんたちが大勢我家に押し寄せた。農家といっても当時は麦飯が当たり前の時代に祖母と母はまるで集団炊き出しのように銀飯の接待をしていた事も忘れられない記憶である。
 
 元気になって学校に戻った私はあの日、目の前で海老が跳ねたように飛ばされた人が4年生のOさんで即死状態だったことを知った。家族は私を気遣ってか敢えて知らせていなかった。
<つづく>


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