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2007年4月26日 (木)

昭和20年9月の戦災(1)

 私は昭和13年5月生まれ。昭和20年4月に賀茂郡寺西村(現在の東広島市西条町寺家)の寺西国民学校に入学した。一学年が30人前後2クラスで350~6人程度の学校だった。
 戦時下の小学校(国民学校)には現在の中学1~2年生にあたる青年学校(義務教育外)が併設され、配属将校がいて専ら軍事教練をしていた。

 当時は正門からしか登校できず、そこには現人神(あらひとがみ=天皇を神格化した表現)として奉られていた昭和天皇の写真が収められた石造りの御真影(ごしんえい)があって、直立不動で敬礼して校門をくぐった。

 当時、隣村の賀茂郡原村(現在の東広島市八本松町原)にあった陸軍の訓練場に駐屯していた兵隊が農家である私の実家辺りによく出没し、空腹を埋めるためご飯や米の無心にやってきていた。そんなことを除くと戦時中を思わせるものは何も無い農村でした。

 あの8月6日の朝もB29が上空を通貨するのをそうした兵隊たちと一緒に見た記憶がある。落下傘の降下を見た兵隊が、あれは訓練だと言ったとか言わなかったとか・・・大分後になって話した記憶もぼんやりながらある。

 直線で20キロ余り離れたこの地は瀬野辺りの山が遮蔽してピカの直射はなかったが庭にいた私たちは経験したことのない閃光に身を屈めた。

 その日の午後になって同じ村内にあった国立の広島療養所にトラックが次々に多くの負傷者を運び込むのを見た。その夜、広島で大変なことがあったと近所の人達が寄り集まって噂していた。

 公務員だった父はこの朝、広島を経て三次、福山への2泊3日の出張に出かけた。しかし、西条の駅で早くきた福山方面行きの列車に乗ったため奇跡的に難を免れ、翌日帰宅した。たしか8日の早朝、今度は自転車に乗って30キロ近い旧山陽道を下って県庁など広島に出向いた。

 帰宅したのは翌日か翌々日の明け方だった。とにかく、大変なことが起きたと母に報告していたことを微かに記憶している。しかし、なぜか父はその後長年この時の惨状を私たちには話さなかった。
<つづく>

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コメント

戦後10年たって生まれれた私でもおぼろげながら
まだまだ原爆の傷跡が残っていた広島を覚えております。
後世に過ちを起こさない為にも
是非語り記していただきたいと思います。
これからは毎日読ませていただきます。

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